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土方歳三

一般

土方歳三

ひじかたとしぞう

(1835年-1869年) 幕末の剣客、新選組副長。享年35歳。

武蔵国多摩郡石田村で、豪農の6人兄弟(最近の調べで10人兄弟ではないかと言われている)末っ子として生まれる。両親が早くに亡くなったため、兄夫婦に育てられた。11歳の頃、呉服屋「松坂屋」に奉公に出されるがうまく行かず、九里(36キロ)の道を歩いて帰ってきたり、17歳で大伝馬町の呉服屋に入ったが、女性問題でまたやめ、石田散薬の行商をしながら25歳で正式に天然理心流に入門した。

文久3年、近藤勇達と共に浪士組に参加し京都へ。のちに会津藩お預かりとして正式に壬生浪士組が結成され、功績を認められて「新選組」の名を拝命する。歳三は、組織編成当初から副長を勤めることとなった。

鳥羽伏見戦で近藤に代わって歳三が指揮をとったが、幕軍はこの戦闘から賊軍とされ、敗戦した新選組も大坂から江戸へ戻る。

江戸へ戻った新選組甲府城を押さえるため、甲陽鎮撫隊と名を変えて戦いにおもむくが、甲府城はすでに新政府に接収されており大敗。歳三自身は援軍要請のため江戸に下っており、戦闘への参加も叶わなかった。

その後、長年の同志だった永倉新八原田左之助らとも別れ、近藤と共に下総流山で新選組再起を図ろうとしたが新政府軍に包囲され、近藤は投降、歳三は隊士達を連れて流山を脱出。しかし隊を斎藤一に託し、自身はすぐさま敵の直中ともいえる江戸へ戻り、近藤の助命嘆願に奔走するも、4月11日江戸城開城を迎え、やむなく鴻ノ台に集結した旧幕府軍に合流した。

蝦夷・鷲ノ木浜に上陸した旧幕軍は、大鳥圭介隊と土方隊に分かれ箱館をめざし五稜郭を無血開城松前城攻略。快調な進撃をみせるが、新政府軍による総攻撃が始まり、味方である幕府軍の降伏する気配が濃くなった時、一人敵地に飛び込んで腹部に銃弾を受けて戦死した。

土方歳三について

「身丈五尺五寸眉目清秀にして頗る美男子たり」

「土方の如きは役者とでもいいたい位の色男然たる風貌であった」

「色は青い方 身体も亦大ならず 漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと云えば一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」

166センチ以上ほどの背丈ならば小柄と強調するほどでもないのに何故か背の低い人と言われていたらしい。

「歳三は鋭敏沈勇 百事を為す雷の如し 近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり」「短小蒼白、眼光射人」という評もある。

生家は大変な豪農で「お大尽」と呼ばれるほどだった。

甥っ子が玄関脇にあった普請用の切石に額をぶつけて怪我をしてしまった時、その泣き声を聞きつけ跳ね起きるや、甥っ子を抱えて座敷へ入れ、こまごまと介抱して「男の子の向かい傷だ、めでたいめでたい」と気遣ったという。

歌集に「豊玉発句集」や上洛途上に詠んだ和歌「木曾八景」などが残っている。