『大谷能生のフランス革命』その読と解(その1)








タイトル:大谷能生フランス革命』その読と解




その1:僕とチャーリー・パーカー
    (4/13 UP)

その2:再び《いま、ここ》で
    (4/30 UP)

その3:オープン・エンド《金言集》
    (5/10 UP)


大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命





その1: 僕 と チャーリー・パーカー





序.


ライブ 小川てつオ狩生健志+大谷能生




小川てつオ


(胴体に付帯していた留め金を外し、リュックを下ろす。中をゴソゴソと探る。床に座り、手の爪を切り始める)


ヨオッ!
(と裏声で叫び、爪を切る。立ち上がり、レコードを一枚取り出し、足元にあるポータブル・ターンテーブルに載せ、しゃがんで爪を切る)


イーヨッ!
(と声を上げる。爪を切る。立ち上がり、マイクスタンドに近づき、振り返ってしゃがみ、ターンテーブルを触る。音は出さない。何度かくり返す。マイクスタンドのそばに立ち、マイクを手で覆い)


ウウウゥー。
(と低い声を響かせる。素早く床に膝をつき、爪を切る。長靴を片方脱ぎ、マイクに被せ、上から声をかける)


ヨッ! ヨッ! チャーラ、チャッチャーラ。
(長靴が落ちる。それを見てすぐに右足の靴下を脱ぎ、マイクにかぶせ、スタンドから外し、両手で握って床へ滑り込むように膝をついて歌う)


♪ウオォォーッとぉお!/叫べば叫ぶほど/酔いが回って/まろやか冷酒
ターンテーブルを触り、左足の靴下も脱ぐ。持参の小さなダンボール箱に両足を入れて寝転がり、足を上げながら箱の中で上下前後にガサガサ蹴り回す。座り直し、歌う)


♪春の小川はそよそよいくよ/岸のれんげや
狩生、上手より登場。ステージ中央へ)


♪すがた美し/いろ美しく/咲けよ咲けよと・・・。


(以下つづく)※1




[第9回 ゲスト:小川てつオ(アーティスト)・狩生健志(作曲家/ギタリスト/レコーディング・ミキシングエンジニア)・(音がバンド名)(サウンドパフォーマンスアーティスト)]より


僕は音楽に疎い。ジャズともなれば殊更のこと、マイルス・デイヴィスも名前だけしか知らないし、菊地成孔大谷能生コンビについても名前を辛うじて知っている程度であった。そんな僕がどうしてこの本、《大谷能生門松宏明大谷能生フランス革命』》を手にしたのか。それは、小川てつオという名前が目に留まったからである。



1.「ぼくは勉強ができない」ができない


「フリーター」や「ひきこもり」という、大谷さんがさしあたって一定の層を成すものとして取り上げた人たちを、今回は「ダラダラした」というキーワードで言い表していたけど、それが問題になるのは、たとえば個人的で主観的な状況として「もっとはやく動きたいのに動けない」といった思いが本人に生じているときだろう。つまり、単に体が丈夫で俊敏に動けるようにさえなれば良いのかと言えばそんなことはないはずで、僕がそのように「体が丈夫なら良いというわけではない」と思うときにはいつも、よしもとばななさんの『TUGUMI つぐみ』や山田詠美さんの『無銭優雅』といった小説を思い浮かべている。前者においては「つぐみ」が、後者においては「栄」が、病気や体質などの身体的な理由によっていま自分の住んでいる地域から離れることができない。しかし、そのようにある意味では限られてしまっている環境や条件の中で、彼らは彼ら自身の豊かな知性と想像力をもって、生を少しでも良きものにしようとしながら過ごしている。もし、体が丈夫でどこへでも行くことができて、そんな風に思い通りに体を動かせるということが人生を良くすることと等しく一致するのなら、思い通りには動かない彼らはどうなるのか、と僕は思う。そこにはもちろん、ダラダラとしか動けない僕のことも含まれている。
(門松宏明)※2




[第10回 ゲスト:杉田俊介(文芸批評家 / 介護労働者)]より

共著者の門松氏が言うようにダラダラとしか動けない人というのは、世の中にものすごく沢山いるのではなかろうか。僕もその例外でなくダラダラとしか動けない。しかも、そのダラダラというのがちょっとくせ者である。


このような思いを初めて感じたのは高校を卒業した時であった。うれしかった。高校に通っていた時は選択肢が他になく、学校が生活の、人生の全てであった。しかもその生活は僕に合わせてつくられた物ではなく、僕が合わせなければならない物であった。極端な言い方をすれば、僕は足かせを嵌められた奴隷だった。それぐらい気持ちが重かった。大学受験に失敗していたので、前途洋々という感じではなかったが、とにかく学校から解放されたということが本当にうれしかった。平日の午前中、川辺のベンチでのんびりと一人佇んでいたときの気持ちは、今でもよく覚えている。


学校で過ごしていると、あまり感じないことだが、平日の午前中というのは、とても静かなものだ。特に十時前後、あらゆる人が仕事を止めているのではないかと思う瞬間が必ずある。人は、深夜に草木さえ眠ると思いがちだが、本当に時間を止めているのは、この時ではないかと、ぼくは思う。(※3)

山田詠美さんの文章だが、本当にこんな気がした。浪人中は予備校の本科コースに通わず、単科でとれる授業をいくつか受講するだけで基本的に宅浪生活を送った。さすがに家には居られなかったので自習室に通っていたが、そこで友達と定期的に会えるようになってからは、何の不自由も感じなかった。学校というのは、勉強するためではなく、友達と会うために行くのだと、その時僕は悟った。


そんな僕だったが、1年の浪人生活を経てめでたく大学に入学した。受験勉強について振り返れば明らかに失敗だった。勉強慣れした人が宅浪するならまだしも、勉強が習慣化していない僕が宅浪するのには無理があった。予備校で決められた授業を受け入れてきっちりと勉強した方が結果はよかったと思う。でも自分で考えて、カリキュラムを組んで勉強するというのは、なかなか楽しかった。今から思えば、自分で作ったカリキュラムは間違いだらけだった。けれども、なんとか大学には入れたし、それでよかったと思っている。


大学に入ってからも相変わらずで、「勉強ができる人に変身!」なんてこともなく、学校で決められたカリキュラムには魅力を感じず、基本的に勝手なことをして、ダラダラしていた。この時期に村上春樹山田詠美に手を出すのはごく自然の成り行きという感じで、誰に言われたからということもなく、僕も山田詠美に手を出した。



ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)



「時田秀美です。最初に言っとくけど、ぼくは勉強が出来ない」


生徒たちは笑い転げた。ぼくは、どうしてうけちゃうのかなあと呟いて頭を掻いた。


「おまけに字も下手だ」


益々、皆、笑い続けた。


「それなのに、どうして、ぼく、書記なんかになっちゃうの」


誰もやりたくないからよ、という声が飛んだ。ぼくは、その声の方を指差して言った。


「違う。ぼくが人気者だからだ」


担任の桜井先生が笑いながら、ぼくに言った。


「おい、時田、冗談は、そのくらいにしておけ。おまえが、勉強出来ない人気者だってのは、皆、もう知ってる」


 ぼくは、先生を見て肩をすくめた。誰もが笑っていた。もちろん、めでたく委員長になった脇山をのぞいては。彼は、ぼくの言葉を耳に入れるのも嫌だというように不愉快な顔で下を向いていた。


「桜井先生がそうおっしゃるので、ぼくは席に着きます」


ぼくは、そう締めくくり、一番後ろの自分の席まで歩いた。途中、脇山が、ぼくに小声で囁いた。


「勉強出来ないのを逆手に取るなよな」


ぼくは、彼を無視して席に着いた。開けられた窓から春の風が吹き込み、ぼくは心地良さに目を細める。ぼくは日曜日に、祖父と釣りに行くべきか、母の買い物につき合うか、恋人の桃子さんとセックスすべきかの楽しい選択に心を悩ませながら放課後を待ちわびた。(※4)

僕が脇山ではないことははっきりしていたが、しかしそれ以上に僕は時田ではないと思った。僕は時田をつくり過ぎ(演じている)という感じがして疑い、受け入れられなかった。確かな記憶ではないが、この本を初めて読んだ大学に入学して間もない頃の僕は、まだ本を読む習慣がなかったし、読む力も弱かったので、たぶん1章だけ読んで、そのまま放ったらかしにしたと思う。この本に救われた人は数多くいるだろうに。残念ながら僕は、その救いにもあぶれ、相変わらず冴えない毎日をダラダラと過ごしていた。


ついでに言えば、僕は奥田民生もダメだった。勉強がダメだから、なにかニヒルな感じがする人に憧れていたのだろう。それで奥田民生という訳だ。彼の『すばらしい日々』という曲が好きでCDを買った。しかしダメだった。『すばらしい日々』は彼のなかではもっとも彼らしくない曲であり、シングルカットされている曲はなんとか聴けたのだけど、アルバムに収録されているその他の曲は、すごく退屈でとても聴けなかった。イライラして耐えられなかった。


奥田民生のあのダラダラ感は、言うなれば「完成されたダラダラ」であって、僕のダラダラとは違うようだった。彼に救われた人は数多くいるだろうに。残念ながら僕は、その救いにもあぶれ、相変わらず冴えない毎日をダラダラして過ごしていた。



2.小川てつオさんとの出会い


この時期のダラダラというのはちょっと説明するのが難しくて、生きるモチベーションが低いから基本的にはダラダラしているのだけど、何もしないという訳ではない。まだ若いからパワーが有り余っていて、何かをしようとはするし、何かはする。建築学科に在籍していたということもあり、デザインには興味があり、それなりに凝っていた。服はすぐに面倒臭くなってやめたけど、カメラやMac、デザイングッズを買い漁っていた。上辺だけのノリだったけど、「芸術」というのがすごくカッコいいと感じたし、「僕はこれだな」と勝手に思い込んでいた。


そんなこんなで大学3年生にもなると、遊ぶのもつまらなくなってくるし、一般教養という名のつまらない授業がなくなって、設計製図の課題も面白くなってきたので、この頃から本腰を入れて建築を勉強しようという気になった。


ただ僕が通っていた東京理科大学という学校は、夏目漱石が「坊っちゃん」をアナーキーな存在に仕立てるために、その出身校に選んだような学校で、僕が在籍していた工学部建築学科もその通りカラーもなければ、活気もなかった。信念を持って研究に勤しんでいる先生もおられたが、お山の大将という感じで、学生に心を入替えさせるような影響力はなく、「この先生の授業、ほっんとつまんねえ」と、おそらく彼が学生時代に先生に向かって吐いていたか、ボイコットしていたのと同じような態度を今度は自分が学生にとられるという程度であった。


そんな感じの学校であり、例外的に非常勤の先生や先輩には数人、面白い人がいて、実際にお世話にもなったが、基本的にこの学校には何も求めていなかったし、もっぱら勉強は外でしていた。そして、3年生の頃通っていた学校の1つが近所の早稲田大学だった。歴史工学者の中谷礼仁氏ら早稲田の若手の研究者が集まって立ち上げた「建築等学会」という研究会に学外の僕も参加させてもらっていた。説明が長くなったが、小川てつオさんと出会ったのは、この研究会だった。



えーと、こんにちは。小川てつオです。今日は兄と居候について話すはずでしたが来れないので、代わりにボブ・マーリーの曲を流します。(携帯ラジカセのスイッチをおす)




♪ “Buffalo Soldier” by BOB MARLEY & WAILERS




ところで、居候生活を始めて1年位になります・・・(以下つづく)※5

早稲田大学建築学科会議室で、講師という立場でレクチャー中にボブ・マーリーをかけたのは、後にも先にも小川てつオさんただ一人だろう。そんな小川さんが講師を務めるワークショップの担当者として、僕は小川さんと1年ほど活動を共にすることになった。



3.何をやってもよいと言われても


やがて僕は、受験用の油絵を描くことが好きになった。高校のある駅からあまり離れていない美術予備校へ、高校三年生から三年間通った。見たことがない人には想像しづらいかもしれないが、美大受験用の油絵というのはそれぞれの描き手のオリジナリティが明確かつ戦略的に打ち出されている、とても魅力的なメディアだ。それが一〇号から二〇号というけっして大きくはない画面に遺憾なく詰め込まれているのだから、これが面白くないはずがない。また、つねに前年度の試験結果を参照し、対策を練った上での指導が成されているので、技術レベルもどんどん向上していく。つまりこの世界もまた、西島大介さんが第八回仏革の質疑応答で言っていたような「同じジャンルのものしか見ていないがゆえの進化/深化」を遂げている。


でもそこで描かれる絵はどちらかと言うと、絵画というよりテレビや雑誌やブログに近い。基本的に一つの画面を長い時間味わっていられるようなものではなくて、一時的な、瞬発力のある昂揚を観る者にもたらし、しばらく経つとあとかたもなく消えている。そして僕は、絵というものを、あるいは芸術というものを、もう少し受け手によって融通の利く、また本質的に耐用年数の長いものだと考えている。


たぶん、絵画というのはたくさんの情報を抱えうるメディアであるが、それは同時に、その絵画自身の中でなければ生きていられない情報でもあると思う。つまり絵画から何かを抽出して、それをほかの何かに役立てるなんていうことはほとんどできないだろうということだ。絵画を見るということはだから、絵画を見ることにしか生かされず、それ自体をたのしめなければ、たのしむということはできないような気がしている。


絵画は、こちらから読み取ろうとするまでもなく、向こうからいつもメッセージを発しつづけているはずだし、それはまた、描き手である画家が「こういうことを言いたい」と思ったことをそのまま伝えているわけでもないだろう。絵画が発しているメッセージは、絵画だけがそのように語ることのできる、絵画自身にとってはごく普通の、でも人間にとっては非母語的なしゃべり方なのだと思う。・・・と、僕はさっきから、絵画をあたかもそれ自体が生命をもっているかのように擬人化して書いているのだけど、もちろん絵画というのは物である。ただ同時に、それは画家や受け手(観る者)によって十全にコントロールできるものでもあり得なくて、それが発する言葉はいつも思いがけないものとしてある。だからやっぱりそれについて語るときには、僕は絵画を擬人化してしまった方が話しやすい。


彼が美術館へ足を運ぶ。そこで目にした絵について、帰宅後も折に触れ思い返されてくる。頭の中で、絵は無言だ。人の頭の中で、絵画の言葉は響かないようにできているのかもしれない。でもそのとき、彼はその絵を見ているに等しいと僕は思う。彼はそのあいだも、絵との関係を取り結んだままである。彼は美術館で実物を見た。でもそれは、絵画体験のほんの入り口であり、上澄みであり、小説につけられたタイトルのようなものだったかもしれない。あるいはそれは、海に飛び込んだときの水面のようなもので、バシャン! とぶつかったあとには深い海中の世界が広がっている。


(門松宏明)※6

ちょうど、この門松氏の発言を受けるかたちになるが、先日『VOCA2008』展を観てきて印象的だったのが出品作家の次のような言葉である。


油絵学科出身なので、今でも油絵を描いていますが、写真も使いますし、鉛筆でも描きます。そもそも受験の時にルールが決められた油絵を描いていて、けっこう熱心に描いていたのに、それが大学に入ったら「何をやってもいい」って言われて、すごく困ったし悩んだんですね。それで本当に絵が描けなくなった時期もあったし、写真を撮ったり、色々と試行錯誤して、そして今に至っています。

学校や決められたルールにストレスを感じたり、反発するのは大したことではない。僕の学生時代を振り返っても、そういうことなら沢山やった。模型のサイズをA2と指定されたら、大きさはA2だけど高さが2mぐらいある模型をこしらえたり、レポートでA4サイズと指定されれば、たたみ6畳ぐらいの紙に書いて、それを折り畳んでA4サイズにして提出したりというように、ルールを逆手にとってはぐらかす程度のことは学生なら誰でもやる。しかし「何をやってもいい」と言われると本当に困るし、手が止まる。「手が止まった後が大切だ」ということなのだが、その先は分かる人にしか分からないし、見える人にしか見えない。



4.ぼくは芸術家になれない


小川てつオさんとやっていたのは『新しいコンビニ会議』というワークショップだった。毎月1回みんなで集まって何かをした。


「新しいコンビニ」は、「新しい」わけでも「コンビニ」なわけでもないかもしれません。「新しいコンビニ」です。(小川てつオ)※7

ふつう「新しいコンビニ」と言われたら「コンビニ」とは何かから考える。でも小川さんが言うように、この会議はそういう類いのものではなかった。「何をやってもいい」という感じであり、それでいて「新しいコンビニ」を考えるという、何だか本当によく分からない会議?イベント?出来事?現象?だった。


確かにコンビニにも行った。セブンイレブンカップラーメンを買って、ファミリーマートでお湯を入れて、ローソンで箸をもらって、食べて、セブンイレブンのゴミ箱に捨てたりした。あるときは誰かの家に行ってゴロゴロしてダラダラ話すだけで終わった。またある時は空き地に行って、みな無言で出鱈目に動き回って、ゴミを拾ったり、花を摘んだり、草を刈ったり、ゴザに石を並べたりした。あるいは路上で詩を朗読したり、手のひらに「新しいコンビニ」とマジックで書いて、高円寺駅の改札口で手をかざしてみたりもした。なんだかよく分からないけれど、毎月1回集まって何かをやった。


狩生

俺は今日は、小川さんは強いなって、強さを感じましたね。適当にやっても、小川さんは強いなって。なんか、物みたいじゃないですか。人間っていうより。合わせる/合わせないって以前に、とりあえず物が横にあるっていう。(※8)



[第9回 ゲスト:小川てつオ(アーティスト)・狩生健志(作曲家/ギタリスト/レコーディング・ミキシングエンジニア)・(音がバンド名)(サウンドパフォーマンスアーティスト)]より

初めはさすがに驚いたけど、しばらく小川さんと一緒に活動しているとだんだん慣れていった。「こういう時は恥じらいを捨ててやるんだ」とか「この場合は下手に考えずとにかく体を動かせばいいんだ」とか、そういった判断をして対応するようになった。でも、これは表面を取繕った対応でしかない。小川さんはそうではなかった。小川さんを観察していてもON/OFFを切換えているような感じはないし、ウケを狙っている感じも、奇をてらっている感じもなかった。それでいて、そのパフォーマンスは抜きんでていた。僕も狩生氏と同じく「小川さんは強い」と思った。朝青龍のように強いとか、そういうのではないし、小川さんを形容するのに「強い」というのは最も相応しくない言葉だけれども、確かに「強い」と思った。「勝てない」と思った。


このワークショップは1年ほどやって、最後はフェードアウトという感じで終わった。終わる頃、僕は「設計事務所のバイトで忙しいから」とか何かと理由を見つけて欠席したけれども、正直に言えば、小川さんについて行けなくなったのだ。小川さんの表現活動を否定する訳ではなかった。むしろ共感するし、「小川てつオさんのような人を《芸術家》と呼ぶのだろう」と思った。しかし、そうは思っても僕にはできなかった。「ぼくは芸術家になれない」とこの時悟った。


これは「ぼくは勉強ができない」と悟ることや、「ぼくは時田になれない」と悟ることとは比較にならないほどショックだった。できれば小川てつオという存在を知らないことにしておきたいとさえ思った。



5.《末期》グレーゴル・ザムザ


その後、僕は「芸術家にはなれない」けれども「芸術を志す」という捻じれた道を歩むことになる。途中就職活動はちゃんとした。確か' 01年だったと思うが、当時は就職氷河期と言われていた時期で、その通り僕もフリーズしてしまった。今聞けば25名ぐらい採用している会社が当時は4名しか採用しないという感じだったから確かに難しかったのだろう。ただ僕自身に就職する気があったかと言えばNOだった。それでも就職活動をしたのは「あの時就職しておけばよかった」と後悔したくないのと、小川てつオさんという存在を知っていて「下手に《芸術》なんて世界に足を踏み入れるものではない」と悟っていたからである。もし就職活動して受かったら、僕はその程度の存在なのだと開き直って会社勤めしようと思っていた。しかし、そんな期待に反して無事に就職には失敗した。そして、4年間のムショ生活(建築家の設計ジムショ勤め)を経て今にいたる。


「今、なにやってるの?」と問われれば「本屋で働いている」と答えるが、それは事実であるが正しくない。あるいは「文章を書いている」とも答えられるが、その場合「ふ〜ん」と返されて、それで会話は終わる。微妙な心境だ。



変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)



《初期》グレーゴル・ザムザ


カフカの『変身』という小説がありまして、これが本当に凄い小説だなって最近また思ったんです。何が凄いかって言うと、とりあえず虫になって最初に考えるのが、「会社に行かなきゃ!」って事なんですよ。どうしたら家族に気づかれずに会社に行けるか、とか。でも、最初に考える事がそれか!? って(笑)。だからこの『変身』っていう作品には、ある種の引きこもり系というか、ここで考えているようなグダーッとした体の感じと、身体の奥底までしみこんだ労働イデオロギーみたいな価値観が、深いところでまざりあっていると言えなくもない。大体、どうしてこのグレーゴル・ザムザっていうのは、虫になってまで仕事に行かなきゃいけないと考えるのか。

杉田俊介※9

《末期》グレーゴル・ザムザ


最後にはなんか、この世からひっそりと消え去る事だけに希望を見出して、妹と家族にはこれから幸せな生活が待っています、みたいな、とくにあの妹の圧倒的な晴れやかなイメージっていうのが一体どこから出てくるのかわからないんですけど。

杉田俊介※10




[第10回 ゲスト:杉田俊介(文芸批評家 / 介護労働者)]より

カフカは難しいというイメージが先行してあまり読んでないけど、杉田氏のこの解釈は目から鱗が落ちる思いである。前者を「《初期》グレーゴル・ザムザ」とし、後者を「《末期》グレーゴル・ザムザ」とすれば尚更明解である。そして、これらを今の僕に重ねるならば、「《初期》グレーゴル・ザムザ」の感覚はすでに通り越しており、「《末期》グレーゴル・ザムザ」に極めて近い。


僕も、親には申し訳ないという気持ちがやはりあって、早く結婚して家庭を築いた方がいいという気持ちも以前は無きにしもあらずだった。しかし事実としてできなかったし、数年前に姉が結婚して子供ができ、その孫が可愛くて仕方ないという両親の様子を見ていたら、僕はすっかり安心してしまって、マイペースで生きていこうと固く誓った次第である。


選んだ道が道である。仕方がない。小川てつオさんを持ち出すまでもなく、うまくいかないことはほぼ確実で、それに対してどうこう言う気はもはやない。人に迷惑をかけたくないから派手なことはしない。けど、そうは言っても結構楽しくやっている。自分自身を立直すために家計簿をつけたり自炊をしていたら、逆説的に一人で生活できる力がついてきてしまったし、最近は感性が発達してきて小説、演劇、舞踏、音楽、美術、映画、野球と何でも楽しめるようになってきて、すごく充実している。


書いた文章がヒットすれば、収入も増えて、結婚して家庭を持ったりなんていうこともありうるだろうが、基本的にそれはないので、あとは人に迷惑を掛けないように「この世からひっそりと消え去っていこう」とごく自然に思っている。



6.僕 と チャーリー・パーカー


グレン・ミラー(ビッグバンド)


スウィング・ミュージックという音楽が、一九三〇年代のアメリカにおいて大隆盛を迎えます。大恐慌後の不況を乗り越えたアメリカにおいて、レコードとラジオの力を借りて、大体、現在のポップスと言われてイメージされるような音楽の基本型が、その時期のアメリカにおいて整備されていった。音楽産業的にも、譜面の売り買いや流しみたいな、人間同士が顔を向き合わせて音楽をやり取りするような流通のあり方から、ラジオやレコードといった大量生産・大量消費的なプロダクションに、音楽商業の中心地が移動してゆく。そういった過渡期に相応しい音楽として、スウィング・ミュージックというものがあり、それを演奏するメディアとしての「ビッグバンド」というものが、スタイル的にもイメージ的にもアメリカ市民に大きな影響を与えた、という話があります。ちょっと、とりあえず聴いてみましょう。





はい、こんな感じです。(※11)これはグレン・ミラー・オーケストラの演奏で、一九三〇年後半から四〇年代、つまり戦時中に最も流行したバンドの一つです。僕たちが今「スウィング」といった時に考えるイメージを完全に備えている音楽だと思うんですが、ブラスとリードのアンサンブルによって非常に洗練されたハーモニーを鳴らし、しかもそれが軽くバウンスが効いた、まさにアメリカ的なリズムに乗っかっている。綺麗にまとめられた高性能のミュージック・マシーンなわけですが、このビッグバンドのイメージ/組織論っていうものが、アメリ市民社会、および、それを反映したアメリカ軍のあり方に格好のモデルを提出する事になったんです。ビッグバンド=アメリカ国家っていうのは、イタリア系、スペイン系、アングロ・サクソン系といった様々な移民が集まって運営されており、それぞれが得意分野を持っている。各人はその得意とする武器を持ち寄って、バンドだったらソロっていう見せ場でその個性を発揮しながら、しかし、基本的にはそれぞれのポジションをしっかり守って、全体として非常に洗練された、見事に統合された作品=作戦を遂行してゆく・・・っていうね、音楽を成立させている組織論のイメージが、この時期のビッグバンド=スウィング・ミュージックにおいては、本当に驚くべき強さでもって、アメリカ市民の社会生活の理想像を体現していた。この音楽の中に、戦時中のアメリカにおける理想の人間像や社会像がしっかりと刻み込まれていて、この音楽を好んで楽しむ身体を持つって事自体が、イコール、アメリカっていう国の国益に奉仕する社会性を持つ事になるっていうラインできっちり敷かれていたわけなんです。そのように僕は理解しています。音楽っていう娯楽の中に含まれている集団や個人のあり方のイメージっていうものは、馬鹿にならないパワーを持っている。


大谷能生※12




[第10回 ゲスト:杉田俊介(文芸批評家 / 介護労働者)]より

チャーリー・パーカー(ビーバップ)

こういった強大なパワーを持ったスウィング・ミュージックの中から、この組織論とイメージを喰い破るようにして、ビーバップという新しい音楽が生まれてくる。バップを聴いてみましょう。





はい。こんな感じ(※13)で、大編成のビッグバンドによる、見事にアレンジの効いたゴージャスなサウンドから、少数精鋭が好き勝手に、自分のやりたい事をやりたいだけ、音楽上のバランスなんて無視してガンガン演奏する、っていう音楽がビーバップです。極端な個人主義、才能主義。こうした音楽が先ほど聴いたスウィングのサウンドと同じ楽器と同じ技術によって新しく作られて、で、ジャズはこの後、ほぼ完全にこのバップ的な価値観の方向へと進んでいく事になります。で、大事なのは、このアルトを吹いているチャーリー・パーカーもそうなんですけど、バッパー第一世代、ビーバップを生み出した人たちは、バップが誕生したのはまさに第二次世界大戦下のアメリカにおいてなんですが、ほとんどみんなこの戦争をシカトしていたんですね。


(中略)先ほど聴いたスウィング・ミュージックっていうものは、基本的には「アメリカの白人中産階級」のための音楽です。で、それを演奏するのもアングロ・サクソン系、ユダヤ系、ラテン系・・・基本的にはすべて「白いアメリカ」に属する人たちであり、アメリカを代表するといっても、ここには「ブラック・ミュージック」のキャラクターが、いたとしてもバイ・プレヤーとして端役にほんの一人、二人、みたいな感じで、黒人ミュージシャンは同じ曲を演奏しても、スウィング・ミュージックを巡る政治的/社会的なイメージ力学の中からは排除されていたんですね。戦中、戦後になっても、アメリカ黒人はアメリカの中できちんとした仕事に就く事ができない、不安定雇用、最下層の底辺労働者という役割を担い続けます。そういった階級としてのフリーター生活を、黒人ミュージシャンは引き受けながら暮らしていったわけですが、そういった生活を十全に反映した音楽がビーバップであり、こうしたものを彼らは独自のやり方で手に入れた。戦争遂行に成功するくらい強力だったビッグバンドのイメージ=価値観をシカトして、ダルで不安定で、健全な市民の規範から外れている自分たちの生活それ自体を、しっかりと反映=肯定するサウンドを自ら作り出す事。こうした事がビバッパーたちの行った作業でした。


大谷能生※14




[第10回 ゲスト:杉田俊介(文芸批評家 / 介護労働者)]より


こういった黒人ミュージシャンたちの振る舞いを叩き台にして、自分たちの生活の可能性を再び考えてゆく。音楽観の転換っていうものがそのまま価値観の転換にもなる、っていう事態が、前世紀の真ん中辺りに確かにあって、僕はその事に凄く勇気づけられているし、常に現在にそういった可能性を見出そうとしている、という事ですね。


大谷能生※15




[第10回 ゲスト:杉田俊介(文芸批評家 / 介護労働者)]より

カフカが言う、「この世からひっそりと消え去る事だけに希望を見出して、妹と家族にはこれから幸せな生活が待っています」というのは別に悪いと思わないし、今の僕にはしっくりくる。ただ、それはそれとして受け入れるということであって、積極的に受け入れようとか、故意に消えようという気は全くない。他に力の持っていきようがあるならば、そのようにしたいと思うし、大谷氏が語る《チャーリー・パーカー》というのは、僕に希望を与えてくれる。


チャーリー・パーカーもそうなんですけど、バッパー第一世代、ビーバップを生み出した人たちは、バップが誕生したのはまさに第二次世界大戦下のアメリカにおいてなんですが、ほとんどみんなこの戦争をシカトしていたんですね。(大谷能生)※14

戦争遂行に成功するくらい強力だったビッグバンドのイメージ=価値観をシカトして、ダルで不安定で、健全な市民の規範から外れている自分たちの生活それ自体を、しっかりと反映=肯定するサウンドを自ら作り出す事。こうした事がビバッパーたちの行った作業でした。(大谷能生)※14

《シカト》というのがすごくいい。《ニヒル》ではなく《シカト》。戦争に賛成する訳ではない。ただ面と向かって反対しても、事が荒れるだけで戦争は決して終わらない。ならば我々は関与しない。手もかさない。我々は我々だと。


チャーリー・パーカーのCDを早速買ってきて聴いてみた。なんだか無茶苦茶で好きたい放題やっているように聴こえた。当時はどう思われていたのか分からないし、音楽と言えるのかも分からない。けれども、そんなことはどうでもよくて、むしろ大切なのは、これは、チャーリー・パーカーであり、チャーリー・パーカー以外の何物でもないということだ。つまり、チャーリー・パーカーは、チャーリー・パーカーなのだ。


ふと思ったのだが、これは小川さんが狩生氏に「強い」「物」みたいと言われていたのとものすごく近い。彼らは戦争に躍起になっていた社会を《シカト》していたけれども、その音楽は社会に働きかけるパワーを宿していると感じられるし、実際何らかの形で社会に影響を与えてきたのであろう。



7.小川てつオ岡本太郎


小川てつオさんについて今一度考えてみる。岡本太郎と比べて考えてみる。岡本太郎というのは「芸術は爆発だ!」のあのおじさんだ。世間に「頭のおかしいおじさん」と思われているあのおじさんだ。世間はそうやって安心している。しかし、彼の経歴を知ればどうだろうか。


1930年代を丸々パリで過ごし、アレクサンドル・コジェーヴからマルセル・モースに至る名立たる学者の講義を直接受講し、インテリの神髄を究めたと言える人物である。

太郎のインテリぶりは、そこいらの大学教授の比ではない。これを知ったら世間はどう思うだろうか。「勉強しすぎて頭がおかしくなった」と言うだろうし、そうやってまた安心することだろう。ならば、これならどうだ。



タモリは芸能人の中にあっても例外的に岡本太郎の偉さをわかっている人間だったが、あるときタモリの番組に岡本をゲストに招き、さんざんオチャラケた後、タモリ岡本太郎にこう聞いた。


先生、つきあってくれてるけれど、ほんとは僕たち芸能人のこと、ばかにしてるんでしょう?


岡本太郎はこう答えた。


ばかにはしていないよ。気の毒だと思ってる。(※16)

岡本太郎は演じていた。何故に演じたかと言えば、それは「何も知らない世間に対するやさしさ」故にである。



一方、小川てつオさんはどうかと言えば、太郎と同じように世間には「頭のおかしい人」と思われることだろう。数年前テレビに出ていた小川さんはライブとか言って、風呂場でシャワーを全開にしてビショビショになってただただ絶叫していた。絵的に面白かったし、他の視聴者も面白いと思ったことだろう。「バカなやつだ」と。



でも小川てつオさんも岡本太郎と同じくインテリである。インテリと言ったら語弊があるかもしれないが、シャワーを全開にして絶叫するのと同じように、ふつうにハイデガーを読むし、ごく普通にレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んだ感想を語ったりする。どこで見つけたのか分からない、川崎洋の文章の切り抜きなんかを持ってきたりもする。上場している優良企業100社の社長を集めて問うてみても、そんなもの1つも出てきやしない。



小川てつオさんは岡本太郎によく似ている。ただ違うのは、岡本太郎が世間に対して《やさしかった》のに対して、小川てつオさんは世間を《シカト》しているということだ。これは時代背景が違うからだけど、岡本太郎は演じていたのに対して、小川てつオは演じていない。小川てつオは、小川てつオなのである。



8.僕は、僕である。


《シカト》。チャーリー・パーカーを通じて、僕は《芸術》というものが何なのか、少し分かったような気がする。チャーリー・パーカーチャーリー・パーカーであり、小川てつオは、小川てつオである。そして、僕は、僕なのである。


恐れることなかれ。


時田秀美のことも誤解していたかもしれない。先日『ぼくは勉強ができない』を読み直してみたら、こんなシーンがあった。



山野舞子は、傷付いた表情を浮かべながら、ハンカチで口を押さえていた。可愛い花模様のハンカチ。どうして、そんな仕草をするのだろう。そのハンカチをどけて見ろと、ぼくは言いたかった。ハンカチの下の唇が、どのように醜く歪んでいるのか、見せてもらいたいものだ。


「山野さん、自分のこと、可愛いって思ってるでしょ。自分を好きじゃない人なんている訳ないと思っているでしょう。でも、それを口に出したら格好悪いから黙ってる。本当はきみ、色々なことを知ってる。物知りだよ。人が自分をどう見るかってことに関してね。高校生の男がどういう女を好きかってことについては、きみは、熟知してるよ。完璧に美しく、けれども、完璧が上手く働かないのを知ってるから、いつも、ちょっとした失敗と隣合わせになってることをアピールしてる。確かに、そういうきみに誰もが心を奪われてるよ。だけど、ぼくは、そうじゃない。きみは、自分を、自然に振る舞うのに何故か、人を引き付けてしまう、そういう位置に置こうとしてるけど、ぼくは、心ならずも、という難しい演技をしてるふうにしか見えないんだよ」


山野は、無言で立ち尽くしたきりだった。顔は、いっそうあおざめていたが、もう、それは、背後の紫陽花のせいばかりではなかった。


「ぼくは、人に好かれようと姑息に努力する人を見ると困っちゃうたちなんだ。ぼくの好きな人には、そういうとこがない。ぼくは、女の人の付ける香水が好きだ。香水よりも石鹸の香りの好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けてる女の人の方が好きなんだ。これは、たとえ話だけど」


いきなり、ぼくは、頬をぶたれた。山野舞子は、目を輝かせているように見えたが、それは怒りのせいだということが、彼女の膨んだ小鼻で解った。


「何よ、あんただって、私と一緒じゃない。自然体っていう演技してるわよ。本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持ってるって思ってるくせに。優越感をいっぱい抱えてるくせに、ぼんやりしてる振りをして。あんたの方が、ずっと演技してるわよ。あんたは、すごく自由に見えるわ。そこが、私は好きだったの。他の子たちみたいに、あれこれと枠を作ったりしないから。でもね、自由をよしとしてるのなんて、本当に自由ではないからよ。私も同じ。あんたの言った通りよ。私は、人に愛される自分てのが好みなのよ。そういう演技を追求するのが大好きなの。中途半端に自由ぶってんじゃないわよ」


ぼくは、打たれた頬を押さえたまま呆然としていた。


(中略)他の人とは違う特別なものを持っていると思っているくせに。彼女のその言葉を、ぼくは、いつまでも反芻していた。もしかしたら、ぼくこそ、自然でいるという演技をしていたのではないか。変形の媚を身にまとっていたのは、まさに、ぼくではなかったか。ぼくは、媚や作為が嫌いだ。そのことは事実だ。しかし、それを遠ざけようとするあまりに、それをおびき寄せていたのではないだろうか。人に対する媚ではなく、自分自身に対する媚を。


人には、視線を受け止めるアンテナが付いている。他人からの視線、そして、自分自身からの視線。それを受けると、人は必ず媚という毒を結晶させる。毒をいかにして抜いて行くか。ぼくは、そのことを考えて行かなくてはならない。桃子さんや母が、あっぱれなのは、その過程を知っているからだ。本当の自分をいつも見極めようとしているからだ。


ぼくは、何故か、その時、皮剥き器のことを思い出した。あれで野菜を削った時のように、ぼくのおかしな自意識も削り取ることが出来れば良いのに。そうすれば、ぼくの見せかけと中味が一致する日がきっと来る。(※17)


結局、ぼくの価値観は、父親がいないという事柄が作り出す、あらゆる世間の定義をぶち壊そうとすることから始まっていたのに気付いたのだ。ぼくが、昔から憎んだのは、第三者の発する「やっぱりねえ」という言葉だった。ぼくは、その逆説を証明することで、自分自身の内の正論を作り上げて来たのだ。それは、ぼくは、ぼくである、というそのことだ。他人が語れる存在にはならないという決意だ。(※18)

時田秀美は、時田秀美である、という訳か。



先日、電車のなかでフーコーを読んでいるおじさんがいた。「そういう人もいるんだな」と物珍しく眺めていた。それから、論文の梗概だろうか。それを読みながら必死に赤ペンで書き直している人も見かけた。「そういう人もいるんだな」と物珍しく眺めていた。それから、東大の田中純先生がレクチャーのときに手にとった本に物凄い数の付箋が貼ってあったのを見て「やっぱり東大の先生は違うなあ」と感心もした。


でも、よくよく考えてみれば、僕はいつも通勤の車内でフーコーに類する本を読んでいるし、ノートを取り出してひたすら書きなぐっているし、本にはイエローマーカーをビービー引いて、付箋をペタペタ貼りまくっている。


僕は、僕である、ということだ。



チャーリー・パーカーは、チャーリー・パーカーである。


小川てつオは、小川てつオである。


時田秀美は、時田秀美である。


奥田民生は、奥田民生である。


そして、


僕は、僕である。



チャーリー・パーカーの芸術

チャーリー・パーカーの芸術



「パーカー先生ありがとう。今、買ってきた先生の本を読んで、CDを聴いてます。でもCDはこっちの方が好きかもしれません」。




これもアリでしょう(笑)。


ジョニー・キャッシュ&ジューン・カーター・キャッシュを聴きながら、チャーリー・パーカーを読んで、チャーリー・パーカーではなく、ジョニー・キャッシュ&ジューン・カーター・キャッシュでもない、ビーバップではなく、カントリーでもない、音楽でもない、何かを、僕は、僕なりに創るだろう。



僕も芸術家になれるかもしれない。





※ photo by montrez moi les photos



《次回更新予定日 2008年4月30日》





※1 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 p.205.
※2 同上p.249.
※3 山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮文庫pp.117-118.
※4 同上pp.13-14.
※5 『建築等学会1998論文・報告集』p.84.(抜粋して引用)
※6 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 pp.225-226.
※7 『建築等学会1998論文・報告集』p.105.
※8 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 p.211.
※9 同上p.232.
※10 同上p.233.
※11 実際に大谷氏が会場で流したのは『タキシード・ジャンクション』であったが、拙者がアレンジして本稿では『イン・ザ・ムーン』を採用した。
※12 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 pp.234-235.
※13 実際に大谷氏が会場で流したのは『バーズ・ネスト』であったが、拙者がアレンジして本稿では「チャーリー・パーカーのセッションの様子」を採用した。
※14 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 pp.235-236.
※15 同上pp.237-238.
※16 岡崎乾二郎「拒絶と生産 追悼・岡本太郎」(『批評空間2-9』太田出版 所収)p.122.
※17 山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮文庫 pp.150-154.
※18 同上 p.111.






《イベント情報》

大谷能生・門松宏明
『今、ここでフランス革命』フェア


於:ジュンク堂書店新宿店7F芸術書コーナー


※批評家・佐々木敦さんから頂いた直筆ポップなどについて共著者の門松さんが渾身のレポートを書いてくださいました。


※『エ ス プ レ ッ ソ』(大谷さんが編集していた音楽批評誌)入荷しました。すごくいいです。


※ 朗 報

堀江敏幸『河岸忘日抄』新潮社


文庫版が5月1日に発売されます!
http://www.shinchosha.co.jp/book/129473/

[第11回]を味わう上で欠かせない一冊なのですが、単行本が現在、出版社品切で入手できなかったのです。あ〜、よかった。これにて一件落着。


あと[第4回]で岸野さんが紹介している、この本を入手できればよいのだが。

『365日のお弁当革命 新装版』主婦の友社

大谷能生+木村覚 プロデュース「Direct Contact vo.1」


日時:4月 23日 〜 25日20:00開演(19:30開場)
会場:月島TEMPORARY CONTEMPORARY


※大谷さんからのコメントはこちら


宇波拓さん達の演奏をムービーでちょっとだけ見ましたが、もうビックリです。

『大谷能生のフランス革命』特別講義


日時:4月29日19:00開演(18:30開場)
会場:紀伊國屋ホール(新宿本店4F)

詳しくは大谷さんのウェブサイト《大谷能生の新・朝顔観察日記》をご覧下さい。





阪根Jr.タイガース


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