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禁門の変

(一般)
きんもんのへん

グレゴリオ暦1864年8月20日(元治元年7月19日)に、京都で起きた騒乱。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる。
尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で京都を追放されていた。
藩主の毛利敬親と嗣子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っており、京や大坂に密かに潜伏した長州尊攘派は密かに行動を続けていた。
1864年(元治元年)に入ると、孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた(この時の積極的に上洛を説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞。反対、慎重派が桂小五郎と高杉晋作)。6月5日の池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える<長州勢は総勢2000〜3000名ほど、対する幕府軍は会津藩・薩摩藩・大垣藩・桑名藩・京都見廻組・新選組に中心の他に機内周辺の諸藩を寄せ集めたが、京都所司代・二条城の幕府直臣の旗本が戦力にならず、大藩の会津・薩摩の戦力が主だったが、会津は未だに旧式の長沼流兵法で軍調練の近代化が遅れており、その上東北の僻地からの駐屯だったため、常備駐留兵は1500名程度、同じく僻地からの遠征で寡兵ながら、琉球貿易経由で5年以上前の安政の大獄時点で既にゲベール系ライフル3000丁を装備しており*1、軍備が近代化していた薩摩藩頼りであった(それでも非戦闘員を含め畿内周辺諸藩から急きょ相当数の諸藩士を上洛させ合計2〜3万人の兵力と称した。※だが、実際は主力の会津・薩摩の兵力の少なさからして、長州軍を数倍以上上回っていたことは確かながら、かなりサバをよんだ数と思われる)>。
(※この山口から京都までの道中に現在の広島県・岡山県・兵庫県・大阪府に存在していた諸藩・代官・大坂城代が、この行軍を全く阻止するどころか事実上スルー状態で防衛機能を果たしていないことを見るに、江戸幕府の著しい権威の低下がみられる)
この不穏な動きを察知して、薩摩藩士吉井幸輔友実、土佐藩士乾市郎平正厚、久留米藩士大塚敬介らは議して、長州兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が、会津・桑名藩兵と衝突した。一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して禁裏(京都御所内)に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは戦死した。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。(※これ以後、結果的に1866年8月に将軍・徳川家茂が亡くなるまで、京都政局では「一会桑政権」が主導権を握ることになる)、 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐に向かう。


なお、永らく平和が続いた江戸時代において、この合戦は1637年〜1638年の島原の乱以来の大規模な戦争となり、幕末動乱のターニングポイントの1つの事件となることになった。

*1:※井沢元彦著『逆説の日本史』幕末年代史編の、安政の大獄時に藩主が薩摩で行った調練に3000丁のライフルが用意されていたの記述より→http://d.hatena.ne.jp/supernil/20110726/1311606202

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