墨家の祖・墨翟(テキ、羽+隹)のこと。
或いは、墨家の残したテキストの集大成である書物の名。
銭穆は『先秦諸子繋年』に於いて、その生存年代をBC. 479〜BC. 394頃と推定している。これは丁度孔子と孟子の間に収まる。『墨子』中で述べられる事跡及び、『論語』では言及されず『孟子』では批判の対象になる、等の理由から概ね妥当と思われる。
その主な事跡は『墨子』中の説話諸篇と呼ばれる5篇(耕柱・貴義・公孟・魯問・公輸)や『呂氏春秋』等に見えるが、『史記』編纂時点ではこれらの説話を除いては確度の高い情報は失われており、司馬遷は孟子荀卿列傳に於いて「蓋墨翟、宋之大夫。善守禦、為節用。或曰並孔子時、或曰在其後」としか記し得なかった。因って、生地等も分明でなく、履歴についても説話として述べられる以上のことは分からない。
また、『墨子』公輸篇及び他の諸子書(『戦国策』宋衛策・『呂氏春秋』開春論愛類篇・『淮南子』脩務訓・『尸子』佚文)に見える救宋説話については、先行する説話を元に戦国末期に創作されたものであるとの説が有力である。
その学統は禽滑釐・孟勝・田襄子などの有力な墨者に嗣がれ*1、儒家と天下を二分する勢力を持ったが、墨子の死後早いうちに分裂し、他学派のみならずそれぞれの分派までもが相争う状態にあったことが『荘子』天下篇・『韓非子』顕學篇等の記述から知られる。
墨家はその後、戦国最末期に『呂氏春秋』の一部や『墨子』公輸篇等を成書するものの、秦帝国による統一以降は姿を消してしまう。理由は不明ながら、統一とほぼ同時期に断絶したものと思われる。
墨家が戦国期(最末期の前三世紀頃か)に成したテキストを、前漢末に劉向が校書事業に於いて校訂したものが直接の祖本となる。但し、宋までに一度、宋から明までに今一度と二度にわたる部分的散逸を経ており、現在我々が見ることが出来るのは七十一篇中五十三篇である。
墨家には他に『尹佚』『我子』『田俅(キュウ、人偏+求)子』『随巣子』『胡非子』等の書物があったことが『漢書』藝文志によって知れるが、『墨子』以外は僅かな逸文を残して散逸してしまっている。よって、墨家が遺した書物の中では唯一『墨子』のみが現在に伝わっている。
その篇目は以下の通りである。
第一類は雑多な寄せ集め、第二類が十論(大陸では十大口号)と呼ばれる墨家思想の中核部分、第三類は集中的な儒家批判、第四類は論理学や科学に関する言説、第五類は説話類、第六類は守城法について記した兵家的な篇の集成となっている。
墨家断絶以降、このテキストは顧みられること甚だ少なく、明末清初考証学勃興に至るまでは幾人かの隠逸や李卓吾等を除いて殆ど興味を持たれなかった。因ってテキストに不正確な点が多く、考証学者は難渋しつつ校訂を進めた。茅坤・畢沅(ゲン、さんずい+元)らを経て孫詒譲に至り、その成果は大成される。現在尚注釈書の最高峰とされる『墨子輭詁』がそれである。
研究史については繁雑になるため省くが、参考文献として、現時点で参照するに足る訳書・研究(和文のみ)を以下に数点だけ挙げておく。
抄訳であるが、示される見解は示唆に富む。
傭兵的墨家集団論・独自の時期区分と墨家の変質などを唱え、墨家研究の一定の到達点を示した著者の遺稿集。後半に墨家関連の論考を収録。酒見賢一氏の『墨攻』は、渡辺氏の説に基づくところが多い。
上巻脱稿後に渡辺氏が急逝。下巻は新田氏がほぼ『墨子輭詁』に基づいて訳している。両者共に卓見あり。
中国科学史の泰斗による全訳。第四類・第六類が特に興味深い。
テキストの徹底的再解釈から渡辺説に全面的な書き換えを迫るが、近年批判が多く、また、浅野氏からは全く再批判が無いという点からも問題が多い。
歴史言語学的方法論を導入し、成立時期等を緻密に考察する。
*1:孟勝・田襄子・腹トンの三人は鉅子という指導者であったことが資料上に見える。墨子・禽滑釐が鉅子であったかどうかは資料からは分からない。