久しぶりに猪瀬
当事者が (バランス感覚から?) 「成功だ、自分が勝った」と言っている部分は、 とりあえず脇に置きながら読む
「第290号【座談】(4月22日)「『こころの王国――菊池寛と文藝春秋の誕生』 作品誕生秘話。そしてこの作品にこめた思いについて」」 ; 以下、猪瀬の発言からの引用菊池寛の謎を解くことによって、夏目漱石の『こころ』にまで到達するのです。 なぜその後の日本文学がだめになっていったのかというと、 『こころ』の世界――不労所得で暮らしている先生と就職しない大学生の世界、 高等遊民の世界が、田山花袋の『蒲団』に代表される私小説の流れと 合流してしまったからなのです。そこには社会がない。
…
文学は日本の産業を支えている世代に受け入れられるものとして なくてはならなかったのですが、漱石の『こころ』の世界と 田山花袋的な私小説世界が合流することによって、 日本の文学は、いわばフリーターのための文学になってしまいました。日本のジャーナリズムは現在もそうなのですが、 ずっと甘えの構造できている。
「文学部は法学部に食わしてもらっていてもいいんだ」 という甘えが作家にはあったし、いまもまだあると思う。 それは間違いです。 文学部がソフトウェアを開発して外貨を稼がないといけないのです。 既存の枠組みのなかで、自分は食わしてもらって当たり前、と平気でいてはだめですよ。
結局、みんな官僚のほうが偉いと思っているのです。 本当は作家やジャーナリストのほうが偉いのに。 その自信のなさが僕は情けないのです。
社会大衆党と近いフェビアン協会にいた人というのが、 大宅壮一とか木村毅とか、賀川豊彦の従兄弟の新居格といった人たち。 彼らは評論家でしたが、日本の社会の動きや大衆のことをじつによく見ている人たちでした。 菊池寛もまた、その位置にいた人だったということなのではないでしょうか。 日本がその後どんどん統制的な社会に変質していくなかで、 つねに批判的だった人たちの側に菊池寛もいた、という。
…
自分のない人たちが、 そのつど海外の流行思想に影響され帽子を取り替えていたのとは対照的です。本気で3年やれば勝てるのです。 メディアにいったい何千人いますか? 大学の先生は何千人いますか? さほど本気でやっているとは思えないのです。 政策を変更させることは可能なのに……。
「第289号【対談】(4月15日)「道路公団民営化に期待すること――交通ジャーナリストの視点――」」
マスコミがダメってのは、やっぱりかなり深刻なのかな
あと、文学部は理学部、作家は科学者 or 研究者と思いながら読んでいた
最近のトイレの友は richard powers (amazon)
先日の買い物で買ったものの一つ
もともと、柴田さんの本 (cf. 8/19/2000) で、表紙の例の写真に見覚えがあって、 その時から気になっていた
それが、最近 「2004/04/03 (Sat.) 三人の農夫」 @kshara (lc) に著者が「最初物理学専攻だつた」との記述を見て
これなら読めるかなと思ったのが、直接の購入原因
もともと最近何か、アメリカの現代小説を (原書で) 読んでみたかったこともあるし
今 p.22, まぁ何とか読めそうだ
備忘録 : 先週の中嶋朋子はよいと思った、ということの記録
「パンダは思う」 @先見日記 ; 以下、引用私が「なぜ?」と思うのは、今回のことというよりは、 環境系イベントに芸能人というものが突然引っ張り出されるということ、 そのものに幾ばくかの疑問があるのだ。
予算確保のための安直なイベント、その人寄せパンダってかんじじゃない!
備忘録 2 : 今週の片岡義男はよくないと思った、ということの記録
「大統領は再選されるか」 @先見日記
最近特に、現状分析や未来予想のたぐいは、蛇足というよりも、害だと思うんだが
彼は何で、何の意図があって、最後の paragraph を入れたんだろう
自分の judgement や意見と、実際に起こるかも知れないこととの矛盾が恐いのか
お前の言ったことは外れたな、と言われるのが恐いのか
そうならば、まさに競馬の予想屋以上の何者でもないってことだ
それとも、悪いシナリオを提示して、皆の注意を喚起しようということか?
そういうアプローチ自体が、個人的には嫌いなんだけど、 まぁ他人がそうすることに、とやかく言う筋合のもんではないな
本当の所どうなんだろう