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カノッサの屈辱

(社会)
かのっさのくつじょく

Gang nach Canossa(独)

概要

聖職叙任権をめぐって対立したローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の、一時的な和解。

展開

1075年、ハインリヒ4世はイタリア支配の戦略として、ミラノ大司教や中部イタリアの司教を次々と任命。これら教皇の権威を無視した行為に、時の教皇グレゴリウス7世は、皇帝に「行いを改めなければ帝位を失うであろう」との激しい叱責の書簡を書き送った。
皇帝はこれに激怒し、教皇の廃位を決定する。ところが、教皇も、1076年2月のローマ公会議で皇帝の廃位と破門を宣言して応酬してのけた。
結果困ったのは皇帝であった。ドイツ(神聖ローマ帝国)は混乱し、諸侯は破門された皇帝に叛旗を翻す。結局、皇帝ハインリヒ4世は破門を解いてもらうことを決意する。
1077年1月、厳冬の北イタリアの小村カノッサにて、教皇が滞在する城砦を訪れたハインリヒは、3日間、雪の中、門前に佇み、教皇の許しを請うた。そして、ようやく教皇グレゴリウスは彼を許し、破門を取り消したのであった。
なお、度重なるハインリヒからの懇願にもグレゴリウスはなかなか面会に応じなかった。両者の間をとりもったのは、カノッサ城の持ち主トスカナ女伯マチルダであった。彼女のとりなしで、グレゴリウスも譲歩した。そして、雪の中での3日間は、この時教皇が要求した「悔恨の心を示す」パフォーマンスであった。

結果

破門を取り消されれば怖いものはない。正統な皇帝に復帰したハインリヒは謀反を起こした諸侯を処罰することが可能となった。(もともとそれが目的の政治的なアクションだったから当然だが)
困った教皇はもう一度ハインリヒを破門してみたりした。が、傍目にも不当な行動だったので今回は前のような効力は発揮するはずもなし。
ハインリヒは軍を率いてイタリア遠征を実施、グレゴリウスは逃亡先の南伊のサレルノで病死。
最終的な聖職叙任権闘争は、1122年のウォルムス協約まで続くことになる。

カノッサの屈辱

(テレビ)
かのっさのくつじょく

1990年4月〜1991年3月にフジテレビの深夜で放送されていたバラエティテレビ番組。
制作:ホイチョイ・プロダクション日本テレワーク
現代の風俗やムーブメントを歴史上の出来事にむりやり置き換えて、「アイスクリームルネッサンス史」「ドラマ宗教改革史」などのイカす内容の現代消費文化史を展開。
教授・仲谷昇の独特の語り口の話題を呼んだ。
同じフジテレビの「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!!」の番組中に、この番組をもじった「加納さんの屈辱」というコーナーがあった。
2000年12月31日には「20世紀最終講義」として復活。
2007年2月5日「カノッサの屈辱2007バブルへGO!!SP」として復活。仲谷昇の死去に伴い、教授役を伊武雅刀が務めた。
2008年10月16日 25:15〜「カノッサ秋の特別講習 タイヤ幕藩体制と海外列強の展開」を放送。

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