「そうだ 京都、行こう。」「なのにあなたは京都へゆくの」

 

 


エスケイプ/アブセント』絲山秋子著を、読む。


相変わらずも裏街道人生をいく40歳の男が主人公。60年代生まれなのに、なぜか過激派になって地下潜伏、逮捕、入獄。人生のいいところをオシャカにした中年男の自分探しの旅。行き先はなぜか京都。京都は過激派とブルースやロックが似合う町(だったと書くべきか)。


なら、ちゃんと大学出て有名企業に入って結婚して、子どもができて、住宅ローンで郊外に戸建買って、子どもを有名私立に通わせている人生がメインストリームで素晴らしいのかというと、どうなんだろ。

ネガとポジのようなもので、この小説の主人公とて、たぶん、ちょっとしたボタンのかけ違いにより結局は、そうなってしまったという。延々と続く男のモノローグは、セリーヌほど激しくはないが、ミシェル・ウエルベックが好んで書きそうなキャラに似ている。んで、ぼくの好物。

 

しめったノスタルジーではなくて、乾いたユーモアや哀しみが全編に漂っている。いかがわしい世界をとことん追求すると、そうじゃない(と思われている)世界が見えてくる。


2009年の『新潮6月号』で絲山秋子清水徹の対談を読んだ。絲山秋子ってビュトールファンだったのか。知らなかった。視覚的な文章。言われてみれば、饒舌じゃない文体や見知らぬ町などの風景の描写とかが似てるかも。


ぼくも、会社員時代、仕事で地方に一人で出張つーか取材に行って、ビジネスホテルから夜、街へ繰り出して良さげな店はないかと徘徊する。なんかビュトールしてるじゃんって、悦に入っていた。ええと、函館、博多、札幌、小樽、旭川あたりか。

 

ビュトールフレームワークを活かして今様に味つけするのかな。日本人得意の加工貿易スタイルの創作とか。

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子どもからの、郷里からの、親からの卒業

 

 

『奇蹟のようなこと』藤沢周著を読む。

少年がはじけるまでの瞬間を捉えたみずみずしい短篇連作集である。尾崎豊は「自由からの卒業」と歌っていたけど、本作の主人公にとっては「子どもからの卒業」であり、「郷里からの卒業」、「親からの卒業」である。

彼は、新潟の高校生。クラシックギターを習い、学校では柔道部の選手。学生服にゴム長といういまどき珍しいバンカラスタイルでキメている。


まるで狂犬のような高校生同士の反目、恫喝(どうかつ)、大人の女性への憧れ、狭い地縁・血縁社会の閉塞感。このまま自分は埋没してしまうのではないかという焦燥感。ある時は、とてつもなく自分自身が優秀に思え、その直後にとてつもなく愚鈍に思える。その振幅の大きさも、また、この世代ならでのものだと思う。

たぶんに作者の高校時代の体験が色濃く反映されているのだろう。私小説の系譜に属すのかもしれない。多彩な作風の作者の中でいうと、『ブエノスアイレス午前零時』の範疇の新潟ものにラインアップされるだろう。

いきいきとした方言はもちろん、新潟の町、山、海、雪など丁寧に書き綴られた描写も素晴らしい。特に、ぼくと同じ地方出身の人には、たまらなく懐かしい。たとえばVANのファッションなど時代考証も綿密で、中高年者には、ノスタルジックな情景が浮びあがってくる。

最近、小説と、とんと、ご無沙汰気味のお父さんにも、おすすめ。ひきこもりも、アダルトチルドレンも、ドラッグもないけれど、こんな小説らしい小説も、たまには良いと思う。

単行本の装丁はJ文学の功労者、常盤響。本作もふだん書店なんかに入らないヤングがジャケ買いしてくれればいいという目論見から起用したのかもしれない。ぼくは、もっとオーソドックスなほうが好みだし、この作品を反映していると思うのだが。
 

単行本 装幀

 

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ムダはムダじゃない。ムダははぶかれるものじゃない

 

 

ナマケモノ教授のムダのてつがく  -「役に立つ」を超える生き方とは-』辻信一著を読む。

 

確か、「スローライフ」の提唱者、文化人類学者で、大学の先生でもあった著者の本をはじめて読んだ。やさしいチャーミングな言い回しで、「そうだよな!」「そうだったのか!」ということばかり述べている。


「ぼくたちはよく「ムダだ」と断定する。―略―しかし、そう断定してしまっていいのだろうか。「役に立たない」と決めつけていいのだろうか。それは物事に秘められているある可能性を否定してしまうことになるのではないか。「何かの役に立つか、どうか」という見方のうちに収まりきらない意味をみすみす見失ってしまおうのではないか。もしそうなら、それはあまりにも「もったいない」」

 

「ムダじゃ、ムダじゃ」が口癖なのは「ムーミン」に出て来る哲学者のジャコウネズミだが、ひょっとしたら、「ムダじゃない、ムダじゃない」と宗旨替えしているかもしれない。


「ムダをはぶくことが重要視されている。―略―断捨離派もミニマリストも、ムダをはぶけるだけはぶいて、時間やスペースを節約し、自分の自立度や自由度を高めることを目指しているように見える。しかし、どうだろう」


不思議の国のアリス』に出て来るいつも時計を見ながら急いでいる白うさぎを思い出す。今なら歩きスマホをしながら歩いているかもしれないが。

 

「テクノロジーの進化が時間のゆとりを生むという幻想」
「テクノロジーのおかげで、ぼくたちははたして、前より自由な時間が増えて暮しにゆとりができただろうか。いや、逆に、生活からはますます時間がなくなり、誰もが忙しがっているように見えるではないか」

 

テクノロジー教の狂信的な信者ってとこで。たまにノートPCではなくフリーハンドで文章や絵をかくときがあるが、そのらくちんで自由なこと。

 

サン・テグジュペリの『星の王子様』に出て来るキツネの教え。
「時間をムダにするとは、効率性、生産性、合目的性などの要請から自由に、自分の時間を生き、自分の人生を生きること。愛とは、それが何の役に立ち、何の得になるかにはかかわらず、惜しげなく相手のために時間を使うこと」

「無辜の愛」ってヤツ。見返りや代償を求めない。


他にも「ブルシット・ジョブ」や「ケア」、「ネガティブ・ケイパビリティ」なども考え方やその背景など、わかりやすく述べられている。

 

最後に、個人的にウケた小話を引用。

「江戸の小話にもこんなのがある。長屋の大家と怠け者の若者の会話だ。
「なんでえ、いい若いもんが、寝てばかりいねえで、起きて働け」「働くとなんかいいことあんすか?」
「そら、稼げば、銭が稼げらあ」「銭稼ぐといいことあんすか?」
「そら、稼げば、金持ちになる」「金持ちって、なんかいいことあんすか?」
「そら、金持ちになったら、もう働かずに寝て暮せる」「それなら、もうやってます」」

 

おあとがよろしいようで。

 

ムーミン」に出て来る哲学者のジャコウネズミ

不思議の国のアリス』の白うさぎ

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幽霊百景―幽モア、幽トピア、幽アンドミー

 

 

『いろいろな幽霊』ケヴィン・ブロックマイヤー著   市田 泉訳を読む。 


イタロ・カルヴィーノ短編賞受賞作家による幽霊譚。2頁で一話。計100話。
みながみな怖いわけではなく、滑稽だったり、奇妙だったり、ファンタジーだったり、甘酸っぱかったり。意外な視点やアングルから描かれる幽霊たち。


わずか2頁だが、作者は自由自在に話を展開する。なんつーか小宇宙かと思ったら大宇宙だった、そんな感じ。精緻につくられた作品から何篇かピックアップ。

 

『どんなにさささやかな一瞬であれ』
主人公は方向音痴の女性の幽霊。なんとか「憑りついている家」に戻ろうと、人間に声をかけるが、無視される。焦る彼女。偶然一部始終を目撃していたホットドッグ売りの男。彼は彼女に出て来た家の目印を教える。途端に消えてしまった幽霊。

 

『ミツバチ』
ミツバチにそっくりな幽霊。「生の世界と死の世界の」際に巣をつくる。ミツバチは花の蜜を吸うが、幽霊たちは死者から幽体エネルギーを吸う。たらふく吸って体はまんまる。ミツバチは蜜を吸うときについた花粉を受粉させる大事な働きがあるが、そのあたりは定かではない。

 

『来世と死の事務処理機関』
「初老の男」が幽霊としてお迎えの準備OK!という手紙を受け取った。ただし、それには25ドルの小切手か為替が必要。霊界の沙汰も金次第なのか。送ったはずが届いていないと。連絡先に電話して生年月日を伝えると、先方が誤入力していた。電話に出た女性が、再び、間違えてしまった。すごい間違い。

 

『小さなロマンスとハッピーエンドを含むタイムトラベルの物語』
コインローファー(ペニーローファーともいう)は、甲のベルトの穴にコインを挟むことから、その名がついた。コインローファーを愛する少女は、同じくらい「タイムスリップの物語」を愛していた。タイムスリップの方法は、「1932年に行きたいならば1932年製の硬貨」を挟む。

 

『香り(ブーケ)』
彼が亡くなった。声はおろかにおいまで消えてしまった。何か月後、彼女がキッチンに立っていたら、彼の香りがした。彼女は、まさかと思ったが、それ以降彼のにおいがあちこちでする。姿は見えないが、ああ彼だと。彼女は香りで彼と確認し合った。彼女が亡くなった。二人は晴れていっしょになった。なんだか雨月物語っぽい幽玄感が。

 

『陽ざしがほとんど消えて部屋が静かなとき』
人間に憑りつくのが得意な幽霊だが、この男の幽霊は「幼児の体に」幽閉されてしまった。いかんせん抜け出ることができない。かくなる上は幼児が大人になって老いて衰弱して死を待つしかない。肉体は衰えるが、幽体は衰えないとされているが、こともあろうに「虜になって43年目のなかば」幽体が肉体に崩壊させられる。そ、そんな…。薄れていく意識。

 

百物語だと百話怪談を話し終えると、幽霊が現われるというが、百話読了しても、いまのところ、それらしい兆しはない。ひょっとしたら、すでに、幽霊に憑りつかれているのかもしれない。あるいはいろんなところから覗かれているのかもしれない。

 

表紙の幽霊たちのイラストレーションがポップでかわいい。Tシャツがあったら、買うかもな。

 

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「芸術とは人が労働のなかで得る喜びの表現」「人が仕事に喜びを覚えていた時代があった」byウィリアム・モリス

 

 

『ゴシックの本質』ジョン・ラスキン著  川端康雄訳を読む。

 

「ゴシック」でも小説ではなく建築の方。114の断片でゴシックの魅力と建築にかかわった職人を礼賛している。

 

〇ゴシックの特徴について

私見では、ゴシックの特徴的な要素、すなわち精神的要素を重要な順に並べると以下のようになる。

(1)荒々しさ(2)変わりやすさ(3)自然主義(4)グロテスク性(5)剛直(6)過剰さ

これらの特徴は建物に備わった場合にこう表現できる。建てた人間に備わったものとしては、以下のように表現できるだろう。

(1)荒々しさ、あるいは粗野(2)変化への愛(3)自然への愛(4)奔放な想像力(5)頑固さ(6)寛大さ」

〇ゴシックの語源とゴシックへの非難に対して

「「荒々しさ」。「ゴシック」(ゴート族)なる語が最初に北方建築の総称として適用されるようになったのがいつのことか詳らかではない。―略―それが避難の意を暗に含み、その建築を生み出した諸民族の野蛮な特徴を表現しようとしたものだったということは推測できる。―略―なるほど北方の建築は粗削りで粗野である。それはたしかにそのとおりなのであるが、だからといってそれを断罪し軽蔑すべきというのは正しくない。まったくそれと逆で、まさしくこの特徴があるからこそ、その建築はわれわれが深い敬意を表するに値するものなのだと私は信じる」

ゴシック建築につきもののゴブリンやいかめしい彫像は職人たちの「生命と自由のしるし」

「古い大聖堂の正面をみつめてみよう。そこにみられるむかしの彫刻師の途方もない無知をあなたはたびたび笑ってきた。あの醜い小鬼(ゴブリン)や不格好な怪物、そして解剖学を無視したぎこちない姿のいかめしい彫像をいま一度吟味していただきたい。だがそれらをあざ笑ってはならぬ。なぜなら、それらは石を刻んだ職人ひとりひとりの生命と自由のしるしなのだから。それは思考の自由と人間という存在の位の高さを示すもので、それはいかなる法則や証文や慈善によっても得られぬものなのである。そして今日のヨーロッパ全体が第一の目標とすべきなのは、そこで生まれる子らのためにこれをとりもどすことなのだ」

〇自然への愛が反映されている植物の装飾はゴシックの意匠の特徴

「ゴシックの工人たちは「植物」の形態をとくに好んでいた」「植物の優美さと外的な特徴を愛情細やかに観察できるというのは、大地の恵みによって支えられ、大地の壮麗さに喜びを覚えるもっと平安で穏やかな暮らしの豊かな暮らしの確かな表象なのである」


〇グロテスクとは

「グロテスクは「奇妙な」「奇怪な」といった意味で一般化している英語(および仏語)だが、本来は人間や動物や植物、空想上の生き物などをあしらったアラベスク文様の一名称だった。15世紀末にそうした文様を含むネロの宮殿がローマの地下から発掘されたために「グロッタ(穴ぐら)の文様」の意味で「グロッテスキ」と名づけられたことにちなむ。新古典主義の時代には「グロテスク」は主として否定的な意味を有するものだったが、ロマン主義以降、古典主義的な美学の範疇を超えた美の要素として積極的にとらえなおされるようになった」(訳注(3)より一部引用)

ウィリアム・モリスの序文より引用。
ラスキンは、ここでわれわれに次のような教訓を与えてくれているからだ。芸術とは人が労働のなかで得る喜びの表現であるということ。人が自分の仕事に喜びを見いだすことは可能であること―というのも、今日のわれわれには奇妙にみえるかもしれないが、人が仕事に喜びを覚えていた時代があったのだから」

 

『ブルシット・ジョブ   -クソどうでもいい仕事の理論-』デヴィッド・グレーバー著の下記の箇所がリンクする。

「さらに、多くのフェミニスト経済学者が指摘しているように、すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。というのも、たとえば橋を
つくるのであっても―略―つまるところ、そこには川を横断したい人々への配慮(ケア)があるのだから」


この流れがやがてウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動となる。ジョン・ラスキンの「美学と思想」は、柳宗悦に大きな影響を与え、民藝運動となった。


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マルクスやアレントは、ブルシット・ジョブをどう思うんだろう

 

 

『ブルシット・ジョブ   -クソどうでもいい仕事の理論-』デヴィッド・グレーバー著 酒井 隆史訳 芳賀 達彦訳 森田 和樹訳を読む。

 

質・量ともにたっぷり感のある一冊。ぼくなりに、さわりの部分を。

 

まず、ブルシット・ジョブの「暫定的定義」について。

「暫定的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用本人でさえ、その存在を正当化いがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態である」

それは、どういうことなのか。

「シット・ジョブはブルーカラーで、時給払いとなる傾向がある。一方、ブルシット・ジョブはホワイトカラーで、月給取りとなる傾向がある。シット・ジョブにあたる人間は冷遇の対象となりやすい。かれらは身を粉にして働くという理由で蔑まれている。だが少なくとも、かれらには自身がなにか役立つことをしているという自覚がある。ブルシット・ジョブにあたる人間は、たいてい名誉と威信に囲まれている。かれらは専門職として敬られるし、高収入の著しい成功者―自分の仕事にまっとうな誇りをもちうるたぐいの人間―として扱われている。にもかかわらず、かれらは、自身がなんの功績もはたしていないことに、ひそかに気づいている。たいしたこともしていないのに、その稼ぎで消費者向けのおもちゃを買い込んでは、人生を埋め合わせてきたと感じている。つまり、それはみな嘘っぱちのうえに成り立っていると感じている―そして、実際、その通りなのである」

 

シット・ジョブはマルクスのいう労働やプロレタリアートとほぼ同義と思ってよいだろう。ただし、「なにか役立つことをしているという自覚がある」はないと。さすがのマルクスもブルシット・ジョブの予測はできなかったということか。

 

具体的なブルシット・ジョブとは。ランダムに引用。

「マンションのドアマン、出版社の受付嬢、中間管理職、映像制作会社でCM出演の女優の肌などの修正担当、欲しくも必要ともしていないものを勧誘するコールセンターの仕事、花形気取りの統計調査員が作成した報告書の校正、10人の部下の業務の割り当てと部下の監視が仕事の中間管理職」などなど。

 

「仕事の定義についてに二つの核心的側面」ここもいたく感じ入った

 

「一つ目の側面は、仕事はふつうであればだれもすすんでやりたいとはおもわないものであるという定義である(だから罰なのである)。二つ目の側面は、わたしたちは仕事を仕事それ自体を超えたなにごとかを達成するためにおこなっているという定義である(だから創造なのである)。ところが、―略―「創造している」ということのできない仕事が、仕事のうちのほとんどなのである。ほとんどの労働は、いろんなものごとを維持
したり作り替えたりすることにかかわっているのだ」

ハンナ・アレントとの仕事と労働の違いは、当たっていると思うが、確かに「創造している」仕事の比重は、現在は圧倒的に低いのだろう。

 

看護師、保育士、ヘルパーなど女性の比率が高く、ゆえに低賃金の「ケアリング労働」にも言及している。あ、看護師さんは、高給取りか。

「「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働と見なされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感(エンパシー)、理解がふくまれている。―略―商品としてのケアリング労働の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。「サービス」(古い封建制に由来するこの語がいまも現存していることに注意せよ)に対価を支払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている」

カスタマーハラスメントは、こういうところから発生しているのか。おっと余談。

 

「さらに、多くのフェミニスト経済学者が指摘しているように、すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。というのも、たとえば橋をつくるのであっても―略―つまるところ、そこには川を横断したい人々への配慮(ケア)があるのだから」

ここ、大事。いま読んでいるジョン・ラスキンの『ゴシックの本質』にも、つながっている。

「ところがふつう「生産的」であるということは、―略―「労働」を介して工場から「生産される」という、魔術的変容のことを意味している。そして、労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働のことを工場労働として考えることは、こうした(ケアにかかわる)すべてを抹消してすませてしまうことである。―略―工場所有者はいともたやすく、労働者は実際にはかれらの操作する機械となんら変わるところがないと考えることができるのである」

ここも、大事。

 

ブルシット・ジョブがなぜ生まれたのか。流行の言葉でいうなら、仕事へのタイパ、コスパ重視の弊害からなのではないかと思う。OAとかFAとか。当該箇所引用。

「わたしがいいたいのは、実質のある仕事のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だということである。はっきりいえば、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げるのである」

コンピュータやインターネットなどの普及により仕事はより効率化、能率化した。しかし、その分、いままでなかった仕事が派生した。すなわち、ブルシット・ジョブ。

 

グレーバーは文化人類学者兼アクティビスト(活動家)ゆえ「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の実態と弊害とメカニズム」を解き明かすために、多数のインタビューを実施した。フィールドワークから論考の第一歩がはじまるのは、学術書と格闘しながら論考を練り上げる哲学者などとは、大きく異なる点だ。どちらが優れているかなんておいそれとは決められないが、この本のインタビュー部分は、生の発言だけにリアリティを感じた。

 

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SF、奇想、歴史ものなどテイストは異なるが、底知れぬ世界をチラ見せしている

 

 


『嘘つき姫』坂崎かおる著を読む。紙の本ではデビュー作となる短篇集。9篇ともSF、奇想、歴史ものなどテイストは異なるが、うまく言えないが、それぞれに何かひっかかかるものがある。


つーことは、作者の企みやトラップにはまってしまったのかもしれないが。凡百の小説だと、すべてを説明しがちだが、省略と抑制が功を奏して底知れぬ世界をチラ見せしている。ちと大仰かもしれないが、そんだけ、おもろーってことで。何篇か、ちょっとだけ紹介。

 

『ニューヨークの魔女』
19世紀、ニューヨーク。2つの会社で「処刑用電気椅子」の開発を競い合っていた。
女性電気デザイナー・アリエルは、電気椅子の実験用サンプルとして魔女を使うことに。だって不死だから。彼女は最新式の電気で死ぬことを望んでいたが。サーカスで「電気椅子ショー」を見せることに…。

 

ファーサイド
1962年、米ソが水爆実験を成功させ、「世界の終わりまであと7日」の日。「ぼく」は登校しないで祖父の麦畑の収穫の手伝いに。そこでは珍妙なDたちが働いていた。彼らはいつの間にか来て村にいついている。仲間の一人デニーを雇うことになった。ぼくの妹が亡くなってデニーに嫌疑がかけられる。ほんとうなのか。そして終末はやって来るのか。

 

『リトル・アーカイブス』
軍事用ロボット「バイベッド(二足歩行)」は、兵士のリプレイスメント用として開発された。オリバー一等兵が「バイベッドを庇って戦死」したと。
不審に思った母親のミラは裁判を起こす。バイベッドは他の兵士とはうまく機能しなかったが、元々ロボット好きのオリバーは、バイベッド遣いの名手だったようだ。人間よりもロボットの方にシンパシーを感じていた。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアばりのメカ感。

 

『 私のつまと、私のはは』
理子と知由里はカップル。将来、子どもを持つために、疑似哺育体験キット「ひよひよ」を試す。「たまごっち」の進化版のようなものか。ARを駆使した最先端テクノロジーでかなりリアルな育児が感じられる。性格が真逆な二人。ヴァーチャル育児でも方法が異なり、ギクシャクする。こんなはずでは…。

 

『電信柱より』
リサは電信柱を切る仕事に就いていた。圧倒的に女性が多い職業。路地裏の古びた木製電信柱を切ることになっていたが、彼女はその電柱に恋をして、残そうとする。そばの家の住人を説得する。

 

『噓つき姫』
1940年、フランス。ドイツ軍が間近に迫っていた。マリーは母親と避難中、ドイツ軍の飛行機から機銃掃射を浴びる。そこで親を殺されたエマと出会う。二人は姉妹ということにして行動を共にする。廃墟となった教会での共同生活。二人は衰弱したフランス兵をかくまう。教会にドイツ兵たちが来た。そのとき、エマは。やがてエマから手紙が来る。話は意外な展開。こんがらがる。


『日出子の爪』
転校生のサキちゃんが植木鉢に切った爪を植えた。すると指のようなものが生えて来た。クラスメイトは、自分の爪を植えるが、変化はない。ピアノを習っている日出子は長くない指にコンプレックスを抱いていた。サキが内緒で持ってきた母親のマニュキュアを日出子と塗る。日出子の長い爪。学校の怪談。シャーリイ・ジャクスンばりのフェティッシュなザワザワ感。

 

さて、次はどんな世界を見せてくれるのだろうか。

 

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