地下鉄サリン事件20年

一条真也です。
2015年3月20日、地下鉄サリン事件の発生から20年を迎えました。
13人が死亡し、約6300人が負傷したオウム真理教による悪夢のような犯罪から、もう20年も経過したとは驚きとともに世の無常を感じます。
駅員2人が犠牲となった東京都千代田区東京メトロ霞ケ関駅には慰霊の献花台が設けられ、遺族や関係者らが花を手向けたそうです。


地下鉄サリン事件20周年」を報道する各紙



ちょうど5年前の3月20日、地下鉄サリン事件15周年の日、わたしはオウム関連の記事を1日に6本も書きました。以下の通りです。
『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』
『アンダーグラウンド』
『約束された場所で』
『1Q84』BOOK1&2
『二十歳からの20年間』
「地獄」(石井輝男監督)


オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか-

オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか-

その中の島田氏の大著『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』の書評記事で、わたしは次のように自分なりにオウム事件を総括しました。
「日本の犯罪史上に残るカルト宗教が生まれた背景のひとつには、既存の宗教のだらしなさがあります。あのとき、オウムは確かに一部の人々の宗教的ニーズをつかんだのだと思いますが、そのオウムは自らを仏教と称していました。そもそもオウムは仏教ではなかったという見方ができました。オウムは地獄が実在するとして、地獄に堕ちると信者を脅して金をまきあげ、拉致したり、殺したり、犯罪を命令したりしたわけです。本来の仏教において、地獄は存在しません。魂すら存在しません。存在しない魂が存在しない地獄に堕ちると言った時点で、日本の仏教者が『オウムは仏教ではない』と断言するべきでした。ましてやオウムは、ユダヤキリスト教的な『ハルマゲドン』まで持ち出していたのです。わたしは、日本人の宗教的寛容性を全面的に肯定します。しかし、その最大の弱点であり欠点が出たものこそオウム真理教事件でした。仏教に関する著書の多い五木寛之氏は、悪人正機説を唱えた親鸞に『御聖人、麻原彰晃もまた救われるのでしょうか』と問いかけました。核心を衝く問いです。五木氏は最近、小説『親鸞』(講談社)上下巻を発表してベストセラーになっていますが、くだんの問いは、親鸞が開いた浄土真宗はもちろん、すべての仏教、いや、すべての宗教に関わる人々が真剣に考えるべき問いだと思います」


黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)

オウム事件 17年目の告白

オウム事件 17年目の告白

あれから5年が経過した今でも、わたしのオウム事件に対する考えは基本的に同じです。ただ、藤原新也著『黄泉の犬』(文春文庫)を読んで麻原彰晃に対する見方が少し変わったのと、ブログ『オウム事件17年目の告白』で紹介した本を読んで上佑史佑に対する見方も少し変わりました。もちろん、彼らが行った凶悪な犯罪行為はどんな言葉を用いても許されることではありません。これからの上佑氏の生き方に注目したいと思います。


オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

大田俊寛氏という若き宗教学者がいます。わたしは、日本宗教学界の期待の新星だと思っていますが、彼はブログ『オウム真理教の精神史』で紹介した著書で次のように書いています。
「人間は生死を超えた『つながり』のなかに存在するため、ある人間が死んだとしても、それですべてが終わったわけではない。彼の死を看取る者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、そのことを感じ取る。人間が、死者の肉体をただの『ゴミ』として廃棄することができないのはそのためである。生者たちは、死者の遺体を何らかの形で保存し、死の事実を記録・記念するとともに、その生の継続を証し立てようとする。そしてそのために、人間の文化にとって不可欠である『葬儀』や『墓』の存在が要請される。そこにおいて死者は、『魂』や『霊』といった存在として、なおも生き続けると考えられるのである」



かつて大田氏は自身のHPで、わたしに次のコメントを寄せてくれました。
伝統仏教諸宗派が方向性を見失い、また、一部の悪徳葬祭業が『ぼったくり』を行っていることは、否定できない事実だと思います。しかしだからといって、『葬式は、要らない』という短絡的な結論に飛びついてしまえば、そこには、ナチズムの強制収容所オウム真理教で行われていた、『死体の焼却処理』という惨劇が待ちかまえているのです。社会のあり方全体を見つめ直し、人々が納得のいく弔いのあり方を考案することこそが、私たちの課題なのだと思います。とても難しいことですが」
わたしは、この大田氏の意見に深く共感します。
火葬の場合なら、遺体とはあくまで「荼毘」に付されるものであり、最期の儀式なき「焼却処理」など許されないことです。それは、わが社のミッションである「人間尊重」に最も反する行為だからです。



わたしは、葬儀という営みを抜きにして遺体を焼く行為を認めません。
かつて、ナチスもオウムも葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。しかし、「イスラム国」はなんと生きた人間をそのまま焼き殺しました。このことを知った瞬間、わたしの中で、「イスラム国」の評価が定まりました。わたしたち日本人は、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」「直葬」あるいは遺骨を火葬場に置いてくる「0葬」といったものがいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の精神に通じているのです。


先祖の話

先祖の話

それにしても、この日本で「直葬」が流行し、あろうことか「0葬」などというものが発想されようとは・・・・・・わたしは信じられない思いでいっぱいです。
なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれたのか?
そんな疑問が浮かぶとき、わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点です。 柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変貌でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加えて、日本史上初めてとなる敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。


葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

柳田の危惧は、半世紀以上を経て、不幸にも現実のものとなりました。
日本人の自殺、孤独死、無縁死が激増し、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」も増えています。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。
『葬式は、要らない』などという本がベストセラーになり、日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものだったのではないでしょうか。彼は「日本人が先祖というものを忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。


葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目なのです。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であると思います。いま、柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。わたしは『葬式は、要らない』への反論の書として『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。
そして今、英霊たちの魂の行方を想いながら、現在執筆中の『唯葬論』と『永遠葬』を書き上げる覚悟です。



思えば、地下鉄サリン事件は戦後50周年という大きな節目の年に起きたわけです。わたしは重大な事件や発明から半世紀後に社会は一変するという「ドラッカーの法則」を唱えていますが、たしかに戦後半世紀目のオウムの悪夢によって日本社会は一変しました。日本人が宗教へのアレルギーを示すようになり、葬儀に対する関心も一気に弱まっていったのです。


鎌田先生、誕生日おめでとうございます!



これはあまり言いたくないのですが、現在、「0葬」を提唱しているのが20年前にオウム真理教を擁護した宗教学者だということを忘れてはなりません。その宗教学者本人には何の恨みもありませんが、儀式なき遺体焼却という行為において、オウムと「0葬」は完全につながっているのです。
宗教学者といえば、今日は「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生の64回目の誕生日でもあります。鎌田先生、おめでとうございます!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年3月20日 一条真也