2069話 続・経年変化 その35

読書 11 ガイドブック4

 『地球の歩き方 インド ネパール』の復刻版が出るずっと前のことだが、日本人のインド旅行史を読みたいから書いてくださいなと天下のクラマエ師にいったら、「そんなの、誰がおもしろいと思うの?!」と、0.002秒で拒絶された。インドに限らず、日本人の海外旅行史に興味なんかないんだ、誰も。これほど多くの日本人が訪れるハワイ旅行にしても、その歴史的変遷をきちんと押さえて書いた本がどれだけあるか。ハワイで日本人は何をしたか、何を食べ何を買って帰ったかといった旅行体験の変遷だ。「日本人の海外旅行時代の幕開け」といった短い記事はいくつもあるが、真正面から書いた戦後から現在までの「日本人の戦後ハワイ観光史」は読んだことがない。

 ハワイでさえその程度だから、いわんやインドをやである。ライターであり編集者であり、出版社の社長でもあるクラマエ師の判断は、まことに正しい。読者の興味という点では、その通り「まったく売れない」ということだ。私の好奇心は世間の主流とずれている。手元の資料とインターネット情報を集めて、日本人の韓国旅行史のメモを6回にわたって書いた。491話から6回だ。韓国をフィールドにしていない私でも、この程度の文章なら数日で書けるレベルなのだが、韓国研究者、とりわけ日韓交流研究者は些事を積み重ねた旅行史を書いているだろうか。韓国と違って、香港はかつて日本人に人気の観光地だったが、これまた「日本人の香港旅行史」といったまとまった文章はあるのだろうか。

 日本人のインド旅行史に関しては、本腰を入れて調べたことがないから、1960年代のインド旅行事情がわかる手元の本はこの2冊しかない。

 “On The Road Again(Simon Dring , BBC BOOKS,1995)・・・1962年、16歳のイギリス人がインドに向かった。2年後、タイで新聞記者になった。のちにBBCの記者になって、少年時代の旅をテレビ番組で再訪。昔話や写真も豊富だ。

 “Magic Bus: On the Hippie Trail from Istanbul to India”(Rory MacLean , Viking , 2006)…イスタンブールからカトマンズに行くバスが出ていた時代がある。1973年に、カトマンズでこのバスを見ている。

 インド旅行史は本格的に調べる気があれば、ある程度資料は見つかるだろう。

 旅行事情の資料本ではないが、エッセイとして私の希望をもっとも叶えた本が、『つい昨日のインド: 1968~1988(渡辺建夫、 木犀社、2004)だ。『インド青年群像』(1980)、『インド反カーストの青春』(1983)など、主にインド関連の本を多く書いてきた著者の、1968年から接してきたインドと友人たちの話だ。傑作ですよ。

 『つい昨日のインド』が貴重だと思えることはいくつもあるが、1960年代のインド旅行を体験している人は、80歳近いか80歳を超えているから、記録を残せる人はもうあまりいないのだ。それ以上に残念だと思うのは、日本人のインド旅行史がまだ書かれていないことが問題だと思う人がほとんどいないことだ。やはり、興味のない分野なのだ。インドは少し違うが、一般的にガイドブックを買う人が求めている情報は、「食べると買うと、絶景撮影地」の最新情報で、それ以外のインドはほとんど興味がないのだ。

 私は日本人のタイ旅行史をある程度調べたが、いまだに本腰を入れて書き出そうとしないのは、それをおもしろがる人がほとんどいないとわかっているからだ。だから、この雑語林で断片的に書いているだけだ。

 アジアの旅とか貧乏旅行などと限定しなくても、日本人の海外旅行異文化体験というのも、編年史にすれば興味深い。日本人団体旅行の「あるある」といえば、風呂とトイレの話がまず出てくる。西洋式の浴槽の外で体を洗うとか、腰掛式便器の上にしゃがむというのがごく初期の異文化体験だ。いまでもある風呂のトラブルは、これだ。日本人の団体がホテルに着くと、ほぼ全員が浴槽に湯を注ぐので、湯の温度が下がり、「水風呂に入れる気か!」という苦情が添乗員のもとに殺到する。先日聞いたのは、パリのホテルで、浴槽に湯を注いでいるうちにうたた寝をして、寝室の床まで濡らしてしまったという事件の処理をするはめにあった大学教授の話だ。

 かつてはステテコ姿で廊下を歩くというのは、ごく普通のことで、朝食のときでもその姿で食堂に表れることもあるという。円安の時代から円高、そしてまた円安の時代へと移り変わるカネの出入りとか、話題になりそうなことはいくらでもある。日本人旅行者の歴史をガイドブックから調べるという研究手段もあるのだが、誰も手をつけない。

 次回は連載を小休止して、最近の読書の話をする。

 

 

2068話 続・経年変化 その34

読書 10 ガイドブック3

 過去の『地球の歩き方』を調べていて、初期のガイドがデジタル復刻されているのを発見した。『地球の歩き方 3 インド・ネパール 1982-1983(初版復刻版) インド・ネパール初版復刻版』は見つけたのだが、『アメリカ』や『ヨーロッパ』など他地域のものは復刻されていないようだ。

 私はインド旅行事情に詳しくないが、アマゾンのこの復刻版があるページの、「サンプルを読む」で旅行の準備編を読んだ。パスポート申請書の書式も出ている。あのころは、若者のまわりに海外旅行経験者が少ないから、パスポートとはなにか、ドルの両替はといた基本情報をきちんと書いておかなければいけない時代だった。だから、日本人の海外旅行史を知りたいと思い、その種の資料を買い集めて来た。インドの旅行情報以前に、日本を出るための準備をすべて頭に入れておかなければいけない。今でも、海外旅行は初めてという若者はいくらでもいるが、友人知人家族に経験者は多く、インターネットの情報も豊富にあるから安心かというと、初めての外国はやはり不安だろうとは思う。

 中国や朝鮮など東アジアを除いて、日本人は長い間アジアには興味がなかった。例外が地政学に興味があったり、移住や移民に興味のある人たちだった。戦後も、多少なりともアジアに興味を持っていたのは、仏教研究でインドに行く人たちだった。聖地巡礼である。ただの旅行者がインドにまとまってやってくるのは、『地球の歩き方 インド ネパール ‘82~’83』が出てからだが、インドに興味がある人はたいてい東南アジアは通過点に過ぎなかった。だから、今でも、アジアに興味を持つ人は、東アジア派のほか、インド亜大陸派と東南アジア派に分かれ、東南アジア派はインドシナ半島派と海洋アジア派に分かれる。インド派が北と南に分かれるのかどうかは知らない。

 1960年代のアジア旅行の資料はあまりない。ここでいう旅行資料とは、ジャーナリストや小説家などの取材旅行ではなく、個人旅行者の旅行がわかる資料のことだ。今まで調べたわずかな資料は、雑語林375話1029話にすでに書いている。

 インド安宿史はわからなかった。1960年代はそもそも旅行者が少なかったという理由もあるが、私が本腰を入れて調べたことがないせいでもある。

 タイの旅行事情は、長い時間と多少の調査費をかけたせいで、少しはわかった。戦前の旅行記も少しは集めたものの、なんとも残念なのは、金子光晴はマレーから北上しなかったから、タイ編がないことだ。林芙美子は戦時中のベトナムやボルネオに行ったが、タイには行っていない。戦後では、海外旅行が自由化される前のタイは、梅棹忠夫の『東南アジア紀行』でわかる。1964年以降は、無名の若者の旅行記がいくつか出版されていて、多少参考になった。すでに書いたように、タイの旅行ガイドは何冊も買い集めてある。ベトナム戦争時代のガイドに、拳銃を持って飛行機に搭乗する場合は、銃は事前に乗務員の渡しておくことといった記述があり、米軍兵士用のガイドをそのまま日本語に翻訳したとわかる。ワールドフォトプレスの『タイの旅』の1970年代の版にはイラストマップがあって、在りし日のバンコクがわかって興味深い。地図も集めているから、変化がわかって、興味深い。

 「バンコク安宿列伝」は、『バンコクの好奇心』(めこん、1990)に書いた。カオサンにはまだ安宿がなかった時代の文章だ。1990年代以降のカオサン時代の安宿について書いた人はいるが、カオサンの安宿誕生史を実証的に書いたものはない。イスラエル人旅行者とカオサンの関係を調べれば、修士論文クラスの価値はあるのに。

 

 

2067話 続・経年変化 その33

読書 9 ガイドブック 2

 手元にあるタイのガイドブックをアマゾンで調べると、半分くらいはヒットした。その売価は数百円から数万円までいろいろあり、1990年代のものが全部高いというわけでもなく、値付けに意味はないようだ。手元のガイドブックのすべての販売価格を想像すると、合計は数十万円になるかもしれない。つまり、新たに全部買いなおせば、数十万円の資金がいるということだ。『ブルーガイド 韓国』の1980年版の売価は5万円だから、合計数十万円というのはけっしておおげさな予想ではない。しかし、もし手持ちのガイドブックをすべて売却すれば、古本屋の買取価格合計は良くてもせいぜい数千円だろう。旅行資料に関心がある古本屋で、たぶんその程度だろう。普通の古本屋なら「ゴミ」扱いで、買取不可だろう。それが、ガイドブックの現実だ。

 タイの旅行ガイドは、日本語のものは国会図書館にかなりあるが、英語のものはロンリープラネットのものが数冊あるだけだ。私の手元には、1984年版と87年版の”Thailand a travel survival kit”があるが、国会図書館にはない。この2冊はバンコクの古本屋で買った。次のような資料だと、日本のほかの図書館には多分、ほとんどない(京都大学東南アジア地域研究研究所の図書館にはかなりの資料があるはずだ)。

 “Guide to Bangkok with Notes on Siam”(Erik Seidenfaden) ・・・手元にあるのは、1928年にタイ国鉄が発行した第2版をオックスフォード大学が1984年に復刻したもの。バンコクの新刊書店で購入。1500バーツくらいだっらような記憶がある(当時、3000円くらい)。現在、アマゾンなので、送料込みで100ドルくらいする。

 “A New Guide to Bangkok(Kim Korwong&Jaivid Rangthong,Hatha Dhip,Bangkok,1950)…ネット古書店で購入。売主はサンフランシスコだったかシドニーだったか覚えていない。

 “Guide to Bangkok(Margaretta B.Wells, The Christian Bookstore,1966)・・・これは立教大学図書館で見つけた。「タイの物価が高い」という記述が興味深い。レストランシアターの夕食が、5米ドルだ。植村直己アメリカに渡った1964年の労働者の日給が6ドルだ。タイが自国通貨を高く設定していたから、外国人には高額だったようだ。これは当時のインドネシアも同じ。

 “Guide to Bangkok Thailand”(The Pramuansarn Publishing House,1970)・・・休暇でタイに来た米兵向けのガイドブック。バンコクの古本屋で購入。ベトナム戦争当時のタイと米兵の関係がよくわかる。このように、英語の資料となれば、国会図書館よりも多分私の方が持っているだろう。

 1980年代初めまでの海外旅行資料、たとえば弱小旅行社のパンフレットやチラシ、ミニコミかそれに近い雑誌などを大量に持っていたのだが、82年にアフリカに行く直前に、ほとんどの資料を旅行雑誌「オデッセイ」の編集部に勝手に持って行った。もしかして、アフリカで死ぬかもしれないから、貴重な資料を託しておこうと思ったのだ。

 何度も書いてきたが、観光学は、観光で利益を受ける企業や団体・自治体側の学問だから、観光立国だの町おこしなどの資料は提供するが、実際に旅をしてきた人たちの足跡には興味がないようだ。旅行会社がいかにツアーを売ったかとか、航空会社がどんな宣伝をしたかといった記録はあるが、客である日本人がいかに旅したかという記録はほとんどない。そんなことを研究してもカネにならないからだ。企業や自治体からの研究費援助もないだろう。インドでも中国でも韓国でも、ガイドブックに見る日本人の旅行史をていねいに掘り下げたら興味深い研究になると私は思うのだが、そういう考えはどうやら異端らしい。旅行研究が経済学や商学だけでなく、異文化体験にも足を踏み入れるといいのだが・・・。「旅行でカネ儲けをするのが悪い」などとはまったく思っていないが、「いかにうまく儲けるか」しか考えていない学問はさみしい。

 

 

2066話 続・経年変化 その32

読書 8 ガイドブック 1

 財団法人日本交通公社が運営している旅の図書館には、さすがにガイドブックはある程度はあるようだが、私の興味の対象である日本の若者の海外旅行史資料はほとんどないらしい。蔵書検索の「出版社」で調べてみても、オデッセイはゼロ、白陵社は2冊だけ、そのほか1950~70年代の若者が外国に行こうとした足跡は、この図書館では調べられない。別の言い方をすれば、1980年代以降の「地球の歩き方」や「旅行人」の時代の資料はある程度所蔵しているが、それ以前の若者の海外旅行史の資料はほとんどないのだ。

 海外旅行が自由化される前後の若者、団塊世代とそれ以前の世代が、「青春時代の旅行記」を自費出版する例はいくらでもあり、その家族でもあまり読みたがらないだろう印刷物をこまめに買い集めている。はっきり言って、資料的価値も文学的価値もないのがほとんどだが、1行でも参考になることが書いてあるかもしれないと思って買うのである。

 そういう資料なら、本格的な旅行図書館よりも、コレクターでもない私の方が多く持っているかもしれない。単行本に関して言えば、私よりも多くの資料を揃えているのは、国会図書館だろうと思って調べてみた。

 かつて、KKワールドフォトプレスという出版社が、旅行ガイドを数多く出していた。タイのガイドブックとしては、かなり古い。私の手元にあるのは、『タイの旅』は、初版が1973年の75年の改訂第3版だ。このシリーズはのちに『タイ・ビルマの旅』と書名を変え、78年版と81年版も手元にあり、こちらは国会図書館にもあるが、それより前に出た『タイの旅』はない。国会図書館でも、旅行ガイドブックは全点収蔵ではない。幸運なのは、70年代の旅行ガイド「パントラベルガイド」が17冊あることだ。

 旅行ガイドブックは消耗品だから、神保町の由緒ある古本屋には置いてない。あるのは私鉄沿線の商店街にある古本屋で、たいてい二束三文の値段がついていた。5年前の「るるぶガイド」じゃ、誰も買わない。使い倒したガイドブックに価値はないと思われていたから、店頭でたたき売りされていた。ネット書店ができたころ(まだアマゾンはなかった)、ていねいに調べれば昔のガイドブックや旅行記がやはり二束三文で売られていて、こまめに買い集めたものだ。

 ところが、そう、10年くらい前からだろうか、古いガイドブックに骨董的価値をつけようとしているのか、とんでもない値段がつくようになった。かつて300円の値段がついていたガイドブックに2万0000円の値がついている。売値をいくらにつけようが出品者の自由だが、いったい誰が買うのか。

 例えば、こうだ。『地球の歩き方』の古い版の値段をアマゾンで調べてると、どんでもないことになっているのがわかる。書名はアマゾンの表記のママ。

地球の歩き方 インド・ネパール』 1984~1985年版・・・3万4900円(デジタル版のことはのちの回で書く)。

地球の歩き方 インド』 90~91年版・・・20万0874円

地球の歩き方 ヨーロッパ』 1985~1986年版・・・3万0080

地球の歩き方 中国』 87~88年版・・・2万99979円

地球の歩き方 アメリ』 1980(画像は84~85)・・・8万7593円

 誰かが仕掛けようとしているニオイがするので出品者を調べると、多くは「もったいない本舗」だ。私のよく利用するネット古書店で、いかがわしさはない。ということは、この古書店は旅行ガイドブックの価値を高めようと、高価格を設定したのだろう。美術品などにはよくあることだ。さて、問題は、誰が買うかだ。

上に書いた売値は原稿執筆時のものだから日々変化している。原稿を書いて1週間後に『インド』を調べ直したら、21万円になっていた。

 ロンリー・プラネットはどうか? ついでにちょっと調べてみた。「日本」編のスペイン語Lonely Planet Japón”を調べたら、2014年版、いくらだと思う? 「36万円だよ!!!!」と、びっくりしてこの文章を書いて10日後、改めて調べたら9608円だ。その値段で売れたとは思えないから、打ち間違いだったのか。

 

 

2065話 続・経年変化 その31

読書 7 図書館6 

 大学で講師をやることになって、役得のひとつは大学の図書館が自由に使えることだなと思った。講師1年目の4月、図書カードを支給されて、講師は学生よりも多くの本を貸し出し可能という説明を受けたが、本を借りることはあまりなかった。読みたい本がほとんどないのだ。

 まず、ガイドブック。観光学部がある立教大学新座キャンパスの図書館なら、旅行関連の資料はいくらでもあると思っていたのだが、書店に並んでいる旅行ガイドと同じものが並んでいるだけで、過去のガイドブックは廃棄処分にしていると知った。これは、とんでもない事だ。日本語のガイドブックでも、例えば中国旅行のガイドがすべて保存してあれば、外国人に開放された地域の変遷がわかる。物価や宿など、当時の取材力で載せることが可能だった旅行事情のすべてがわかる。

 19世紀の旅行ガイドブック、ドイツの「ベデカ」とイギリスの「マレー」は、主にヨーロッパ近代史研究者たちが大好きなテーマで、研究書もあり論文なら多数あるが、飛行機時代に入ってからのガイドブック研究を、私は知らない。

 1980年代末までの、ソビエト連邦のガイドが残っていれば、いくつもの情報が読み取れる。例えば、1985年ごろの東ドイツを知る資料はいくつもあるだろうが、ガイドブックなら同時代の事情がわかる。地図も参考資料になる。中国のように変化が激しい国の旅行ガイドなら、10年前のものでも歴史資料になる。

 そういう貴重な資料であるガイドブックを消耗品としか考えないのは、地方の小さな図書館ならいたしかたないが、観光学部がある立教の図書館でも「廃棄処分」とはなんたることか。知り合いの教授にそう抗議すると、同意していただき、ここ10年分以上は保存資料になっているそうだ、確認はしていないが。

 新座キャンパスの図書館で不満だったことはもうひとつある。私が知りたい「海外旅行史」の資料がないのだ。観光学というのは、私見だが、観光で利益を受ける企業や団体や地域のための学問で、旅行をする人たちの研究はおろそかだ。外国旅行を例にすると、航空会社や旅行会社がいかに集客に努めたかという資料はあっても、旅行者側の事情には言及しない。何をきっかけに旅行地を選んだのか。旅行の準備はどうしたのか。どういう物を旅行に持っていたのか。カルチャーショックはどうだったのか。食事に問題はなかったのか・・・と、書き出せばきりがない疑問が浮かんでくるのだが、図書館には旅行者側から見た旅行史の資料がないのだ。「日本人旅行者の歴史」がわからないのだ。

 しかたがないので、自分で資料を買い集めることにした。おもに1950~60年代の旅行記や旅行指南書を買い集めた。指南書というのは、通常のガイドブックではなく、パスポートの取り方などから始まる基本情報を書いた本だ。小説家など有名人の旅行記は戦前期のものから図書館にいくらでもあるが、無名の若者の旅行記は集めていない。

 1990年代に注目を集めることになるバックパッカーの前史となる資料も図書館は気にかけない。旅行会社や観光学者は団体旅行を見つめていた時代がまだ続いていて、いきなり「個人旅行の研究」といっても、前史がわかっていない。元JTB社員が書いた『パッケージツアーの文化誌』(吉田春生、草思社、2021)など業者側の人間が書いた本は何冊かあるが、その手の本には、業者が旅行者に無理やり買わせた土産物の話や売春など旅行業界の裏世界の話は一切出てこない。それが観光学研究の現実だ。

 図書館への期待は大きかったのだが、そういう観光学資料を集めた場所だからたいして役に立たなかった。ただ、ちょっと助かったこともある。アマゾンで見つけた英語の高い本を、内容がわからずに注文する勇気と財力がないので、一応立教の図書館の蔵書を検索するとヒットすることがあった。すぐさま実物を見て、必要な個所をコピーしたことが数回ある。例えば、この本。「Israeli Backpackers: From Tourism to Rite of Passage」(Chaim Noy、Erik Cohen)は、出版当時の2005年頃8000円か9000円くらいしていたと思うが、いまアマゾンで調べると、2万7540円だ。エリック・コーエンはバックパッカーの研究書が多く、どれもおもしろそうだが、数万円する。翻訳書はないようだ。ちなみに、rite of passageは「通過儀礼」。

 講師控室のパソコンはありがたかった。自宅で調べものをしていて、そのテーマの重要資料が論文となって発表されていることを発見する。短いものならすぐに読むが、60ページとか80ページと長いものだとモニターで読む気がしない。だからと言って、いちいちプリントしていたら、たちまちインクがなくなる。そこで、講師控室のパソコンとプリンターを利用させていただいた。

 立教大学から受けた恩義は、この講師控え室か。

 

 

2064話 続・経年変化 その30

読書 6 図書館5

 マイクロフィルムで昔の新聞記事を読んで、その同時代性にワクワクしたことがあると前回書いた。のちに回想して書いているのではなく、その時の事情だ。1962年のアジア大会ジャカルタ)の記事を読んで、こういう文章を書いた。アジア雑語林407話から、その一部を引用する。

 

 東京オリンピックの2年前、ジャカルタで開催されたアジア大会は、インドネシアが親中国(だから反台湾)で、インドネシアイスラム国家だから当然反イスラエルという政治姿勢を露骨に見せたものだった。日本がどの立場に立つかで2年後の東京オリンピックは中止になるかもしれなかった。イスラエルや台湾を招待しないアジア大会を、IOCは公認の大会とは認めなかった。だから、非公認の大会に出場する国は、IOCから除名すると警告された。日本がジャカルタアジア大会に参加すると、東京オリンピックは消滅するというわけだ。しかし、日本は、インドネシアとも仲良くしたい。さて、困ったという大会だったのだ。 

 1962年のアジア大会のことを知りたくて、図書館で新聞のマイクロフィルムを読んだことがあるが、ジャカルタで暴動(政府主導だ)が起きて、緊迫した政治状況がよくわかる。このアジア大会のことは、『ジャカルタの炎』(新村彰、彩流社、1982)に詳しい。聖火がインドネシアに寄らない理由は、そういうところにあるのだろう。

 

 NHKドラマ「いだてん」で、このアジア大会のことが出てきたが、東京オリンピックが中止になるかもしれないという危機があったことを知っている人がどれだけいるだろうか。女子バレーの試合も中止されそうな危機にあったという話は、1356話(2019-12-15)に書いた。興味深いエピソードだ。

 図書館に通って集めたコピーの束を、先日まとめて捨てることにした。捨てるといってもゴミにするわけではなく、切ってメモに使っている。だから、ときどき戦前期の自動車雑誌の広告や新聞記事がメモの裏にあることがあり、ちょっと懐かしくなる。

 自動車や現代史研究に関しては、図書館の資料をコピーするために通ったのだが、本を借りるために図書館に通ったことももちろんある。東南アジアの翻訳書を借りて読んだ話はすでにした。

 読みたいが、高すぎる。ちょうど近所の図書館にあったので、通って借りたというのが、『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)だ。1987年から全4巻で出版されたのだが、1冊が二段組1000ページ近くある大著で、4冊合計2万7300円だった。ロッパの本はこれ以前も以後にも、何冊か読んでいるが、それらは買って読める本だった。が、この日記は買えない。日記の柱は芸能と食事で、私は食日記に注目して読み続けた。この日記は、このコラムでたびたび取り上げている。例えば、次の2回。

 380話、 

 381話

 厚い本だからできるだけ急いで読みたいのだが、興味深い情報が入っていて、発見のたびに再調査をしたくなるから、読書はなかなか進まない。知りたくなることが次々に出てくる読書は私の場合喜びなのだ。

 日記を読むことに熱中するひと時を過ごしたせいで、古本屋で『夢声戦争日記』(中央公論社、全5巻)を買った。戦時中、今のシンガポールやマレーシアに滞在していた日本人は、「風と共に去りぬ」などアメリカ映画を見たという記録を残していて、夢声もそのひとりだった。小津安二郎も、シンガポールアメリカ映画を多数見ている。この日記は、抄編の形で、夢声船中日記』 として中公文庫に入っているのを今知った。深入りしてはいないが、他人の日記を読むのは楽しい。

 夢声の日記は戦後発表されたものだが、マレーでアメリカ映画を見たという文章を戦時中に発表した人がいる。『南方演藝記』(小出英男、新紀元社、1943)には、「風と共に去りぬ」のほか、チャップリンの「独裁者」も見ていて、「愚劣なギャグだ」と評しているのは本心か、それとも時節柄を考えてもことか。「ロアリング・トウエンテイス」という映画の紹介もあり、これは好評だ。この映画はジェームズ・ギャグニーのThe Roaring Twenties(1939)で、1955年に日本で公開されたときの日本語タイトルは「彼奴は顔役だ」。

 林芙美子の日記や日記をもとにした小説と、発表することなど考えていない本当の日記とを対比して解説した『林芙美子巴里の恋』(林芙美子今川英子中央公論新社、2001)は、のぞき見趣味であることはわかっているが、やはり興味深い。日記を読むと、紀行文のウソあるいは脚色がわかってしまうのだ。

 

 

2063話 続・経年変化 その29

読書5 図書館4

 海外旅行が自由化された1964年当時の生の情報に接したくて、新聞記事をマイクロフィルムで読むことにした。後の時代なら、新聞は縮刷版があるのだが、60年代だとマイクロフィルだ。今なら、新聞社のデータベースを利用すれば、自宅(有料)か図書館(無料)で、過去の記事が読める。

 後の時代に編集した資料ではなく、その当時の資料は当たり前だが「活きがいい」。よく言われる話で、大掃除や引っ越しの時に、古新聞を見つけるとついつい読んでしまうという話題があるが、まさにそうで、図書館で古い記事を読んでいるのが楽しくて、「1964年の海外旅行」というテーマを離れて、事件報道でもマンガでも広告でも、何でも読みふけり、65年も66年の新聞も読むことになり、毎日図書館に通った。

 私が知りたかったのは、「目に見えぬ外国」と接する時代から、「現実に身を置く外国」へと変わっていく日本人の姿だ。だから、映画の広告も新聞のラジオ・テレビ欄を見ても、その資料はあった。外国の音楽の紹介番組や外国語講座でも、私のアンテナにひっかかった。このテーマは、のちに『異国憧憬』JTB)というタイトルで本になった。

 海外旅行が自由化された1964年前後という時代に私は生きていたのだが、まだ子供で世間を知らない。だから戦後史関連の資料を買い集めて読んでいたのだが、なんだかよくわからないのだ。現実感というものが、わからない。いわゆる隔靴掻痒(かっかそうよう、靴の上から足を掻く)である。それが、新聞を読んで少しはわかってきた。例えば、広告欄だ。

 求人欄を見ると、日産自動車の工員募集が出ている。「日給500円」。1964年に日給500円というのは、企業が自慢できる金額だということだ。中小弱小企業なら「当社規定により優遇」と書いて、具体的な金額は明記しない。当時はまだ土曜日は半休だったが、おそらく残業などがあっただろうから、実際の月給(日給月給)は500円×25日で、額面1万2500円。税金などいろいろ引かれて、手取りは1万円残るかどうかだろう。当時の若い労働者はその程度かそれ以下の生活だったとわかる。ちなみに、1964年の巡査の初任給は1万8000円、小学校教員の初任給は1万6200円だが、私は中卒高卒の若者を想像して、その懐具合を調べてみた。当時は、そういう若者がほとんどだったからだ。

 ちなみに、私が高校生だった1970年に書店でアルバイトをしたことがあるが、時給120円だった。交通費込みで、日給が1000円の時代に入ったとわかる。その当時、発掘のアルバイトもした。日給を覚えていないが、多分1000円弱だったと思う。

 所得水準を表す資料で、「銀行の大卒初任給」を例にする人が多いが、その当時大卒者がどれだけいたか考えていない。大卒者でも、「小学校教員の初任給」の方が、まだ現実的だが、大卒銀行員でも、海外旅行は夢のまた夢だったのだが、彼らには出張や駐在員という形で、外国に行く機会は、わずかばかりではあってもその可能性はあった。

 月に1万円ほどの賃金を得ている若者が夢想する「海外旅行」とはどういうものなのか、航空運賃などを調べて、その絶望感を想像するのである。当時のハワイツアー10日間は40万円ほどだ。手取り月給1万円の若者の40か月分だ。現在の手取り月給を20万円と仮定すると、その40か月分、つまり800万円だ。その絶望感を理解しないと、海外旅行史はわからない。

 不動産広告もおもしろかったので、コピーした。1964年の宅地広告だ。

 四谷3丁目 坪16万円

 牛込柳町 坪16万円

 武蔵境 徒歩12分 坪3万3000円

 横浜市上大岡 徒歩10分 坪1万9000円

 『地球の歩き方』が出版され、大学生たちが外国に行くようになる1980年代前半のアルバイトの時給は500円くらいだった。そろそろ定年を迎えるサラリーマンの大学生時代のアルバイト時給がそのくらいだった。40年でやっと倍だ。

 昔の新聞をていねいに読んでいると、鹿島茂の文章を思い出した。

 フランスのことを学び、論文を書くことについて、鹿島茂は『歴史の風 書物の凪』(小学館文庫)で、次のように書いている。

 「おれには暴力団の知り合いがいるぞ」といきがるのと同じレベルで、「フーコーが、デリダが、ドゥルーズが」と言うためだけにお勉強するんだったら、一九世紀の新聞でも読んでいたほうが、どれだけましかわからない。

 そうなのだ。学者の名前が出てくるだけの論文につきあうよりも、昔の新聞を読んでいた方が、「その時代の臨場感」が伝わってくるのだ。それがわかってない自称研究者が書いた読書ノートのような文章を「論文」と詐称しているのに、それを御愛想で評価する研究者が少なくない。