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長沢芦雪

(アート)
ながさわろせつ

宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日)。江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。

現在の京都市伏見区に生まれる。同時代の高名な絵師と比べるとその履歴を示す資料は少なく、いつ応挙の弟子になったかさえはっきりとはわからない。後記の南紀滞在の際に芦雪自身が、自分の父が上杉彦右衛門であると述べたという資料が残っている。

その性格は奔放で、ある意味快活である一方、傲慢な面があったと伝えられる。そのせいか、「後年応挙に破門された」というような悪評とも言うべき根拠不明な巷説や異常な行動を伝える逸話は多い。その際たるものがその死である。毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死ではなかったとされてきたが、事実は不明である。

その絵は伝えられる性格そのままに、自由奔放、奇抜なもので同時代の曽我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」(辻惟雄評)などと言われる。黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など師である応挙の作風から逸脱しており、この傾向は南紀滞在の折の障壁画にはっきり表れている。作風は基本的に明るく軽快であるが、晩年になって『山姥』のような時折グロテスクで陰惨な印象の作品を残した。

天明6-7年(1786-87)、南紀に滞在した折、同地に多くの障壁画を残している。現在、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺に計180面の障壁画が残る。無量寺境内には応挙芦雪館が開設されている。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤若冲、伊藤若冲と共に三大「奇想の画家」のひとり。

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