蘇我入鹿は淵蓋蘇文をまねて軍事独裁政権樹立を目指した。当時の北東アジア情勢を考えると、入鹿の目指した未来は至極真っ当であり、十分に勝算があった。が、現実には、ミウチに邪魔されて挫折する。 上宮王家は何故皆殺しにあったか 日本書紀によると、643年10月6日に蘇我蝦夷が病に倒れ、蘇我入鹿が大臣家の家督を得て、10月12日に上宮王家を排し古人大兄皇子の擁立を謀り、その後(上宮聖徳法王帝説では10月14日)、上宮王家は討滅された。 蘇我氏は物部の軍事力を継承しており、上宮王家も崇峻天皇以来の軍事力を保有していた。 緊迫の度を深める北東アジア情勢に対応するため、蘇我氏は上宮王家との軍事力の統合を企図。…