akehyon-diary

2017-07-12

[]大西郷という虚像

著者は明治維新自体を、薩長によるクーデター、国家の私物化と見ている。その意見賛同するかどうかは別として、確かに西郷隆盛には伝説やら物語がまとわりつき、実像が見えなくなっている面があるので、それを相対化する意味でなら一読の価値はある。本題ではないが、井上馨は悪いな。村井茂兵衛から借金を、逆に村井南部藩から借金をしていると強弁し、尾去沢銅山没収して子飼い政商岡田平蔵に安く払い下げるという悪辣さ。

[]大予言

吉見俊哉氏の著作。ずいぶんと大風呂敷タイトルだけれど、中身はさまざまな経済循環論や社会循環論を慎重に検討する書物ブローデルコンドラチェフ見田宗介などからインスパイアされている。結局今後、停滞した時代が続くのか・・・

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2017-07-10

[]芸人迷子

2014年解散した「ハリガネロック」のユウキロック氏の著作。私は正直、ハリガネロックのネタはあまり好きではなかったのだが、一時の彼らには確かに勢いがあった。芸人が売れることの難しさ、売れ続けることの難しさが垣間見える。それと、相方の大上氏との関係性だが、やはりユウキ氏がほぼ一人でネタを作り、プロデュースしていたためか、関係性が病んでいるようにも思った。相方から積極的な働きかけを期待して、相方からの連絡を待つ場面が頻繁に出てくるのだが、これは相方にとってはやはり大きなプレッシャーなのではないか。

[]粛清王朝北朝鮮

原題は「張成沢の道」で、張氏が残虐に粛清されるまでの人生テーマ。しかし、結局亡命でもしない限り、張氏は粛清される運命であったことが示唆される。改革開放しか道がないと知りつつ、金王朝の前でそこに媚びるしかなかった張成沢・・・独裁王朝では、ナンバー2になったら死を意識しなくてはならないのか。

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2017-07-09

[]歌うカタツムリ

これはすばらしい。数年後には、岩波現代文庫ではなく、岩波文庫に収録して、長く読み継がれるべき作品ではなかろうか。

主題は進化論をめぐる論争で、ダーウィンの「知られざるライバル」とも言うべき宣教師ギュリックから話は始まる。ギュリックは、ハワイマイマイハワイ固有種のカタツムリ)の研究から地理的隔離が進化に重要役割を果たすという研究成果を公表した。だがダーウィン派のウォレスから厳しい批判を浴びる。ウォレスは「適応主義者」、すなわち、「種分化適応の結果」という考え方で、それに従わない者には厳しく批判したのだ。適応か偶然かという対立はその後も、フィッシャー対ライトグールドケインなどの形で、何度も論争となって現れる。しかし著者は、単に振り子が振れているという解釈はせず、弁証法的に議論が進化しているとの解釈を取る。

 著者の恩師、速水格や、著者自身、そして著者の教え子などの研究も詳しく紹介されている。それも含め、学問が師から弟子へ受け継がれていることがよく分かる。それは、同じ意見が受け継がれているということではない。しかし、一般的な進化と同じように、学問もまた「生物」のようなものだ、と思わせる。

こうした議論自体が、たとえば社会科学適応可能ものか考えてみるのも興味深い。たとえば経済学では、政府介入派と自由放任派の対立は何度でも議論となっている。政治学社会学でも同様の対立は考えられるだろう。ただ、自然科学と違って社会科学は、理論自体客観的ものとなりえるのかという難題が待ち受けている。

抽象的な議論にとどまらず、具体的なカタツムリの生態について振れられていることも本書の大きな魅力だ。たとえば、オナジマイマイの交尾では、鋭い「恋矢」を相手の体にグサグサと突き刺すそうだ。痛そうだが・・

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2017-07-08

[]ザ・シャウト

これは「怪作」というべきだろうか。

精神病院に収容された男は、自分経験を、第三者である音楽家の視点で語りだす。

音楽家夫妻の家に、謎の男(語り手)がやってくる。男は図々しく夫妻の家に居候し、妻を寝取る。夫には、自分呪いの叫び(シャウト)によって人を殺す能力があり、それでニュージーランドでは自分の子供たちを殺してきた(後に係累を残さないため)という。何とも変な話だが、聞き手は引き込まれていく。

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2017-06-30

[]ロボットの脅威

ロボット、人工知能の発達によって人間雇用が失われることを警告する。米国の話だが、もちろん日本人にとっても他人事ではない(文中にくら寿司の話が出てくるが、もとにした論文が悪い意のかちょっと事実誤認があるようだ、私はくら寿司のすぐ近所に住んでいて頻繁に行っているので詳しいのである)。2000年代にほとんど雇用の創出が起きていない(米労働統計)。製造業は急速に雇用を減らし、金融関連の活動ばかりが肥大化、それが富の偏在を生んでいる。

第5章で高等教育について論じているのだが、米国大学学費が1985年から2013年にかけて538%上昇したというのは驚いた(同時期の消費者物価指数の上昇は121%)。しかも、教育ではなく経営費用が生じている。こんなアメリカの轍を踏むべきではない。

[]自治体経営リスク政策再生

自治体職員向けなのだろうな。情報化の話が載っているようなので読んでみたが、地域情報化ではなく、もっぱら内部業務向けの「行政情報化」の話。

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2017-06-27

[]廃線駅舎を歩く

タイトル通り、廃線となった駅の駅舎を美しい写真文章で紹介する。観光スポットとして整備されているのは一部の幸運な駅のみで、取り壊されてしまったものが多い。放置されているところもある。著者は兵庫県生まれなのに、なぜか取り上げる駅が東日本に偏っているのはちょっと残念。

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2017-06-26

[]セガvs.任天堂

1990年代米国のコンピュータゲーム業界では、圧倒的な力を持つ任天堂に対してセガが挑戦するという図式だった。セガ・オブ・アメリカ経営者にヘッドハントされたカリンスキー氏を中心に、攻めるセガと防戦する任天堂の厳しい攻防を描いて飽きさせない。ノンフィクションの傑作と言える。

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2017-06-17

[cinema}フローズン・リバー

雪深い米加国境の町で、苛酷な運命のもとに生きる二人のシングルマザー同士に芽生えた友情を描く。白人レイギャンブル狂いの夫に金を持ち逃げされる。見つけた夫の車には、モホーク族のライラが乗っていた。ライラは、夫が事故死したのち、夫の親族に、自分の子供を奪われていた。レイライラを追い詰めるが、ライラは不法入国の手伝いで小遣い稼ぎをする(凍った川を車のトランク移民を乗せて超える)ことを提案する。実はライラの夫は、それをしていて川に沈んでしまったのだった・・・

[]三姉妹

無言歌」「鉄西区」などで知られるワン・ビン監督ドキュメンタリー作品で、今回の主人公は、雲南の山の中の農村で暮らす幼い三姉妹。家は汚いが、家畜などは多数飼っており、現金収入は少ないながらも極貧という感じではない。一番上の娘が小学校に上がり、下の娘二人は出稼ぎの父について都会へと、離ればなれになってゆくのだが・・・

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2017-06-09

[]ドライバーレス革命

自動運転者の開発・普及は社会にどのような影響を及ぼすのかを考察する書。米国においては、自動運転者よりも電子制御道路に多額の研究資金が使われていたなど、いろいろと教えられた。アイアコッカ議会に、14兆ドル(1400兆円以上)の資金援助を頼んだという記述があるのだが、さすがにこれは桁数の間違いではないか。

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2017-06-04 昔書いた小説

フロッピーディスクを片付けていたら、昔書いた小説が出てきたので、「リカちゃんテレビ」「金星の夜」「蒼い頭蓋骨」「先生は言われた」の4本をとりあえずアップロードしま(笑)

[小説リカちゃんテレビ

バイト帰りの裕一が、家路を急いでいると、

「あの〜、すみません」と、かん高い女の子の声が聞こえた。

「なんでしょうか」

 裕一はふりむいたが、誰も見えない。だが、道端に20インチくらいのテレビがあって、そのブラウン管にリカちゃん人形が映っていた。

 裕一が見つめると、しゃべっているのはそのリカちゃん人形だった。

「道にまよってしまったの。教えてくださらない?」

「???」

「ねえ」

「ぼくに言ってるんですか」

「ええそうよ」

だって、あなたテレビの中だから

「テレビの中から、テレビの外が見えないと思ってるの?」

「ええ」

「バカねえ」

「それに人形だし」

人形自分でしゃべれないとでも思ってるの?ますますバカねえ」

「どっかに声優がいるんでしょ」

「いないわよ。じゃ、あなたは、自分でしゃべってることが証明できるの?」

「それは証明できないよ。できるわけがない」

「分かってるじゃないの」

「でも、見えるとしても、あなたが迷ってるのは、そのテレビの中の世界でしょ?ぼくに道を聞かれても、答えられるかどうか」

「そんなこと、聞いてみなくちゃわからないじゃない」

「はあ、まあ、そうですが」

 テレビの中のリカちゃん人形にやりこめられた裕一は、苦笑するしかない。

「それでどこに行きたいんです?」

「あなたのおうち」

「ぼくの家?」

「ええ、そうよ。あなたのおうちに行きたいの」

「???。初めから、そう思ってたんですか?」

「もちろん」

「君は、ぼくを知ってるの?」

「ええ。あなたも、私を知ってるでしょ?」

「そりゃ、まあ、知らないことはないけど」

「じゃあ、あなたのお家に行きましょう」

「行きましょうって、君、テレビから出られるの?」

「出られないわよ」

「じゃあ、どうやって行くの」

「バカねえ。あなたがテレビをはこんで行くのよ」

 裕一はしかたなく、テレビを肩にかついだ。思った以上に重い。よろよろと歩いてゆくと、今度は男の低くて太い声がした。

「君、君、ちょっと待ちたまえ」

 ふりむくと、こんどはもう一回り大型のテレビがあり、その中で警官人形がしゃべっていた。

「そのテレビは、君のテレビか?」

「いいえ。私のではありません」

「じゃあ盗んだんだな」

「とんでもない」

「とにかく話を聞かせてもらう。署まで来なさい」

「テレビの中から来なさいと言われても、どこへ行けばいいんですか」

「特例だ。本官の方から出向こう。君の家に連れていきたまえ。そこでじっくり取り調べをする」

「そんな、ばかな」

「なに?国家権力に逆らうと、逮捕するぞ」

 警官人形は、ピストルの引き金をひいた。驚く程大きな音が、人通りのない住宅街に響き渡った。

 裕一は訳もわからぬまま、リカちゃんのテレビを頭の上にのせ、警官のテレビを背中にせおって、ますますよろよろと歩いていった。だが、テレビ二台はあまりに重く、誰かが転がしておいたコカコーラライトの缶に蹴つまいて倒れる。ああ、倒れる、倒れる。

 ガシャガシャンと音がして、二台のテレビは嘘のように粉々に砕け、あとにはガラスの粒が、リサイクル後のペットボトルのように、サラサラと散った。

[]金星の夜

シゲはいくつかの氷を掴んで、コップの中の梅酒に落とした。

 家庭の冷蔵庫で作った氷は、酒場での氷とは違って、完全に透明にはならない。無数の小さな泡が、氷の中に閉じ込められている。耳を近づけてみると、小さな音を立てながら泡が空気中へ逃げていく音が聞こえる。

 液体に氷を浮かべた場合、振った方が速く冷えるのだろうか。経験的には速く氷が解けて冷えそうにも思えるが、攪拌するということは、とりもなおさず摩擦による熱を加えることでもある。

 シゲルはそれでも、経験的になぜか振った方が早く冷えるような気がして、グラスの中央の括れた部分を持って、数度ゆり動かす。このグラスは見た目には良いが、くびれた部分から奥が洗いにくい。レンコングラス(太いガラスの円柱に楕円形の縦孔が数本開いていて、別々の飲料を少しづつ注げるようになっている。ストローを使う。)の洗いにくさに比べればまだましであるが。カチリチリと氷はぶつかる。もうかなり小さくなったようだが、あいにく補充する氷はない。すべて飲んでしまったし、こう暑くては、氷を作るのには冷凍庫のプライバシー権を数時間ほど保ったままにしておく必要がある。

「暑いな」シゲルはふと口に出す。

「暑いっていう言葉は、言わない約束をしたでしょ」ベッドの上からキイコが呟く。キイコというのは漢字で書くと紀伊子だが、ネグリジェを身に纏っただけの姿は、カタカナでキイコと書いた方が相応しい。なんでも両親が紀伊半島ハネムーンへ行った時に授かった子供であるのが理由であるシゲルにしても、トランクス一枚でうろうろしている所は鬱と書くよりいいだろう。ただ、シゲルの胸にはその名の通り、鬱蒼とした胸毛が盛り上がっている。シゲルの中学時代の仇名は「しげるブーリャン」だった。音楽の教科書に載っていた、ロシア「道」という曲にそのようなフレーズがあったのだ。ブーリャンという植物は寒さに震えているが、今のシゲルは暑さに苛立っている。

「そうか、そうだったな。ちょっと氷を買って来るよ」

「まだ飲むの?梅酒だってアルコールよ。明日起きられないわよ」

大丈夫だろ」

 シゲルは白いシャツだけ袖を通し、部屋を出た。サンダルをつっかけ、アパートの錆びかけた階段を下りる。コンヴィニエンスストアは目と鼻の先だ。

「暑い」

 シゲルは額の汗を手で拭った。

 コンウィニエンスの自動ドアが開いた時には、ひんやりとした涼を感じた。だが、さほど冷房は効いてはいない。雑誌の前を通り過ぎ、大型冷蔵庫の前に来るときにはすっかり体は慣れてしまうほどだった。

 扉がガラス張りの冷蔵庫の中には、色とりどりのジュース類が並んでいる。ロックアイ

スを目で探し、その扉を開けると、今度は本当にひんやりとした爽やかさを感じた。

「ああ、気持ちいい」

 だがしばらく開けていると、向こうの店員が何か言いたそうにこちらを見ている。おどしつけてやろうかともシゲルは思ったが、気の弱そうな、おどしがいのなさそうな奴なので禁欲することにした。泣かれたりしたら、また面倒である

 シゲルは、ロックアイスだけを買って、熱風漂う表にでた。こおりはシャツと体の間に入れた。アパートの部屋へ戻ったときには、アイスは溶け始めていた。

「ただいま」

「あ、お帰り」

「やっぱり眠れないか」

「ええ」

「一体今何度だい?」

「33度」

「夜の一時で33度か。まいったね、こりゃ」

今日熱帯夜ね」

熱帯夜なんてもんじゃないよ。都会っていうのは、ヒートアイランドっていうしな」

「そうね」

「おまけに、うちは両側がクーラーつけてるしな」

「そうね」

「やっぱりクーラーはほしいな」

「そうね」

「しかし、車のローンがあるからな。あれを買ったのがまずかった」

「そうね」

「お前、さっきから『そうね』しか言わないね」

「もうすっかりばてて、頭が働かないわ」

「あ、ドライブしようか。このごろ余り走ってないし。車にはクーラーがついてるぞ」

大丈夫なの、明日仕事?」

「いいんだよ、会社で寝てれば」

「あ、アタシも明日仕事だ」

大丈夫だろ、どうせボケッとしてるだけなんだろ」

「そうはいかないわ。明日のは秋物新作発表会だから、動き回らなければならないわ。モデルったって、じっとしてればいいだけじゃないのよ」

「そうか。いいよ、二時間くらいで帰るよ。道もそんな混んでないだろ、お盆も近いし」

お盆はまだ。でも、最近乗ってないから、いこっか」

「ああ、こんなとこにいたって、眠れないだけだ。行こう行こう」

ちょっとまってよ。一応着替えるから

「その恰好でもいいぜ、おれは」

シゲルはよくても、アタシがよくないの。ちょっと電気消してよ」

 キイコはネグリジェを脱ぎ捨てた。下着だけの、均整の取れた裸身が月明かりの下で白く光って見える。

「もういいわ。行きまっしょう」

 キイコはレモン色のワンピースを着ていた。胸の横には、真っ赤なハイビスカスをあしらった模様がついている。

「ああ、出よう」

 二人は続いて階段を下りた。借りている駐車場は、さっきのコンビニエンスストアよりも遠い。

 シゲルは車に近づきと、まず助手席のカギを開けた。

「さあ、お乗り下さい、僕の女王様

「ありがと。うわー、熱風が吹き出してきた。中は一段と暑いわ」

「はっはは」

「わかってたのね」

「しばらくはドアを開けておこう」

 二人は手持無沙汰に立っている。

「キイコ」

「なに」

「何でもない」

「まったく」

「キイコ」

「何よ」

「愛してるよ」

うそ!」

「キイコ」

「もういい加減にして」

「そろそろ乗ろうよ」

はいはい

 エンジンは一発でかかった。夜なので、埃をかぶっている筈の車でも、美しい白色に輝いて見える。

「しばらくは窓を開けとこう」

「そうね」

「高速、どうしようか」

「いいんじゃない、搭らなくても。そんな遠くに行くんじゃないんでしょ」

「ああ」

ラジオつけてみようよ」

今日東京地方も蒸し暑く、今年十五回目の熱帯夜になりそうです。明日の天気は晴れ、最高気温は33度、最低気温は28度になる見込みです』

熱帯夜なんてもんじゃないっていうのにな」

「でも、他に言いようがないじゃないの。熱帯が一番暑いんだから

砂漠は?」

砂漠の夜は寒いのよ。昼間は暑いけど」

「それなら金星夜だ。金星なら文句あるまい。摂氏で400度くらいになるんだから

「へえーえ」

波止場の方でいいだろ」

「ええ」

「金星には、硫酸の雨が降るんだよ」

「なんでそんな事知ってるの」

「昔、天文部だったんだ」

「へえーえ。そうなの」

「酸性雨なんてもんじゃないぜ」

「あ、そこを左よ」

「ああ。しかし酸性雨が降ると、リトマス試験紙で出来た服が売れるだろうな。青い服が雨で赤く濡れると、危険ということになる」

「バカねえ」

埠頭でいいよなあ」

「ええ」

 車はかちどき橋を渡り、晴海の方へと進む。

「おい、あれはロシアの船じゃないか」

「どうして」

「ほら、へんな文字が書いてある」

「本当ね」

「おっと、ここは乗り入れられないな。どっか埋め立て地の方へいこうか」

夢の島は?」

「僕らのドリームアイランドか。とんでもない名前をつけやがって」

「ねえ、あそこの桟橋ならいいんじゃない」

「ああ,そうだね。そうしよう」

 シゲルは車を急旋回させて、止まる。

「おい、きっと外はめちゃくちゃ暑いぞ」

「やっとクーラーが効いてきたもんね」

「仕方がないか。金星の夜だもんな」

 二人はしばらくためらっていたが、シゲルがエンジンを切ったので、中もどんどん暑くなっていく。耐え切れなくなり、外へ出る。暑さに対する腹いせのように、ドアを乱暴に閉める。

「海ね」

「ああ、海だ」

ちょっとシゲル、クラゲがいるわ」

「どれどれ」

「クラゲって英語で、何て言うか知ってる?」

「知らない」

ジェリーフィッシュって言うのよ」

ジェリーって、あの食べるジェリーと同じ?」

「そうそう、だってどっちもプルンプルンしてるじゃない」

「じゃあキイコのおっぱいジェリーだな」

「スケベ!」

「ユーハブアグレートジェリーバストオーケー?」

「ふん」

「暑いな。帰るか」

「もう帰るの?」

「ああ。長くいて仕方がないだろう。涼しくなるわけもなし」

「わかったわ。帰りましょう。じゃあ先に行ってエンジンを懸けて、クーラーを効かせておいてちょうだい」

はい女王さま」

 シゲルはしばらく走って車に向かったが、疲れたのかすぐに歩き始めた。エンジンがかかった時には、キイコも追いついて車に乗っていた。

「よし、いくぞ」

 車は海の方へと走りだす」

「バカ、シゲル、そっちじゃないわよ」

「いや、そうなんだが」

「早くブレーキ

「効かない」

うそ

「効かない。困った」

ハンドル切って」

「言うことを聞かない」

「バカ、バカ、飛び込む、ああ」

「オー、マイ、ゴッド」

 車は放物線を描き、ドブーンと飛び込む。水が入ってくる。シゲルがその時思い浮かべていたのは、グラスの中の氷の中に閉じ込められた泡たちが、小さな音を立てながら水面へと浮かび上がっていく姿だった。その時シゲルは、強い力で引っ張られた。あとのことは、覚えていない。

    

 シゲルが目を覚ましたのは、病院ベットの上だった。そばにはキイコが付いていた。

シゲル、気がついたのね」

「おお、何だ、助かったのか。もしかして、君が?」

「そうよ。あたし以外に誰がいたというの」

「そうか。一生恩人として、頭が上がらないなあ」

「大変だったんだから。重いあんたを引っ張って泳ぐの。陸にたどりついて、電話ボックスまで走って救急車呼んで」

「そういえば、キイコは昔シンクロの選手だったんだっけ」

「そうよ」

「そうだったね」

「ねえ、何で飛び込んだりしたの?」

「わざとじゃないさ。おそらく、たぶん、コンピュータの故障だろうと思うよ。こんなに暑ければね、機械も狂うよ」

「あの車、もう使えないわよね」

「そりゃそうだろ。でも保険金が下りれば、ローンは払わなくてすむんじゃないかな。どうなるか、分からないけど。もしそうでなければ、架空の車のローンを、延々と払わなきゃならない。そうそう、医者は何て言ってた?」

「ショックで気を失っているけど、大したことないだろうって。外傷も見当たらないし」

「そうか。明日の会社は、どうしようかな」

「具合が悪いようなら、休んだ方がいいんじゃない」

自動車で海に飛び込んだんで、出社できませんて言うのかい?」

「金星のせい、って言えばいいのよ」

ムルソーじゃあるまいし。そんな言い訳はムリソーだ」

[]蒼い頭蓋骨

 遙かに広がるサハラ砂漠の上空を、一台のセスナが低空飛行していた。乗っているのは、日本人中年女性と、リビア人の若いパイロットガイドである。二人は下手な英語で会話している。

「ええと、お客さんの名前は、何でしたっけ」

「もう忘れたの、速いね。風間芳子よ。カザマ、ヨシコ。あんたの名前は何ていうの」

「カダフィです」

「カダフィ大佐と同じ名前じゃない。親戚?」

「いえ、特に関係はないです」

「そう」

「お客さん」

「何よ」

「カザマって、どういう意味なんですか」

「風の間っていう意味よ」

「風の間か、キレイですね。ふうん」

 カダフィはひとりうなずいた。

「私がこんなこと言うと変ですが、どうして砂漠なんか見にきたんですか」

だって、見たいと思ってたのよ。子供の頃から、一回は」

日本には砂漠はないんですか」

「ないわね。鳥取っていうところには、小さな砂漠みたいなのがあるけど、全然スケールが違うわ」

だって、こんなもの見てもしょうがないでしょう」

「あら、美しいじゃない。砂に、ええと、線が入っていて」

「そうですかねえ。私も日本に出稼ぎに行きたいですよ。こんな仕事やめて。お客さん、

日本での仕事は何なんですか」

「パチンコ屋」

「パチンコ?理解できません」

「パチンコって英語じゃないのかな。一種のゲームセンターよ。ゲームセンター、分かるでしょ」

「それならわかりますカジノですね」

「まあ、そうね。カジノっていうほど立派じゃないけどね」

「どうしてそんな仕事を始めたんですか」

「私が始めたんじゃないのよ。父がやってたのよ。その後をついだの。私、一人娘だったし」

「そうですか」

「昔はあん仕事、やりたくなかったわ。うるさいし、下品な感じがして。でもだめね、もうかるんだもの

「もうかりますか」

「そりゃ、もうかるわ。私はあんまり欲がある方じゃないから、ほんとに、充分なくらいもうかるわよ」

「いいですねえ」

「でもねえ、日本じゃ、パチンコ屋って、馬鹿にされるのよ」

「そうなんですか」

「そう、人種的偏見もあってね。私は日本人だけど、朝鮮、分かる?コリア

「分かりますよ、もちろん」

日本では、朝鮮人の人とか、差別されるのね。大きな会社になかなか入れなかったりするのよ。それで、パチンコ屋とか、焼き肉屋になる人が多い、っていうか、それも家業がそれで、後を継ぐのが多いのよ。だから、逆にね、パチンコ屋とか焼き肉屋っていうと、在日朝鮮人だと思われたりするのよ、普通日本人でも」

「そうなんですか」

「そうなのよ。まあ、でも今となってみると、父は偉かったわ。あれだけの店を残してくれたんだもんね」

「そうですか」

「父は会社をクビになって、それから一代で事業を起こしたんだもの。なかなかやれるもんじゃないわ。それに、母は早くに亡くなって」

「じゃあ、男手一つで育てられたんですね」

「でも、うちぐらいお金があると、いくらでも家政婦とか家庭教師とか雇えたから別に男手一つの苦労と言うほどのことはなかったわよ」

「ふーん、あ、お客さん、見えますか」

「え、どこ、どこ?」

「僕が指さす先、ほら、あそこに青いものが光って見えませんか」

「よく分からないわ」

視力、おいくつですか」

「そうねえ、0.5ぐらいね」

「悪いですね」

「そうかしら、日本では普通よ」

「私の視力は、5.0です」

「まあ、何でも見えちゃうのね」

「ええ、服を着た女の人でも、裸に見えます

「まあ、つまらない冗談

ちょっと近づいてみますね」

 セスナ機は高度を旋回しながら高度をぐんぐん下げた。

「ほら、もう見えるでしょう。青いもの

「確かに、ぼんやり青いものが見えるわ」

「興味ありますか」

「興味あるわねえ」

「じゃあ、ちょっと下りてみましょう」

「一体何なの?」

「たぶん、青い頭蓋骨です」

「あら、怖い」

 

 セスナ機はそのまま、砂漠の真ん中に着地した。カダフィのテクニックはなかなかのものである

「ほら、カザマさん。これですよ」

「ほんとだ。真っ青な頭蓋骨だわ」

 芳子は、さっき怖いといったのも忘れ、頭蓋骨を手で拾い上げた。

「カザマさん、実は言い伝えがあるんです」

「え,青い頭蓋骨について?」

「ええ」

「あ、聞かせて聞かせて」

「喉が乾いた砂漠旅人が、水のことばかり考えてそのまま死んでしまうと、その水への思いが骨を真っ青にする、だから、青い頭蓋骨があったら、喉の渇きで死んだ人だ、というんです」

「なんだ、もうちょっと気の効いたことかと思ったら、それだけなの。じゃあ、緑の樹木を思って死んだら、骨も緑になる?」

「さあ、そうかもしれませんね」

「じゃあ、私の骨は緑だわ。この砂漠に緑を植えて、リスでもいればいいのに」

「はあ、そうですか」

「あ、待って。この頭蓋骨、見覚えがあるわ」

 芳子は頭蓋骨と向き合い、その顔をシゲシゲと眺めた。

「誰にですか」

最初の亭主よ。別れたの。逃げられたと言った方が正確かな」

「そうだったんですか」

「何、昔の話よ。もともとコイツ、いい男だったけど風来坊でさ。スッといなくなっちゃったのよ」

「お子さんは、いらしたんですか」

「いたけど、死んだわ。二才で。そのすぐ後に、いなくなっちゃったのよ。子供は好きみたいだったから日本語には、子はカスガイってことわざがあって、子供がいると、あんまり仲のよくない夫婦でも、くっついているっいう意味なんだけど、まったくそうね」

「それで、今はそのご主人は?」

行方不明。死んじゃったんじゃないかな。ひょっとすると、この骨がそうかもしれないだって砂漠で野垂れ死にするなんて、アイツに相応しい最後だわ」

 芳子はまだ,青い頭蓋骨をいろいろな角度から眺めている。

「ねえ、ひょっとして、カダフィ、あなたは私の息子と同じぐらいの年なのね」

「そうですか」

「そうよ」

 芳子は今度は、カダフィの顔を見た。

「ひょっとしたら、私の息子も、生きてたら、あんたみたいな顔だったかもしれないわ。

いや、きっとそう。アイツと私の子供なんだから、分かる。ちょうど、あんたみたいな顔

よ」

「そうですか、あんまり日本人に似てると言われたことはないんですけどね」

「アイツも、日本人らしからぬ顔してたわ。ねえ、ひょっとして、あんた、私の息子なんじゃない」

「残念ですが、私にはちゃんと両親がいます

「でも、分からないわよ。あなたが知らないだけで、実は養子かもしれないわ。それに、そう考えた方が、楽しいじゃない。ここで、家族三人が再会したのよ。二十数年ぶりに、そうよ、そうだわ、カダフィ」

「そうですか」

「そうよ。お母さんって、呼んでごらん、カダフィ」

「いいんですか」

「いいから

「いや、あなたに悪いのもあるし、私の母にも何か悪いような」

「おままごとよ、分からないかな、お芝居よ。呼んでごらんなさい」

「お母さん」

「そうそう、そうよ、マサル」

「マサルという名前だったんですか」

「そう、マサル。マサル、こんなに大きくなって、母さんに会いたかったろう」

「ええ、母さん」

「そうだろ,そうだろ」

 芳子はカダフィを抱きしめた。カダフィも、芳子を抱き返した。

「あの、カザマさん」

「なに」

「お子さんは、他にはいなかったんですか」

「実はね、いるのよ。娘が一人ね。次に結婚した男との間の子供

「そうですか」

「でもね、仲が悪いの。意外でしょ。実の娘と仲が悪いなんて」

「いや、珍しくはないですよ」

だって、本当に悪い子なんだもの。グレちゃって。それで、小遣いをせびることだけは一人前でさ。顔は昔のアタシとそっくり」

「お父さんは、叱らないんですか」

「また離婚したからね、一人で育てたのよ。一人っていっても、アタシが育てられたみたいに、だいたい家政婦に育ててもらったんだけど、それがよくなかったのかしらねえ。困ったもんよ。今だって、ほとんど家に帰ってこないで、男と同棲してるわ。で、金だけ取りに来るの。ヒドい娘でしょ」

「ヒドイ娘ですね」

「あら、いいとこもあるのよ。お菓子を作るのがうまいのよ。でも、それだけね」

「二番目の旦那さんとは、どうして別れちゃったんですか」

性格が合わなかった。父が連れて来たの。会社の有望な新人だって。真面目に人だったけど、一緒にいて息がつまりそうだった。それに、逃げた最初の夫にも未練があったしね。だから、うまくいかなかったのよ」

「その旦那さんは、今は?」

「アタシの会社、ていうか、父の会社にはさすがにいづらくなって、別のパチンコ会社に移ったけど、普通に暮らしてるわ。娘はたまに会ってるみたい。あたしはあんまり、会う気がしない。気づまりで」

カジノ従業員にしては、珍しいですね。真面目な人なんて」

「真面目じゃなきゃ勤まらないわよ。あんなうるさい職場、なかなか大変なんだから

「いや、ごめんなさい」

「カダフィ、これ、本物の頭蓋骨かしら」

「それ、たぶん誰かのイタズラですね」

「何だ、分かってたの」

「ええ、ただカザマさん退屈してたみたいだから、本物みたいなことを言ったんです。時々いるんですよ。飛行機で来ていろいろな物を捨てていくのがね」

「そうか、イタズラか、よくできてるなあ」

 芳子は、まだ頭蓋骨を手に載せて眺めている。

「ねえ、カダフィ」

「何ですか」

日本に来ない?アタシの会社でよければ、雇ってやるよ」

 カダフィはしばらく考えていた。

日本に行ってみたいですけど、やっぱりやめておきます

「どうして?」

「新婚の妻を置いては、ちょっと

「バカねえ、奥さんも一緒によ。もちろん」

「妻の他にも、両親もいるし、兄も、妹も、弟もいます。兄にも、妻がいるし、妹にも、夫がいます

「そんなの当たり前じゃないの。よし、全部まとめて面倒みよう、大丈夫よ」

「いいんですか」

大丈夫

「でも、両親や兄弟の中には、反対するのも出るでしょう。それに、両親や兄弟それぞれに、やっぱり大事な人がいて、その人のことも考えなくてはならない」

「結局、リビアを離れられないってことね」

「そうですねえ」

「寂しいわね」

 カダフィは、芳子が頭蓋骨を抱えたまま、涙を流しているのを見た。

「あ、泣かないで下さい、芳子さん」

「泣くのはアタシの癖みたいなもんだから全然平気よ」

 青い頭蓋骨の上にポタリポタリと大粒の涙が落ちる。するとどうだろう。まっ青だった頭蓋骨の色が、だんだんと失せていくではないか。

「あら、何だかこれ、青くなくなっちゃったみたい」

「古くから言い伝えにあるんですよ。心のきれいな人の涙は、青い頭蓋骨を白くするってね」

「本当、それ?」

「今作ったんです」

「やあねえ、全く」

 芳子は頭蓋骨を置いた。

「持って帰らないんですか」

「持って帰ろうかとも思ったけど、やめとくわ。カエサルのものカエサルに。そろそろ戻りましょうか」

はい、カザマさん」

 二人はセスナに乗り込んだ。カダフィが慣れた手付きで離陸させる。

日本へ帰ったら、手紙を下さいね」

「あら、どうして」

「カザマさんと僕は、友達から

「うれしいことを言ってくれるじゃない。そう、私たちは、よい友達ね」

「そう、よい友達。あ、カザマさん、あれ、見えますか」

「やあねえ、また頭蓋骨でも見つけたの?」

「ええ、今度は真っ赤な奴を」

[]先生は言われた

先生は言われた。「あなた方は誰だ。どうして私の周りに集まっているのか」と。第一の高弟、子安が言った。「みな、先生を慕い、教えを乞うために集まっているのです)と。先生は言われた「私は確かに中学校の教師をしてはいるが、あなた方に先生と呼ばれるのは納得がいかない」と。子安が言った「そのようなことをおっしゃらないで下さい。先生の教えを一つの中学校だけにとどめておくのは、世のためにはなりません、もっと広い世界に向けて語りかけて下さい」と。先生は言われた「そうはいっても、もう七時半だし、出勤の時間が迫っているから、とりあえずお引きとりください。私のマンションの前に集まられては、近所の人にも迷惑だから」と。子安が言った「わかりました。先生にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日はこれで帰ります」と。

先生は言われた。「おいおい、仕事が終わって帰ってみたら、まさか家の前で待ち伏せしているとは思わなかった。いい加減にしてくれ」と。第二の高弟、道原が言った。「とにかく、先生の教えを乞いたいのです」と。先生は言われた。「私が教えられるのは、中学校の地理だけだ」と。道原が言った「いえ、先生人生について分かっておられます。それをお教え下さい」と。先生は一つためいきをつかれて、こう言われた。「何のことやらよく分からないが、外は寒いから、まあ、中に入りなさい」と。そこで、子安、道原、子園、円資、白子の五人は、先生の住居に、しずしずと入っていった。

先生は言われた。「いったいどういうことなのか、説明してもらいたい。私はしがない中学教師だ。なぜ、あなた達に人生について教えなければならないのか。見たところ、あなた方は、私と同年輩だ。中学生相手なら多少の説教もするけど、仕事から仕方なくしていることだし、本当はもう、他人理解することにさえ絶望している。この部屋を見て欲しい。散らかっているだろ。実は女房が一週間前に出ていったきりなのだ」。子安は言った「女の考えていることなど分かりません。そんなことに構わずに、われわれに教えをお願いします」。先生は言われた「だから、そんなことは出来ないと言ってるでしょう。どうして、ここにいるんだ?なぜなんだ?なぜ私の所にいるんだ」。道原は言った「先生が立派な人であることは、見れば分かるのです。お顔に出てるのです」。先生は言われた「訳がわからないよ」。

先生は言われた「で、私にどうしろと言うんだね」。子安は言った「何度も申しました通り、人生の教えを乞いたいのです」。先生は言われた「そんなこと言われても」。子安は言った「提案なのですが、教団を作るというのはどうでしょう?」。先生は言われた「教団?オウム真理教のような?私は宗教なんか信じていないのだから、どうして教団など作れようか」。子安は言った「宗教ではありません。教団とはみなで先生の教えを実践する所だからです」。先生は言われた「何で私なんかに興味を持ったんだ?一介の中学教師である私に」。子安は言った「お顔です。先生が立派な人生を送っていらっしゃることは、そのお顔を見れば分かります」。先生は言われた「私の顔が立派だなんて、そんなこと言ってくれる人は誰もいないよ。あ、電話だ。失礼する。もしもし、あ、僕だ僕。どうしたんだ、一体。え、別れたいだって、どうしたんだよ。僕のどこが気に入らないんだ。はっきり言ってくれ。泣いてちゃ分からん」。子安は受話器を取り、言った「先生の偉大さを分からぬ女にはこのまま消えてもらいたい」。先生は言われた「何を言うんだ、こら、ふざけるな」。先生子安の頭をお打ちになった。子安は言った「ああ、先生打擲は、何と心に響くことだろう」。

             

先生は言われた「私は、女房にも去られるような、だらしのない男さ。どうして教団なんか作れようか」。子安は言った「いいのですよ、先生は。先生を信奉する女性とだけお付き合いなさればよいのです」。先生は言われた「そんな女が、いるわけがない」。子安は言った「おりますとも。私に妹がおります。私のことをよく聞く、従順な女です。是非妻にして下さいませ」。先生は言われた「ふざけるな」。道原が言った「子安の妹は、いい女性です。先生家事をやられて、不便でしょう」。先生は言われた「君達はフェミニズムを知らないのか。そんなことを学校でいったら、糾弾されてしまう」。子安が言った、ここは学校です。先生の学校です。しかし、誰が糾弾などしましょうか」。先生は言われた「何か音がする。ひょっとして録音してるのか?こんな会話を録音してどうするんだ。まさかユスリ、のわけないよな。こんな会話でユスレるわけがないし、私には金もない」。子安は言った「ユスりだなんて、とんでもない。先生言行録が作るのでございます。孔子の残した論語老子の残した老子など、偉大な人物には言行録があるのです」。先生は言われた「いろいろと引き出して、私を罠にはめるつもりだな。もう帰ってくれないか。とっとと帰れ、帰れ、帰れ」。子安が言った「帰るわけにはいきません。われわれには、他に帰るところはないのです。先生のところしか」。道原は言った「先生言行録はきっと、論語のように、いや聖書のように、たくさんの人に読まれるさとでしょう。洛陽の紙価ではなく、日本全体の紙価を高からしめることでしょう」。先生は言われた「そうか、それほどまで言うのなら、低く輝きのない暮らしをお目にかけよう」。子安は言った「先生それはモンテーニュです」。先生は言われた「ばれたか。万物は水である」。子安は言った「先生それはタレスです、急に昔に戻られましたね」。先生は言われた「人間万物尺度である」。子安は言った「先生それはプロタゴラスです」。先生は言われた「もう種切れだよ」。子安は言った「いいえ、種切れではありません。ここから始まるのです。先生オリジナル思想が。そこを私達は求めているのです」。

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