平清盛の五男。母は平時子。尾張守、左中将。本三位中将と称される。 治承四年(1180)、反平家の南都攻略を任され、東大寺・興福寺を焼き討ちにし、その際に東大寺大仏が焼失している。 翌年には美濃国墨俣で源行家を撃破、寿永二年(1183)にも水島合戦で木曽義仲軍を破るなど活躍したが、一ノ谷の戦いで捕虜となり鎌倉に連行された。 その後、焼き討ちで恨みを買っていた南都に引き渡され、木津川河畔で斬首となった。
しばらく進むうちに、 高倉宮は宇治橋に来るまで六度も落馬した。 側近が昨夜お寝みにならぬお疲れのためであろうと、 平等院《びょうどういん》にお入れして休息させた。 敵襲をおもんばかって、宇治橋の橋板三間を引きはがし、 宮と共に兵もここで一息入れていた。 一方、宮奈良へ落ち給う、 という情報を掴んだ六波羅では、 ただちに追って討ちとれと、 大将軍に左兵衛督知盛《さひょうえのかみとももり》、 頭中将重衡《とうのちゅうじょうしげひら》、 薩摩守忠度《さつまのかみただのり》、 侍大将に上総守忠清《かずさのかみただきよ》、 飛騨守景家《ひだのかみかげいえ》を始めとした 軍勢二万八千余騎が木幡山《こばたや…
南無阿弥陀佛みなさんこんにちは(^O^) 今日の鋸南町勝山は朝からどんより曇り空☁☁☁「花冷え」という言葉通り、 少々肌寒く感じましたが、 日中、雲がかかって 「スカッと」とは いかないものの 気温もそこそこ上がり、 穏やかな春の一日となりました 😊😊😊 さて今日は、 「法然上人とゆかりの人々」 その⑮をお届けします~🙏 浄土宗 元祖 法然上人 今日ご紹介するのは 平重衡(たいらのしげひら)公 です。 平重衡公(ネットより借用しました) 平重衡公は、 平清盛の五男(末息子)として 生を受けました 数々の戦で指揮をとり、 戦の才能は「武勇の器量に堪える」 と評される程でした 一方で、その姿は 「…
※ネタバレ要素がありますので、読まれる際はくれぐれもご注意ください。 平重衡(CV:逢坂良太) 残忍で快楽主義の美型。 知盛が大好きで彼には柔順。 何にも興味がない知盛が遮那王に執着する理由を知りたくて、奥州へ彼女の様子を見に行く重衡。 知盛に悪ふざけするなと釘を刺され、きちんと人を斬ることなく侵入したのは、彼にしてはえらいですね(笑)。 一方で平泉で穏やかな日々を過ごしながら、進むべき道について悩んでいると、重衡が侵入してきて驚く遮那王。 ここで秀衡の計らいで、重衡はしばらく平泉に滞在することになります。 酒宴では遮那王に酌をさせるなど横柄な重衡ですが、やはり知盛が彼女に興味を持つ理由を知り…
さぁ、アニメ平家物語は平家がどんどん傾いていき、視るのも辛くなってきました。 都は頼朝をはじめとする源氏の挙兵による社会不安から半年で福原から京に戻りました。清経と敦盛が興じているのは毬杖(ぎっちょう)という球技。ゴルフというよりゲートボールですね(笑)それにしてもナイスショット! 奈良、興福寺の僧の間でも流行っていて清盛入道の頭に例えて打ってるなど不謹慎ですが、それだけ平家憎しやっちゃえ、の風潮が流行っているということでしょう。。 その興福寺に対して、清盛は丸腰で交渉に行けと命ずるも、僧供は使者達の首を刎ね、60人の首を晒す対応を、、、流石の鹿も呆れています(笑) 清盛は重衡を総大将として討…
重盛の死、、その後 びわは目の色が!やはり重盛の亡者が見える眼を受け継いだようです。 年は1180年、、びわが平家屋敷にきたのは殿下乗合事件(1171年)の歳ですから、あれから9年経っているんですよね。その時7-8歳と考えても、16-18歳の年頃のはずですが、全然大きくならないですね(笑)本当に物の怪(座敷童とか?)なのかもしれませんww 重盛亡きあとは三男の宗盛が棟梁を引き継ぐと意気込んでますが、ノリや顔立ちからしてもかなり不安ですね。。。。 さて、今回は重盛の弟たちの登場が続きます。四男の知盛、原典では平家の総大将として武勇を馳せますが、今回はカラ元気で失言も多いようですね。。。ちょっと不…
前回の記事では、奈良市にある「般若寺」の「関西花の寺」としての側面をご紹介させていただきました☟ www.norikuma2.com 今回は、「般若寺」の歴史的な側面を取り上げたいと思います(´艸`*)✨ 奈良県と京都府との県境に位置し、京街道と呼ばれた重要な街道沿いにあった般若寺は、幾度も兵火に見舞われましたが、また様々な歴史の舞台の場でもあったのです。 平安時代後期「保元の乱」 国宝「楼門」と平重衡供養塔 「建武の新政」時代のドラマも般若寺に 戦国武将「松永久秀」の面影 ほかにも見どころが…✨ 般若寺へのアクセス・拝観情報 まとめ 平安時代後期「保元の乱」 1156年に、時の天皇・後白河天…
法界寺から醍醐寺へ向かって歩いていると、住宅街の中に小さな公園があった。その一角に平重衡の墓と称する塚を見つけた。案内板によると、鎌倉からならに引き渡される際にこの地に居た奥方と別れを惜しんだとある。 東大寺の大仏さんや興福寺を焼き討ちにしたのは、この重衡だと言われている。 この直ぐそばを奈良街道が走っているが、平安時代は木幡から宇治を通って奈良へ至る道だったのだろう。
1月の末に、仙台市、米沢市、山形県小国町を「奥の細道ミニ旅行」してきた後、2月13日から16日まで山口市徳地、防府市、周南市を「周防の国ミニ旅行」してきました。数年前に行きましたが、山口市徳地に「重源の郷(ちょうげんのさと)」という「重源上人」(ちょうげんしょうにん)の業績と昔の山村風景を再現した観光村があります。平安時代末期(1181年頃から)、「重源上人」は焼失した東大寺を再建するため、自ら、周防の国徳地の山を探しまわり、大木を切り出し、いかだを組んで佐波川を下り、防府を通り、瀬戸内海を経て、奈良まで運びました。この作業は困難を極め、数々の難問をクリアし、遂に成し遂げたのでした。yaset…