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2017-07-30

論文

NEU!! 「カントの権利論」田上孝一編『権利の哲学入門』社会評論社2017年、103-117頁。

圧倒的充実の全20章です。権利の哲学に関する、ここまで包括的な書物は本邦初と言ってもいいのではないかと思います。全320頁、2700円。特に第?部の現代の権利論は、現代政治理論・現代倫理学議論が一渡り概観できる優れたものになっているのではないかと思っています。僕の論文では、あまり読まれていないカントの『人倫の形而上学』の法・権利の議論を扱いました。

目次

第I部 - - - - 権利の思想史

第1章 アリストテレス政治哲学における権利概念 - - - - 石野敬太

第2章 古代ローマにおける市民権自由 - - - - 鷲田睦朗

第3章 トマス・アクイナスにおける私的所有権 - - - - 川元 愛

第4章 ホップスの権利論 - - - - 新村 聡

第5章 ロックの権利論 - - - - 小城拓理

第6章 ルソーの権利論 - - - - 吉田修馬

第7章 カントの権利論 - - - - 網谷壮介

第8章 J・S・ミルの権利論 - - - - 小沢佳史

第9章 ヘーゲルの権利論 - - - - 荒川幸也

第10章 マルクスの権利論 - - - - 松井 暁

第II部 - - - - 現代の権利論

第11章 現代リベラリズムにおける権利論 - - - - 高木智史

第12章 権利基底道徳と権利の正当化の問題 - - - - 伊藤克彦

第13章 権利と潜在能力アプローチ - - - - 玉手慎太郎

第14章 プロレタリア想像力への権利 - - - - 入江公康

第15章 市民の権利 - - - - 斉藤 尚

第16章 国家は誰のものか? - - - - 近藤和貴

第17章 フェミニズムの権利論 - - - - 柳原良江

第18章 患者の権利 - - - - 勝井恵子

第19章 将来世代の権利 - - - - 永石尚也

第20章 動物の権利 - - - - 田上孝一

カント共和制の諸構想と代表の概念」『社会思想史研究』第40号、2016年、60-79頁。

「カントと許容法則の挑戦:どうでもよいこと・例外・暫定性」『法と哲学』創刊第1号、信山社2015年、133-165頁。(pdfが開きます)

歴史と自然――カントの歴史論における政治的啓蒙」『相関社会科学』第23号、2014年、3-14頁。(pdfが開きます)

政治・道徳・怜悧――カントと執行する法論」『政治思想研究』第14号、2014年、356-384頁。

カント歴史論における統治批判と自然概念――ヒュームスミスとの比較を通して」『社会思想史研究』第38号、2014年、66-85頁。

2017-03-11

最近頂いた本

Die Gesetzgebungslehre Im Bereich Des Privatrechts Bei Christian Thomasius

研究会とツイッターでお知り合いになった出雲さんから頂きました。ダブルドクターということで、ただただすごいなあと思います。しかも、クリスティアン・トマジウスの自然法論における私法論ということで、こちらも貴重な研究です。勉強いたします。

こちらは齋藤先生から頂きました。(不)平等という観点から現代政治理論を整理し、論点を明確にしている書物で、まだ第一部を読んだだけですが、果てしなく勉強になります。特に、抽象的な現代政治理論の紹介にとどまらず、現代の日本の政治状況(安全保障や原発、格差、レイシズムの問題)が論考の材料となっており、アクチュアルで刺激的です。参考文献リストも充実しており、まだ一般には膾炙していないであろう英米の最新研究も取り入れられているため、政治理論を勉強しようとする人には最適な一冊なのではないかなと思いました。

最近読んだ本:ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』稲葉振一郎『政治の理論』岡田与好『独占と営業の自由』

久しぶりに読んだ小説がこれで、満ち足りた時間だったといえばそうだったのだが、ウェルベックは一冊読むと、もうしばらく読まなくていいなという気分になりもする。ポスト・ヒューマンの世界というか、人間と欲望という重要な問題を扱っており、やはり構想力が鋭い。

政治の理論 (中公叢書)

政治の理論 (中公叢書)

稲葉先生のこちらは、共和主義を全面に押し出し、「政治」の理解を方向転換させようとするものとして、極めて興味深く読んだ。財産所有デモクラシーの構想とも言えるが、労使関係や資本主義の問題をまともに考察すれば(というか最新の経済史の考察を前提にしながら)、どのように「政治」を語ることができるのかという点で意義深い。西洋政治思想史における共和主義思想史にコミットする人は、僕も含めて、あまり現代資本主義の問題を見据えていないようなところがある(印象にすぎないかもしれない)。資本主義が生み出す格差や、新自由主義のもとに展開される人的資本論労働組合の破壊など、共和主義的な土台を掘り崩す諸論点が噴出しているにもかかわらず、だ。例えば、ネグリはかつて構成的権力を扱う中でハリントンに着目していたが、ハリントンは土地所有を基盤に共和主義を構想していた。共和主義的市民やあるいはアレント的な活動する市民・主体を可能にするためにこそ、ある種の再分配や労使関係の整備などが説かれる。

こちらは社研の岡田先生の圧倒的名著。独占禁止法は、自由主義に一見すると反しているようにみえる。法によって企業の自由な契約を規制するからだ。営業自由の貫徹は、当然、独占禁止法とは矛盾するようにみえる。しかし、実際の所、アダム・スミスら初期自由主義者は、反独占主義者とでも言えるものであり、王権によるギルドや特権の保護(という独占)のあり方を厳しく批判したのであった。自由な行為の結果結ばれる独占契約は、しかし市場という自由の秩序を破壊しかねない。つまるところ、消費者の選択肢を広げ、公正な価格でものを購入するという自由は、営業自由の帰結によって生じる独占と矛盾するが、しかし前者の自由の秩序のためにこそ後者の独占は禁止されるべきものだ、というのが初期自由主義の論理であった。その後、労働者の団結-独占が、今度は雇用者の営業自由と係争関係にいたることになるが、今度は自由主義は前者の独占を、労働者自由な労働のために容認するようになる。このように、自由主義というのは、単に国家の非介入ということではなく、一方の自由を保障するために、他方の独占を禁止したり、あるいはその逆、というように、社会の諸勢力や利害団体の葛藤に応じて、国家権力によって自由の秩序が保障されるべきことを主張する思想なのである。こうした岡田先生の見方は、日本の憲法学者との論争に至るが、例えば手元にある樋口陽一憲法』を見ても、自由な行為によって引き起こされる何らかの帰結が、全体としての自由の秩序を破壊しないように、それを規制する、という論理を用いていることが散見される。

こうした見方は、国家と自由/市場/私的領域の関係を再考するに十分な契機を与える。オルドー自由主義自由主義たるのは、国家が自由市場を構成するというモーメントを重要視しているからだ。彼らは、自由市場の保全のために、労働組合の組織なども必要だとさえ解くに至っている。新自由主義との比較に値する重要な論点

2016-12-12

マーサ・ヌスバウム:インタビュー「怒りはきわめて有用でもある」――右派ポピュリズムがどのようにして感情を利用し、また政治にはなぜもっと愛が必要なのか。

ドイツのZeit紙の大学生版に掲載されたマーサ・ヌスバウムへのインタビュー。政治と情念の関係について、いくつか語っています。ものすごくナイーブに聞こえますが、なかなかうーん。うーん。

哲学者マーサ・ヌスバウムは語る――右派ポピュリズムがどのようにして感情を利用し、また政治にはなぜもっと愛が必要なのか。

インタビュアー:ヌスバウムさん、あなたは正しい社会には愛が必要だと主張されていますね。感情(Gefühl)は政治的になりうるのでしょうか。

ヌスバウム:情動(Emotionen)はそれ自体では政治的ではありません。しかし、正しい社会には、正しい社会を、つまり良い法律と良い制度を愛する強く愛する人々が必要です。こうした人達がいなければ、全部ダメになってしまいます。

イ:それが愛なのだとしたら、寛容や尊重、連帯はどうなるでしょうか。

ヌ:それは極めて抽象的ですね。実際に互いに連帯するためには、人間は互いへの愛を知覚していなければなりません。税金を例に取ってみましょう。我々が税金を受け入れるのは、それを情念としても支持している場合だけです。

イ:人々に受け入れられようと思えば、目的に応じて情動を利用しなければならない、ということですか。

ヌ:マーティン・ルーサー・キングレイシズムのない世界を訴えた有名な演説を行った時、そうしたことをやってみせました。もし彼が「正義を達成するためには、平等に基づかなければならない」とそっけなく言っていたとしたら、彼は何も達成していなかったでしょう。

イ:ハンガリーのヴィクトル・オルバンやフランスのマリーヌ・ル・ペン、ドイツのフラウケ・ペトリーといった右派ポピュリストは、不安や怒りといった感情によって人々に訴えかけようとしています。政治において情念は危険ではありませんか。

ヌ:まさにドイツの人々は政治における情動を避けようとしがちなのかもしれませんね。ドイツの歴史では情動が誤った形で投入されてしまいましたから。しかしこれは無意味です。どうして悪い目的の手段に使われたからというだけで、強力な道具を手放さなければならないのでしょうか。

イ:感情によって選挙に勝つことはできるかもしれませんが、しかし良い政治はできるでしょうか。

ヌ:情動の中には思考が含まれています。たいていの場合、情動の問題に取り組む哲学者はここから出発します。私が不安を感じるときには、必ず私になにか悪いことが降り掛かってきそうだと考えているはずです。もちろん、良い思考と悪い思考がありますし、たいていの思考は非合理的です。

イ:つまり、良い情動と悪い情動があるということですか。

ヌ:情動は良いか悪いかのどちらかだ、ということではありません。もし自分の家族だけを愛するというのなら、それはあまり良くありません。自分の子供を愛することは簡単ですが、他人ならどうでしょうか。他人に自分のお金を分け与えなければならないでしょうか。しかしそれでも他者への愛が政治的に必要なのです。共感によって私達は同じ問題を共有します。多くの人にとっては、自分の近くにいる誰かへの共感しか感じないものですが。そこで決定的に重要なのが、情動の正しい使い方だということになります。

イ:不安についてはどうでしょうか。不安も有用になりうるでしょうか。

ヌ:愛や共感と同様に、不安にも二つの側面があります。今ヨーロッパに大挙して入国している難民について懸念している人がいて、彼らを殺してしまいたいと思うのであれば、その不安は非合理的で益するところはありません。しかし多くの場合、死に対する不安は非常に有益なものでもありえます。死を避けようとするからです。同じことは、気候変動に対する不安から何か行動を起こす場合にも当てはまります。そうした不安によって、環境が保護されるのです。まさにこうした不安は政治において必要とされなければならないでしょう。問題は、情動が肯定的な価値からくるものなのかどうかということです。

イ:怒りについてはどうでしょうか。それはどこからやってくるのでしょう。

ヌ:怒りは不安より遥かに複雑です。アリストテレスがうまく定義しているのですが、何かが傷つけられたと確信した時、怒りは人の心にやどります。つまり怒りに関して、不確実性と既存の状態の喪失が重要です。第二に、怒りは不正に際しても生じると考えなければなりません。最後に、怒りには報復願望も含まれています。この報復願望は当然、誰にとっても無益なものです。

イ:怒れる市民(Wutburger)という言葉をご存知ですか。この言葉はドイツでは右派ポピュリストの団体ペギダへの参加者に関して用いられることがよくあります。

ヌ:似たようなものはドナルド・トランプ選挙戦の間にも見られました。トランプは白人の失業男性たちが感じている不安、移民が仕事を奪ってしまうのではないかという不安を怒りに転換させたのです。白人の男たちの世界の没落と言われているものに対するこうした無力感は、いたるところで見られます。

イ:イギリスのブレクジットの投票を例に取ってみましょう。不確実さ、不満、拒絶といったものが投票者を駆り立てたように思われます。怒りはポピュラーなものになったのでしょうか。

ヌ:右派政党はまさに極めて意識的に自らの否定的な目的のために情動を用いていると思います。我々は情動を肯定的な目的のために用いて、ポピュリストの影響を弱めなければなりません。事実このことはすでに様々な仕方で生じていると思います。

イ:例えばどのようなものでしょうか。

ヌ:オーランドのナイトクラブでヘイトに駆られたおぞましい大量殺戮がありましたが、そのあとにアメリカの全土で警戒を呼び掛ける人たちがあらわれ、人々は愛は怒りや憎しみよりも強いのだと演説しました。

イ:それは予期せぬカタストロフのあとで起きた全国的な悲しみであって、制度化された政治ではありませんよね。

ヌ:そうです。しかし、ゲイレズビアンコミュニティは犯人に対して、その犯人自身も同性愛者だったのですが、怒りを表明しませんでした。というのも、彼らはヘイトの政治ではなく、とりわけ他者の疑いと挫折に対する意識と共感を持っていたからです。

イ:他の場所でも、そうしたことが起こりうるでしょうか。

ヌ:アメリカは大きく、非常に不均質なところですが、地方のレベルではまさに多くのことが当てはまります。近隣の教会の牧師が説教を行ったり、あるいは警察と教会が連携し、人種差別的な暴力を街から減らそうとしています。ヘイトに対抗するということに関して、実際あった例を挙げましょう。シカゴの私の大学の近くです。そこにはスケートリンクがありますが、誰でも無料で入ることができました。現在そこでは、裕福な学生が貧しいアフロ・アメリカンのコミュニティと対戦しています。スケートリンクの目的はこれだったのです。そしてレイシズムは犯罪と同様にはっきりと減ったのです。

イ:どうすれば怒りを最もうまく御すことができるのか、処方箋はありますか。

ヌ:様々な研究からわかっているのは、怒りは自分たちを鼓舞するものだと思う子供が多くいる一方で、そうでない子供たちもいるということです。女の子は一般的に怒りにかられることは〔男の子に比べて〕あまりありません。それゆえ、私たちは教育の場面で、男の子たちを女の子たちのように教育したほうがいいでしょう。つまり、建設的・協調的な行動を要求し、怒りに対する懐疑を求めるのです。

イ:怒れる若い女性(angry young women)のことが取り沙汰されることもありますが。

ヌ:確かに。ですが、彼女たちはセルフコントロールを高く評価しています。例えばフェミニズムを見てみましょう。それは総じて、怒りに任せた運動ではありません。この点で同性愛トランスインターセクシャルを擁護するLGBT運動にも共通しているところがあります。どちらの運動も多くのことを達成していますが、それはただ自分たちの要求する権利に依拠することによってなのです。他方アメリカではずっと、怒りというのはとりわけ男性的なものと考えられています。これは開拓期西部という観念に由来します。怒れるガンマンが自分たちの権利のために立ち上がる、というものです。今日、男性たちは自分たちの無力さを怒りに転換していますが、そうすることで何かを達成することができると考えているのです。

イ:芸術もまた情動を帯びることができるとおっしゃっていますね。

ヌ:もちろんです。フランクリン・D・ルーズベルトは芸術を用いるのに優れていました。世界恐慌のときに、ルーズベルトは社会改革を貫徹しようとし、失業した芸術家を雇用創出政策の枠組みで雇いました。例えば、写真家のドロシア・ラング経済危機犠牲者のことを記録しました。ルーズベルトは貧しいアメリカ人のイメージを、尊厳に満ちた市民として、つまり怠惰でも非力でもなく、むしろ経済的な破局に苦しむものとして、作り出したのです。

イ:私の同僚がかつてあなたについて、こう語ったことがあります。「マーサは恥ずかしげもなく善について関心を抱いている。彼女の哲学はまさに人間の改善のための知的な道具なんだ」と。

ヌ:どうでしょうか。私が関心を持っているのはとりわけ人間の複雑さです。あなたの同僚の言葉は、まるで私がそれに反対する人たちに寛容ではないみたいです。むしろ、私たちは不完全さを受け止めなければならないと思うのです。善というものは、私たちが単なる善人ではないと直観することでもあります。そうすることができないなら、嫌悪といった感情が幅を利かせていくでしょう。私が訴えたいのは、自分たちが何かを必要としていて無力な存在であると認め合う、そうした市民からなる社会です。これが私たちの人間的な政治の出発点なのです。

2016-12-03

読書日記 『カール・マルクス――「資本主義」と闘った社会思想家』佐々木隆治

マルクス主義ではなくマルクスへ還れ、という標語でさえ陳腐なものになってしまう思想家マルクス内田義彦『資本論の世界』や廣松渉『今こそマルクスを読み返す』といった新書もあったことを思い出したりする(疎外論から物象化論へというフレーズも今や途方もなく懐かしく感じる)。本書は最新の草稿研究にもとづいた研究で、特に未完に終わった資本論の第二巻や晩年のマルクスのエコロジー論、共同体論、ジェンダー論を論じている点に特色がある。『資本論』の要点、とりわけ価値形態論を正確に理解させてくれるのも良い。

晩年のマルクスは自らが定立した史的唯物論の法則性から漏れ落ちる現象があることを認めていたようであり、農村共同体も抵抗の拠点となりうるということを示唆していたようだが、そうだとすればマルクス以後に登場したマルクス主義の分厚い積み重ね(ポパーに歴史主義と呼ばれて批判されるような)が一挙に崩れ去りそうな気がして(例えば日本資本主義論争や日本の市民社会論など)やや虚しさを感じた。

マルクスの書くことのいちいちが非常なアクチュアリティをもって迫ってくるような現実があるということは不幸なことだと言わなければならないが、『資本論』草稿の次の一節などは、新自由主義的な統治における主体形成の問題を示唆しておりとても興味深い。

奴隷はただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の存在(…)のために労働するのではない。これにたいして、自由労働者は自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識(またはむしろ表象)やそれと結びついている責任の感情(意識)は、自由労働者を奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。なぜなら、彼はどの商品の売り手もそうであるように、彼の提供する商品に責任を負っており、また、同種の商品の他の販売者によって打ち負かされないようにするためには、一定の品質で商品を提供しなければならないからである。

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

2016-11-24

こんな風にして民主主義は終わるのか/デイヴィッド・ランシマン

ケンブリッジ大学政治学者デイヴィッド・ランシマンの大統領選挙に関するエッセイの翻訳です。

センセーショナルなタイトルですが、これはいわば反語で、ポール・クルーグマンが言うようには、アメリカは失敗国家になったのではないというわけです。ランシマンの見解としては、国家の基本的な制度上の仕組みによって、ブレクジットもトランプも、結果が温和なものとなるだろうというものです。ブレクジット派もトランプ派も、自分たちの選択によって本当に国家を生まれ変わらせるような破滅的な結果になるわけではないと思っているどころか、国家が自分たちの選択の打撃を吸い取ってくれる、その破滅的になったかもしれない帰結から自分たちを守ってくれる、そう思っています。彼らがそうした選択を行ったのは、単に国家を懲らしめてやろうというそのような思いからだけだ、というのです。ブレクジットを選択しようが、トランプを選択しようが、現状は何も変わらないと分かってはいるが、にもかかわらずブレクジットを、トランプを――一抹の期待を込めて――選択してしまう。が、変わってほしいはずの国家が備えている基本的な制度設計によって、そのような変革は生じないし、ありうる危険も温和なものとなってしまう。こうしたことは、日本では(違う形ではあれ)大澤真幸が言っているように、アイロニカルな没入として理解できるかもしれません。ランシマンによれば、しかしこうした振る舞いが続けば、民主主義の基本制度は疲弊し、破壊されてしまいかねない、というのです。ポジティブな処方箋が提示されているわけではないですが、冷静な分析として、あるいはこうした「危機」のイギリスにおける経験者として、興味深いものがあります。

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選挙の夜、考えることのできないことが冷淡な現実となったことが明らかになってから程なくして、ポール・クルーグマンアメリカ合衆国は今や失敗国家(failed state)なのかとニューヨーク・タイムズ紙で問うた。たいていはアメリカ民主主義だけを見事に切り離して研究している政治学者は、アフリカやラテンアメリカに注意を向けはじめている。彼らが知りたいのは、権威主義選挙勝利し、民主主義が何か別のものに化けたとき、何が起こるのかということだ。テロリストを家族もろとも殺すと誓ったあのデマゴーグは、自分の家族とともに大統領官邸へと引っ越す途中である。彼が職に就く前でさえ、彼の子どもらは権力の座に種をまかれつつある。彼はテレビの中、金ピカに飾って登場し、妻はその脇、三人の子供はその後ろに整列し、パパが与えてくれるものを受け取る準備をしている。また、彼はツイッターに戻ってくると、今度は勝利を盾にして言いたい放題、新聞雑誌の論敵に食って掛かる。十歳の息子は参加するにはまだ若かったが、選挙の夜は父の側に立っていて、懐柔の意図の明白な勝利演説をトランプが行っているとき、我々の誰よりもボオっとしているようだった。懐柔の言葉の後には統治機構に対する淡々とした個人的評価が続き、子どもらはそのあいだ列席していた。このようにして民主主義は終わるのではないだろうか。

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