京都府京都市左京区永観堂町にある仏教寺院。山号は聖衆来迎山。一般には永観堂の通称で知られている寺院で浄土宗西山禅林寺派の総本山である。仁寿3年(853年)創建。
黄檗宗。 万治元年(1658)に下連雀村ができたころ,まず,真宗・松之坊という寺が建てられ,元禄13年(1700)に賢州元養が招かれて禅林寺となった。 禅林寺境内には,太宰治や森林太郎(森鴎外)などの墓がある。
バイト中に散歩。 そういえば初詣してなかったな、と。 願い事は何も思い浮かばなかった。 神社の隣のお寺には太宰治の墓があった。 向かいのお墓は森鴎外だそうだ。 確か俳優の松田優作の葬儀と告別式もこのお寺だった。 猫が庭で日向ぼっこしている。 しばらくするとさっきの猫が戻ってきていて、さらにもう1匹現れた。 庭が穴だらけに・・ おせちを貰った。正月らしい事ができた一日。 //
土曜日は最後の紅葉観察に京都へふらり。 京都駅からバスで禅林寺・永観堂へ。 禅林寺では珍しい『見返り阿弥陀』を見ることが出来ました。 本堂を見終わると紅葉が沢山。 もうこの時点でお腹いっぱい。 出口にはかわいらしい四人のお地蔵様。 禅林寺・永観堂の後は南禅寺・水路閣へ。上部は未だに水路が通っていて、これには驚きました。 禅林寺を通って今度は更に北の銀閣寺方面へ。 最初に考えていたうどん屋さんはGoogle情報通り大行列。 もっと先にあるお蕎麦屋さんを目指した結果、空いていたのですぐに入れました。 田舎そばが美味しかった。 その後は銀閣寺の入口まで歩き、バスで西へ向かい、北野天満宮へ。 学問の神…
6月19日は、太宰治の命日。 太宰治が玉川上水に投身して、七十年以上の時が流れた。 「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などの名作は、今でも若者に読み継がれ、夏目漱石の「こころ」などと並んで、永遠のベストセラーと言ってもよかろう。 戦後まもない時期は無頼派の旗手として一世を風靡し、その後の日本文学史にその名を燦然と輝かしめる太宰治とは、いかなる人物であったか? これが、本日のテーマである。 桜桃忌とは。 この日は、毎年、太宰治の墓所がある三鷹の禅林寺で、毎年太宰ファンが集まるイベントが行われていた。 今年はコロナ禍で、さしたる行事が行われた様子がないようだが、それでも熱心な太宰ファンは、墓所を訪…
こんにちは(´・ω・`) コロナがヤバいですね。もう旅行なんて言ってられなくなってきましたが、第3波が来る前、11月13-15日で京都に行ってきました。(´・ω・`) 十数年ぶりの京都だったので、嵐山、伏見稲荷大社といった王道をメインに回ってきました。今回は旅行記③伏見稲荷大社~禅林寺(永観堂)~南禅寺編です。
久しぶりに御朱印帳を持ってお出かけ。。。ついこないだまで、コロナも落ち着きを見せてたのに、何も秋の連休中にまた活動再開しなくても。。。でも、きっと、今を逃せば今度いつ行けるかわからない。。。あんまり込んでないといいけど。。。 正式名称は、聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ) 第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称される。 ご本尊は(国・重文)・・・みかえり阿弥陀像 お詣りさせていただきましたが、正面からだとお顔が見えず。。。向かって右側に回るとやっとお顔が見えまして。。。 思わず、「なにゆえ、こっちをむいてらっしゃる??首がいたかろう。。。」…
本ブログは11月11日に4年目に入りました。 奇しくも、同日に親しい人が人生の幕を閉じました。 勝手乍ら暫く記事の掲載をお休み致します。 ↑ 『永観堂』「みかえり阿弥陀像」を有する西山浄土宗「禅林寺」の山門です
こんにちは!旅人サイファです! 今回は紅葉の絶景で知られる東山の名刹! 永観堂禅林寺をご紹介です! 別名もみじの永観堂(えいかんどう)。 境内に植えられた圧倒的なもみじの紅葉は、みる人を圧倒します。 が。 今回ご紹介するのは、多くの人に知られた永観堂ではありません。 時期は6月。梅雨時前に…目映いくらいの輝きを見せる時期があるのです。 それは…青もみじの永観堂。 紅葉時期とは一風変わった…圧倒的なみどりの絶景を堪能することができるのです。 いかがですか。この1枚。 堂内の空気すら染めるみどりの破壊力! 太陽光が庭の木々のみどりに反射して、床や壁すらもみどりに染めています。 さて、ここ永観堂は南…
花粉の事や人込みを避けてなんか考えてて、足早に通り過ぎてくサクラに追いつけなくて慌て気味の「京都東山お花見・哲学の道」から「永観堂 (禅林寺) 」。 浄土宗西山禅林寺派総本山「聖衆來迎山 無量壽院 禪林寺」。 空海の高弟・真紹が開山したことから当初は真言宗の寺院、7世住持・永観の時代に阿弥陀仏に帰依 浄土宗に、永観堂の「永観」は永観に依りますが、永観さんは「えいかん」とは読まず「ようかん」と呼ぶようです。 京都では「秋はもみじの永観堂」と呼ばれるほど紅葉の名所で、NETで検索しても紅葉の写真しか出てきません。 総門。 総門をくぐり真っ直ぐな参道を中門へ。平日の事ですが秋と違って閑散としてます。…
生國魂祭も終わってヒッソリとした生玉さん・生國魂神社境内、ドーンセンターに向かう途中少し遠回りです。 右にオダサク像。 生玉さんは摂社も多く専門の神さんが揃ってます。 境内の池の横に錦鯉の水槽。 生玉さんからあべのハルカス。 生玉さんから谷町筋へ、あべのハルカス。 浪速の名医「古林正温」のお墓が有る禅林寺 。 幕末に来日したオランダ人医師、蘭医学の普及に尽力したアントニウス・ボードウィンゆかりの法性寺。
【きょうの人】 0425 孔子 春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖 本日、ゆかりの人をご紹介します。 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。 ■ 孔子【Wikipedia】 孔子 孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu、紀元前551年9月28日‐紀元前479年4月11日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。■ 俊じょう(月輪大師) しゅんじょう/がちりんだいし 仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1…
読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554613?tocOpened=1 27(上段を続けて読みます) 都之事(みやこのこと) 釋名(しやくめう)に曰(いわく)。国民の居所(きよしよ)を 都と云。帝王世紀に曰。大(たい) 昊(かう)宓儀(ふつき:ふくき)氏。大昊(たいひん)之(の)陳(ちん)に都(みやこ) す。是都と称ずる始(はじめ)なり。 三代より而来(このかた)。夏(か)には夏(か) 邑(いふ)といふ。商(しやう)。周(しう)には京師(けいし) といふ。京とは大なり。衆(おほき) なり。大衆の居所なり。故(かるがゆへ) に以て天子の都と名づく…
関西巡り:記事一覧 社寺祠堂巡り:記事一覧 はじめに 先日の記事で書いた哲学の道は熊野若王子神社から銀閣寺の辺りまで続いているが、今回はその熊野若王子神社について書いていく。 なおマップは、境内に掲示されていた上掲のものが分かりやすかった。 熊野若王子神社 熊野若王子神社社殿 熊野若王子神社には国常立神・伊佐那岐神・伊佐那美神・天照皇大神の4柱が祀られている。 熊野若王子神社は1160年(永暦元年)に後白河上皇が紀州の熊野権現を勧請したことに始まる*1。 神社南西に鎮座する禅林寺*2の鎮守社ともされた。 熊野神社、新熊野神社と並び洛中熊野三山の一つとされる。 御利益は学業成就と商売繁昌であるら…
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); こんにちは! 今日は、日本三大灯籠について紹介したいと思います! 日本三大灯籠に選ばれたのは、 南禅寺(京都府) 熱田神宮(愛知県) 日光東照宮(栃木県) の3つです。 それぞれ簡単に紹介したいと思います! 南禅寺 南禅寺とは、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山。 亀山上皇が正応4年(1291年)頃、離宮 (禅林寺殿) を寺とし、無関普門(大明国師)を開山とした。 鎌倉・室町時代には官寺として五山の首位の寺格を持った。 明徳4年(1393年)、文安4年(1447年)、応仁1年(1467年)…
小雨そぼ降る日曜日、都心ではもう散り始めた桜がまだ残っているかと思い、少しだけ遠出をした。 スタートは羽村市観光案内所!ペットボトルの水を1本いただいて、いざ、出発。 www.city.hamura.tokyo.jp まず最初に訪れたのは禅林寺 禅林寺 1883年、村議会の議場でもあったここで羽村・福生・立川の有力者により「養蚕集談会」が開催されたことを機に、西多摩は日本有数の養蚕地帯となったそうだ。 禅林寺をほんの少し南に下ると、多摩川の流れに突き当たる。両岸の桜がちょうど満開で見とれてしまい、羽村取水堰の写真を撮りそこなった気がする。 投渡堰という、台風などの増水時には堰を取り払って洪水を…
聖子――新宿の文壇BAR「風紋」の女主人 作者:森まゆみ 亜紀書房 Amazon 自ら語るような人ではない。誰かがこの人の話を書き留めておく必要があった。 生涯アナキストの気分を持ち続け、大杉栄や辻潤、宮嶋資夫らをよく知っていた画家の林倭衛。その父に可愛がられた娘。肺結核で早く亡くなった母、面倒を見てくれた祖父母。 しかし両親を戦中・戦後に失い、聖子は十代から一人で立っていかなければならなかった。 聖子は、太宰治・古田晁という二人の応援を得て、新潮社、筑摩書房という出版社に勤めた。その後、演劇という打ち込める世界に乗りだす。しかし、やはり生活が夢に先行した。恋人を食べさせるため銀座のバーに勤め…
木屋町三条の瑞泉寺で咲く紅梅。 瑞泉寺は豊臣秀吉の甥、豊臣秀次のお墓があるお寺です。浄土宗西山禅林寺派。 秀次は、世継ぎがいなかった秀吉から関白の職を譲られて家督を相続。しかし、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれると、秀次は次第に追いやられて最終的には高野山で切腹させられます。 切腹後、秀次の首は三条河原でさらし首。その首の前で、秀次の一族、妻妾・幼児など39人も処刑されました。 当時の此処は鴨川の中州であり、この辺りが処刑が行われた場所だとされます。今はこの寺の向こう側(裏側)に鴨川が流れてて、三条大橋があります。 裏へ回って、その三条大橋の横で咲く河津桜。 河津桜は二本あります。 場所移動して…
今週のエッセイ ◆『かくめい』 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。 1947年(昭和22年)12月上旬頃に脱稿。 『かくめい』は、1948年(昭和23年)1月1日発行の「ろまねすく」第一巻第一号の「独語」欄に発表された。ほかには、辰野隆、田村泰次郎、伊藤整などが執筆している。 「かくめい」 じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても(、、、、、)、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。 別所直樹、最後の思い出 今…
年金生活者に5千円案 「合理性欠く」若者・専門家から厳しい声:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASQ3K6S77Q3KUTFL00C.html 「盛り土にトラック埋めてた」 熱海土石流で関係者証言 議会百条委 | 毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20220318/k00/00m/040/047000c 小学生の柔道全国大会廃止 「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」 - 一般スポーツ,テニス,バスケット,ラグビー,アメフット,格闘技,陸上:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles…
こんにちは!旅人サイファです。 昨年12月初旬日訪れた【紅葉の京都ひとり旅】から、見頃ばっちり!『永観堂(えいかんどう)の紅葉ライトアップ』の詳細レポートをお送りします! 三泊四日の行程で訪れた晩秋の京都。2日目に選んだライトアップスポットは『永観堂』にしました。 2020年初夏に、新緑の青もみじの絶景を堪能した『永観堂』。 秋のライトアップは…やはり別格でした! 夕方に「二条陣屋」の見学を終えて、この日訪れた最後のスポットは、南禅寺界隈の『永観堂』! 三条駅周辺で夕飯を食べてから、市バスに乗って向かいます。 しかし…やはり凄いですね。岡崎・南禅寺方面へ行く市バス5系統は超満員!乗客のほとんど…
今週のエッセイ ◆『新しい形の個人主義』 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。 1946年(昭和21年)11月頃に脱稿。 『新しい形の個人主義』は、1947年(昭和22年)1月1日発行の「月刊東奥」第九巻第一号(春季文芸特輯)の巻頭に発表された。目次には「巻頭言」とのみある。 「新しい形の個人主義」 所謂(いわゆる)社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思わなければならぬ。民主々義とは云っても、それは社会民主々義の事であって、昔の思想と違っている事を知らなければならぬ。倫理に於(お)いても、新しい形の個人主義の台頭しているこの現実を直視し、肯定するところにわれらの生き方があるかも…
走れメロス (新潮文庫)作者:治, 太宰新潮社Amazon「三鷹で、一年通じて太宰治の作品を読む」という読書会の案内を年明けたまたま目にした。2月のお題が「駆け込み訴え」と、この「走れメロス」。これは面白そうだと思い、スケジュールを確認したら、即申込みする事に。 三鷹といえば、言うまでもなく太宰ととてもゆかりの深い場所。1948年、38才の時に玉川上水で亡くなったのは市内だし、その後葬られた禅林寺も、芸術文化センターの近くにある。太宰の亡くなった日の6月13日の桜桃忌には、全国から沢山のファンがお寺を訪れ、その前後には文化センターに役者さんを呼んで太宰の作品の朗読会が行われるなど、関連イベント…
香典のお返しの整理中,手が止まった。 目に入った「拝趨(はい‐すう)」という単語の意味が分からなかったからだ。 分からない単語は辞書でひくことを徹底して教えられた国文科出身の私は,早速「コトバンク」で検索した。 コトバンク:https://kotobank.jp/ ___________ 〘名〙 他を敬って、その所に出向くことをいう。参上。拝走。 ※本朝無題詩(1162‐64頃)九・秋日禅林寺即事〈藤原茂明〉「拝趨蘭殿秋雲上、観念蓮宮暁月前」 ※太平記(14C後)一「征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨(ハイスウ)の礼を事とす」 〔薩都剌‐渓行中秋翫月詩〕 ___________ 視線をそのまま文面に戻…
「山越」という名字や地名は日本中にある。その原義は「山を越える」ことだが、近くを探せば、上越市板倉区に山越(やまごし)がある。山の稜線は此岸と彼岸を隔てる仕切りと捉えられ、それを越すことが浄土に行くことだった(長岡市のヤマコシは「山古志」で、平安時代の古志、高志に由来する)。 柳田国男によれば、(1)仏教の浄土、(2)土着宗教の、死んで山に行き、天に帰る、の二つが日本人の「あの世」。折口信夫は『死者の書』で二つの山の間に沈む夕日が浄土につながると述べる。この作品の背景は二上山とそこに沈む夕日である。 以上の二つを確認して折口信夫の『死者の書』を見直してみよう。折口がこの物語を書く前に見つめてい…
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); こんにちは! 今日は、日本三大門について紹介したいと思います! 日本三大門に選ばれたのは、 南禅寺(京都府) 東福寺(京都府) 久遠寺(山梨県) の3つです。 それぞれ簡単に紹介したいと思います! 南禅寺 南禅寺とは、 京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山。 正式には瑞竜山大平興国南禅禅寺と言い、京都五山の首位に立つ禅寺である。 1291年(正応4年)、亀山上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円の法を継いだ無関普…