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2016-12-31

論文

NEU!カント共和制の諸構想と代表の概念」『社会思想史研究』第40号、2016年、60-79頁。

『永遠平和のために』(1795年)のなかで、イマヌエル・カントは共和主義的体制が人間の権利に適合した唯一の体制であると述べ、自らが決然たる共和主義の擁護者であることを示した。しかし奇妙なことに、同時にカントは、民主制は必然的に専制であり君主制の方が共和主義に合致するとも述べている。ところがさらにその2年後の『人倫の形而上学・法論』(1797年)では、今度は「真の共和制」は「人民の代表制」以外にありえないと断言される。いったいカント共和制や共和主義をどのようなものと考えていたのか。問題はこれにとどまらない。『法論』には真の共和制以外にも「純粋共和制」や「設立された共和制」が登場するのである。これらはそれぞれ何を意味し、どのように区別され、また関係しているのか。

本稿が示すのは、このように相反して見える言明の根底には、しかし首尾一貫した共和主義の原理があるということ、またこの原理を分有する共和制カント複数構想しているということ、これである。究明にあたって見逃せないのは、共和主義が代表制と関係付けられている点である。『永遠平和のために』によれば共和主義は執行権を立法権から分離する原理、すなわち代表制をもつ統治形式である。他方RLによれば真の共和制人民の代表制である。だが、これら代表制の解釈もまた厄介である。後者は前者と異なり、代議制民主主義立法の代表議会を意味していると一般に解釈されてきたのだ。このように共和制や代表制について混乱を招く状況にあって、我々はカントの国家の理念がもつ基本的な原理を基準にし、また同時代の言説を参照することで、これを打開する手立てを得たい。

第1節では、体系的に国法が論じられる『法論』において国家の理念の基本原理を確認する。三権の特殊な組織と法律の正義という二つの原理によって構成された〈理念における国家〉は、純粋共和制と呼ばれる。第2節では、この二つの原理にはそれぞれ、権力の分立-代表と法律による一般意志表象という代表概念が含意されているということを、同時代の言説に照らしながら理解する。これらを代表概念として理解するには説明が必要だが、いずれにせよ通説に反してカントの共和主義における代表概念は立法の代議制とは直接は無関係である。最後にこれらの理解を踏まえ、『法論』52節に登場する複数の共和制の構想を弁別する。カント理念と対比された〈現象における国家〉において目指されるべき共和制を3つの類型(共和主義的統治・真の共和制設立された共和制)によって示している。近年、カントの共和主義は注目を集めつつあるが、理念としての純粋共和制とこれら現象における3つの共和制の区別と関係を包括的に整理したものはいまだ見当たらず、特に設立された共和制はその存在自体が看過されてきた。しかし、カントは純粋共和制という理念だけでなく、現実において実現可能な共和制を段階的に構想している。これが見逃されれば、我々はカントを現実離れした夢想家と誤認してしまうことになるだろう。


「カントと許容法則の挑戦:どうでもよいこと・例外・暫定性」『法と哲学』創刊第1号、信山社、2015年、133-165頁。(pdfが開きます)

歴史と自然――カントの歴史論における政治的啓蒙」『相関社会科学』第23号、2014年、3-14頁。(pdfが開きます)

政治・道徳・怜悧――カントと執行する法論」『政治思想研究』第14号、2014年、356-384頁。

カント歴史論における統治批判と自然概念――ヒュームスミスとの比較を通して」『社会思想史研究』第38号、2014年、66-85頁。

2016-12-03

読書日記 『カール・マルクス――「資本主義」と闘った社会思想家』佐々木隆治

マルクス主義ではなくマルクスへ還れ、という標語でさえ陳腐なものになってしまう思想家マルクス内田義彦『資本論の世界』や廣松渉『今こそマルクスを読み返す』といった新書もあったことを思い出したりする(疎外論から物象化論へというフレーズも今や途方もなく懐かしく感じる)。本書は最新の草稿研究にもとづいた研究で、特に未完に終わった資本論の第二巻や晩年のマルクスのエコロジー論、共同体論、ジェンダー論を論じている点に特色がある。『資本論』の要点、とりわけ価値形態論を正確に理解させてくれるのも良い。

晩年のマルクスは自らが定立した史的唯物論の法則性から漏れ落ちる現象があることを認めていたようであり、農村共同体も抵抗の拠点となりうるということを示唆していたようだが、そうだとすればマルクス以後に登場したマルクス主義の分厚い積み重ね(ポパーに歴史主義と呼ばれて批判されるような)が一挙に崩れ去りそうな気がして(例えば日本資本主義論争や日本の市民社会論など)やや虚しさを感じた。

マルクスの書くことのいちいちが非常なアクチュアリティをもって迫ってくるような現実があるということは不幸なことだと言わなければならないが、『資本論』草稿の次の一節などは、新自由主義的な統治における主体形成の問題を示唆しておりとても興味深い。

奴隷はただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の存在(…)のために労働するのではない。これにたいして、自由労働者は自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識(またはむしろ表象)やそれと結びついている責任の感情(意識)は、自由労働者奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。なぜなら、彼はどの商品の売り手もそうであるように、彼の提供する商品に責任を負っており、また、同種の商品の他の販売者によって打ち負かされないようにするためには、一定の品質で商品を提供しなければならないからである。

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

2016-11-24

こんな風にして民主主義は終わるのか/デイヴィッド・ランシマン

ケンブリッジ大学政治学者デイヴィッド・ランシマンの大統領選挙に関するエッセイの翻訳です。

センセーショナルなタイトルですが、これはいわば反語で、ポール・クルーグマンが言うようには、アメリカは失敗国家になったのではないというわけです。ランシマンの見解としては、国家の基本的な制度上の仕組みによって、ブレクジットもトランプも、結果が温和なものとなるだろうというものです。ブレクジット派もトランプ派も、自分たちの選択によって本当に国家を生まれ変わらせるような破滅的な結果になるわけではないと思っているどころか、国家が自分たちの選択の打撃を吸い取ってくれる、その破滅的になったかもしれない帰結から自分たちを守ってくれる、そう思っています。彼らがそうした選択を行ったのは、単に国家を懲らしめてやろうというそのような思いからだけだ、というのです。ブレクジットを選択しようが、トランプを選択しようが、現状は何も変わらないと分かってはいるが、にもかかわらずブレクジットを、トランプを――一抹の期待を込めて――選択してしまう。が、変わってほしいはずの国家が備えている基本的な制度設計によって、そのような変革は生じないし、ありうる危険も温和なものとなってしまう。こうしたことは、日本では(違う形ではあれ)大澤真幸が言っているように、アイロニカルな没入として理解できるかもしれません。ランシマンによれば、しかしこうした振る舞いが続けば、民主主義の基本制度は疲弊し、破壊されてしまいかねない、というのです。ポジティブな処方箋が提示されているわけではないですが、冷静な分析として、あるいはこうした「危機」のイギリスにおける経験者として、興味深いものがあります。

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選挙の夜、考えることのできないことが冷淡な現実となったことが明らかになってから程なくして、ポール・クルーグマンアメリカ合衆国は今や失敗国家(failed state)なのかとニューヨーク・タイムズ紙で問うた。たいていはアメリカ民主主義だけを見事に切り離して研究している政治学者は、アフリカやラテンアメリカに注意を向けはじめている。彼らが知りたいのは、権威主義選挙勝利し、民主主義が何か別のものに化けたとき、何が起こるのかということだ。テロリストを家族もろとも殺すと誓ったあのデマゴーグは、自分の家族とともに大統領官邸へと引っ越す途中である。彼が職に就く前でさえ、彼の子どもらは権力の座に種をまかれつつある。彼はテレビの中、金ピカに飾って登場し、妻はその脇、三人の子供はその後ろに整列し、パパが与えてくれるものを受け取る準備をしている。また、彼はツイッターに戻ってくると、今度は勝利を盾にして言いたい放題、新聞雑誌の論敵に食って掛かる。十歳の息子は参加するにはまだ若かったが、選挙の夜は父の側に立っていて、懐柔の意図の明白な勝利演説をトランプが行っているとき、我々の誰よりもボオっとしているようだった。懐柔の言葉の後には統治機構に対する淡々とした個人的評価が続き、子どもらはそのあいだ列席していた。このようにして民主主義は終わるのではないだろうか。

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2016-11-22

読書日記 『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング

アイリス・マリオン・ヤングの遺作。社会的な不正義の構造を特定する必要性から説き起こし、その構造を正義にかなったものへと変革する政治的責任がいかにして分有されうるし分有されなければならないものかを論じていく。正義への政治的責任というカテゴリーを、ヤングはアレントの罪と責任の議論から取り出してくる。序文のなかでマーサ・ヌスバウムが論じているように、ヤングの責任の概念化にはいくらか曖昧なところがあるし、もっと詰める必要はあるかもしれない。しかし、印象としては、非常に説得力がある。不正義な人を弾劾するのではなく、不正義の構造を変革すること、そのために何が可能なのかということを具体的に論じているのも、説得性に貢献している。「動物化」(なんと懐かしい響きだろう!)した高度消費社会に生きて政治的無関心を貫く人らにさえ、正義に対して関心を持ちなにがしかのことをなすべき責任があることを強く論じるヤングの議論は、動物化して安穏と暮らしている人らが政治的に無関心で(つまるところ動物で)何が悪いのか、という不躾な問いにも答えられうるものだろう。ただし昔の僕であれば、なるほどと膝を打つことしきりだったのかもしれないが、今の僕にはやや高潔すぎる議論というか、強すぎるというか。こうした責任論はそれはそれとして、これを振りかざすことで果たして、当座(ヤングの言う)政治的責任を果たしていない人らが説得されるのか、その人らに訴えかけることができるのかという、効果の問題に関してはいささか不安なところがある。ヤングの議論をいっそうユニークなものにしている第6章「責任を避ける」で、彼女は政治的責任を避けさせてしまうエクスキューズの類型化を試みているが、彼女の議論の効果の点で、この責任回避の言い訳の分析はより深められうるかもしれない。

ともかくもヤングは徹底しており、それが極まるのは、構造的不正義の被害者となった人らにも、自分の陥った境遇を構造の問題として捉え返して、それを変革するために何かしらの行動をとる責任があると論じさえするところだ。こうした議論と例えば性的マイノリティのカムアウト/クローゼットといった問題は接続可能であるかもしれない。ただしruthlessという言葉を思い浮かべない訳にはいかないが。

2016-11-16

「嘆かわしい」マジョリティ?/ヤン・ヴェルナー・ミュラー

政治学者ヤン・ヴェルナー・ミュラーの大統領選に関する考察です。

ミュラーさんは、ワイマール体制カール・シュミットの研究のほかに、近年では『憲法パトリオティズム』という著作があり、最近では『ポピュリズムとは何か』という本を出版しています。

翻訳があるといいのにと思います。

What Is Populism?

What Is Populism?

Verfassungspatriotismus

Verfassungspatriotismus

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バラク・オバマが適切に述べているように、ちょうど結果が出たアメリカ合衆国大統領選挙の投票のなかに、デモクラシーそれ自体が存在する。しかし、ドナルド・トランプヒラリー・クリントンに驚くべき仕方で勝利した以上、我々は今やアメリカ人の大多数はアンチ・デモクラシーなのだと確知しているのではないか。クリントンに投票した人らはトランプの支持者に、そして新しい政府にどのように接すればよいのか。

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