坂野潤治『<階級>の日本近代史』

日本の明治における、いわゆる「明治維新」と呼ばれる「革命」が、まあ、形式上において、「武士」という支配階級「自身」によって行われたことは、多くの人たちに、この日本の変革への「違和感」を与えている。というのは、支配階級がなぜ、自分たちの「支配」という、有利な関係を「変えよう」としなければならないのかが意味が分からないからである。

一八七九年(明治一二)年に幕末時代をふりかえった福沢諭吉は、王政復古の立役者であった薩摩七七万石の武士は、藩主をのぞいて一二の格式に分かれていたことを指摘したうえで、「右十二等の格式、大藩にしては甚だ簡易なり。他の諸藩、僅五、六万石の家にて、格式の等級を二十にも三十にも定めたるものに比すれば、著しき相違を見る可し」と記している(『福沢諭吉全集』第四巻、五一二頁)。

つまり、薩摩藩長州藩とが、他の藩と決定的に違わせていたものが、その藩の武士それぞれにおいて標識とされる「階級」の複雑度が、決定的なまでに「簡素」だったことにある。言うまでもなく、明治革命は、

による「革命」である。つまりこの、薩摩と長州の、もともと「簡素」な「階級」構造が、容易に他藩の複雑怪奇な「階級」分化に対して、

  • 団結

による、圧倒的な能力の多寡を実現した。
薩摩と長州の下層武士によって実現された「革命」は、今から見ると、二つの奇妙な結果を実現した。一つが、武士という階級「自体」の消滅である。この事実は、よく考えると奇妙だと言える。つまり、こういった薩長の下層武士は、自分自身のアイデンティティを否定して、一体、何者になろうとしたのか、よく分からないからだ。そして、もう一つが、その後実現される、明治憲法の制定と国会の制定にともなって実現される「明治国家」が、上記の志にもかかわらず、意外なまでに、

  • 階級社会

であったことだ。士族階級の「解散」を、それぞれの以前の「武士身分」に対応して、「金銭の贈与」との交代によって行った明治政府は、まず、貴族院を、それまでの「士族階級」の中から(その身分の多寡に伴う「恩賞」として与えられた華族より)ほとんどを輩出し、他方の衆議院についても、選挙は税金の多寡による制限選挙であった。ということはつまりは、地方の巨大な土地をもつ百姓「だけ」に、特権的に与えられた選挙権であった。
このことが何を意味したかは一目瞭然であろう。この政治における政党は、そもそも「お金持ち」しかいないのだ。じゃあ、彼らは何を求めて、政治活動をすることになるか。「自分たちの利権の保護」である。

軍事費の削減もできず、地租の増徴も不可能な政党内閣には、最も不名誉な第三のシナリオしか残されていなかった。軍備縮小を諦めさせられた添田は、次のように論じている。

「今日止むことを得ずして増税を為すに方りても生産者の負担の増加を避くべき方針を樹立せり。随て不生産的消費に課税することとし、酒税を課税し、葉烟草の売下価格を引上げ、新に砂糖税を起すと同時に、此等消費品其他之に障害を与ふべき輸入品に対しては均衡的課税を為さんと欲す。而して右酒税の増加、葉烟草売下価格の引上及び砂糖の課税によりて三十二年度には二千六百万円余を得べき見込なり」(坂野前掲書、一九四頁)

第三次伊藤内閣の試みた地租の六〇パーセント増による歳入増は、約二四〇〇万円である。それとほぼ同額の二六〇〇万円を、酒、煙草、砂糖の大衆課税で行おうとしたのである。日本ではじめて成立した政党内閣が、自己の支持基盤であるため富裕化した地主に増税せず、小作農も都市下層民も大金持ちと同僚は呑み、吸い、喰べる、酒、煙草、砂糖に課税したのである。

こういった事態は、現在の日本の消費税増税論議と非常に似ている。今の日本の政党政治においても、どの政党も消費税増税大賛成で、それによって法人税減税の財源にしようとしている。そして、この政策に主要新聞のどこも反対しない。明らかに、消費税増税格差社会の格差の拡大を結果するのに、まったくこのことの改善を目指そうという議論にならない。
しかし、このように比べたとき、むしろ異常なのは現代の方だと言えるだろう。なぜなら、そもそも当時は、選挙民も被選挙民も全員が「金持ち」だったのだから。つまり、彼らだけで話している限り、絶対に、庶民重税という話にしかならないからだ。むしろ、なるわけがないのだ。そういう人たち

  • だけ

で話しているのだから。
さて。この後の歴史は、民本主義吉野作造などによって、日本は普通選挙制度を実現していく。そして、敗戦後の今の日本における、今の民主的な政治体制へと至っていくわけだが、ここで先程もふれた件であるが、大きな疑問がある。つまり、この「革命」の首謀者たち、薩摩や長州の下級武士たちにとって、一体なにが「戦利品」だったのだろうか、ということである。
彼らは、なぜ「勝者」となりながら、現代の民主主義社会においては、その彼らの「特権」は、残っているように見えないのだろうか。
もちろん、その残滓を、戦前の貴族院、つまり「華族」に見ることは可能なのかもしれないが、一般的に考えたとき、日本の「軍隊」にこそ、その残滓を見るべきなのであろう。

この論文のなかで美濃部は、それまでの彼の主張、すなわち、海軍軍令部の意向を無視して内閣が軍縮条約に調印したのは、「統帥権の干犯」には当たらないという主張から一歩踏み出して、陸海軍大臣の「文官制」の必要を提唱した。この論文で彼は、むしろ従来の解釈改憲(「兵力量」の決定権は明治憲法第一二条によって内閣に与えられており、軍の作戦や用兵にかかわる第一一条の「統帥権」とは別物であるという解釈)の弱さに気付いている。彼は次のように論じている。

「軍部大臣の武官制が維持せられて居る以上は、仮令理論上は政府が軍部の意向に反して軍の編制を定むることが出来るとしても、内閣の議を纏めるためには、軍部大臣の同意を得ることを要し、(中略)実際上は内閣が軍部の意見に反する決議を纏めることが殆ど不可能であることは、今日までの実例に依っても知り得るところで、今回の如き海軍大臣軍令部長との意見が相背馳するのは、極めて稀にしか起こり得ない例と言はねばならぬ(美濃部達吉『議会政治の検討』一三七〜一一三八頁)

明治末年(一九一二年)の『憲法講話』以来唱え続けてきた明治憲法の解釈、第一一条の統帥権と第一二条の編制権の相違の強調を、ここでは美濃部自ら、「理論上」の議論にすぎず「実際上」には役に立たない、と断じているのである。

日本の軍隊は、二つに分かれていた。それは、陸海という意味ではなく、軍令部と、兵隊という意味である。そもそも、軍隊の司令官になるような人は、子どもの頃からの英才教育によって、他の人とは別格に育てられた「エリート」によって形成されていた。
よく知られているように、明治憲法には、ある欠点があると考えられてきた。それが上記で言う、「統帥権の干犯」というわけで、この慣例は、明治政権の早い段階から慣例となっていたようである。
しかし、普通に考えるとこれはおかしい。まさに、一国二制度と言っているのと変わらないわけであり、明治政権が絶えず、軍部の暴走に悩まされ続けた実体を表している。そういう意味において、日本は国家の体をなしていなかった。
なぜそうだったのかを考えたとき、おそらく、軍令部という「エリート組織」に、薩長の下級武士の「戦利品」という意識が強かったことにより、彼らへの、ある種の

  • バーター取引

の色彩があったのではないだろうか。彼らは「勝った」。そして、その実体を、軍部の「独裁」という形によって、体裁を与えたのだ、と。
しかし言うまでもないが、こんな国家が国家のわけがないであろう。そのことを上記の美濃部達吉の分析は冷静に指摘している。こんなことは当たり前に思えるが、しかし、だとすると、一体どういうことになるのか。まさに、薩長の下級武士の「戦利品」はなにもなかった、という意識になりはしないか。なんのために革命をしたのかが分からなくなる。
つまり、どういうことか。

  • もう一回、革命が必要

ということである...。

海軍大臣などを通じて政党内閣を牛耳ってきたのに、今や政党内閣の方が軍部を支配エリートの地位から追い落とそうとしていることに、海軍青年将校たちが危機感を抱いた。霞ヶ浦航空隊の海軍中尉藤井斉が九州のある同士に五月八日付で送った手紙は、先に紹介した美濃部達吉の主張を読んだかの如く、一対一の対応を示している。藤井は次のように記している。

「議会中心の民主々義者が明かに名乗りを上げて来たのである。財閥が政権を握れる政党政府、議会に対して国防の責任を負うと云ふし、浜口は軍令部、参謀本部を廃し、帷幄上奏権を取り上げ、軍部大臣を文官となし、斯くて兵馬の大権を内閣即ち政党の下に置換へて、大元帥を廃せんとする計画なり。今や政権は天皇の手を離れて最後の兵権迄奪はんとす」(『現代史史料4 国家主義運動1』五三頁)

すでに日本の支配階級は、「財閥」と「議会中心の民主々義者」 に握られている以上、青年将校は支配エリートとしてではなく、反体制エリートとしての行動をめざす。それは労働者がストライキを行い、小作農が小作争議に訴えるのと同じく、非等方的な行動に向かう。

普通選挙議会を利用して民政党内閣がその支持基盤を拡大することを放棄したところへ、陸海軍の青年将校が新たな在野勢力として加わってきた。しかも彼らは軍人であるから、その手段は平和的ではない。先に引用した九州の同士への手紙の後半部分で、藤井は次のように記している。

「不逞逆賊の政党、(財閥)、学者、所謂無産階級指導者、新聞、彼等は天皇を中心とせる軍隊に刃を向け来った。戦は明かに開始えられた。国体変革の大動乱は捲き起されつつある。我等は生命を賭して戦ひ、彼等を最後の一人迄やっつけなければならぬ。海軍の中で青年士官は勿論、将官級の有力なる人が同士となった。陸軍の青年士官と提携は出来た」(同前書、同頁)

言うまでもないが、満州事変も「この後」であり、そのように考えるなら、この軍部による暴走も、なんらかの意味における、軍部による、日本の行政府に対する

  • 牽制

という意味付けが可能なのでは、と想定してしまいたくもなる。5・15事件、2・26事件は、こういった「延長」において行われた軍部の「再革命」であったわけで、その犯行は「成功」しながら、まるで何もなかったかのように、日本政治の中では、穏便に「処理」され、目立たなくされたレベルだった。
このような視点から考えたとき、日本の敗戦とは日本の軍隊の敗戦であったことがよく分かる。しかし、他方において、もう一つの疑問、つまり、なぜ日本は普通選挙になりながら、社会主義にならなかったのか、とも関係してくる。
いや。実際に社会主義になるかならないか、というより、普通選挙により、圧倒的多数の低賃金労働者が選挙の票の大多数を占めたのだから

  • 彼らの政党

を作れば、第一党になり、与党となることは造作もないことに思えるわけで、同じことは、現代日本においても、言えるわけである。
このことを、治安維持法において、「私有財産制度の否定」の議論自体が禁止されたことも、少なからぬ影響はあるであろうし、国家総動員体制も大きな影響であろうが、逆に言うこともできるように思われるわけである。つまり、

  • 平等政策は「戦時下」において、進められた

ということである。つまり、社会主義政党にならなかった、と考えるより、そもそものこの非対称性から、ときの政府は、「社会主義的政策」をとらないという選択肢は、もうなくなった、と考えられないだろうか。これが「普通選挙」ということの意味だったのだ、と。もはや、金持ち優遇「政治」を続けられない政治構造になっているのに、それをごまかしていたのだ、と。この決定的な「事実」が人びとの前に露呈することを避けるためにこそ、

  • 戦争状態

という「例外状態」という「構造」を「維持」することを、むしろ止めることができなくなっていた、と。
つまり、日本が戦争をしている「最中」は、

  • 平等

だった、ということなのである(また、この「延長」において、戦後の農地改革やスト権や男女平等などの、諸権利の獲得も位置付けされるであろう)。このことは、現代の日本と比べると皮肉な印象を受けるであろう。現代の格差拡大を、富裕層は、まったく問題視していない。消費税増税という金持ち優遇税制は「当然」であり、もっとやれ、と思っている。つまり、彼らはまったく格差是正の政策に興味がない。この「非情」なまでの彼らお金持ちたちの「残酷」さを

  • 戦前

において解消し、彼らに鉄槌を下したのが「戦争」であった、というわけである。さて。現代の日本社会において、彼らが「戦争以外」において改心する日は来るんですかねw。