* 心は科学者か弁護士か
 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、
弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論
をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から
スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう
とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。
つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を
無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う
ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》
▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例として説明したもの。
これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など
での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、
掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、
誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中
のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。
それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、
強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、
自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆
として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。
 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、
一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?
・・・・・・
4801,閑話小題 ー朝日新聞デジタル
2014年05月07日(水)
  * 朝日新聞デジタル
 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入。
現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の追加料金で済む
(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。
最低期間が半年で、月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる
価値があると判断した。で、三日経ったが、これが正解。記事の一つを
クリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換
可能で、スクラップも出来る。間違いなく、新聞紙を手にとって見るより便利。 
これがプラス500円ならお勧め。朝食前後に、一度、全体のページに目を通し、
昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、
スクラップは、ほぼすることはなかったが、これからはする!また、一日単位
タブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無くても、持ち
運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に
目を通すことが可能である。現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、
何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が
今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? 
ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、経済・マネー、国際、スポーツ、
カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。紙面が、
そのまま、ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択
できるところも良い。紙の新聞を見た後に気楽に読むのに最適ということ。
これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、
読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身に
とって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。加入を家内に告げると
、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを
読むのは間違いなく、本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。
今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを早速、読み始めて
いる。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。
月刊誌も、店売りの他に、宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。
それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしても
デジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に
入っているが、これも良い!
・・・・・・
4434, サードマン現象とは
2013年05月07日(火)
 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃
に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向
に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。
また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に
持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 
 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を
再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況
のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・
◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター
ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ
瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも
なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。
◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて
 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。
◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした
 リンドバーグを支えた声。
◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在
 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる
 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その
「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 
 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも
 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも
 いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。
 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。
 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。
 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。
 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」
 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して
 いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は
「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。
 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、
 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、
 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か
 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の
 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように
 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積
 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。
 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員
 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル
 に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が
 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め!
・・・・・・・
4060, 要は、受け止め方である!
2012年05月07日(月)
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生と
脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
 中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。 
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変えることになる。そのために記憶さえ変えるのが
人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の
絶対量が必要になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろう
というもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、
運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちる
ように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理?
 ・・・・・・・
3694, 自己を見つめる −16
2011年05月07日(土)
  * 幸福について (不幸について) ー3  
            「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、
この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。・・略 しかし、そのために、
人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないで
あろう。というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や
障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 
格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 
実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、それなりの自己
集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 
けれども、いかに精進したとしても、非力で有限な人間には、完全な意味での
幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているという
ことは、まだなすべきことを残しているということと同義である。
なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、
欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 
その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、憧れにみち、その実現
状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、
目下は自分にその充実がいまだ与えられておらず、また、あらゆる意味での
完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、
そのまま、不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きている
かぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、与えられず、叶えられず、
許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】
▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、
 二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。その人によって大かれ
少なかれ、不平不満、神経質、我執、理屈を言い張る部分を持っている。
それが膨張すると、周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな
要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。それは血筋、家系にも
関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 
それを乗り越えるのが、人生。そのプロセスこそ人生である。そう割り切って
しまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。  
 ・・・・・・・
3329, 草食系で何が悪い!
2010年05月07日(金)
 昨夜のNHKのゴールデンタイムに「草食系で何が悪い」というテーマで
激論を交わしていた。現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 
見ていて食い違いがあまりに大きい。我が家も含めて、何処の家庭の親子の
食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、現代の
若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在している
のである。なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? 
そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。とはいえ、
彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている
人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策
による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 
アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 
偏差値による選別教育の結果である。 
 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー
 * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」
ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、
  内向きになったと言われる最近の若者たち。
  彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。
ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を
  示さない20代の若者たち。「おとなしくなった」「内向き」
  「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」
  といわれる。一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が
  深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、日本が
 「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 
  日本の未来について語り合う討論番組。
  ――
 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは
不可能である。韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の
若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に
生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、
希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の 
<「知の衰退」からいかに脱出するか?>の読書日記を書いているが、まさに、
大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い!
・・・・・・・
2954、ハゲタカ
2009年05月07日(木)
 連休の5月4,5,6日の3日にわたり、NHKで朝9時から二本ずつ
「ハゲタカ」というドラマを6本放送していた。日本のバブルの崩壊後に
アメリカのハゲタカファンドに荒らされが、去年の9月15日のリーマンの
倒産で、そのファンドそのものが崩壊してしまった。しかし、それまでは
世界を荒らしまくった彼らの実態の一部をドラマを通し垣間見るようであった。
 まずは、ー番組紹介ーから
ニューヨークの投資ファンド運営会社社長・鷲津政彦は、バブル崩壊後、不景気
に苦しむ日本に戻り、瀕死状態の企業を次々と買収する。敵対するファンドに
よる妨害や、買収先の社員からの反発を受けながらも、鷲津は斬新な再プラン
を披露し、業績を上げていく。企業買収、再生の真実を克明に描いた問題作。
▼ 三日間、このドラマと、その後のNHKスペシャルの「マネーはなぜ
 暴走したのか?」のセットに釘付けになり見たが、多くの示唆が含まれていた。
資本の論理からみてハゲタカが処理した企業が結果として、贅肉を削ぎ落として
再生した方がむしろ良かった?という視点もある。小泉、竹中の金融改革の功罪
をドラマ化をして考えさせられたということ。外資投資ファンドがハゲタカ
なら、日本の大手の勝ち残った大手銀行は互いの死肉を食い合うハイエナと
例えることもできよう。(字数制限のためカット 2010年5月7日)
・・・・・・・・・
2590, イスラエルの話
2008年05月07日(水)
 長男が、イスラエルから帰ってきたので、その感想を書いてみる。
ー今回のツアーからの概略(私のインタビューからの情報)
・ツアーの会社は、新日本トラベル(現在は合併でエヌイーオーに改名)
・総員23名。半分が一人参加。本人を除くと全員が40歳以上。
 70歳代の夫婦が三組。男女の割合が半々。平均年齢50歳位。
・4月23日〜5月02日までの10日間コース。
・添乗員は40代のベテラン女性。 現地ガイドは日本系のイスラエル人。
・旅行の最中に日本人には一人も会ってないが、韓国人らしきグループが一組。
・現時点で、年間のイスラエルの訪問客は8000人。
・危機感を持つ場面は、ゼロ。しかし、ウズベスタン航空のサービスは最低。
 帰りのテルアビブからウズベスタンへの飛行中に、かなり厳しい乱気流に
 あって死ぬ思いの経験。
・一人参加のアップの加算を含めて、38万円。総額43万円。
・満足度は100点。
・テルアビブの飛行場と、エルサレムの街の緊迫感は、
 私から聞いていたほどではなかった。
 ーー
 以上だが、9年前の私の実感とほぼ同じである。9年前の場合は、
これにアブラハム十戒をつくったエジプトのシナイ山があった。
これは強烈な印象が残っている。 イスラエルインパクトがあまりに強い。
わずか四国の大きさの国土で、700万人の国が、存在としては大きく位置を
占めている。日本の大よそ二十分の一の国がである。 契約の概念はユダヤ
から出ている。神様との契約が、いつの間にか人間同士の契約にすり替わった
のである。ユダヤ人とイスラエル人は同一ではない。
一般的には、イスラエル人=イスラエル国籍を持っている人。
ユダヤ人=ユダヤ民族。と思われているが、ユダヤ人は
ユダヤ教を信じていて、両親のうち両方が何じゃらとか難しい決まりがある。
ユダヤ人は選民である」という教えが、他の民族から忌み嫌われるのである。
多くの決まりがあり、ユダヤ教徒は、それを厳格に守るのである。
旧約、新約聖書のような物語と、その舞台が、そのまま一致しているのは
イスラエルしかないというが、異教徒?の目から見ると、尚のこと、
その特異性が、何とも新鮮で驚きをもってみることが出来るところである。
 ー以下は私の旅行記である。
 ーー
ーH1105イスラエル聖なる旅 
この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。
四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどのドラマがあった。現地の
日本人ガイドのシャワ?のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続。
その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の
成果となった。関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。
考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本があった。
人生のもっと早い段階で、じっくり読むべきであった!。旧約は先入観で
固く難しそうであったが、読んでみれば何もむずかしくない、ただただ
面白い!内容であった。旧約はユダヤユダヤ民族の歴史の書であった。
また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。
 ー印象の強い順に列記してみると、
まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されている
といってよい。四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、数え切れない
戦いの舞台となった。そして現在も続いている。この街を歩く事は世界の歴史
の生き証人と出会い同行することかもしれない。イエスが十字架を背負って
歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロローサ磔刑に処せられたゴルゴダの丘
最後の晩餐の部屋。イスラム教の重要な寺院=岩のド?ムとアクサ寺院。
ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場、そしてダビデの塔。
旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。
次はモ?ゼの十戒で有名なシナイ半島シナイ山である。
深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。
そして、その麓にあるカタリナ修道院と、神の声をきいたという“燃える柴”。
そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。
マサダの要塞”この旅行まで全く知らなかったが、キリストが死んだ
四十年余り後に、ローマ軍に追いつめられた熱心党員のユダヤ人九六七名が
たてこもった自然要塞。 陥落の前日、そこの指揮者ベン・ヤイルの演説の後、
七名を除く九六〇人の集団自決のあった場所であった。その時の詳しい内容が
生き残った者の証言で残った(ヨセフスの“ユダヤ戦記”に生々しく残っている)。
=「奴隷にされる前に...自由の状態におもむこうではないか。」
=自殺を厳禁しているユダヤ教徒の集団自決であるからその意味が違ってくる。
エスの生まれたベツレヘムの岩のほら穴の馬小屋と岩の飼葉桶。
ユダヤ教エッセネ派の“死海写本”が発見されたクムラン洞穴。一九四七年、
近くを歩いていたベトウィンの少年が、洞穴で土器に入った巻物を発見。
壷に納められた六〇〇を越える巻物には、イザヤ書全巻や旧約聖書等々
記されていた。(字数制限のためカット 2011年5月7日)

つれづれに

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 今日のYoutube

今朝も、4時前に起床。随想日記を書き上げて、
ポタリング信濃川の土手を一周。 最近、いやに
鷺の声が聞こえるので、じっと見ると、鷺ではなく、
雉である。先日、庭に来ていたのも雉だったことになる。

昨日で、ゴールデンウィークが終わった。
で、どこも出かけないで、150M先のサエゼリアで、
家内と食事。それでも、外食をしたと感が残るからよい。 

庭の藤の花も、散りかけてきた。 少し例年より咲きは
悪いが、それでも、それなりに咲いている。

・・・・・・
2225, いい男とは?
2007年05月07日(月)
       (*´∀`)」" ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ~♪
           
  著者・岩月謙司に、ある日、とある女性から
『岩月先生の本に従って一生懸命素敵な男性を探してみましたが、
今だに「いい男」とは出会えません。・・是非、男性向けに
いい男になるためのハウツー本を出してください!』という投書をもらい、
この著書「女は男のどこを見ているのか」を書く決意をしたという。
    
 なるほど、著者の魂の入った内容であるが、この本が出た後の
2004年12月に、女性患者への準ワイセツで逮捕されてしまった。
インターネットで検索をいたら、女性との‘いかがわしい’
ビデオがあった。このHPに取り上げる内容ではないか・・
それを前提に読んでみると、なお面白い本である。
   
 いい男とは?というより、人生如何に生きるべきか?という内容。
女性ほど、誠実で思いやりのある人間を直感するものである。
小成していない限り、そんな「誠実で思いやりのある男」など、
そうそう居るわけがない。しかし、そのことを知っているか
どうかが女性の質の分かれ目になる。若い時分の男は?
下半身のことしか考えてない。女性の場合は特に将来に渡って
信頼に値するかどうか見定めないと、判断ミスで一生を棒に振る
ことになる。雌ライオンのボス選びのようなもの。
弱いのを選ぶと、ボス交代で子供が全て殺されてしまう。
人間の場合は籤みたいなものだが、少なくとも男の両親をみるべきだ!
それでも、あたり外れが出るのだから!たまったものではない。
  ーー
「女は男のどこを見ているのか」(岩月謙司著)で語られるのは
「いい男」になるためには何が必要か、換言すれば、いかにすれば自分自身が
ブランドになれるか、という内容である。そのためには、
・「英雄体験をしよう」 =自分自身に誇りを持てるような体験をしよう
・「陰徳を積もう」  =小さな親切を大切にし、いつも誰かが見ているという覚悟で
            自分の行動を律せよ
・「自分を貫け}  =一度決めた約束を守れ、ということである。

ーこの本の面白そうなところを幾つか抜粋してみたー

*つまり、お金と名誉と学歴を持っていても、人を騙したり、意地悪だったり、
 不誠実だったり、愛がなかったら、生きているとはいえない。
 本音と建前という言葉があります。これが、現在の日本では逆なのです。
 愛と勇気と知恵が建前で、お金と名誉と学歴が本音です。
 少数民族の多くは、私たちの建前を本音として生きています。
 初対面の人と出会った時、現代に生きる私たちは、まず職業と学歴を気にします。
 彼らは「これまでどんな生き方をしてきたか、老人や子供に優しかったか、
 親切にしてもらった時は、きちんと敬意を払ったか、誠実に生きてきたか」
 ということを気にします。・・・・          (p11)
*「女性は、本来気持いいことが大好きです。愛されることが大好きです。
  気持ちいいことを自分の心と体に取り込もうとします。」(p66)
*「女性の心の世界は、受け容れたい男性か、拒否したい男性かのいづれかしかいません。
  極論すると、セックスしたい男か、セックスしたくない男か、しかいないのです。
  ・・・女性は、自分に安心と快感を与えてくれる男性なら、相手のすべてを受け入れて
  しまうのです。」
                                (p71)
*「それは、常識に縛られたり、常識に惑わされたりされてはいけない、ということです。
 非常識なことをしろ、というのではありません、自由にものを考え、自由に生きて欲しい、
 ということです。常識にしばられると自己改革はできない、ということです。
 なぜなら、改革とはそれ自体が非常識なことをすることなのですから。
 非常識なことをするのが改革ですから、常識に縛られた人がリーダーになると必ず失敗する。
 ですから、もし、あなたが修行していて私もうれしい、あなたもうれしい、
 という関係が成り立ったとき、自分のしていることが世間一般の常識からはずれていないか
 どうかは考えなくていい、と言いたいのです。みんなにウケる生き方ではなく、
 自分にウケる生き方をするのです。たとえば、猫を撫でるのが楽しくて、雨の日も風の日も
 エサをもって神社を訪れても、別に非常識ではありません。人に軽蔑されようが、
 何と言われようが、そんなことをするのはあなたぐらいだと数の論理で批判されようが、
 そんなことに惑わされてはいけません。」          (p136-137)
 
*「あなたが猫を撫でたとしましょう。もし、猫が悦んだら、スリスリしてきます。
 そのとき、あなたは、もっと猫を撫でたい、という気分になっているはずです。
 なぜなら、猫からは『気持ちいいよ』『撫でられてうれしいよ』
 というサインが来ているからです。
 その悦びのサインを受け取るから、もっと撫でたくなるのです。
 そして、うれしくもなります。うれしさというのは悦びですから、
 ますます愛情を込めて猫をなでるようになります。
 猫は、あなたに、より情熱をこめてかわいがられるので、
 ますます親愛のポーズをとるようになります。
 ますますあなたはうれしくなって、ますます猫もうれしくなります。(p155-156)

             (((o(´・з・`)グッ。・:*:・゚☆w(´・з・`)バァイ
・・・・・・・・・
2006年05月07日(日)
1860, ローマから日本が見える-11
     おはよ~!(*^ワ^*)i    
                 -読書日記ー       
《その戦法を知りながら、騎兵力を増強できなかったのか?》

ローマ軍には騎兵を増やそうにも増やせなかった事情がある。
この時代には、鐙が発明してなかったので、自分の両足で馬の
胴体を締め付けて乗るしかなかった。この技法は子供の時から馬に
乗りなれてないと到底乗りこなせない。ちなみにハンニバルは、
カルタゴの同盟国の北アフリカヌミディア人と、ガリア人という、
騎馬に長けた民族が参加していた。またローマ軍の主体が重装備歩兵
であったため、騎兵中心に変身しにくい要素があった。
重装歩兵がローマ軍組織としてあまりに中心過ぎて、これを
変えるとローマ軍の組織そのものが弱体化してしまう恐れがあった。

ハンニバルの誤算》

ハンニバルが限られた手勢でアルプスを越えて、単身イタリア半島
乗り込んできたのには、もちろん彼なりの計算があった。
戦いに勝ち続けていれば、ローマ連合も盟主ローマから離反し、
寝返ってくる都市が続出すると踏んでいた。
ところが、ハンニバルの予測に反して連合軍の連帯は強固であった。
ローマが長年かけて造り上げた「政治的建設」は、ハンニバル
心理作戦でも揺らぐことは無かった。
                       茶でも!~~旦_(-ω-`。)
スキピオ登場》

ローマの総力を結集したフビウスでの持久戦略に持ち込んだ
BC210年になっても、ハンニバルを追い込むことが出来なかった。
20個師団を超えるローマ軍はハンニバルを包囲するが、
彼の行動の自由を制約できても決定打を与えることはできなかった。
しかし、ここでスキピオという若き軍団司令官を得ることになった。
当時の彼は、25歳である。 カンネの戦いのとき、19歳の少年だった
彼はハンニバルの戦いぶりを観察し、何故勝てないのか考え続けてきた。
そして彼は『ハンニバルに勝つには、ハンニバルのように
闘わなければならない』という結論に達する。
アレクサンダーの弟子を自認していたハンニバルも、まさか自分の
弟子が敵のローマ人から出るとは思っていなかったでしょう。
しかし、その「まさか」が起こったのです。スキピオ・アフリカヌス
の登場によって、第二次ポエニ戦役はがらりと様相を変えることになる。
それまでの『天才対組織』の戦いが今度は『ハンニバルスキピオ
の戦いになり、イタリア半島からカルタゴのある北アフリカの移る。
そして、紀元前202年で行われたザマの会戦で、ハンニバル
弟子スキピオに敗れることになる。この一連の戦いはダイジェスト
ではとうてい述べることは不可能です。ハンニバルの登場は、
ローマに大いなる課題を突きつけました。そもそも年功序列
ローマの共和制では「才能による」抜粋などありえなかった。
ところが、その緊急避難的に選ばれたはずのスキピオが、ことに
あろうかハンニバルに勝利してしまうのだから、こんな皮肉はない。

彼の活躍で小アジアからジブラルタル海峡まで一気に拡大する。
その反面、ローマの元老院体制に大きな亀裂をもたらした。
スキピオ支持派と反対派である。
その反対派はスキピオを『スキピオ裁判』に持ち込んでしまった。
保守派は『ローマの政治を私物化している』と弾劾したのです。
彼は、引退という道を選んで、ひっそりと死んでしまいます。
 ーー
いずこの世も新旧の戦いはあるものだ。スキピオは今でいう
『ベンチマーキング』『ベスト・プラクティス』をしたことになる。
ベストを真似てアレンジするのが一番合理的であるのは、いつの世も
同じである。 勝つには勝つなりの理由がある。 それにTPOSが
加わらなければならないが。歴史モノは面白い行蔵の宝庫である。
                   ヾ(^ω^*) バイ
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2005年05月07日(土)
1495, いま・現在についてー3

 「どうせ死んでしまう」-2
              -読書日記
「どうせ死んでしまう」ーいまの生成ー 
というコーナーに、「いま」について深く掘り下げてあった。
「一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方」
という言葉が解りやすい。
  
    ー面白そうなところを抜粋してみるー
P-39
ー「いま」の生成
すべての科学(大脳生理学・心理学・物理学等々)は
現在と過去との差異性を塗りつぶすことによってかろうじて成立している。
・・・・・・・「いま」は△T1というような一定の時間を指す概念ではない。
「いま」は一つ前の「いま」という相関ではじめて意味を獲得する。
この「いま」をえぐり出すことは、とりもなおさずその外に一つ前の
「いま」をえぐり出すことである。

今日を「いま」としてとらえることは、昨日を一つ前の「いま」として
とらえることである。
今年を「いま」としてとらえることは、昨年を一つ前の「いま」として
とらえることである。

「いま」とは、自然現象ではなく、
一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方なのです。
「いま」の出現は、互いに否定的な二つ(いまに対応した未来と過去)
の「いま」の出現にほかならず、そこにはお互い否定的なものを繋ぐ作用
が必要である。それが想起であり、その想起の主体こそが「私」なのだ。
つまり、「私」は知覚においては登場してこず
(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。

正確な知覚能力を具えているが(エピソード記憶に対応する)
想起能力の完全に欠如した生物を考えてみよう。彼は次々と知覚し
その内容を記録する。しかし、次々と忘れていく。
彼は自分が記録した内容を過去の事象として理解することができない。
そこに日付があったとしても、それが過去の日付であることを理解できない。
つまり、彼は連続的な自然現象を正確にとらえることができても、
そこに「いま」と「いま」の楔を打つことができないのである。
そういう彼は「私」という意識をもたない。
 -------
 
以上が、「いま」を哲学的に書いてあるところである。
「いま」は、過去の上によって初めて成り立つ、と解りやすく説明している。
そして、「いま」は想起能力がなければ存在し得ない。
「いま」を大事にするということは、過去を大事にすることになる。

過去を想起し得てこそ、「いま」が存在をする。
それからみると、日記は「いま」にとって大きな要素になる。
文章として書き残すことは「想起のための楔としての記録」になる。

「いま」の意味を、もう少し納得するために記憶喪失を例に考えてみる。
先日レンタルDVDで観た[記憶のない男]の姿の中に[いま]の希薄をみた。
彼の「いま」は全く過去を持たないため、虚空を彷徨っているようであった。
その「いま」は小さな点ーエネルギーでしかないように見えた。
過去の「いま」の積み重ねをバックに持ってこそ、私の「いま」がある。
それは、未来に対しても同じことである。

深い過去をもってこそ、深い「いま」が存在をしてくる。
「いま」だけが全てではないのである。
                     ーつづく
・・・・・・・・・・
2004年05月07日(金)
1130, 「ライフレッスン」-11

 ー 許しのレッスン
誰も人生には、八つ裂きにしても許せない人間は何人かいる。
そして、自分も、他の人間にとって、そのうちの一人になっている。
相手を許すということは、けっきょくは自分を許すことである。

許すということは、自分の内面の魂の問題のかかわってくる問題である。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」であり、それは自分を如何に納得させるかの
折り合いの問題でもある。許すというのは、ある意味で奇麗事なのかも
しれない。しかし、その奇麗事は最も大事ではなかろうか。
許しは、主体的なことである。許そうと努力していれば、そのうちに
忘却の彼方に消えていくものである。残ったとしても、自分の記憶には
「許し」という言葉が包んである。

ー以下は抜粋である

・人生まっとうにしようとするなら許すことを学ばなければならない。
許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己を結び
つける方法である。わたしたち全員が、他人を傷つけたことがあったはずだ。

問題は傷つけたり傷ついたりすることよりむしろ、その経験を忘れられないこと、
それを忘れようとしないことである。傷の痛さはそこにあるのだ。
わたし達は傷をためこみながら生きているが、その傷を手放す方法はだれからも
教わっていない。許しを必要とされる理由はそこにある。

許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。
許しは自愛的な行為といえる。
許さないということは、むかしの傷や怒りにしがみついているということである。
恨みの感情に栄養をほきゅうして、過去の不幸な部分を生かし続けることである。
許すことができなくては、自分自身の奴隷になるしかない。

・もうひとつ許しの障害になっているのは、報復してやりたいという欲望である。
報復という低次元な行為をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。
自分を傷つけた人に対する攻撃的な行為が,けっきょくは自分を傷つけるのだ。

ーー以下は字数の関係でカットしてます。
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2003年05月07日(水)
763, 地方差別

 東京では、地方出身者は田舎者と露骨に差別される。
学生時代に東京に住んでみて、驚いたのが地方差別であった。
解らないでもないが、都会生活での初めてのカルチャーショックであった。
今でも海外旅行のパックの同行者の意識で驚く事がある。
それも強い負け犬の立場の人?に露骨に顕れている。

 一番面白かったのが「ケニアのヌーの河渡り」であった。
都会のハイミス・ゴールドミス(グランド・オールドミス)がすざましい
ひと達だった。具体的には書きたくないが、その傷口の血は濃厚だ!
もう二度と、その血を浴びたくはない!洗っても数年は落ちないほどだた!
自分のプライドを守る為に弱者を探すと地方差別が一番手っ取り早いのだろう。

 何処かのヨーロッパの空港の待合で、江戸っ子の職人風の父子がいた。
話しかけたら「貴方は地方?それとも東京出身?」と聞いてきた。
新潟と答えたら、一切話をしないで露骨な可愛い差別を始めた。
こんなものである。
学生時代に外国旅行に行った時、ある同行の女性が思わず本音が出た。
「最近帝国ホテルも、地方のお上りが多くって質が落ちていますわ!」
その一言で最後まで嫌われて、総スカンをくらってしまった。
「父親は同行の女性の会社の子会社の下っ端の役員でしかないないのに!」
とすぐに陰口が入ってきた。
結局はすべては「コンプレックスの隠しの芸の追求」が人間の本質なのだろう。

「お上り」という言葉が、典型的な軽蔑言葉だ。地方差別を書くこと
自体がタブーでもある。公平という意味でー平等でなくー差別をされても
仕方がないのも解るが!?毎日二つの街を通っていて、長岡と新潟で
さえもあまりに違いすぎるのは事実である。

都落ち」という言葉もあるとおり、特に都会で生まれ育った人間は
地方に住むということはアジアの何処かというくらいの響きがあるようだ。
アメリカのニューヨークなどは、もっと複雑に絡んでくるという。
民族や人種や宗教や収入や肩書きなどで露骨の差別があるという。

まあどうでもよい田舎者の話だが。

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2002年05月07日(火)
399, 末っ子はつらいよ

8人兄弟の末っ子である立場を書いてみる。
少年期まで、末っ子は上からの虐めがきつい。
特にすぐ上の2人のそれがきつい。
常に気を張っていなくてはならないのがその宿命だ。

食事も気を抜くと自分の食べ分がなくなる為、早食いが癖になってしまう。
常に周囲の情勢を把握していなくてはならない。

誰かに聞いたが、多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。
他人の気持ちを常に読んでいなくてはならない事が、それに向くのだろう。

それと結婚の相手は長女がいいと最近聞いた。たまたま家内がそうだった。
そういえば知人のW氏も長姉もその組み合わせだ。上手くいっているようだ。

そういえば過去に惹かれた女性は長女で、A 型で、160cm、
おっとりしたタイプが多かったー今もそうだ。
末っ子は口が堅くなくてはならない。
それぞれの兄姉の秘密を知ってしまうからだ。

万一告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。
家族はまず出会う初めての社会だ。

・・・・・・・
2001年05月07日(月)
ユニクロが面白い

半年前に自宅の一^二分のところできたユニクロがますます面白い。
とにかく体形にフィットするー着心地がよい。それと安い。
土日曜は開店から閉店まで客のとぎれることはない。’服は服装のパーツ
である’という考えのもとの品揃えがはっきりしているのだ。
あそこまで客に支持されるのは、普段着と重ね着のサブに徹している
為もある。今まで腰まわりだけのサイズのズボンしかなっかた。
今は股下のサイズもヨウイしてある。ウエスト79のサイズの股下80
と70とでは当然形が当然形が違ってくる。
今まではそれだけ種類が増え在庫が増えてしまうという
川上の論法ででつくられなっかったが、売れ筋を 絞り込む事と在庫管理の
徹底で用意すれば安いコストでそれぞれの人が着やすい品を提供できる事が
彼らに解ったのだ。本当の意味での顧客サイドの商品つくりがおこなわれて
いなっかたのだ。その意味で当分ユニクロの一人勝ちは当分つつくだろう。

-以前書いた私の文をコピーしておきます。
H1211 事業百訓-ユニクロ現象について-
  ー字数の関係でカットしてますー