(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月〜1869年7月)

題:(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月〜1869年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1869年(明治2年)6月3日、勝海舟、出府(氷川清話)
1869年6月4日(4月24日)官軍の船艦8隻、函館港にて幕府
 残党の船艦と戦う(勝敗決せず)
1869年6月9日(4月29日)陸海軍のため軍律制定される。
  我が国の軍司法制度の根源は、明治維新直後の1869年(
 明治2年)に実施された軍律の発布と、糺門司の設置によ
 る、兵士に対する刑事裁判制度の発足に遡る。
  次いで、1872年(明治5年)2月の陸海軍省分立に際し
 て陸海軍はそれぞれ省内に裁判所を置き、
  1872年3月5日、陸 軍糺問司の長である糺問正から陸軍
 省に対して次の具申がなされ、ここに我が国の軍事 史上、
 初めて軍法会議なる呼称が登場した。
  因みに、糺問主義(きゅうもんしゅぎ)は、訴追者(
 検察官など)の訴えを待たずに、裁判所等が職権によっ
 て訴訟を開始し、捜査・事実認定・裁判をする主義のこ
 と。
1869年6月18日(5月9日)日本で初めてアイスクリームが製
 造販売される・・とあるが・・、
  日本人で初めてアイスクリームを食べたのは、1860年
 (万延元年)に咸臨丸で渡米した遣米使節団であるとさ
 れていて、
  日本初のアイスクリームは、1869年(明治2年)6月
 遣米使節団のメンバーであった町田房蔵が米国に密航し
 た後に帰国した出島松蔵から製法を教わり、横浜の馬車
 道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売したもの。
  「あいすくりん」という名称で、一人前の値段は2分
 (現在の価値で約8000円)と大変高価な物であった為、
 民衆に敬遠され、なかなか浸透しなかった。
  原料は、生乳、砂糖、卵黄といたってシンプルなもの
 で、これは今は「カスタードアイス」とも呼ばれている。
  なお「アイスクリームの日」である5月9日が日本で初
 めてアイスクリームを製造・販売した日と一般的に言わ
 れているが、横浜沿革誌にはそのような記述はない。
1869年6月20日(5月11日)函館において官軍海陸相呼応し、
 幕府の残党軍と戦いこれを撃破する(土方歳三、戦死)
1869年6月22日(5月13日)議政官を廃し、輔相・議定・参
 与を行政官におく。
1869年6月22日(5月13日)出版条例が制定された(出版許
 可制)
  出版許可制、風俗取締り、政府誹謗の禁止、版権保護
 などを規定した。
   1875年9月に、太政官布告により、さらに1887年12月
  は勅令により改正された。
1869年6月27日(5月18日)五稜郭が落城(榎本武揚は、部
 下の助命を条件に官軍に降り、函館戦争が終わった。
  榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結
1869年、勝海舟榎本武揚は・・同じ考えのもとに・・居
 たのではないか?
  五稜郭が開城し、戊辰戦争終結したが・・、
  榎本武揚は、勝海舟が歩んだ道を歩んだ、弟子ともい
 える人だった。
  幕末に、だから、榎本が、勝海舟と同じことを目ざし
 ていたと考えられる可能性がある?
  勝海舟は、江戸に押し寄せる猛りくる官軍と、その長
 の西郷隆盛
  その西郷隆盛と会談し、猛り立つ官軍の火を見事に消
 した。
  明日は火の海になるだろうという前日に、事を成功裏
 におさめた。
  また、勝海舟は、京から帰って来た近藤勇には、名誉
 を与え、
  近藤勇自身もびっくりの位(くらい)の名誉な地位を
 与え、金を与え、
  江戸に居た武力を持った武士をまとめて、
  そして、その武力集団を近藤勇に預(あづ)け、与え、
  そして、その長にして、「甲州路を上って来る官軍を
 押さえよ」と近藤の存在意義・行動目標を与えた。
  その途中の近藤勇の出身地の東京の三多摩の地を通過
 する時には、
  その地元の人々に、自分の出世の姿を見せるがよいと
 言って、この武力のエネルギー集団を江戸から西へ向か
 わせた。
  そして、江戸の町からエネルギー集団を送り出す、遠
 ざける。
  残った不満のエネルギーは、上野の山の大政奉還した
 将軍・徳川慶喜を守らせ、集結させる。
  そして、その他は、戦いの地だと会津に向かわせた。
  江戸から地方へ、「時代が代わる際の歪(ひずみ)」
 =不満のエネルギーを放散させた。
  また、江戸湾の大砲を持った破壊力抜群の軍艦は、弟
 子ともいえるその榎本武揚に任せ・・、
  榎本も、軍艦で、あちこちを行くが、最後は、破壊力
 エネルギー所持の武士たちを軍艦に乗せ、連れて江戸湾
 を出航する。
  東北へ向かい、仙台で積極的に新政府軍と戦うという
 ことなしに、榎本の軍艦に来る武士たちを、ひたすら収
 容する。
  そして、仙台藩が、新政府軍に降伏すると、不満武士
 たちを乗せて、北海道の函館に向かう。
  この地の五稜郭に籠る。
  榎本武揚は、不満武士たちを、あたかも日本中から寄
 せ集め、ここ五稜郭に来て、
  そして、その不満武士たちのエネルギーを発散させる。
  そして、ここが、最終的にエネルギーの発散処理を「
 完了させる地」とした。
  この様な見方もできる・・榎本武揚の行動だった。
  誰にも言えない、この様な行動をした榎本武揚を、新
 政府は、要人としての役目を、また、与え、新政府に迎
 えた。
  勝海舟と榎本は、時代の代わる歪(ひずみ)のエネル
 ギーの爆発を最小限にしたいと・・共に行動した・・と
 も考えられる。
  榎本武揚は・・幕臣 → 政治家 → 子爵、
  1836年に、幕臣の子として、江戸に生まれる。。
  1848年(12歳)に、昌平坂学問所に入る。
  1854年(18歳)に、函館奉行の小姓となり、樺太探検
 に従う。
  1856年(20歳)に、長崎の海軍伝習所に学び(ここで、
 勝海舟と知り合う、勝の指導の下に軍艦操練、航海術を
 学ぶ、これが後に大いに役立つ)、
  1858年(22歳)に、勝海舟の息のかかった江戸築地の
 軍艦操練所教授方出役となる。
  1862年(26歳)に、勝海舟の口添えか?オランダに留
 学し、砲術、造船術、機関学国際法規などを習得する。
  1866年(30歳)に、幕府が注文した開陽丸を操船して
 帰国し、帰国後、幕府の同艦船将、軍艦頭並など歴任、
  1868年(32歳)に、幕府海軍奉行・海軍副総裁となる。
  勝海舟がやっていたことを、勝海舟がやらねばならな
 いと思っていたことを、その弟子の様に行う、そして、
 海軍奉行までなる。そして、幕末の時代の大変革期に突
 入する。
  1868年8月、品川沖脱出、明治維新の時、五稜郭にたて
 こもり官軍に抵抗。「蝦夷共和国」樹立宣言。
  1869年(明治2年5月)降伏(箱館戦争
  1872年(明治5年)(36歳)に、2年半の禁錮を経て、
 許され、黒田清隆の北海道開拓事業に出仕、北海道開拓
 使となる。
  1874年(明治7年)(明治8年?)(38歳)に、駐露公
 使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結。
  以後、海軍卿逓信相・外相などの重要な職を歴任。
  1908年(明治41年)歿した、73歳。
  日本には、世界に類例のない二人の偉大な偉人が居た。
1869年6月(5月)弁天岬台場・五稜郭旧幕府軍が降伏し、
 戊辰戦争終結
1869年6月30日(5月21日)京都に日本初の公立小学校開校。
  日本最初小学校柳池(りゅうち)校の石碑があった。
  現在は、御池中学校(おいけちゅうがっこう)がある。
  1872年の日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令
 『学制(がくせい)』よりも早くに作られた。
1869年7月12日(6月4日)蝦夷開拓督務(北海道庁官・開拓
 使の前身)として鍋島直正た任命された。
  北海道に開拓使の前身をおいた。
  沙汰書が、1969年8月20日(7月13日)に出て、「蝦夷
 開拓督務」は、開拓使長官に直された。
  蝦夷開拓督務というのは、鍋島直正への勅書によると、
 直正の請願により設けられた職で、
  国家体制が整い、国を挙げて蝦夷地開拓に着手するま
 で少しの間、直正に蝦夷地開拓を委ねるというもの。
  蝦夷地開拓の問題は、外交問題財政問題と並んで重
 要急務課題の一つだった。
1869年7月13日、勝海舟安房と安芳と改名す(氷川清話)
1869年7月18日、勝海舟、外務大丞を仰せつけられ、23日辞
 表呈出(氷川清話)
1869年7月20日(6月12日)招魂社の創建が決定された。
  外国船が来て、国内で志士たちが攘夷や開国で活躍し、
  命を落とす志士たちが出始めた頃の1853年(嘉永6年)
 以降の殉国者を、慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 り、
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策すると、
  明治天皇陛下の勅許を受けて、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
1869年7月20日(6月12日)室蘭、函館らの賊徒、悉く平定
1869年7月22日(6月14日)函館戦役の戦死者等23人を大徳
 寺跡の梅香崎招魂社に祀る。
1869年7月23日(6月15日)東京の昌平校を改めて大学校と
 なし、開成医学の二校を附属する。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、版籍奉還
  諸藩の版籍奉還の勅許あり、公卿、大名らの称を廃し、
 華族と改める。
  各藩主に対し版籍奉還の奏請を許し、各藩主を藩知事
 に任命し、知藩事を置いた。
  太政官は、諸藩の版籍奉還をさせ、262人の旧大名に公
 家を加えて華族とした。
  さらには、旧大名で、地方官を務める者以外は、東京
 に居住する事を強制した。
  士族たちが、彼らを擁して反乱を起こすことを恐れた
 ため、初め、薩摩・長州・土佐・肥後の四藩が版籍奉還
 を奉受した。
  これは、行政官布達54号によって、従来の身分制度
 公卿・諸侯の称を廃して華族となることだった。
  そして、藩主が、旧来所有していた土地と人民を朝廷
 に返還することだった。
  尚、華族は、皇族の下で、士族の上に置かれた。
  これは、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法の施
 行とともに廃止された。
1869年7月25日、四民平等
  版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に、平
 士以上の藩士などを士族とした事に始まり、
  その後、郷士などの世襲のものも士族にして、他は平
 民とした。
  過去の身分の差がある所を、はっきりと平等という意
 識のもとに置いた。
  1971年、穢多(えた)・非人の称を廃止し「平民と同
 様たるべき事」と令した。
  国民は全て平等にという事に徹底。
  公卿、諸侯を華族とする(氷川清話)
1869年、蘭学事始の刊行
  福沢諭吉が、玄白の「蘭学事始」の内容に感動し、
 この年、維新の騒然としている時期に自費で刊行した。
  杉田家の原稿本は、安政2年(1855年)の安政の大地震
 による杉田家の被災で失われ、大槻家の写本もいつか散
 逸し、完全に失われたものとされて、関係者から惜しま
 れていたが、
  幕末の頃、神田孝平が、湯島の露店で偶然に大槻家の
 写本を見つけ、
  1869年(明治2年)に、玄白の曽孫の杉田廉卿による校
 正を経て、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上
 下2巻)の題名で刊行した。
  その後、再発行を重ね、日本における西洋医学導入期
 の当事者による貴重な一次史料として、ひろく一般に読
 まれるようになった。
  資料として第一級であり、文学性も高い。
  福沢諭吉は、明治23年の「蘭学事始再版の序」で、草
 創期の先人の苦闘に涙したと記している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive