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細川勝元

(一般)
ほそかわかつもと

細川勝元(永享2〔1430〕年〜文明5〔1473〕5月11日)
細川持之の嫡男。
嘉吉2(1442)年、父の持之が死去したため細川京兆家を嗣ぎ、室町幕府7代将軍足利義勝の偏諱を受けて勝元となのる。
文案2(1445)年、畠山持国の後を受けて16歳で管領に就任。
山名持豊の養女を正室に迎え、山名家との連携を強めていく。特に畠山持国の後継者争いの中では持国の意中の継承者で持国の実子の畠山義就を差し置いて持国の甥で、持国の養子になっていた畠山弥三郎を推し、義就を追放に追い込んだ。
嘉吉の乱で滅亡した赤松宗家の復興を願う赤松遺臣は長禄の変で後南朝に奪われていた神器を奪還し、その功績で建仁寺に養育されていた次郎法師丸(赤松満祐の弟赤松義雅の孫)に赤松宗家の継承を認めようとした足利義政と持豊は対立し、勝元の取り成しで持豊は追討を免れたが、後に赤松次郎法師丸(元服して政則)を加賀半国守護とすると、勝元と持豊(この頃出家して宗全)との対立は抜き差しならないものとなる。
管領家の斯波家の後継者争い(武衛騒動)では斯波義廉を支持した宗全に対し、義廉の対抗馬の斯波義敏(渋川家から養子)を支援し、さらに追放された畠山義就と河内で戦闘を交えた際に義就の戦上手を見込んだ宗全は、義就を支援するようになり、勝元は弥三郎死後は弥三郎の弟の畠山政長を支援するなど、勝元は宗全との対立姿勢を強めていく。
しかし文正元(1466)年に将軍家の跡目争いに端を発した文正の政変では、義政の弟で、将軍後継者になっていた足利義視を、義政の子の足利義尚を後見していた伊勢貞親が追放しようとし、さらに管領斯波義廉を罷免しようとした伊勢貞親に対抗して、義視の後見人の勝元は義廉の支援者であった宗全と連携して義視を支持し、足利義尚を支持する伊勢貞親や、同調していた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも追放された。
このころ勝元は養子に迎えていた宗全の実子の豊久を廃嫡し、仏門に入れる(妙心寺17世※林宗棟−※は登に阝)。
文正2(1467)年(改元されて応仁元年)1月、足利義政は宗全の願いをいれて管領の畠山政長や勝元を差し置いて畠山義就を赦免し、さらに管領邸への御成を中止、畠山宗家の家督を政長から義就に変更する。これに反発した政長は義就と戦闘に入り(御霊合戦)、応仁の乱が始まる。
御霊合戦で義就を積極的に支援した宗全に対し、両者の戦いに加担することを禁じた義政の命を忠実に守った勝元は動かず、政長は敗走する。勝元は赤松政則に山名領となっていた播磨を攻撃させ、全国の同盟者に京都に集結するように呼びかけ、将軍の保護という名目で花の御所を制圧して将軍足利義政と後花園上皇、後土御門天皇を花の御所に迎えた。勝元の陣は自身の今出川邸におかれ(東軍)、対抗した宗全は大宮辺に陣を敷いた(西軍)。
戦況は東軍優位に進むものの、膠着状態に陥り、文明4(1472)年、宗全に対し和睦交渉を行なおうとし、宗全も自害してそれに呼応しようとするが、宗全の自害も失敗し、勝元側の赤松政則の反発もあって失敗する。
文明5(1473)年3月、宗全が死去、後を追うように5月11日に勝元も病死する。
禅に精通し、竜安寺を建立している。

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