明治17年〜大正13年(1884−1924) 詩人・児童文学者。本名土田八九十。現在の群馬郡群馬町に生まれたが、郷里の堤ヶ岡尋常小学校教員時代に、前橋の聖マッテア教会の英話夜学校に通い洗礼を受けた。その後伝道師として秋田、平、水戸などで布教。萩原朔太郎、室生犀星と交友を重ね、詩集『三人の処女』『聖三稜玻璃』などを出版。晩年は茨城県大洗にあって、詩集や童謡・童話など多数を残した。
金沢文庫・称名寺の黄色の花菖蒲 立夏が過ぎて夏至があと1カ月余に迫り、夜明けが次第に早くなりつつある。夏の早朝は気持ちがいい。子どもたちは朝が苦手かもしれないが、逆に高齢者は朝が友だちといっていい。散歩やラジオ体操で交わされる「おはよう」という言葉も、すがすがしさを感じる。山村暮鳥(1884~1924)は、この言葉を「一日のはじめに於て」という詩で歌った。詩の後半にこの言葉はある。5月も中旬、今日は雨模様の一日だ。 ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ みろ太陽はいま世界のはてから上るところだ此の朝霧の街と家家此の朝あけの鋭い光線まづ木木の梢のてつぺんからして新鮮な意識をあたへるみづみ…
大洗に詩人の山村暮鳥の足跡を訪ねて、天妃神社、水戸八景「巌船夕照」、願入寺を巡ってきた。 大洗は、一種、半島を成していて、ここら辺はその先端に当たる。突き出した「半島」感が、県央の他の所には無い感じでいい。水戸八景は徳川斉昭が八つの景勝地を定めたもので、茨城県の観光案内としてweb上でVRでぐるっと見られるようになっているが、当然ながら当時とは景色が大分違う。その中で、個人的には、「巌船夕照」が一番よいと思う。 当時と景色が違うのは、しかたがない。それでも、徳川斉昭自筆の隷書の碑が立っていて、できる限りの地域の保全に努める契機になるのなら、よき仕事を成したと思う。八景の中には、「山寺晩鐘」とい…
今月12月17日まで、大洗町にある「幕末と明治の博物館」で、第12回特別展生誕140年・没後100年記念「山村暮鳥と大洗~おうい雲よ~」を開催している。 「山村暮鳥の散歩道」というチラシがあった。所々参考にして、友人と二人で自転車で回ってきた。 私にとって大洗町は隣町だから、ほぼ地元であり、チラシにある「ある時」の詩碑も何度か訪ねたことがある。「ある時」の詩碑は、詩は萩原朔太郎の撰で、小川芋銭の書による。碑の建設の発起人には室生犀星も名を連ねている。 「ある時」を含む詩集『雲』は、青空文庫にある。チラシの裏にも、書名と同じ「雲」から、「おなじく」、「ある時」と続く、雲について書かれた連作の他に…
聖(セント)三稜玻璃(プリズム)山村暮鳥 著 發 作 (表紙) 聖(セント)三稜玻璃(プリズム)山村暮鳥 著 (以下空白) 發 作 なにかながれるめをとぢてみよおともなくながれるものをわがふねもともにながれる。
聖(セント)三稜玻璃(プリズム)山村暮鳥 著 (銘句) 聖三稜玻璃 目次 ふと読みたいと思った本が、もう新刊では青空文庫のものしか出ていない。古本を注文するが、程度の良い初版は天井知らず、復刻版ですら何万円もしたりする。幸い、これを研究しているブログもあったので、なるべく再現、といっても縦書きと横書きの違いは如何ともし難いものの、着色やページ分けくらいなら何とかできる。 なお表題は、聖(セント)三稜玻璃(プリズム)とお読みあれ。 (表紙) 聖(セント)三稜玻璃(プリズム)山村暮鳥 著 (以下空白) (銘句) 太陽は神々の蜜である天涯は梁木である空はその梁木にかかる蜂の巣である輝く空氣はその蜂の…
写真70枚の大長編になりました。どうぞお時間のある時に。 町内会の労働奉仕、今月はプランターのコキアの引っこ抜きとイチョウの落葉のかき集めでした。誓ってそういうキャラクターではないにも関わらず、老人たちに従ってきちんと働きました。もちろんタダとは言わず、お寺の入り口にある木が月桂樹だったと半世紀を経て知って、駄賃代わりに三枚ほど頂きました。いま書斎で柔らかな芳香を放っています。 さて続いております「駅までさんぽ」。週2回、自宅から駅まで片道4キロを往復しております。いつもは月ごとに一つの記事にして翌月の頭に公開してますが、年を跨ぐのも微妙かなと思いまして。 月初めの水戸のトピックスと言えばこの…
静かに ゆっくりと 言葉を声に出してみましょう。 手 山村暮鳥 しっかりと にぎつてゐた手を ひらいてみた ひらいてみたが なんにも なかつた しつかりと にぎらせたのも さびしさである それをまた ひらかせたのも さびしさである おやすみなさい
静かに ゆっくりと 言葉を声に出してみましょう。 ある時 山村暮鳥 雲もまた自分のやうだ 自分のやうに すつかり途方にくれてゐるのだ あまりにあまりにひろすぎる 涯のない蒼空なので おう老子よ こんなときだ にこにことして ひよつこりとでてきませんか おやすみなさい
静かに ゆっくりと 言葉を声に出してみましょう。 自分は光をにぎつてゐる 山村暮鳥 いまもいまとてにぎつてゐる 而もをりをりは考へる 此の掌(てのひら)をあけてみたら からつぽではあるまいか からつぽであつたらどうしよう けれど自分はにぎつてゐる いよいよしつかり握るのだ あんな烈しい暴風(あらし)の中で 摑んだひかりだ はなすものか どんなことがあつても おゝ石になれ、拳 此の生きのくるしみ くるしければくるしいほど 自分は光をにぎりしめる おやすみなさい
静かに ゆっくりと 言葉を声に出してみましょう。 自分はいまこそ言はう 山村暮鳥 なんであんなにいそぐのだらう どこまでゆかうとするのだらう どこで此の道がつきるのだらう 此の生の一本みちがどこかでつきたら 人間はそこでどうなるのだらう おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか 谿間(たにま)をながれる泉のやうに 自分はいまこそ言はう 人生はのろさにあれ のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ そしてやすまず 一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで 自分は行かうと思ふと おやすみなさい