『ブルシット・ジョブ -クソどうでもいい仕事の理論-』デヴィッド・グレーバー著 酒井 隆史訳 芳賀 達彦訳 森田 和樹訳を読む。
質・量ともにたっぷり感のある一冊。ぼくなりに、さわりの部分を。
まず、ブルシット・ジョブの「暫定的定義」について。
「暫定的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用本人でさえ、その存在を正当化いがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態である」
それは、どういうことなのか。
「シット・ジョブはブルーカラーで、時給払いとなる傾向がある。一方、ブルシット・ジョブはホワイトカラーで、月給取りとなる傾向がある。シット・ジョブにあたる人間は冷遇の対象となりやすい。かれらは身を粉にして働くという理由で蔑まれている。だが少なくとも、かれらには自身がなにか役立つことをしているという自覚がある。ブルシット・ジョブにあたる人間は、たいてい名誉と威信に囲まれている。かれらは専門職として敬られるし、高収入の著しい成功者―自分の仕事にまっとうな誇りをもちうるたぐいの人間―として扱われている。にもかかわらず、かれらは、自身がなんの功績もはたしていないことに、ひそかに気づいている。たいしたこともしていないのに、その稼ぎで消費者向けのおもちゃを買い込んでは、人生を埋め合わせてきたと感じている。つまり、それはみな嘘っぱちのうえに成り立っていると感じている―そして、実際、その通りなのである」
シット・ジョブはマルクスのいう労働やプロレタリアートとほぼ同義と思ってよいだろう。ただし、「なにか役立つことをしているという自覚がある」はないと。さすがのマルクスもブルシット・ジョブの予測はできなかったということか。
具体的なブルシット・ジョブとは。ランダムに引用。
「マンションのドアマン、出版社の受付嬢、中間管理職、映像制作会社でCM出演の女優の肌などの修正担当、欲しくも必要ともしていないものを勧誘するコールセンターの仕事、花形気取りの統計調査員が作成した報告書の校正、10人の部下の業務の割り当てと部下の監視が仕事の中間管理職」などなど。
「仕事の定義についてに二つの核心的側面」ここもいたく感じ入った
「一つ目の側面は、仕事はふつうであればだれもすすんでやりたいとはおもわないものであるという定義である(だから罰なのである)。二つ目の側面は、わたしたちは仕事を仕事それ自体を超えたなにごとかを達成するためにおこなっているという定義である(だから創造なのである)。ところが、―略―「創造している」ということのできない仕事が、仕事のうちのほとんどなのである。ほとんどの労働は、いろんなものごとを維持
したり作り替えたりすることにかかわっているのだ」
ハンナ・アレントとの仕事と労働の違いは、当たっていると思うが、確かに「創造している」仕事の比重は、現在は圧倒的に低いのだろう。
看護師、保育士、ヘルパーなど女性の比率が高く、ゆえに低賃金の「ケアリング労働」にも言及している。あ、看護師さんは、高給取りか。
「「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働と見なされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感(エンパシー)、理解がふくまれている。―略―商品としてのケアリング労働の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。「サービス」(古い封建制に由来するこの語がいまも現存していることに注意せよ)に対価を支払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている」
カスタマーハラスメントは、こういうところから発生しているのか。おっと余談。
「さらに、多くのフェミニスト経済学者が指摘しているように、すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。というのも、たとえば橋をつくるのであっても―略―つまるところ、そこには川を横断したい人々への配慮(ケア)があるのだから」
ここ、大事。いま読んでいるジョン・ラスキンの『ゴシックの本質』にも、つながっている。
「ところがふつう「生産的」であるということは、―略―「労働」を介して工場から「生産される」という、魔術的変容のことを意味している。そして、労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働のことを工場労働として考えることは、こうした(ケアにかかわる)すべてを抹消してすませてしまうことである。―略―工場所有者はいともたやすく、労働者は実際にはかれらの操作する機械となんら変わるところがないと考えることができるのである」
ここも、大事。
ブルシット・ジョブがなぜ生まれたのか。流行の言葉でいうなら、仕事へのタイパ、コスパ重視の弊害からなのではないかと思う。OAとかFAとか。当該箇所引用。
「わたしがいいたいのは、実質のある仕事のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だということである。はっきりいえば、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げるのである」
コンピュータやインターネットなどの普及により仕事はより効率化、能率化した。しかし、その分、いままでなかった仕事が派生した。すなわち、ブルシット・ジョブ。
グレーバーは文化人類学者兼アクティビスト(活動家)ゆえ「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の実態と弊害とメカニズム」を解き明かすために、多数のインタビューを実施した。フィールドワークから論考の第一歩がはじまるのは、学術書と格闘しながら論考を練り上げる哲学者などとは、大きく異なる点だ。どちらが優れているかなんておいそれとは決められないが、この本のインタビュー部分は、生の発言だけにリアリティを感じた。
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