「沈黙」とナガサキ/殉教した福者達

マーティン・スコセッシ監督が「沈黙」を映画化しようとしているという。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

スコセッシと言えば、ギリシャ人作家カザンツァキスの小説「キリスト最後のこころみ」を映画化した監督であり、原作者カザンツァキスがギリシャ正教から大きな非難を浴びたように、スコセッシもアメリカの保守的なキリスト教徒達から非難を浴びた。この優れた小説に対し非難を浴びせる単純脳のクリスチャンには辟易としてしまうが、キリストを人間的に描き過ぎた部分において、一部のクリスチャンからはとうてい容認し難いという反応が起きたようだ。十字架上で死ぬ前のイエスが見る幻想世界では、イエスは普通に結婚し、家庭人となっている。イエスが出会うことがなかったパウロはそのようなイエスを否定する。これにキリスト教徒が神と定義するイエスを人間的に描き過ぎているとか、パウロ否定に見られるような教会否定などを不快に思った信者がいる事は想像出来る。
しかし、カザンツァキス、もしくはスコセッシの一石はある意味現代的な解釈のセオリー通りではあるのだが、物語の全体を知るなら、最終的にイエスはそれを拒絶し絶命する。まぁ、そのような試みを受けるイエスの「人性」においては、家庭を持ちたいと願う人間的な希望をどこかに持つイエスがいたとしても不思議はない。主流派を構成する多くのキリスト教神学においては、イエス・キリストとはまったくの神であり、まったくの人であると解釈するのである。半分半分ではない。100%神であり、100%人である。その「まったくの人である」部分では弱き人間性そのものを持っていると解釈出来るので神学的にもなんら間違いではない。
その点で深い小説であるし、映画だったとは思う。

そのスコセッシの映画情報

http://cinematoday.jp/page/N0007389
マーティン・スコセッシ、次回作は遠藤周作の「沈黙」2005/11/17
 マーティン・スコセッシ監督が、次回作で遠藤周作の小説「沈黙」を映画化することを明らかにした。「沈黙」は、17世紀の日本を舞台に、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる長崎にやって来た二人のポルトガル人宣教師の悲劇を描いた作品で、スコセッシは同小説を映画化するために10年間も企画を温めていたそうだ。同小説は、日本では篠田正浩監督によって1971年に『沈黙 SILENCE』として映画化されている。

随分前に発表になったこの「沈黙」上記の事からもスコセッシの解釈がどうなるのか興味深い。しかし、進捗状況がどうなっているのか、情報も少なく、ググッてみたら、以下のブログの方がそれについて書いておられた。
○Mizumizuのライフスタイル・ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/mizumizu4329/diary/200708170000/
■スコセッシの「沈黙」はいまだに沈黙

ここで発表当時の談話記述が少し出ていた。

2007年5月のcontactmusicの英文記事によると、スコセッシは作品の少なくとも一部を日本で撮ることを望んでおり、撮影自体はまだ始まっていないようだ。ついでに同記事にはおもしろい話が載っていた。「沈黙」は17世紀、キリスト教弾圧時代に長崎にやってきた宣教師の物語だが、スコセッシは主人公の姿をイラクに侵攻したアメリカと重ね合わせて表現したいのだという。

アメリカと他文化の侵略過程における出会いというと、現代ではイラク戦争以外に、ベトナム戦争というものも有り、コッポラの『地獄の黙示録』に描かれたような白人文明と東南アジアのジャングルの迷宮的なにかが対比されていて、そのコントラストに、アジア的なるものへのアメリカの挫折というものを感じたことがあったが、スコセッシの意図がこのわずかな記述では全体は判らないのだが、政教が一致したイスラム文明と、キリスト教的なるものの出会いを「沈黙」を通じて描きたいのか?ちょっと判らない。

『沈黙』とはそういう小説なんだろうか?
以前野原さんに『沈黙』についての評を書いた時に驚かれたことがある。というのもキリスト教徒、それもカトリックにとって遠藤のこの小説はかなり大きな存在ではあるのだが、やはり賛否はある。ことに日本のカトリック、又長崎という土地で迫害を受けた記憶のあるカトリック教徒にとっては身近でもある重い存在であるんだが。その受け止め方として、野原さんに指摘されるまでずっとそれは神と自分自身の関わりの物語としてしか捉えてこなかったからだ。つまり、迫害者であるはずの奉行井上は、聖書の中のイエス・キリストの迫害者とも重なる。彼らは単なるトリックスターであり、迫害する人間と迫害される人間の物語としてではなく、絶望的状況下において人は神とどう対峙するか?という神を問題とする物語だとずっと捉えてきたのだ。そうでなければ「沈黙」というタイトルは意味を為さない。絶望の状況下における神の沈黙とはなにか?という、二つの悲劇的な戦争を経た世代の「神の沈黙」の時代の神観がテーマである。
そのように理解してきたので、迫害者の告発的な視点を一度たりとも持ったことはない。これは内面の問題であり、神と人との問題であるがゆえに。遠藤は一貫して「弱き人間」の信仰をテーマにしてきた。告発という能動的ではない、受動的な思考は確かに社会問題的。社会政治的な視点からは敗者の精神として映るのかもしれない。しかし信仰とは、まずもって神と自分との問題から発していくし、そもそもが聖書そのものが迫害をテーマに延々書いているんだが。そしてあの福音書の迫害者としてのユダヤ人をでは悪と見做すのか?というとお馬鹿な原理主義であった時代はともかく現代的価値に照らせばそれはとても危険な思想だと誰だって理解するであろう。同様に「沈黙」もそのように読まれるものであって誰かを告発したり、誰かを罪とする物語ではない。それは歴史事実に過ぎない。それ以上のものではない。
しかしこうした神と自己という問題を語ることと、社会の構造的問題を語るという事のズレのごときものが度々教会内部でも問題化されることが多くなって来たような気もする。

その好例として、以下の事例に突き当たった。

○うさたろう日記 はてな
http://d.hatena.ne.jp/usataro/20070809#p1
■[雑記]消えた原爆遺構?旧浦上天主堂の廃墟をめぐって

うさたろうさんが紹介してくださった週刊朝日の記事

週刊朝日の今週号(8月17日号)に、「消えたもうひとつの原爆ドーム浦上天主堂廃墟はなぜ壊されたのか」という特集記事があった。

もともと浦上地区は隠れキリシタンがいた地域で、幕末には信徒発見のきっかけとなった地域である。明治に入ってから、浦上地区の禁教の舞台であった庄屋屋敷跡を買い取り教会としたのが浦上天主堂だった。貧しい信徒らが少しずつ寄進をし、約30年を掛けてようやく天主堂が完成した。だが浦上地区の真上に落とされた原爆によって、多くの信徒が亡くなるとともに、煉瓦造りの天主堂も廃墟と化した。

この記事では、そうした経緯をもつ浦上天主堂がなぜ原爆遺構として保存されることなく撤去されたのかを取り上げている。その中で記事が注目しているのは、アメリカ・セントポール市との姉妹都市提携。当時の市長は保存に積極的立場であったのが、渡米後には撤去派となる。そのきっかけが、姉妹都市提携ではないかというのが記事の主張だ。すなわち、市長の諮問機関において天主堂保存の結論が何度も出されていたにもかかわらず市長が撤去の意向に傾いたのは、日本初の海外との姉妹都市提携であったこの提携を「エサ」に、長崎における原爆の痕跡を消すような圧力や説得がアメリカ側からあったのではないか、という話だ。

元記事を読んでいないのだが、とにかく朝日君は、長崎原爆碑としての廃虚を取り壊したのはアメリカさんの意図だったよ。と指摘したいらしい。

当時天主堂廃墟の保存を強く主張していた市議会議員の「もし今、あれが残ってればまちがいなく世界遺産ですよ。」という言葉だった。確かに、西洋世界がもたらしたキリスト教とその後の弾圧、信徒発見、そして同じキリスト教国であるアメリカによる破壊、こうした数百年にわたる歴史を象徴する遺跡など、そうそうあるわけではない。

西洋と宗教的価値観を等しくするはずのこの教会を破壊し、そこでミサを行っていたキリスト教信者らを一瞬のうちに葬り去ったのが原爆であることを、この教会の廃墟は知らしめるはずであった。旧浦上天主堂跡が被爆遺構として保存され、全世界に原爆の残虐さを広く伝えていくことができていれば、アメリカにおける「原爆容認」論への強烈なアンチテーゼとなりえていたかもしれない

うさたろうさんが指摘しているように、長崎原爆の史跡ともなりえた浦上天主堂は原爆被害だけではなく、日本に於けるカトリック迫害と再興の歴史のモニュメントでもあり得る。奇妙で数奇な運命を浦上は担っている。浦上と言えば「沈黙」の舞台ともなったキリシタン迫害の地でもあり、明治の信徒発見後の迫害がもっとも苛烈な土地でもあった。そしてそこに建てられた浦上天主堂の上空で原爆は炸裂した。ミサを捧げている神父と信徒もろとも、即死状態であったという。その爆弾を落としたパイロットはアイルランドアメリカ人だったという。アイルランドといえばカトリックの信仰の強い民族であり、プロテスタントアメリカにあって、むしろ地位的に低く虐げられてきた歴史すら持つ民族なのだが、その彼が同じ信仰を持つ画ゆえにその地で虐げられてきた人々を瞬時に殺戮する爆弾を用いたというのは歴史的皮肉だろう。(このパイロットは戦後長崎に降り立ち、この悲劇を目の当たりにしながらも元凶は日本の軍国主義にこそあると述懐する原爆肯定論者である)
たしかにこのモニュメントが残されていたならば、それは沈黙の歴史の証人であり得ただろうし、そこに残された廃屋の写真からしても、広島原爆ドームに匹敵する、もしくはそれ以上とも言える圧倒的な存在となっただろう事は想像出来るのだが。
以下にその光景が映っている。
http://www.nagasaki-heiwa.org/n2/urakami.html
フランスにはナチスドイツによって虐殺され消失した村がそのまま現代に残されて、保存されている。沈黙する村が語る戦争の愚かしさと残酷さは、万の言葉以上に説得力がある。上記の浦上天主堂の光景も又、そのような愚かで残酷な戦争というものの性質を浮き彫りにする。


しかし、この浦上保存を望まなかった原爆被害者がいた。
当の浦上の信者達であった。

長崎の原爆被害者の中でとりわけ有名な博士、永井博士がこの保存に反対したのである。
原爆遺跡の保存に関するさまざまな経緯は以下に詳しい。
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0208/genbaku/rensai/dansou/01.html
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0208/genbaku/rensai/dansou/02.html

「こんなもの(残骸(ざんがい))を見るごとに私たちの心がうずくばかりでなく、これから生まれ出る子供たちに、われわれの世代が誤って犯した戦争によって神の家さえ焼いた罪のあとを見せたくない。むしろ平和な美しい教会を建て、ここを花咲く丘にしたい」

永井は上記のように語ったという。
この言葉はアメリカの「原爆」と言う悲劇の弾き金を引いたのは日本軍の残虐さである。大日本帝国の罪によって、この大量破壊兵器は必要だった。というような、まぁ最近でも話題となったあの「しかたがなかった」の考えと同じくするように思えるのだが、実はこの永井博士の言葉には、もっと複雑な経緯があると言うのだ。
以下に詳しい。
●長崎の思想と永井隆
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2000/kikaku/nagai/nagai1.html

カトリック信徒であり、影響力のあった永井隆は原爆について以下のように述べたという。

「原爆は神の摂理によって、この地点にもち来らされた」「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれた」「戦乱の闇まさに終わり、平和の光りさし出づる八月九日、この天主堂の大前に焔を上げたる、ああ、大いなる燔(はん)祭よ!悲しみの極みのうちにも、私らはそれを、あな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎ見た」「浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します」

 永井は『長崎の鐘』の中でも「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と述べている。

「原爆は神の摂理だ」という永井の言葉は多くの批判を浴びることになる。たしかに地震が来たら神の摂理だとか、津波が来たら神の摂理だとか、なんじゃそりゃ?な気分になるのは当然で私でも一瞬そう思うんだが、この永井の言葉は米国に利用され、広島とは異る長崎の原爆の意味を産み出していったのだが、しかし他の被爆者達からの疑問が噴出する。

 被爆者で諫早市在住の詩人、山田かん(69)は若き日々、強い疑問を抱きながら、ジャーナリズムに「浦上の聖者」ともてはやされる永井の姿を見ていた。

 「被爆後まだ数年の長崎といえば、多くの被爆者が、のたうちまわって苦しみながら次々と死にゆく状況だった。なのに、なぜ、たった一人、永井だけが被爆者の象徴として、あがめ奉られ、代弁者のように語るのか。その差別的な関係を、長崎の被爆者市民は、なぜ、おかしいと感じないのか。それも疑問だった」
「永井は原爆投下を神の摂理と呼んだ。摂理とはカトリックの教義の中の言葉であり、教義とは不可触のもので、疑問や批判を許さない。永井から“原爆は摂理だ、神のおぼしめしだ、犠牲者はいけにえの子羊だ”と言われると、原爆に対して何も言えなくなる。それはカトリック信徒のみならず、信徒以外の市民にまで影響し、その結果、原爆を告発する機会は久しく奪われた」

たしかに永井によって長崎は言葉を奪われたのであろう。
同じカトリック信徒である井上ひさしも「神の摂理」という永井を激しく批判していた。

しかしこの永井の言葉には別の深い意味があった。何故なら原爆投下後、彼ら浦上の人々は長崎の他の人々から「西洋の神を信じるような輩だからこそくだった天罰」といわれていたのだという。いまだこの時代にあって彼らキリシタン達は、異る宗教の人々からそのような差別に遭っていたという。

長崎の鐘」で、永井が「神の摂理」と説く件(くだり)には、重要な前段がある。永井を訪ねてきた一人の信徒が、「浦上に原爆が落とされたのは天罰」と悪口を言われる実情を嘆いて言う。「誰に会うても、こう言うですたい。原子爆弾は天罰。殺されたものは悪人だった。(中略)それじゃ、わたしの家内と子供は悪者でしたか!」

 これを聞いて永井は初めて言う。「私はまるで反対の思想を持っています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である」と。

 原爆で浦上のカトリック信徒一万二千人のうち、八千五百人が一瞬のうちに犠牲になった。未曽有(みぞう)の惨害に苦しむ人々に対して、心ない市民から寄せられたのは、同情でもなければ、残虐な兵器使用に対する怒りの共有でもなかった。原爆を天罰とあざ笑い、カトリックへの差別意識をあらわにして被害者をののしる、歪(ゆが)んだ人間心理の表白でしかなかったのだ。浦上のカトリック信徒の絶望は察するに余りあろう。

永井の言葉はこの文脈で読み取らねば読み誤る。

戦時下にあって敵性宗教として扱われたキリスト教は、この長崎の地、(あるいは奄美でもそうだが)で戦争が激化すると共に迫害にあう。多くの信者が嫌がらせを受けたという話はよく聞く。先日亡くなられた高齢のカテキスタ、クララ先生もその思い出話として迫害の時代を語ってくれた。まぁ江戸のごとき拷問ばりばりなトンでもな事はなかったにせよ、奄美などの話を聞くと、棄教を進められたりしたとか石投げられたとか、或いは心無い教師によって死んだ子供すらいたという。
それらは戦後にすら持ち越され、長崎の信徒達は原爆を落とされてなお迫害を受けていたと言うのだから、江戸の迫害、明治の迫害、戦時中の迫害、原爆、原爆後の迫害と、とにかく差別の歴史が長すぎたゆえの永井の言葉はすごく重い。それを敗北主義と断じてしまうのはあまりにも長い歴史があり過ぎる。

話をもどすが、ここでは「沈黙」の構造と同じく、原爆は神と己との関係性によって語られるものとなっている。神の沈黙ゆえに、おのが信仰はどこに向かえばいいのかという悲痛な叫びが「それじゃ、わたしの家内と子供は悪者でしたか!」となり、永井の「神の摂理」すなはち、いけにえとなったイエスの犠牲の苦しみとはなにか?という問題へとシフトしていく。たしかに信仰を共有しないものにとってはこのシフトは理解し難いものと映るであろう。

社会正義を考える時、この内面過ぎる、つまりまぁ魯迅が描く阿Qの精神的勝利法ー弱者の「手前ん中で勝手に解釈して腑に落ちて満足する」みたいなものというのは社会の変革を求め戦うものにとってはトンでもなくチキンハートで、ニーチェ辺りに罵倒されても仕方がない、まったく奴隷根性的ではあるのだが、こうも絶望的な状況においては、それしかなかったんではなかろうか。戦後育ちの井上にはそれが理解出来なかったんだろうとは思う。(まぁわたくしも戦後産まれどころかもっと平和な時代に生きとるんで、井上達のいらだちも分るけど。。。。けどなぁ)

ゆえにその「天罰」などと言われたモニュメントを目の当たりにするのは浦上の信者にとっては苦痛以外の何者でもなかったのだろう。

さて、「沈黙」
神と人との関係を、極限まで絶望の状況において見つめていく作品が、なんだかイラク戦争とか西洋と東洋との文明の衝突的に描かれるとか、遠藤の意図とはなんか違うって気もしなくもないが、遠藤自身がフランス留学の中で西洋の持つ暗黒の壁との戦いに疲れ果てていたということも有りあながち、ずれてもいないのか?とにかくスコセッシの作品の完成は楽しみではある。

◆◆
最近のカトぎょーかいは殉教者の列福物語がマイブームなようで、あちこちでその話題が取り上げられている。音頭を取っているのは長崎の司教だが、日本のカトぎょーかいは皆これを押して、あちこちでおらが土地の福者話を取り上げたりしている。

遠藤の『沈黙』によって描かれる転んだ信徒と比した栄光の死。もっともその死は迫害の果てに存在するのだが、誰もがこのような英雄的な死を選べるとは限らない。例えば「神風」に志願した若き兵士達と、「神風」に臆し、上官に殴られた兵士との差違、殉教聖人とは英霊となって亡くなった靖国に祀られた兵士達を拝むような信仰に通じるものがある。どちらもなにか己が理想とするものにその生を捧げると言うことに代わりはない。ここには共通する「宗教の構造」がある。

そのカトぎょーかいは、この殉教者達の物語を通じて信教の自由を主張する。戦時下の迫害、宗教弾圧への批判が根底にあり、「右傾化する日本」に警戒心を抱いている。長崎の信徒達、あるいは奄美の信徒達のような目に遭っているなら、まぁその恐怖というかトラウマゆえに、判らなくもない。

ただ、遠藤の眼差しは、信仰において心の弱さゆえに光を歩むことが出来ぬ者達へと注がれているゆえに、これらの「信仰を貫き死んだ」殉教者の物語とは対極に位置することになる。内面へと、神と個人との関係性を見つめんとする遠藤の「信仰」はカトリックの伝統である殉教への眼差しに水を差す性質があるがゆえに、カトリックぎょーかい内でも遠藤の神観はカトリック的ではないと否定するものがいる。

だが、そうなんだろうか?
表象的に転んでも、根底でけして神から離れる事が出来ぬ小さいもの達の信仰は、信仰ではないのか?

欧州で遠藤のこの作品は評価が高いという。己の暗闇が深そうな、遺伝子にまでキリスト教が根づき、腐り果てていながらも尚、「神」を意識せずにはいられないあの民族にとって、遠藤の神観はどう映ったのだろうか。寧ろ彼らのほうが遠藤を理解しそうな気がするのだが。