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山名宗全

一般

山名宗全

やまなそうぜん

山名宗全山名持豊(応永十一〔1404〕年五月十一日〜文明五〔1473〕年三月十八日)

室町時代守護大名応仁の乱の西軍の総大将

山名時煕の三男。諱は持豊。宗全は出家後の法名

足利義教家督介入により兄の山名持煕を差し置いて永享四(1432)年家督継承、永享十二(1440)年には侍所頭人になる。

嘉吉元(1441)年足利義教が赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)の時には義教とともに赤松邸にいたが、無抵抗で逃亡し、その後赤松氏の討伐に活躍する。

嘉吉の乱後にはその功績によって赤松氏の旧領も支配し、明徳の乱で衰退していた山名氏の権勢を大いに盛り上げた。さらに播磨の支配をめぐって対立した赤松義雅(満祐の弟で嘉吉の乱では満祐に同調せず、室町幕府側として戦った)を排斥し、養女細川勝元の妻として、さらに子の豊久を勝元の養子として細川氏との関係を強化、さらに大内政弘とも縁戚関係となり、山名氏の力を強める。

宝徳二(1450)年に家督を教豊に譲り出家して宗全と名乗る。しかし享徳三(1454)年には赤松則尚(赤松満祐の甥)の帰参をめぐって室町幕府八代将軍足利義政の不興を買い、失脚するが、則尚が挙兵するとこれを討ち、幕政に復帰する。長禄二(1458)年には赤松遺臣が後南朝に奪われていた神器を奪還し、その功績によって赤松政則による赤松家復興が実現すると、それを後押しした細川勝元との対立が深まる。

畠山持国の後継者争いでは当初勝元と歩調を合わせて持国が推す持国の実子の畠山義就ではなく、持国の甥の畠山政長を支持していたが、やがて義就を推すようになる。

文正元(1466)年、伊勢貞親が義政の弟で、将軍後継者に内定していた足利義視を排斥して義政の実子の足利義尚を将軍後継者にしようとした動きには勝元と連携して義視支持に回り、伊勢貞親らの将軍側近政治を排斥した。

しかしその年の末に畠山義就を上洛させ、翌応仁元(1467)年正月、政長を失脚させ、畠山宗家家督を義就に変えさせ、さらに政長の管領職を罷免して斯波義廉に変えさせる。政長と義就の御霊林における戦闘に義政の命令を無視して義就に加担して政長を追い落とし、応仁の乱の端緒を開く。

しかし将軍と天皇・院を勝元に掌握され、宗全率いる西軍は不利なまま戦況が膠着状態になる。宗全は東軍に取り込まれた将軍の代わりに足利直義の子孫を担ぎ出して将軍に擬したり、後南朝を担ぎ出して天皇に据えたりしたが、最終的に東軍での自分の位置に不安を覚えた義視を迎えて東軍に対抗する。

大内政弘の上洛によって一旦は戦況を優位に進めたが、朝倉敏景の離反で再び不利になり、戦況が完全に膠着した状態で勝元からの和睦交渉を受け、自害を試みるが失敗、文明五(1473)年五月に死去した。