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こにしき(言葉、日本社会、教育) このページをアンテナに追加 RSSフィード

May 24, 2016

May 20, 2016

『◯◯だった私が××になれた理由』系の書名の本

『◯◯だった私が××になれた理由』系の書名の本、ちょっと多すぎるだろうと思ったので調べてみました。


CiNii Books検索 検索ワード「た私が」


それほどでもなかった。


抜粋

長すぎるものは、タイトルサブタイトルのいずれかを割愛しています

  1. 勘違い上司だった私が信頼される上司になれた理由
  2. 希望してない人事部に配属された私がスペシャリストになれた理由
  3. ダメ店長だった私が出世して2社からヘッドハンティングされたのには理由がある!
  4. 英語が話せない、海外居住経験なしのエンジニア」だった私が、定年後に同時通訳者になれた理由
  5. 仕事に追われるダメビジネスマンだった私が働きながら国家試験合格できた理由
  6. 1日10分も走れなかった私がフルマラソンで3時間を切るためにしたこと
  7. C言語すら知らなかった私がたった2か月でiPhoneアプリリリースするためにやったこと
  8. TOEICテスト280点から同時通訳者になった私がずっと実践している英会話絶対ルール
  9. TOEICテスト280点だった私が半年で800点、3年で同時通訳者になれた42のルール
  10. SKE48をやめた私が数学0点から偏差値69の国立大学に入るまで
  11. キャベツスーパーダイエット : 87キロもあった私が、41キロに変身したヒミツ。
  12. コギャルだった私がカリスマ新幹線販売員になれた理由
  13. ダメ販売員だった私がNo.1スタッフになれた"ちょっとした"習慣
  14. ニートだった私がキャリア官僚から大学教授になった人生戦略
  15. ネバー・ギブアップ : レディースだった私が大学で教鞭をとるまで
  16. ふつうOLだった私が2年で弁護士になれた夢がかなう勉強法
  17. ブレイキングナイト : ホームレスだった私がハーバードに入るまで
  18. 沖縄ハーブ健康法 : 病気デパートだった私がみつけた病に負けない生き方
  19. 記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック
  20. 給食のオバサンだった私が下北沢自分の店を持ちつつデザイナー社長をやれている理由
  21. 商売の心得 : コンビニの店長だった私が上場企業の社長になった今も大切にしている
  22. 保険のない国から来た私がトップセールスになれた理由
  23. 人づき合いが下手で落ちこぼれていた私がコミュニケーションの達人になれた理由

May 12, 2016

グローバル人材育成を抽象的に考える人は英語教育を重視せず、具体的に考える人は英語教育に焦点化する

要点は上のタイトルがすべて。

***

英語ができてもグローバル人材とは呼べない」という主張をよく聞く。

もちろんそれはその通りなのだが、実は「グローバル人材=英語がよくできる人」と考えている人はほとんどいないだろう。その点で上記の発言は、ストローマン論法のきらいがある。


グロ育成論の「英語教育」推し

しかに、グローバル人材の育成を目指す教育プログラムでは、多くの場合、「高度の英語力育成」という話が伴う。

たとえば、「グローバル人材育成教育学会」というものがあってその第3回全国大会のプログラムを見ると、見事に「英語教育祭りである

基調講演
日本アジアにおけるグローバル人材育成のための英語教育:現在未来
シンポジウム
「グローバル人材のための英語教育の多様性と更なる可能性」

第3回全国大会 | グローバル人材育成教育学会


からと言って、「グロ人育成=英語教育」という等式が関係者の中にあると考えるのは単純化のし過ぎだろう。

実際、「我こそはグローバル人材だ」と思っている人が上のような「英語教育祭り」を目の当たりにして内心忸怩たる思いであろうことは想像に難くない。この手の人はふつう、だいたいタフネスとかリーダーシップとか異文化に対する柔軟性とか幅広い教養とかそういう能力資質重要性を強調する。もちろん「自他ともに認めるグローバル人材」の人々の多くが英語はバリバリできるが、「英語力なんてものはオマケに過ぎない」と思っている人が大半ではないだろうか。

それにもかかわらず、グロ人育成プログラムを考えた時になぜ「英語教育祭り」になるかといえば、「グローバル人材」(などと称されるもの)の構成要素のうち、語学力が一番客観的で、教育上の操作可能性が高いからというのが最大の理由だろう。

「リーダーシップ」とか「異文化コミュニケーション能力」とか、そういうものは育成しようと思ってもどうやればいいかわからない。下手をすると、自己啓発セミナーみたいなものになってしまう。(まあ、我がセミナー手法を使えばグローバル人材は育成できると本気で思ってるセミナー屋も存在するだろうけど)

そういう意味で、結局、教育に携わる人間は抽象的なものを追い求めざるをえないことなのかもしれない。たとえば「英語力育成のためだけの英語教育」などという無前提な教育に邁進できるほど多くの教師ハートは強くないだろう。

抽象的な目的が追求されるのは常

戦後学校英語教育では「英語学習を通した教養育成」がの究極的な目標とされた。「英語学習を通したグローバル人材育成」もこれと相似形だろう。

いや、いわゆる「第二言語としての英語教育」(ESL)は、英語力育成を唯一の目的にしているのではないかと思う人もいるかもしれない。違うと思う。ESLは生活上の英語使用ニーズ遍在しているからこそ、「英語力育成のためだけの英語教育」という目的論がまるで所与のもののように見えるだけである。実際のところは「英語力育成を通した生活力の向上」が究極的な目的でのはずだ。究極的な目的が単に言語化されないだけであって、実際には常に存在しているのである。

「英語力育成のための英語教育」という議論ナンセンスさは、「英語」を他の言語に置き換えてみればよくわかるだろう。「ロシア語力育成のためのロシア語教育」。いや個別言語を代入しなくても、「外国語力育成のための外国語教育」で、いかにトートロジーか十分わかるはずである。