なんとなくわたくしめの霊的な師、濱ちゃんに電話してみた。
いつものごとく「忙しくて疲れた」とかなんとか。大変なお仕事ゆえ、お疲れ様なのです。夜中にケータイメールして正直すまんかった。と謝ったら、「んなーこたない。翌日の準備が出来たからよかった。」と、私のような若輩者にも気遣いは忘れん方です。すみません。
ラッツィンガー枢機卿教皇に選ばれたことにはあまり驚きもしなければ、歓びも憤慨もしていない。盛り上がりも、盛り下がりもしていない感じ。「そんな事より明日の仕事の方が僕ちゃんにとっては大切だもんよ。」って感じでしたよ。社長が誰になろうと現場ではやんなきゃいけない事は変らんわけで。でも、色々教えてもらったです。

師が語るベネディクト16世

我が師、濱ちゃんはラッツィンガーの本を訳したりしたのでラッツィンガーさんにはちょっと詳しい。
ヨゼフ・ラッツィンガーさんが何故ベネディクトを選んだのか。は、やはり前任のベネディクトゥス15世を意識してのことだろうとのこと。15世に関しては私も書いたが、そういう話に加えて師が教えてくれた話では、今の国際連盟の母体となる構想を15世は持っていて、国際社会の場で各国に働きかけていたらしい。うまく行きそうになったところでアメリカのモンロー主義によってアメリカが協力的じゃなくなった為にうまくいかなかった。表舞台には出て来ないが、影で奔走したのが彼だった。とかなんとか。(師の修道院の教会史専門のI神父が食堂でそんな蘊蓄を沢山垂れていたらしい。)私は近代史をよくしらないので「ふ〜〜〜ん」と思いながらも国連の旗にあるオリーブの葉を思い出しながら「オリーブの栄光・・・」というト本な「マラキ書の預言」のアレについて思いを巡らせていたのはいうまでもない。
で、師がいうには前任のその前のヨハネ・パウロという名は1世が司教に任命してくれたヨハネス23世とか、枢機卿に任命してくれたパウルス6世に感謝したからなんだけど「ベネディクト」は歴史の中での教皇の役割を意識した命名だからね〜。と、申していたが、そのような個人的な身内根性よりももっと大局的に物事をみようとする、つまりベネディクトという命名からもベネディクト16世の客観的で冷静な視点がわかる。と、そのように評価していました。ついでにヨハネ・パウロ2世はあまりにも早死にしてしまった前教皇の名前を受け継ぐしかなかった。当時のコンクラーベの偉いさんの間ではそういう雰囲気だったらしいです。へぇ〜×20
あと、ベネディクトゥス16世と言うのがいいのか?ベネディクト16世と言うのがいいのか?と聞いたところ「ベネディクト16世とわたしは言っている。」とのこと。カトリック中央協議会もそれなので、これからはそういう風にしないと混乱しそうです。でもヨハネス23世はヨハネスってラテン語で言わないか?と聞いたら、「それもそうだね。」と、まぁ無頓着。なんでもいいみたい。
ところで、わたくしめはずっとカトリックのカテキズムを師の書いた本で勉強させられていたのですが、勉強終了後「神父様。なんかいいキリスト教神学の入門書ありませんか?」と聞いたところ、ラッツィンガーさんの「キリスト教入門」を勧められました。いそいそと買いに行き、わくわくして開いた本は「入門書」ではなく「専門書」でした。(マクグラスのはほんとに入門書だけどなぁ・・・これはなぁ。)「キリスト教の本質」とでも訳してくれ。
madrigallさんがご紹介して下さったこれがその本です↓

キリスト教入門[endelure13]  価格:2,655 円 (税込) [在庫あり]
商品詳細
著者: ヨゼフ・ラッチンガー 訳者: 小林珍雄  版型: B5判上製  ページ: 244
ISBN: 4-7544-0013-8  発行: エンデルレ書店
http://www.sanpaolo-shop.com/product/1356

在庫あります。買いましょう。
当時の私にこんなむずい本がわかるわけもなく、放り出しておりましたよ。その後、この本の存在をすっかり忘れて「ドミヌス・イエスス」でラッツィンガーさんは悪評を極めたのが念頭にあり、たまたまエンデルレのバーゲン安売りになっているのを見付けまたまた読んでみようと、うっかり買ってしまいました。馬鹿ですね。
師、曰く「小林師の訳にはところどころ訳に意味不明瞭なところがあるので、留意して読むといいよ。」とのこと。たしかに文章が読みづらく頭の悪い私が読むには困難を極め、また放り出してしまいました。挫折を2回した嫌な思い出の本です。また読んでみようと今は手元にあります。
師、曰く。「ラッツィンガーさんは外交的には平和主義者で、教会内部では秘跡を中心に考える人だからね。」とのこと。秘跡の問題を突き詰めると、結局、倫理面で保守的にならざるを得ず、そうした批判は今後も引き続き起きるだろう事は予測されます。またイデオロギーや政治に深くかかわろうとする社会活動には距離を置きたい姿勢が批判されていますが、そもそもマザーテレサ自体もそうではあったわけです。彼女もまた特定の政治思想には与せず、おのれがやるべきことをやり続けた人ですから、一概に保守と目される人々が貧しい人々や小さい人々、虐げられた人の問題に目を向けてはいないというわけではありません。特定のイデオロギー固執してしまうことを嫌っているだけに過ぎないのでしょう。そこの違いがわからずに、安易に保守とかリベラルとか分けてしまうのもよくないことだなどとは思うのですね。
師は昔、神学校にいたころにラッツィンガーさんに会ったことがあるそうで「ナニか話したのですかい?」と聞いたところ「本を読んだです」と言ったらしい。それだけ?(^^;ラッツィンガーさんは「そう」と答えたということで、まぁ、そう答えるしかないよね。で、せっかく本を訳したのだから送ったのかと思ったら贈ってないらしい「だって、彼、日本語読めないじゃん。」いや。そういう時は普通、送るよ。「やはり、嬉しいと思いますよ。」「そうかぁ。そうだよねぇ。」「でも、今更、送るのもね・・・・」媚びているみたいで今度は嫌だそうだ。
この手の彼の書いた神学の本は版が変る時に「ベネディクト16世」の名前に変るの?と聞いたら、「変らない。教皇の名で出したらそれは不可謬になるから。」とのこと。教皇は自由に神学を論ずることも出来ない立場になるわけで、ラッツィンガーが引退して執筆活動をしたいと願っていたことを思い出して、少し気の毒になりました。もうこういう神学の本も書けなくなってしまうのですね。
まぁ、ベネヂクト16世さんはあいかわらず顔が怖くて仕方がないのは置いておいて、師のお陰で、すこし親近感を感じるようになりました。

ベネディクト16世の評価で左右にぶれる人々へ

私の友人でもあり同時に尊敬する神学者、ユリアヌス先生はこのように書いています。

玉響のコロッセオ 「A年復活節第五主日
http://iulianus.exblog.jp/d2005-04-22

今度ローマ教皇に選ばれたヨゼフ・ラッツィンガーが書いた(厳密な意味での著書ではないが)
といわれる教皇庁の文書『ドミヌス・イエズス』はまさにキリスト論をきちんと見直そうとする
ものであった。そうすればするほど、当然のことながら、キリスト教の持つ独自性、独創性、長
所を強調することになる。その結果、他宗教との違いはより明確になる。これは当たり前のこと
であり、ローマ・カトリックの中に向けて発表された文書なのであるから、その姿勢は間違って
いない。しかし、「他宗教との対話」にブレーキをかけるものであるとか、保守的だとかいう批
判が出る。だが、本当にそうか。保守的かどうかは別にして、「他宗教との対話」の障害になる
のだろうか。
(中略)
 一神教は自らの真理性を主張せざるを得ない。それは当然のことである。大事なことはその相
手の立場に耳を傾けることである。それに迎合することではない。たとえ、意見が対立しても、
それは立場の違いであることを認識することである。他の宗教に干渉することではない。自分た
ちはこの教えを信じ,それが真理であると信じている。そしてそれを生きている。このことを互
いに認めることである。どちらがすぐれているかを「比較」することではない。各々は自分たち
の教えが一番すぐれていると主張すればよい。しかし、他のものと「比べて」一番すぐれている
という必要はない。それは対話ではなくなる。対話はあくまでも自分の立場を明確にし、相手の
立場を認めることである。
 このように考えるならば、「他宗教との対話」というものはキリスト教の中で排除されるもの
ではない。他者は他者の価値観を生きているということを認めることが大事である。自分の価値
観を押し付けるのは、抑圧であり、支配である。(以下略)

悪名高い「ドミヌス・イエスス」それは批判の種となり、リベラルな立場の人の批判の対象となった。しかし本当にそうであろうか?回答はブログの全文を読んで欲しい。
ユリアヌス先生は実は神学でも特に過激だ、リベラルだと言われるシュライエルマッハとかレオナルド・ボフとかを高く評価し、同時にラッツィンガーと気の合ったバルタザールに萌えている。とにかくあらゆることに垣根がない。寧ろ超過激なリベラルに分類される方だと思う。カトリックの中の極左だ。その彼が「ドミヌス・イエスス」をこのように評するところが面白い。*1

このような自立したまなざしこそ大切だと思う。知に誠実である人間こそあらゆる垣根を越え、真理に到達する。
そのまなざしに関してはこういう好著もある。

「ただ一人」生きる思想 (ちくま新書)

「ただ一人」生きる思想 (ちくま新書)

八木先生はキリスト教徒でもなんでもない。その視点からカトリックの神学。それも現代のカトリック信者が避けて通る中世スコラ哲学、そのなかでも超難解なスコトゥスに真っ向からぶつかっている。(同じ立場の人に清水哲郎という人もいて彼の場合はオッカムだ)変な人だとはじめお会いした時は思ったよ。清水哲郎氏の場合は以前はクリスチャンであったということもありその変遷は理解出来るが、いきなりスコラそれも、スコトゥス?????どうも哲学の人々は私のごとき凡人と違い一味違うみたい。
とにかく、まぁ、是非、読んでもらいたいなどと私などは思うのです。
個として自立した視点で他者の構築した属性などにとらわれず、あらゆることを再評価してもらいたいですよ。特にマスコミ。。。ほんとにラッチンガーさんの本を読んで記事を書いているのかぁ?きちんと理解したうえで、批判する、あるいは肯定するならそれは確かに正当だと思うのだ。ましてやワイドショーレベルの興味でヒトラーユーゲントとかに真っ先に反応してるようでは情けないづら。(というか、マスコミはそういうもんで期待する方が間抜けなのだろうけど)

で、案の定、ワイドショーレベルでのネタで国際間の争いが?
天漢日乗さんが↓以下で取り上げておられます。経歴の乗ったサイトもご紹介。

天漢日乗
http://d.hatena.ne.jp/iori3/20050422 

日本人が子々孫々永遠に戦犯呼ばわりされるがごとくドイツも悩ましい問題を抱えているようだ。



↓こちらは哲学の方のサイトのようで、淡々と外国のマスゴミ記事の紹介とURLを取り上げておられます。
他のエントリーも読みごたえがある内容ですね。
八木先生の本も取り上げられていました。流石、深いです。

Meditationes
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050422 

特に、断罪された神学者リストは面白い。何故断罪されたのかおおまかな想像はつくけど、それへの評価はそれぞれの著作に当たらないと結局最終的になんとも言えないです。(デ・メロさんがいない?)ただ紹介されたマスゴミの反応はステロタイプで日本だけが例外といえないようです。もっとも秘跡という観点は世俗の観点とはズレがあるのでしょうがないかも。しかし和を持って尊しとなす日本と違い個人主義が発達している西洋のマスコミですら、このように評価するというのは。。。知への誠実とはまこと難しい道なのかもしれないですよ>ユリアヌス先生。
で、ユリアヌス先生の話ではイタリアの左派マニフェストでは「コンクラーヴェ出来レースだ!」と申しているそうな。教会そのものを否定しているイタリアの左派も実は教会にこっそり期待していたのか?と少し面白かった。

とにかく、まぁ、悩ましい方は著作を読んでみて下さいです。でも顔が怖いと思うのは仕方ないと思う。

*1:追記・これを読んだユリアヌス先生が「僕ちゃんはシュライエルマッハは扱ってない。読んでない。」とおっしゃっていた。すまんです。いつも過激なので混乱した。フォイエルバッハと間違えたかもです。で、「キュンクがいい。」とおっしゃってました。今はキュンクと格闘中。マルクスといい、ラッツィーが嫌いなものが好きなのだな。いつか破門されるぞ。

本日のおまぬけ一番

友人である、某編集者が紹介してくれた、お知り合いの作った替え歌だそうだ。
ラッツィンガーさんに捧げたお歌。

俺は涙を流さない ダダッダー
教皇だから マシーンだから ダダッダー
だーけど わかるぜー 燃える信仰
君といーっしょにー 悪を討つ
必殺パワー サンダーブレークー
悪い信者をぶちのめす グレートタイフーン
嵐を呼ぶぜー
俺は グレート グレートラツィンガー

いやぁ、らっちんがーさんのこと。よく判っている。。。。

そういえば、昨日、別の棒編集者から電話で「教皇本が日本には意外とない。あってもワイドショーレベルのばかりでぜんぜん使い物にならない。」と、憤慨気味に申しておりました。護教的なキリスト教関連本では資料にはならないだろうし、一般向けので絶版になってしまったよい本もあるので再販されるでしょう。期待したいものです。