* つれづれに 〜春
・大相撲の番付が先日、発表になり相撲モードに入ってきた。十両にユニーク
 なのが揃うと、その場所が面白くなるが、今場所は多く揃ってきた。
貴乃花部屋の双子の力士や、暴行を受けた貴乃岩とか、大関から落ちてきた
照ノ富士。小柄の翔猿、炎鵬、照強。そして将来性のある水戸龍、矢後とか。
 それと、三人の横綱横綱アドバンテージの張手なくして、10勝以上、
勝てるか否かなど、面白い材料が豊富である。
春の高校野球の情報も新聞紙上を賑わせ、プロ野球のオープン戦も始まった。

・また、日々、朝鮮戦争の気運も高まっている。やはり4月に何か起きそうな
気配がするため、初春にしても何か心が晴れない。100%とは言わないが、
6割以上の確率で交戦の確率があると思うが、如何だろう? 3月一杯は大丈夫
だろうが、それでも、何処かでテロがあるのかも。
――
   * 腰痛が半減
 1963年1月の三八豪雪による高校の屋根の除雪で腰痛になって55年になる。
年に数回、腰骨が横にづれた状態になり、鈍痛が半月ほど続く。3〜4年に1度は
脂汗が出るほど重症になる。その都度、ホッカイロで温め、腰痛ベルトを装着
して治してきた。500mほど先に出来たスポーツジムに週に5日間、通いだし7年に
なるが、当初の3年は、逆効果で悪化したが、二年前からサプリ効果が加わった
のか鈍痛が半減している。 椅子に長時間、座り続けるのが腰痛には良くないが、
現在、書斎コーナーに4〜5時間は座り続けても大丈夫。一月半ばの大雪の中で、
10日ほど連続して1〜2時間程、駐車場の入り口の除雪をしたが、腰痛が出ることは
なかった。 数年前からみると、信じられない状態である。9年前に大学の10年に
1度の同期会の時、酷い腰痛に、腰を屈めながら強引に上京をした。その時に、
本気で腰痛対策に取組むと決意、布団上や、居間の座布団、椅子の上に、低反発
マットを設置したり、海老反りマシーンや、マッサージ機を買って、施術したり、
SJに通い、ストレッチや、ヨガを取入れり、サプリのをセサミンを飲んだり
した総合効果が出てきたようだ。家内に常日頃、腰を屈めた姿を揶揄われて
いたが、「ホッカイロと腰痛バンドはしないし、腰の曲がりが無くなったし、
別人のよう」と… とはいえ、腰痛は、何時なんどき出てくるかしれない難敵。
 あと一月足らずで、早朝のポタリング(ミニ・サイクリング)が始まる。
これも腰痛の大きな要因。ゴールデンウィーク直後に、疲労が溜まって鈍重が?

・・・・・・
5829,閑話小題 〜しまった! ー 視点の変更から考えるー 16
2017年03月01日(水)
   * 視点の変更で考える
 この本で、「ローソク問題」が紹介されている。考えたものである。
箱入りの画びょうと、箱を分ける発想に考えに至らない。思いつくのは極、
一部の人たちだけ。人生も似ているところがある。手持ちの材料の再点検を
して、使い方を考える。考えて考えて考えて、無い知恵を出す。そして、
「機能的固着」に気づいて、一歩外に出て、視点の逆転をする。役割における
「機能的固着」は、私たちの人生を牢獄にする。それが… ある日、突然に、
『さあ、自由に羽ばたきなさい!』と、不要物として、放り出されたとしても、
成す術が出来てない。 〜以下は「ローソク問題」ネット検索で調べた内容〜
《 …心理学者のKarl Dunkerは、ある実験をした。
 被験者に図を見せて、ロウソクと、マッチと、箱一杯の画びょうがあります。
テーブルに蝋がたれないようにロウソクを壁に取り付けてくださいと尋ねた。
被験者たちはなかなか正解に辿り着けない。この問題は、ちょっとした発想の
転換を必要とする(でも労力は要らない)、結構な難問なのだ。
 この実験では、もう一枚の図が用意されている。大きな差はない。
パーツは全て同じだ。でもその図では、画びょうが箱の外に出ているもの。
テーブルの上にあるのは、マッチと画びょうとロウソクと、箱。
これで同じことを被験者に求める。「テーブルに蝋がたれないようにロウソク
を壁に取り付けてください」こうすると、被験者たちは易々と正解に辿り着く。
もともとの問題が解けない理由は「機能的固着」のためだとされている。
人々は、画びょうが入っている‘箱’の存在に気がつかない。気がついても
その真の価値に気がつかない。箱の機能を無意識に固定してしまっている為だ。》
▼ 箱から画びょうを外に出した後に、内側から壁にとめて、土台にする考えに
 至るのは非常に難しい。そこで元もと外に出しておくと、直ぐ正解に辿りつく。
中村天風のカリアッパとの禅問答、『一度、コップの水を空にしてから、新しい
水を入れろ』の教えに通じる。私たちの日常生活でも、固定してしまった箱に
目を捉われ、その中身を取り出したり、箱そのものを他に利用しようとしない。
死を直前にした虚無の怖れに直面して、それまで縛られ、拘っていた固着に
初めて気づく。そして、独り、『しまった!』と嘯くのが人生の常。そして、
般若心教を急ごしらえで学ぶことになる。それさえ極、一部だけ。
そこで、ドリップアップをした向こう側からの逆転の視線が必要となる。
 
・・・・・・
5464, 『中村ウサギー他者という病』 ー2
2016年03月01日(火)
   * 自殺未遂の顛末
 彼女が書くと、いまいち、シリアスに感じられないのは何故?
自殺をしようとする時には、何か夢うつつの思考ゼロの状態というから、
当人が後で書いた内容は、軽いタッチになるのか。それは、死刑執行直前に
助かったドフトエフスキーのとはチョッと違う。死刑のそれはと、著者の
死にたい気持ちは違う。 〜内容は、あまりにもシリアスである。
≪ 死にたいと思ったことは、それまでにも何度かあった。が、
足が立たないのでタオルを取りにひとりで浴室に行くこともできない。
「身体が不自由だと自殺もできないのだな」と、薄く笑って諦めた。
しかしここ最近、私の身体はめきめきと回復して、家の中なら自分の足
で歩けるようになった。だから、「もう死ねる」と思ったのである。
 まず浴室に行ってタオルを取って、首に巻いてドアノブに結び付けた。
だいぶ回復したとはいえ、まだまだ身体が思うように動かせないので
腕もよく上がらず、ドアノブにタオルを結び付けるのはひと苦労だった。
 ようやく結んで体重をかけたら、レバー式のドアノブだったために
タオルが滑り落ちてしまい、失敗に終わった。 これは、いかん。
息を整えて、もう一度トライした。今度はドアノブから滑り落ちないよう、
しっかりと結んだ。足に力が入らないので、このような作業を中腰で行なう
のは、なかなか大変だった。
 それでもなんとかタオルを結び付け、腰を下ろす要領で体重をかけた。
気管が圧迫されて、うめき声ともつかぬ奇妙な音が聞こえてきた。
私の喉から出ている音だが、聞いたことのない声だった。顔面が充血して
くるのがわかった。そして、ものすごく苦しくなってきた時に、つい
身体がもがいてしまった。するとタオルがほどけて、またしても
失敗に終わった。人間の理想の死に方は、やはり「急死」であろう。
 自分でも死んだことに気づかないほど突然死ぬのが一番だ。
私はそのチャンスを逸してしまったので、次に死ぬ時は大いに苦しむ
羽目になる。自分で死ぬのは、思いのほか、難しいのだった。
これなら、入院中に心肺停止した時のほうが、ずっとラクだった。
呼吸停止の時だって、こんなに苦しくなかったし。≫
▼ 女流無頼漢作家としての彼女の文章は、シリアスだが引付けられる。
 それが自殺の場面では、こうなるのである。死刑になるまでの
心の風景を書いた手記を読んだことがあるが、それは、恐ろしく
リアルの内容だ。ガン末期で、死期を悟った時の恐怖も同じだろう。
それにしても、骨太の人である。
・・・・・・
2015/09/12
「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー?
      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 女とは何か、の問い
 女の自意識のねじれと矛盾の言語化を何とアッサリと表現するとは驚き。
これは男も似ているが、受身である点で大きく変わってくる。 確かに、
「人間的価値」より、「性的価値」が「商品価値」として、優先するため、
それを高める化粧品や、ファッション衣料が売れている。プロの作家の
言語化は、流石である。  〜その辺りから〜
≪ 私とは何かという問いから始まって、人間とは何かを突き止めたかった。
 そしてまた、人間とは何かを考えているうちに、女とは何かという問題にも
突き当たったのである。私は自分を女という主体として捉え、その「私」は
「人間」であり「女」であると当たり前のように考えていたのだが、そもそも
「人間」であり「女」であることの定義は何なのか。 特に「女」という性別
に生まれてきたことで、自分が「欲望する主体」であると同時に「欲望される
客体」であり、そこに快と不快の両方が混在するアンビバレントな存在である
という認識を持ったのである。 
 男から一方的に性的欲望の標的とされるのは、私の心に支配への恐怖や反発
を生じさせる。若い頃、夜道を見知らぬ男に付け回されたり電車の中で痴漢に
遭ったりするたびに、私は自分が常に男から性的な視線で見られており、
しかも彼らは私の意思とは関係なくその欲望のはけ口として私の身体を使う
つもりなのだと感じた。それはまるで自分が人間ではなく物のように扱われて
いるかのような屈辱感と、彼らに力ずくで欲望の餌食にされるのではないか
という恐怖感を、私にもたらしたのだった。
 が、その不快さの一方で、私は男たちに求められることにナルシスティックな
快感を覚えることもあった。年を取って男たちに相手にされなくなってくると、
自分の価値が暴落したような気分になっ、た。それは決して私の「人間的価値」
の暴落ではなく、あくまで「性的価値」の問題に過ぎないこともわかっていたが、
しかし女の場合、「性的価値」は「商品価値」と密接に結びついているため、
まるで自分が価値のない商品に成り下がったかのような悲哀を味わったのだ。
 男たちに「性的道具」のような「物」扱いされることに怒りを感じながらも、
自分の価値を「商品価値」と捉えて「物」扱いしてしまう… その矛盾が、
理屈で解消されるものならまだしも、生理的な「快・不快」感と結びついて
いるため、よけいに始末に負えない。どんなに理性が「こんなものは根拠薄弱
で非論理的な感情だ」と結論づけたところで、やっぱり心は傷ついてしまうのだ。
それが人間というものではないか。
 私はこの「女」という生き物の自意識のねじれと矛盾を、自分の体験や感覚
を通して言語化しようとしてきた。私を、そして女を、「言葉」で再構築し、
人々に届けたいと願ったのだ。そのためならデリヘルでも何でもやった。
それがどれだけ世間から白い目で見られるかも承知していたが、それでも
「知りたい」「言語化したい」という欲求のほうが遥かに強かったのだ。 
 世の中の「自分がわからない」と嘆く女たちに、「女がわからない」と
ぼやく男たちに、私は自分の言葉を届けたかった。
諸君、我々は「主観」という濫の中から抜け出せず、互いに他者を理解し得ない
まま、閉鎖的な脳内世界の中で孤独に、生きている。だが、その隔絶された
各々の世界を繋ぐのが「言葉」なのである。だから私は「言葉」を諦めない。
それが私と他者を繋ぐ唯一の絆なのだから。 ≫
▼ 抜粋の文章をカットしようと上記を読み直すと、それが辛い。言葉に魂が
乗り移っているためである。ここまで書ければ、本望だろうが、それだけ傷が
深いのである。「言葉」に魂が乗り移ったのを「言霊」というが、成る程!

・・・・・・
哲学について
2015/09/11
「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー?
      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 自分とはいったい何者なのか?
 世間を馬鹿にしているところが、いやに同調できる。『閑』という字が
ある。門の中に木がある状態、その木を己とすると、『独』の状態。
それを自分の中で守ってこそ、自分と他者との分別が可能になる。それが、
出来てない、他人志向的傾向の強い人たちを世間様と定義つけている。
 大方八割?の、世間にまみれた人たちに揉まれ、そこで、己とは何者なのか
を自覚するのは、並大抵でない。世間を見下しながら、そこに依存をするしか
ない己の心情を、以下で明晰に表現している。 〜その辺りから抜粋

≪ 自分もまた俗世間を馬鹿にしており、誰よりも高みにいる気でいたわけだ。
 なのに、そんな自分が世間から排除されたことにこれほどまでに傷つくとは!
私のこれまでの世間への侮蔑は単なるポーズに過ぎなかったのか? それとも、
私が世間を拒絶するのはいいが、世間が私を拒絶するのは許せない、と、
そういう理屈なのであろうか? 
 おそらく、そういうことなのだろう。 私のとどまるところを知らぬ
ナルシシズムは、自分を高い高い場所に押し上げ、超然と世間を見下ろして
いるつもりだった。なのに、その下々の世間から「おまえなんかいらない」
と言われたことで、私は激しい屈辱感を味わい、同時に、自分がずっと見下して
きた世間からの評価をいかに必要としていたか、強烈な痛みとともに思い知った
のである。これほどまでに尊大にして卑屈な人間を、私は他に知らない。
私は己の愚かさに呆れ果てているが、それは自己卑下と-か謙遜とかいった
ものとはまったく別の次元のものだ。
 私はいったい何者なのだろう。この問いに、またもや私は立ち返る。
何度も自分に問いかけ、一度も答えを得られなかった問いだ。これからも
たぶん、答えなんか見つからないに違いない。その答えを見つけるには、
私はあまりに己を知らな過ぎるのだ。 私は何者なのかを突き止めることが
私の人生の大命題なのだとしたら、これはもうきわめてパーソナルなテーマ
であるから、世間から承認されたり評価されたりする類のものではあるまい。
 私がその答えを見つけたとしても、誰の役にも立たないからだ。
 ならば、私は世間から排除されようが拒絶されようが痛くもかゆくもない、
ということになる。人がどう思おうと、私は自分のテーマを変えるつもり
はない。私は私にしか興味がないのだ。
 そんなふうに考えたら、なんだかちょっと気が楽になってきた。
おそらくこれからも私は態度を改めることなく、世間を馬鹿にし続ける
だろうし、そんな世間から許しをえたいとも思わないからだ。
世間が私を必要としなくても、私が私を必要としている限り、私は私の
ために生き続ける。それがどんなに傲慢なことかわかったうえで、あえて
そういう生き方を選択する。
 このように私が世間と隔絶した場所で生きようとすることと、私が本気の
言葉を諦めずに人々に投げかけ続けることは矛盾しているように思われるかも
しれない。が、私が言葉を投げかける相手は、決して「世間」ではない。
 私が言葉を届けたいのは、わざわざお金を払ってまで私の文章を読んで
くれる人々だ。その人たちの心に何かが届けばもうそれ以上は望むまい。
私はずっと「私とは何者なのか」という問題に拘泥し続け、その答えを得る
ためになりふり構わず生きてきた。「私」を解析することで、広く「人間」
というものの核心に迫れるのではないかと思ったからである。
 私は「人間」を知りたかったのだ。 私とは何かという問いから始まって、
人間とは何かを突き止めたかった。・・・ ≫
▼ 現在の、私の心情に、重なる部分が多い。数十万人?に向けて書く
 内容だから力が入りようが自然と違ってくるのだろうが、この湧き出て
くる力は、心拍停止から蘇った経験があればこそ。そう、4年前の一連の
出来事が、『脱皮』だったことを、彼女の脱皮した文章から、自覚した。
 『脱皮』といえば、51歳の時、母親を見送って、さて如何するか?
と考えたとき、還暦までに、死ぬまでの大よそ30年分のしたい事を
可能な限り、やり尽くすと決めた。 その時も『脱皮』であった。
だから8割?の有象無象を無視できる! 人生、良いように出来ている。

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 

   今日のYoutube

 全国的に寒冷前線が覆ったためか、寒さが残る。
もう木曜日、変わりばえの無い日々のためか、光陰矢の如しである。

 


 




・・・・・・・
・・・・・・・

5099,悪夢の21世紀 ー4
2015年03月01日(日)

   * 「ニヒリズムに落ち込む世界」 ~④
  20世紀にソ連、中国と、科学的ユダヤ教にカタチを整えた社会主義も、
 現実社会では通用しないことが実験の結果分かった。そして21世紀。
スマフォなどの情報機器とネットの普及で、情報格差が無くなりつつあるが、
そこは情報コントロールがきかない世界。混乱は、日々、激しくなっている。 
(7・B )≪ しかし実際にアメリカには色々な側面がある。
 「自由」と言いながら 結構「規律」は厳しく「国家の力」も強い。
 「民主主義」と言いながら「差別」もかなりある。「平等」を唱えながら
 大きな「所得格差」がある。「個人主義」や「自己責任」と言いながら、日本
 などよりは、はるかにコミュニティーやボランティアが発達し、キリスト教
 影響の強い宗教大国。だから、アメリカといって単純に一括りには出来ないが、
 ここで言うのは、「近代主義の福音」を使命としているのがアメリカだった。
 この近代主義の福音は、< 自由や民主主義の確立、市場経済の拡大、絶え間
 ない技術革新により、人は一層大きな幸福を手に入れることが出来ること>
 であり、「聖書の福音」に代って、現代ではこの世俗的な福音が新たな宗教に
 なった。アメリカこそがその伝道師の役割を買って出て、今日、世界中の
 かなりの人々 が、この福音を信ずるようになった。
 アメリカは、この世俗的な福音によってグローバル化を徹底して推進。
( 8 ) その帰結はどうだったか? 最終的な答えは出ていない。
  アメリカの歴史観、例えばフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』では、
 いずれ、自由や民主主義、人権思想、市場経済などが世界化して、そこで
 「歴史は終わる」はずだった。市民革命によって市民の自由や平等が確立し、
 第一次大戦によりドイツやオーストリアの皇帝主義が排除され、第二次大戦
 によりファシズムが打倒され、冷戦によって社会主義が葬り去られた。
 その後の対テロ戦争イスラム過激派との戦争に勝利すれば、自由、民主主義、
 市場経済などの理念は世界化し、「歴史は終わる」はずだった。≫
▼ 世俗的福音で、世界は平準化されるはずだった21世紀が、我々の目の前に
 姿を現してきた。20紀はイデオロギーの戦いで、数千万の人民が虐殺された。
 それを踏まえた21世紀は、比較的安定した時代を予測していたが、それは
 幻想で、現実は、もっと激しいイスラム原理主義と、キリスト教原理主義
 壮絶な争いの様相で始まった。人類滅亡の可能性すらありえる様相である。
・・・・・・
4734, 心を上手に誘導する方! ー3
2014年03月01日(土)
      「心を上手に透視する方法 」トルステン・ハーフェナー (著)
  *「凄くプライベートのことを質問してよいですか?」
 この本にあった、人の心を惹きつける一言「凄くプライベートのことを
質問してよいですか?」である。同じ質問でも、この一言を置くと、質問された
相手も、周囲もエッと注目をする。たったこれだけで、である。
「あなたの趣味は何?」というより、「凄くプライベートな質問だけど、
あなたの趣味は何ですか?」と聞かれれば、エッと思ってしまう強烈な添え
言葉が、これ。「凄くプライベートのことだけど、(間をおいて)昨日、偶然
入ったラーメン店が大当たりで・・」というと、ありきたりな話でも、凄く
プライベートの話を聞いてしまった気持ちにさせる。
「凄くプライベートの質問だけど、どうして、そんなに綺麗なの?」と、
今度、誰かに言ってみようか? 冗談だが。ところで「凄くプライベート
のことだけど、私、堀井さんのファンなの」と、言われたことがある。
当人にフィアンセがいたので、気楽に言ったのだろうが。その時は何とも
思わなかったが、40年以上の年月が経った現在、この一言を、これを書いて
いて、遠い記憶の底から湧き上がってきた。当時、失意のドン底の時だから、
少し光っていたのだろう。今度は、その引き継ぎで、若い女性にでも言って
やりたいが、若い時分に若い人に言われたから良いのであって、この年齢だと
誤解されかねない? スポーツジムか、趣味の会で、誰かが突然、
「凄くプライベート・・」と前置きして、「貴方の趣味は何ですか?」と
聞いてきたら、〈よくぞ聞いてくれた(内語)〉と、勿体なぶった上に、
喜んで話すはず。 まず秘境ツアー、ブログ、週一のシネマ通い、そして
ポタリングに、酒の失敗談にと材料は幾らでもある・・ 
 とすると、ブログで毎日書いているのが実は、これ。だから見る方から
したら面白いのだろうが、結局は自慢話?それを知っているから、書く方も、
偽善より露悪、いや偽悪の内容になっていく。でも、それが自分の心の傷を
癒やす? ところで、凄くプライベートのことを質問してもよいですか?
・「あなたは、何ものですか?」
・「何で、ここにいるのですか?」
・「いま現在、充実してますか?」
・「自分の人生、肯定できますか?」
・「今の答えは、本当ですか?」     
 これを何度か、考えてみると、底の浅い自分の心が透視できる!
・・・・・・・
2003年03月02日(日)
 697, ルーツー2(縦人脈)
  ーその資料によると
 先祖を遡ると「平家の侍」であったが「源平の戦」で負けて、落人となって
富山から上越と逃れてきた。そして「上杉家の家来」になった。上杉謙信
時代、上越の高田の先にある新井市の郊外にある「鮫ヶ尾城」という出城の
城主であった。謙信の死後、跡目相続の争いの「お館の乱」に巻き込まれて、
小千谷の郊外の片貝の近くの「池津」の村に知人を頼って逃れてきたという。
その時の先祖の名前が「堀井宗親」と「堀井四四太郎」という。
一緒に逃げてきた名前が馬場、小黒、大矢とか。その後、そこで百姓をして
いたようだ。ルーツというほどのものではないが、平家・上杉という流れと、
関西ー富山ー新井ー小千谷ー長岡の流れがある。また、武士ー百姓ー商人と
いう流れも時代によって変わってきている。金沢にいた時(25歳)によく
いった店が落人焼きの「平家」であった事を思い出した。
また第二新館の鉄骨が富山の「堀井鉄工所」であった。その検査に富山に
行った時に会った社長は正しく「堀井ヅラ」。その時入った食堂の電話帳で
堀井の名を調べてみたら、三桁に近い堀井の姓があった。上越市も新井も
小千谷も本当に多いのだ。長岡は10あるかないかで、新潟市では数人だけ。
20年近く前に家内と子供と、ドライブがてら鮫ヶ城に行ってきた。
車を止めて独りで歩いて城跡に行ったが、そこに立った時に何ともいえない
気持ちになった。何か昔の記憶が沸き立ってくるようなフワ?という感覚で、
何かオーラに包まれたような気分である。この気分は柏崎の「極楽寺
に行った時に同じ気分になった事があった。そこで亡くなったある僧の墓を
訪ねた時だった。人間の脳には全く知られてない領域を感じた瞬間であった。
家のルーツ探しから500年ー1000年スパンの鳥瞰ができたのが最大の
収穫だ。それと「自分とは何か?」を考える一つのヒントになったことだ。
・・・・・・・・・
2002年03月02日(土)
347,心の陰
 人を指さしたとき、他の指は全て自分のほうを向いている。
人を非難するのは、結局自分の影を非難しているに過ぎないことをいっている。
「他者認識は不可知」という論がある。ー他人のそれを認識はできない、認識
したらもう他者のそれでなく自分のそれを認識しているに過ぎないー
これが理解できるかどうかで、「人生に背負っている人間関係の重荷」が
半分か三分の一に軽減する。特に「嫌いな人間」に対して「自己の嫌いな部分」
をみているにすぎないからである。自己脱皮のできない「子狐」どもを嫌って
いるのは、今でも脱皮できなかった自分の部分を見ている。
自分もその「子狐」で、少し程度がいいだけだからだ。
私の嫌いな「教養のないオバサン」結局教養のない現実志向も、
自分のある一面であるからだ
・・・・・・
3993, 閑話小題 
2012年03月01日(木)
  * ペットのインコ
 雀ぐらいの大きさのルリハインコのピーが我が家に来て一年あまりになる。 
前のインコの存在感が大きくケタタマシかったので、今度は小さな大人しい
インコにした。 とにかく可愛い。少し攻撃的だが人懐こく、常に鳴き声で
呼びかけてくる。そこでガラス越しのベランダに目をやると、止り木で
デスプレイの連続回転を続けて7~10回はする。とにかくかまって欲しい
ようだ。前のインコを風邪で死なせたこともあり、この越冬は注意しているが
何とか越えそうだ。 ペットも家族に同化してくると心があるのが分かる。
カゴを置いてあるベランダにはサッシの囲いがあり外気とは一応遮断されて
いるが、それでも殆ど寒さは変わらない。障子を開け姿がみえている時は
大人しいが、閉めると騒ぎ出す。二日か三日に一度はヒステリックが起き、
狂ったようにカゴの中で飛び回る。本来なら餌を求めて森を飛び回っている
のが、小さな空間に押し込まれ、飽食なら、さもありなん。
   * 「貯蓄ない」世帯、過去最高の28・6%
 ネットのニュースに、次のような記事があった。
【 金融広報中央委員会が22日発表した2011年の「家計の金融行動に
 関する世論調査」によると、2人以上の世帯で「貯蓄がない」と答えた
 世帯の割合が28・6%に上り、調査を始めた1963年以来、過去最高
 となった。 貯蓄の平均値は1150万円で、前年より19万円減った。 
 人々の実感に近い中央値(答えた世帯の中間の値)は前年より80万円
 少ない420万円だった。貯蓄残高が1年前に比べて「減った」世帯は
 40・5%で、「増えた」世帯(21・3%)の2倍近くになった。
 減った理由は「収入が減ったので取り崩した」が43・3%で最も多く、
 景気減速が家計に大きな影響を与えている。調査は11年10~11月に
 全国8000世帯を対象に訪問と郵送で行い、回収率は47・5% 】
▼ 家電などの一般ローンと住宅ローンの残債もあるので、実際の家計は
 苦しいはず。平均値と中央値の大きい乖離は、老齢化した金持ちに預金が
 偏っているため。 世代間格差も、今後ますます広がる傾向にある。
 失なわれた20年で、急速に家計が苦しくなった実感がヒシヒシと伝わる。
 二人以上の世帯で貯蓄ゼロが三割、中央値が400万は厳しい。
 持家があっても、資産価値が暴落ときたら、家計をしめるのは自然の理。
 それに地震列島が大きく歪んで動き出したときたら・・
・・・・・・・
3627, 「生きがい」について
2011年03月01日(火)
「生きがい」という言葉を最近、以前ほど聞くことが無くなったが、
私の学生時代は「生きがい論」ばやり。「この子は、私の生きがいなの」と
母親が子供に対していうケースとか、趣味に没頭している時などに対していう。
「現在している仕事に生きがいを感じない」と聞くこともある。この不況の
中では生きがいより、食べていく方が優先される。やはり生きがい論は経済
成長の時代にあっている。 「生(活)きている、かい!」ということ。
*この子が生きがい、という時は、この子の幸せのため骨身を削って
 働いている時にいう。自分の子供、家族に献身している幸せである。
*夢や希望に向かって没我をしている時にも「生きがい」という言葉が出る。
 両者とも未来に向っている時の充実感がある時である。 
 また、そこに価値=意味を感じ取ることが出来る時に「生きていて良かった」
 「生きている価値がある」と思うのである。 
ところで、「生きがい」という言葉は、日本だけの特有の言葉という。 
哲学は人生の意味、価値は論じるが、それを主体的に感じとる
「生きがい」は、日本人特有のもの。ネット辞書には、「生きるに値するもの。
生きていくはりあいや喜び」とある。「生きるに値するもの」とは、対象の中に
見出すことだから、まず自分の価値を見定めていなければならない。
そのためには時間をかけエネルギーを注いで、多くの困難を乗り越え満足
出来た結果、心の底から「生きがい」が生じる。従って、若い人が
「生きがいを見出せない」というのは、当然のことで、それほど薄っぺらなもの
ではない。しかし若いうちから「生きがい」に足る目標、対象を探すことは必要。 
基準は好きになれるかどうかである。何ごとも無我夢中になれる対象に
向かっていけば、それが生きがいになる。
 ・・・・・・・・
3262, 久々のジョーク -8
 2010年03月01日(月)
* レストランで財布を落とした男「千ポンド入りの財布を落とした。見つけた
  人に百ポンドはらうぞ!」というと、奥のほうから「俺は二百ポンド払う!」
* 教会での結婚式に参列していた小さな男の子が小さな声で母親に訪ねた。
「ママ。あの女の人ドレスはどうして白いの?」
「白いウェディングドレスは,幸福の色なのよ。人生で一番幸せな日に着るの」
「フーン」男の子はしばらく考えて,また聞いた。
「じゃ、ママ。なんで隣の男の人は黒い服を着てるの?」
*「ママ、新婚旅行って何?」「結婚したばかりの男の人と女の人が一緒に
 旅行することよ」「ふうん、ママもパパと行ったの?」
「行ったわよ、とても楽しかったわ」「その時ボクも一緒に行ったの?」
「もちろん行きましたとも。「行きはパパと一緒に、帰りはママと一緒にね」
* A子が久しぶりに車を運転していた。 その時、母親が心配そうな声で
 彼女の携帯に電話を掛けてきた。「もしもし、A子?母さんよ。今どこ?」 
東名高速に入ったところ」 「東名高速!気をつけて!今ニュースで言ってた
 んだけど、そこを逆走してる狂った女がいるんですって。あなた見なかった?」
「見た見た!一台じゃないわよ」「え?」「さっきから何百台も逆走してるわ」
*「どうしたんだ?そんな暗い顔をして」「ああ…。実は俺、もうすぐ父親に
 なるんだ…」「本当か! おめでとう! でもなんで喜ばないんだよ?」 
「妻にまだ話してないんだ…」
* 週刊誌の人生相談のコーナーに、読者から次のような手紙が送られてきた。
「ボクは20歳の独身男性です。六ヶ月前から、誰が見ても魅力いっぱいの女性と
 同棲しています。彼女は美しくて、利口で、愛想がよく、かわいらしくて……
 僕たちはお互いに声を張り上げたことなど一度もありませんし、口げんかで
 二人を包み込む青空にかげりがさすなどといったこともありませんし、
 そこでお伺いします。僕は彼女と結婚するべきでしょうか?」 
回答者はただ一行、こう返信した。
「そんな素晴らしい関係を台無しにするのは、おやめなさい」
ー字数の関係でカット(2012年0301)
・・・・・・・・・
887,日本は輸出立国か?
2009年03月01日(日)
野口悠紀雄は、その著書で、
アメリカの金融立国に対応して、日本も円安に誘導して資金をアメリカに
供給し、かつ円安メリットを最大限利用し輸出立国をつくりあげた。
金融恐慌は日本も同罪である」と断じている。しかし統計の数値からみて、
果たして日本が輸出立国かという素朴な疑問が生じるのも事実である。 
他国のGDPの輸出比率をみてみると、意外なデーターがある。
・中国 37パーセント・韓国 37パーセント・ロシア 30パーセント
・欧州平均 50パーセントの数字。(中は大きなばらつきがあるが)
原油輸出国のクエート 56パーセント。他の産油国では90以上だろう。
 対して日本は 15パーセント なのである。間違いだろと思ってしまう数字。
 これからみると、日本は輸出立国と果たしていえるのだろうか。しかし輸入も
13~4パーセントがあるので輸出は必要である。
ー字数の関係でカット(2012年0301)
・・・・・・・・・・
2008年03月01日(土)
2523, 賢人の知恵 ?2
 面白そうなところを幾つか選んで、考えてみる!人間や、それを構成して
いる社会などは数百年経っても、簡単に変わるものではない! 人間は全て、
飯くって、?!して、寝て、死ぬのだからだ。    
ーー
“知恵を備えていることが最大の幸運であり、それがないことが最大の不運だ”
ー解ー 知恵は知識が醸成され出てくるもの、そうでないのは浅知恵。
“言葉は飼いならされてない野獣と同じ、一度解き放つと戻ってこない。”
 ー解ー 全く、これでどれだけ無駄をしてしまったか!
“第三者の悪口を言うのは、下手な駆け引きでしかない。”
“運のいい人を見分け、ついていない人からは逃げるに限る。”
“大事なのは知識より知人である。”
“落ちぶれた人とはかかわりを持たないほうがいい。”
“友人に貸しがあるなら、つまらないことで返してもらわないこと”
“うそをついてはいけないが、すべてを明らかにする必要もない。 ” 
 うそも方便だが、その方便がつけないから・・・?
“敬愛される立派な人と行動を共にしていれば、その威光のおかげで、
 こちらまで輝いて見える”と言う反面次の次のページで、
“「自分より光っている人は、・・相手の方が常に注目や栄光を集め、
 こちらはそのおこぼれにありつくだけだ。
 ・・自分より優れた人とではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと”
“平凡な人と付き合おう。自分より優れた人と一緒にいると自分が
 目立たないから。”など、矛盾もしている。
“みんなが王になれなくても、一人ひとりが王にふさわしい行動を目指す
 ことが可能だ”
 ー解ーこれが少し分かりかけたのが、最近になってから。神と言換えてよい。
“自分という作品を完成させようではないか”
 ー解ー この人は、牢につながれたのが完成か?でも、この方が素晴らしい!
”賢人は、何ごとも偶然はないことを知っている。ただし運命に身を任せるより、
 自ら運命を切り開いていく人になろう。よく考えればチャンスに敏感でいる
 こと以外に成功の道がないことがわかるはずである。”
 ー解ー 何がチャンスか、それを常に問いかけていないと敏感になれない。
“持てる資源を一度に使い切らないこと。今の境遇を保ちたいなら、後方に備え・
 蓄えを用意しておこう。失敗の恐れがあっても、利用できる援軍があれば力は
 倍になる。後方部隊は、前線より重要といえるだろう。彼らは信頼と不屈の
 精神で成り立っているからだ。常に大事をとることを考えよう。
 ー解)当時の彼に孫子を知るはずないが、孫子の兵法と同じことを述べている。
“人には七年ごとに転機があるという。これを精神向上のためのしよう。
 最初の七年は知性の誕生で、その後七年ごとに新しい美徳が輝いてあらわれる。
 この間に起こる変化を意識して、うまく手助けしよう。変化は新しい地位や
 仕事などの形でごく普通にあらわれるかもしれないが、かなり大きくなるまで
 気がつかないときもある。人は、二十で孔雀のように気どって歩き、
 三十で獅子のように吠える。四十で酪駝のように節制家となり、五十で
 蛇のような陰険さを身につける。六十はくだらない犬、七十はする賢い猿、
 そして八十は……、何も言うまい。”
 ー解)ーくだらない犬のとしになったか? それにしても辛辣である!