広田弘毅さんの生涯から学べること


■今回読んだ3冊
先日読んだ、城山三郎さんの「逆境を生きる」は非常に良い本でした。その中で、特に、広田弘毅元首相の話に感銘を受けました。城山さんが書かれた「落日燃ゆ」は大学の時に読んでいましたが、より深く広田さんのことについて知るため、関連書籍を3冊読んでみました。

まずは、それぞれの本について。いずれの本も広田さんの少年時代から東京裁判、死刑執行までを追うという流れは一緒ですが、その配分が異なります。また、特に、外交政策に関しての評価の視点が大きく違います。


黙してゆかむ―広田弘毅の生涯 (講談社文庫)

黙してゆかむ―広田弘毅の生涯 (講談社文庫)

1冊目の「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」は、広田さんと同郷の福岡県、修猷館出身の元フクニチ新聞社に勤めていた方が書かれた本です。どちらかというと、伝記小説の色合いが濃く、他の本に比べて学生時代の記述量が多いです。会話の内容などは想像で補っていると思いますが、学生時代の行動力にあふれ、思索にふける広田さんが周囲の人々に見込まれながらステップアップしていく部分は成長小説としてもおもしろいです。全体的に好意的な色調で書かれているので、ポジティブな評価が多いです。外交面の話は淡々と事実を追っていく部分が多く、それに対して著者が評価するという部分はあまり多くありません。


秋霜の人 広田弘毅

秋霜の人 広田弘毅

2冊目の「秋霜の人 広田弘毅」は、衆議院事務局、憲政記念館で勤められていた方が書かれた本です。青年時代の記述はそこそこに、外交官、政治家時代を中心に記述されています。東京裁判を特に重点的にとりあげており、広田被告無罪論を主張したオランダ代表判事レーリンクの著書からの内容がかなり紹介されています。好意的な記述だけでなく、外交や政治面での限界に関しても触れられています。


広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)

広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)

3冊目の「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」は研究者によって書かれた1冊です。著者は、学生時代に「落日燃ゆ」を読んで深く感銘を受けていました。しかし、研究を進めるにつれ、違和感を覚えるようになったと書いています。歴史小説としてはよくできているが、肝心の広田外交が十分に分析できていない、また、過度に同情的な描写のため実像から離れている、さらに、小説の像が日本人の広田像、日中戦争東京裁判に対する歴史観を形成してきたとすると問題ではないか、等身大の広田像を書き直す必要があるとの問題意識が本書の出発点になっています。


この3冊に関して、広田さんに好意的か批判的かという視点では、「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」が好意的、「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」が批判的、「秋霜の人 広田弘毅」がその間(ただし、好意的寄り)といった感じです。また、「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」が私人としての広田さん、「秋霜の人 広田弘毅」と「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」が公人としての広田さんにより焦点を当てています。外政家としての広田さんに対して批判的な「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」の著者も、個人としての広田さんには人間的魅力を感じているようです。


それでは一体私人としてはどのような点が魅力であり、逆に、公人としてはどのような点が批判されているのでしょうか。以下、私人として、公人としての視点でそれぞれまとめていきます。


まず、私人としての魅力についてです。
■周囲の人々の手助け
高校や大学に進学する際に、学費が出せず困っていたところ、周囲の人が援助してくれて進学できたというエピソードがありますが、学生の頃から勤勉で周囲に見込まれるような方だったのかなと思います。また、外交官試験に落ちて大学院に入った後のエピソードもあります。先輩の松本健次郎さんから駐日アメリカ公使の通訳の仕事を紹介されますが、「広田の英語はうまくない」と苦情を言われます。ところが、松本さんは「英語はうまくないかもしれないが、広田は将来大成する人間です。私は、あなたのようなりっぱな人のそばにつけておいて、彼を勉強させてみたいのです」(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」p157)とお願いしてくれました。それを受けてそのまま通訳を続けることができたようです。


このように、周りの人が広田さんの能力や将来を見込んで、手助けをしてくれる、もっと言うと、手助けをしてあげたくなるような魅力を持っていたのではと思います。現在の日本だとなかなかこういう話は聞かないように思います。昔は、地方にいて自分で学費が出せなくてもそこから進学していけるような人間関係をベースとしたシステムがあったのかなと思います。


■春風接人
人柄としては、あまり怒鳴ったりして怒るような方ではなく、「春風接人」という言葉に表されるように人に対しては春風のように接することをモットーとしていたようです。こういった姿勢もあってか、外務省で働いている頃から、多くの人が広田さんの元を訪ねて話をしていったそうです。また、ユーモアも好きで、飄々としたところもあり、かなり気さくな方だったようです。大臣になってからも学生と気軽に話をしていたというエピソードもあります。その他、左遷ともとらえられるようなオランダへの異動の際も、左遷としてとらえて鬱々とするのではなく、「風車 風の吹くまで 昼寝かな」とゆったりと構えていたようです。ただ、本当に昼寝ばかりをしていたかというとそうではなく、オランダのことやソ連のことを徹底的に研究したようです。


■家族思い
私人として一番印象に残ったのは、家族思いという点です。家族との関係に関しては、いずれの本もそこまで深くは紹介していませんが、端々にとりあげられているエピソードからは家族思いの方だったのかなと思います。東京裁判の際に、娘さんが欠かさず傍聴に来ていたというエピソードがよく紹介されますが、妻の静子さんに関するエピソードも印象的です。
結婚に関しては、三井、三菱などの財閥や、高橋是清などから縁談の話もありましたが、それらの話は断っていたようです。結局、福岡の時代から縁があって自分の寮に賄い婦として働きに来てくれていた静子さんと結婚しています。「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯で、結婚のシーンはやったぞー!と快哉を叫びたくなるような気持ちで読みました。終戦後、悲しい最期を迎えますが、広田さんは妻の静子さんが亡くなっていることが分かっていても、静子さん宛に手紙を出していたというくだりや、絞首刑の判決が出た後、家族との面会のあとに書いた手紙は涙なしには読めません。


以上が私人としての魅力です。以下では、外務大臣、総理大臣も務めた広田さんに対する公人としての評価について整理します。


■リーダーとしてリーダーとしては、魅力的な面として下記のような話が紹介されています。書類はどんなものでも必ず目を通して、すぐに起案者に返し、次のように起案者に質問していたそうです。
「君は、これをどうしたらよいと思っているのか」
「国内的影響をあらかじめ考えているかね」
外交官として、地位を問わずに同じ責任がある、自分に関係ないものでも最後の責任者、自分が大臣だと言う気持ちで処理や電信は処理すべきという信念を部下にも伝えていたようです。
(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」p211)


上記のエピソードはリーダーシップを発揮している面ですが、外務大臣や総理大臣期に関しては、リーダーシップを発揮しきれていないという評価もされています。特に、「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像本では、広田外交足かせとなった天羽声明(中国における列国の影響力排除を主張)などの話を通じて、部下を掌握できていなかったのではないかと記されています。この声明については、元の電報を書かせたのは重光葵さんであり、重光さんが広田さんの頭越しに独自の外交政策をやろうとしており、抑えられていなかったのではないかという評価が与えられています(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p78)。また、部下であった石射猪太郎さんが書いた日記では、広田さんのことがかなり批判的に記されているという話も紹介されています。


また、総理大臣期には、陸海軍の不和による対外政策の混乱の解決案として、「統帥の一元化」を構想したことが指摘されています。しかし、実際に政策に具体化しようとした形跡に乏しく、「広田にもどかしさを感じざるをえない」と記されています(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p139)。この点は、広田さんの構想が中々行動につながらなかったとしての批判の材料となっています。


その他、軍部との関係についても批判的な見方が「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」でも紹介されています。この見方は、広田さんはあまりに消極的であり、軍部に抗したといえるような積極的抵抗と指導力を示せたとまではいえないと言う見方です。「「自ら計らわず」という、広田を評価する人々によっては、いつも広田のすぐれた人格の特質として語られる姿勢も、強いものには巻かれ、時流に流されてゆく短所としてとらえられる」(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」p426、三輪公忠さんによる解説)と述べられています。


一方、組閣に関しては、二・二六事件の後という非常に難しい局面の中、軍部の横槍を受けながら組閣できただけでも功績と呼ぶに値するという意見があります(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p122)。この点に関しては、政党からの入閣人数をめぐっての陸軍とのやりとりは指導力、交渉力を発揮したという評価もあります。


■外政家として
外交家としての面についてですが、「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」で批判的な評価が下されています。この見方は「広田外交の挫折と変節」というキーワードに集約されるかと思います。著者が述べている大筋の解釈は「青年期から大陸を志しながらも一九二〇年代までは対米英強調であり、幣原喜重郎などとも政策論としては決定的な差異のなかった広田が、満州事変後にアジア主義的な傾向を強めたものの、その「日中連携」論は内外の変化に対応しきれず変質し、ついに日中戦争で最終的に破綻していった」(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p275)としています。


日本外交の潮流として、大陸政策と列国協調の2つの系譜がある中で、広田さんはどちらかに偏りすぎるのではなく、対米英協調と日満支連携の両方のバランスをとろうとしており、そこに広田外交の二面性と奥行きがあったと評価されています。しかし、それは微妙な均衡の上になりたっており、やがては陸軍が主張するような強硬路線に近い方向になっていきます。日中関係については、日中連携から日本を軸とする地域主義に移っていきます(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p3、73-74、103)。


このような推移を「挫折と変節」としてとらえ、また、1936年頃から広田さんは決断力を失ったのではないかとの評価が与えられています。(猪木正道さんからの引用 服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p194)。日中戦争の戦火拡大に関しては、「第一次外相期に「私の在任中に戦争は断じてない」と議会で答弁していたころとは別人の感すらあった」(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p160)とも評されています。


さらに、「広田が胸に描き続けた「日中連携」の末路は悲劇的なものであったにせよ、そのことは広田の悲運として片づけられるものではない。悲劇の宰相とみなされがちな広田だが、破局へと向かう時代に決然とした態度に出なかった。広田が悲劇に襲われたというよりも、危機的な状況下ですら執念をみせず消極的となっていた広田に外相や首相を歴任させたことが、日本の悲劇につながったといわねばなるまい」とも述べられています。
(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p271-272)


一方、軍部との関係を考えれば、非常に難しい局面であったという同情的な評価もあります。「秋霜の人 広田弘毅」で、外務省は蒋介石を中心に中国がまとまる方が有利、陸軍は中国を分裂させておくことが有利という考えの違いがある中での広田三原則についての話が紹介されています。「広田三原則について、広田外相は陸軍に屈したというふうに批判する向きもあるが、対華政策が外務大臣の考えだけで決定されるものではないことは、右の守島の証言からだけでも推察できるし、当時の強大な陸軍勢力を向うに回して外務省の主張を通すこと自体、いかに困難かは想像に難くない。陸海の以降を無視した外交はあり得ないことを認識すべきである」(渡邊行男「秋霜の人 広田弘毅」p121)と述べられており、また、部下であった守島さんの「この陸軍の大勢を制圧することは永田の力を以てしても困難であったろう」という話も紹介されています。


上記が公人としての評価についてですが、その外交については現代にも示唆を与えてくれる部分があります。以下、特にこの点について整理しておきます。


■広田外交の現代的意義
1.外交スタイル 
広田さんの外交に関しては、「外交家としての広田の交渉スタイルは、日本人に特徴的といえるもの」という評価があります。(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」p430、三輪公忠さんによる解説)。広田さんの柔道のスタイルにも通じるとされた「待ち」の姿勢は、対米などの二面的外交や静的に安定している場合は有効ではあるものの、多面的外交、動的に不安定な国際政治の場では通用しないと述べられています。現代の国際政治においての示唆という面からも、「私人としてのその英雄的アピールを超えて、公人としての広田の生涯の意味を知る必要がある」(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」、三輪公忠さんによる解説)と述べられています。


2.「日中連携」の難しさ
広田外相、首相期においては、日中関係が非常に重要な外交的課題となっていました。協調的な関係を築こうとする考え方と、強硬路線をとる考え方とが対立する中で、次第に強硬路線が大勢を占めていくようになりますが、その中での協調の方向性を探るための動きは、現代の日中連携を考える上でも参考になることが述べられています。
構図としては、次のようになります。中国内の親日派と連携しようとすると、日本国内の強硬派が反発します。やむなく強硬派が納得するように外交方針を軌道修正すると、もともと不安定な中国内の親日派はさらに衰退してしまいます。そのため、強硬論がさらに勢いを増し、欧米との関係も危うくなるという負の連鎖に陥ってしまいます。
このように、広田さんの苦悩は「日中連携」のジレンマを表していることが指摘されています。
(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p272)


3.外交と国内政治のあり方 
広田外交からの示唆のもう1つの点は、ポピュリズムからの距離です。1930年代は軍部が勢いを持っていた時代ですが、軍部による大陸進出はマスメディアや国民が称賛するものでした。また、近衛文麿さんのような大衆的人気を博する政治家が登場した時代でもあります。このような状況の中で、ポピュリズムや国内世論と外交の距離感を探ることは現代にも通じる課題ではないかと指摘されています。
(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p7-9)


■感想―歴史上の出来事を評価すると言うことの難しさ
以上、広田さんの私人、公人としてのそれぞれの面に関してまとめてきましたが、以下、公人としての面に関しての評価についての感想です。


リーダーシップについて
確かに、「自ら計らわず」という言葉に表されるように、ぐいぐい引っ張っていくような指導力を発揮したかと言うとそうではなかったのかもしれません。ただ、リーダーシップの形にもいろいろあるのではとも思います。掌握できていないのか、任せているのかというのは、なかなか簡単には判断できない部分のような気がします。特に、「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」は、広田さんにかなり批判的に書かれている石射猪太郎日記をベースにしているので、その点は少し割り引いて考える必要があるように思います。また、軍部との関係についても、本当に何もせず待っていたり流されていたりしただけだったのかというと、そうは思えません(これは印象論ですが…)。どのような形で軍部との関係を調整しようとしていたのかという点をもう少し詳しく見てみないと判断がつけにくいのではと思います。


外交について
後付けではありますが、もっと何かできたのではないかというもどかしさはやはり感じる部分はあります。たとえば、斉藤、岡田内閣での外相時代にソビエトからくりかえし不可侵条約の打診があったのに実現しなかったという点を踏まえて、「広田自身、世界政治に果たすべきソビエトの大きな潜在的力に正しい評価を与えていたのであるから、それを政策化しえなかったのは、認識と行動がなかなか率直につながらない広田の政治家としてのスタイルの欠陥であったといいだろう」―三輪公忠(北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」p430)という評価もあります。


同じように、東京裁判を膨張した冨士信夫さんの話を踏まえて、次のような言葉もあります。
「広田が「他の被告を傷つけたくない」あるいは「天皇に御迷惑をかけたくない」というような配慮から、証言を拒否したのであれば、それはそれで個人の新年であろうが、しかし公人としての広田はやはりその立場が裁判として争われている以上、自己の立場、信念、あるいは真実を率直に一応は述べる必要があったのではないかと思うのは、冨士氏のみに止まらず、後世史家の願いでもあったろう」(渡邊行男「秋霜の人 広田弘毅」p246)。


「黙して語らず」という信念により、何をどのように考えてあの時期の出来事に対処しようとしていたのか、それを知る手がかりが得られないのは残念です。こうしたもどかしさを埋めるための材料が少ないことが、もどかしさを助長しているのかもしれません。ただし、後付けでいくら言っても、あの時代に自分が同じ立場でいたら、どう行動できるのかというとかなり心許ないです。この点は常に念頭に置いて議論する必要があると思います。


総じて、まだ1世紀も経っていないのに、こんなにも評価が定まらないものなのか、分からないものなのかというのが率直な感想です。


事実関係をどう追っていくかまず、事実関係についても様々な議論があるようです。例えば、東京裁判の判決を何も言わずに受け入れたかどうかという点に関しても、「黙して語らず」として何も語らずにすべて自分で引き受けたという話がある一方、陸軍への責任転嫁という方向性へのゆらぎがあった中で最終的には自分に責任として引き受けていったという話もあります(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p242-245)。その他、妻の静子さんが亡くなった時に分かっていたこととしてそれを受け入れて粛然としていたか、あるいは、葬儀への出席を求めていたかという点でも異なっていますし、玄洋社の社員であったかなかったかという点もまた本によって異なってきます。


結果だけではなく、意図はどうだったのか
次に、評価という面では、結果だけを見ると軍部に流されていったととらえることもできますが、その意図を追っていくと違った像も見えるのでないでしょうか。例えば、広田首相時代に制定され、後々の軍部の台頭を招くきっかけとなった軍部大臣現役武官制の復活をとると、単に軍部に押されたような印象を持っていました。しかし、二・二六事件後の粛軍で一掃された皇道派将軍たちが復活してくる可能性を防ぐためという意図があったという話があります(渡邊行男「秋霜の人 広田弘毅」p141)。また、首相が陸相を選任できるように改めるという取引もあったという話もあります(服部龍二広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」p127-128)。こうした中で、結果的には確かに軍部の政治介入を強める制度となったと思いますが、制定された時点での意図を踏まえた上でなければ、同じような状況に立った時に判断をくだすための糧とはなりにくいように思います。


誰の視点から描かれているのか
また、評価に関しては、元にする資料が誰の視点で描かれているかという点も考慮する必要があるように思います。「広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像」は、石射猪太郎日記をベースにしていますが、石射さんは広田さんにかなり批判的だったようです。日中戦争の和平条件の会議について書いた文章について「「わが広田外相に至っては一言も発言しない」と記すが、そこに相当の悪意が読みとれる。ついでながら石射は次の宇垣外相に対しては「水火の中へも私はお供します」というのぼせようであった。宇垣は石射の対華意見書を採用してくれたのである」(渡邊行男「秋霜の人 広田弘毅」p176)という話も紹介されています。
この点に関して、部下を掌握できていなかったと評価することもできますが、それではなぜこういった文章が書かれることになったのかという点を踏まえた上で評価する必要があるように思います。


小説は小説として
以上が感じた点についてですが、最後に「落日燃ゆ」について。事実関係の面から、「落日燃ゆ」への批判もありますが、歴史小説としてはよくできていればそれで良いのではないかと思います。あの小説に描かれている広田さんの像は心を打つものです。歴史小説がどこまで事実に沿うべきかという議論はあるとは思いますが、完全フィクションでも素晴らしい小説があるのと同じように、そこから得られるものを得ていけば良いのではないかなと思います。


上でも書きましたが、未だ事実関係や評価が1つに定まっていない点も少なくないため、もどかしさを感じる点も多いです。なかなかまとまるような、まとまらないような感想でしたが、広田さんのことを研究している方もこのようなもどかしさを感じているのかもしれないなと思います。ただ、完全に自分の主張一本やりで押し通したという方ではないところが難しいのかもしれません。ただ、バランスをとりつつ良い方向に持っていこうと苦心していたのではないのかなと想像しています。3冊読んでみて、確かに、「落日燃ゆ」の読了直後のような完全肯定の気持ちは減りましたが、難しい時代を生きる中でどのような選択をしていくかという点で上記でまとめたような示唆を与えてくれるという点でやはりその生涯は魅力的ですし、参考になると思います。引き続き、関連書籍を読んでいきたいと思います。