久坂玄瑞

久坂玄瑞

(一般)
くさかげんずい

天保11(1840)〜元治元(1864)年。
幕末長州藩の医師・良の次男として生まれる。幼名・秀三郎。通称、義助(よしすけ)。玄瑞は字。
嘉永6(1853)年に母、翌7年には兄・玄機と父を相次いで亡くし、15歳にして家督を相続。
明倫館では家業の医学や洋学を学び、かなり成績優秀だったらしい*1。若くして攘夷を志し、吉田松陰と文で論争をしたこともある。
安政3(1856)年には九州を遊学し、宮部鼎蔵らの志士と交わったり、長崎で実際に異国文化に触れたりして、尊王攘夷の志をますます高めた。
安政4年に吉田松陰の松下村塾に入門。高杉晋作、吉田稔麿(栄太郎)、入江九一(杉蔵)とともに松門の【四天王】と呼ばれる。或いは、高杉と【双璧】であったとも。松陰はプライドが高く傲慢な高杉を牽制するためにも、久坂を持ち上げたりして、双方の向学心を煽った。
松陰は久坂を大変気に入り、安政4年には末妹の文の婿に迎えた。


詩作が得意でもあった。雅号は秋湖、江月斎。
文久3(1863)年の八・一八政変で七卿をともなって都を落ちる道中、即興で詩を吟じたのは有名なエピソード。
元治2年の禁門の変*2にて、寺島忠三郎とともに自害。


有名な久坂の肖像画は、京都滞在中の愛人であった井筒タツとの遺児をモデルに描かれたもの。
身の丈六尺に近い立派な体格と、凛々しく整った顔立ちをした好男子であったと伝えられる。

*1:少なくとも、小説などを見るとそういう扱い

*2:この時、入江九一も戦死している。

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