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こにしき(言葉、日本社会、教育) このページをアンテナに追加 RSSフィード

November 17, 2016

「論理的」っぽく見える無内容な文章を書くのに役立つキーワード「××の本質」「真の××」「過度の××」「××の暴走」

要点
価値判断を含んでいる言葉表現したものを、価値判断してはいけない


重要事項が大切だ

本当の事実真実

悪習は悪い

不倫非道徳的だ


上のような文は明らかに無内容だ。「頭が悪そう」と思われたくない人はまず書こうとしないだろう。


しかし、だ。レトリックちょっといじると、この無内容さは表面上は消えてしまう。しかも何か深いことを語りだしているようにすら見えてしまう。

たとえば、

表面的ではない、日本文化の本質を大切にしなくてはいけない

真の国際理解必要

過度の援助は、有効ではない

正義そのものは大切だが、正義の暴走には警戒しなければならない

上記のフレーズ構造はつぎのとおり。

最初の2つが、

  • ポジティブな言葉で表現したもの】→【ポジティブな価値判断】

後の2つが

  • ネガティブな言葉で表現したもの】→【ネガティブな価値判断】

要はどちらも、「良識は良い」「悪習は悪い」という無内容なフレーズを長々と横に伸ばしただけである


「無内容なくせに何か深いことを言っている」、これがこの手のレトリックの厄介なところである。他人を騙すだけならまだいいが(いや、良くないが)、いっそう厄介なのは「よし書けた!私のこの文章は実に論理的だな〜」と自分自身をすら騙してしまう点である。


たとえば、「正義の暴走」という表現を好んで使う人の98%は正義の適正状態定義しない(当社調べ)。にもかかわらず、「正義そのものは重要だが、暴走することに注意すべきだ」という、実務的には無意味な文で何かを言った気になってしまう。そして、この手の言説に共感したい人は意味をなそうがなすまいが中身を考えず共感する。

「悪習は悪い」とか「不倫は非道徳的だ」というレトリックは実務的には何の意味もないしそもそもアホっぽいけど、「《正義の暴走》は良くない」だとワンクッション置かれるせいか、アホっぽさはだいぶ薄れる。そのワンクッションが厄介なのだけど。

ついでにいうと、次のようなものならば「正義」を定義しなくても一応意味を成す。

自分を正義と思い込んだ者が、いつも正しいとは限らない

正義感に突き動かされた感情には注意しましょう

これが意味をなすのは、「正義」という概念主題にせず、人や感情に焦点を当てているおかげである。だから、「正義」の定義を一応免れられる。

とはいえ、面白みのない、ごく凡庸なフレーズに成り果ててしまっている。そんなことわざわざ言われなくても、「自分を正義と思い込んだ人」がややこしいことくらいみんな知っているし、「感情」というのは時として注意しなければならないことも周知の事実である。

一方、オリジナルの「正義の暴走」は逆説めいている。「正義」なのに「暴走」するなんて、ちょっと深い感じがしないだろうか。だからこそよく受ける言説ではあるが、まあ、不正確なので、凡庸さを恐れず正確に言葉を使いましょう。

November 07, 2016

Chap.1 Introduction. (Horiguchi, Imoto, and Poole. eds. 2015. Foreign Language Education in Japan. Sense Publishers.)

昨年冬に出たこの本。

某誌で書評を頼まれて、実はけっこう締切が近づいているので、ここに読書ログをアップしていく。

ちなみに、この本、ざっと読んだ限りではかなりおすすめ。書名の通り、日本外国語教育テーマにした論文集だけど、注目スべきは、ほとんどの章を人類学者か、すくなくとも人類学的なトレーニングを受けた応用言語学者が寄稿している点。

日本の英語教育学(JALT含む)では質的研究 and/or フィールドワークが流行りはじめているが、個々の論文を読んでも多くの場合「うわあ・・・きついな・・・」という印象しかない。人類学者・人類学の院生にとってはごく当然のような「フィールドワーカーとしての覚悟」が感じられるフィールドワークはあまり読んだことがなく、多くはお手軽なインタビュー・お手軽な(授業)参観といった印象。まあ、「お手軽」研究になってしまうのは「質的研究の体系的トレーニングを受ける機会がないまま、学位取得のような差し迫った目的対応せざるを得ないため」という構造問題があるからだろう。

前述の通り、この本は人類学者が書いてるので当然ながらそういう「だらしなさ」が伝わってこなくて読後感がとても良い。

以下、第一章(Chapter 1. Introduction by Horiguchi, Imoto, and Poole の要約)


1.1. Voices from the field

本書のテーマ:complex and intricate relationship between the "local" and the "global"


1.2. The Japanese Case.

・本節(日本というコンテクスト説明)のキーワード

-Nationalism and Internationalism

-Global standards in education

-The symbolic nature of English-language education

・流れ

マクロ社会構造としてのネオリベグローバリゼーション

ELT Policy

公教育における英語教育(→英語格差、そして英語力という文化資本も含む)

・日本の英語教育におけるグローバリゼーションは、ナショナリズムの色彩が強い(「グローバル化の荒波に生き残る強い日本人」の育成)

・「日本の英語教育は失敗 failure」言説の果たす役割

1.3. The cultural debate surrounding foreign-language education in Japan

・Cultural debates

・「日本の英語教育のここがダメ!」みたいな話は昔から散々言われてきた:e.g. Loveday (1996)

・多くの人が「日本のダメな理由」としているものは実際、他国高等教育にも当てはまる

・overgeneralization: 日本人/アジア人メンタリティに関する決めつけ(→Oxford et al. 1992)


1.4. Calls for qualitative, collaborative approach

メソドロジー関連の議論

・Qualitativeを基本線とする。ただし、positivistic / processual という2つの異なるアプローチが同居しており無理に統一することはしていない

Powerの問題、すなわち Critical approach を重視

・Dialogue between Applied Linguists and Anthropologists

・「海外でトレーニングを積んだ日本人研究者」と「日本で活動する外国人研究者」が寄稿。「生活出身地」と「学問的訓練を積んだ場所」が食い違う、つまり Japanese/non-Japanese の境界を超えるようなauthorshipが特徴

November 02, 2016

英語の先生による「英語教育政策の研究」

一応、英語教育政策を専門にしていてこの研究分野の未来についてわりと深刻に考えていると思うので、その点について日々考えていたことを書く。

政治学者(とくに政治思想系)のひとが論じる言語教育政策論は、ディシプリンや背景知識が違いすぎて、逆に参考になるんだけど、英語の先生の英語教育政策論は新しい知見があることは稀なので、だいたい流し読みである

英語の先生による英語教育政策論のイメージは以下のような感じ。

グローバル化!国際語!コミュニケーション教育予算少ない!研修大事!国際語!日本人らしい英語!コミュニケーション!研修大事!アイデンティティ!コミュニケーション!CEFR!国際語!入試!諸外国すげー!研修大事!英語だけではダメ!国際語!文法も大事!コミュニケーション!日本文化!コミュニケーション!(後略)


言語政策研究は、研究対象そのものに注目する限り、地域研究や歴史学政治学社会学辺りと近い(教育政策という意味ではあと教育学も)。しかし、研究者の顔ぶれはかなり違う。この分野に「参入」した人の院生時代の専門は文学言語学、言語教育などという状況がけっこう最近まであった(他分野であれ院生として専門的に学んだ経験があるならまだ良いほうで、語学教師から一足飛びに「言語政策研究者」になる人もいる―――かなり頭が痛い)。そいう意味で、言語政策研究はある種の「余技」のような位置づけですらあった。


あくまで「余技」としてなので、地域研究者や政策研究者から見るとかなりやばいものが多かった。英語教育政策の研究発表のときなどは後ろのほうで、地域研究者に「英語の先生のお遊戯会」と揶揄されていたのを聞いたことが何度もある。これは日本場合にかぎらず、英語圏の場合でも同様だ。

そりゃまあ、どこかの国に(科研の金で)海外旅行気分で行って授業参観したのをまとめた程度の「政策研究」や、英語で書かれた(現地語で書かれていない)資料を継ぎ接ぎした「まとめ学習」のような「政策研究」は、真面目にトレーニングを受けてきたひとに「お遊戯会」と言われても仕方ない。

英語教育研究者がよく言うレトリックに「教育はみんなが受けた経験があるから専門家じゃなくても誰でも語れるので困ったことだ」というものがある。こういう主張にはある程度共感する。実際、非専門家が「ガハハハ」と誇大妄想的な英語教育論をぶち上げることはよくあることなので。

しかし、同じことを英語教育研究者は言語政策についてやってきていた。言語政策に関して専門的研究者がほぼゼロ状態がけっこう長く続いていたにもかかわらず、言語教育関係者はしばしば政策を語っていたからだ。

これは一見矛盾に見えるが、まあ、本人のなかではきちんと筋が通っているだろう。「教えているということは《政策に自分を投げ入れている》のだから、自分は語る資格がある」というレトリックと考えられる。

ここでちゃぶ台をひっくり返すと、「専門家でもない人間が教育について語るのはよくない」というレトリック自体がそもそも筋悪だと思う。主張の中身で判斷すればよいのであって、その人の肩書に注目するのは権威主義。そもそも英語教育政策は専門家でなくても十分語れるほど知識に排他性がないのだ。(知識の選択バイアスがかかるという問題はある)

発言の中身で見て、非専門家と五十歩百歩のことしか言っていない「専門家」もけっこういるので、「専門家」という言葉をきちんと定義(場合分け)することをおすすめする。(大人の事情で身動きが取れないという人にはおすすめしない)