過去の災害に学ぶ<6> チリ地震(1960)と遠地津波への対処

 1960年5月23日にチリ・バルディビア近海で発生したチリ地震(M9.5)では、翌日の5月24日早朝、津波が太平洋を越えて押し寄せ、このとき北海道から沖縄まで2〜3m、高い所で5〜6mの津波高となりました。140人以上の方が行方不明・なくなられています。
 内閣府の広報誌「ぼうさい」によれば、「日本の津波予報は三陸地方を対象として1941年に始まり、1952年には気象業務法により全国を対象として実施されるようになってはいた」のですが、「近地津波のみが考慮されており、遠地津波は想定外であった」(*1)とあります。
 「1586年から2010年2月のチリ津波までの424年間に、南米沿岸で発生し日本に到達した津波は20例であり、そのうち10例は日本沿岸で50cm以下であった。今年(*2)のように2、3mとなった津波は1960年以前には2例のみであったから、30m、40mにも達しうる近地津波に比べ注意を惹かなかったのは無理からぬ事であった」とのことです。
 また、サイレン等で危険が通告されたが、折角の情報が生かされなかったところとして、岩手県大船渡湾奥の地域をあげています。「ここは、波長の短い近地津波では被害を受けにくい場所として認識されていた。昭和16年の大火で都市区画整理がなされて以後急速に発展した商業地区であり、転入者が多く、無経験者が多数であった。一応安全地帯と見られており、毎年行われる津波避難訓練にも極めて消極的であった。職業柄、夜遅く朝も遅い生活が普通の人々である。最初のサイレンが魚市場のものであったため、魚類水揚げの合図と誤認した。その他のサイレンも、近火信号と津波避難信号(3秒吹鳴・2秒中断)が同一であったため判断が難しく、気象庁からの情報が無い状態では、津波避難にはつながらなかった。こうして第2波が来襲し、53名の犠牲者となったのである」とあります。普段からの訓練と、誤認の起こらないような警報が必要であることがわかります。
 これをうけて遠地津波観測計が1986年に日本最東端の南鳥島(*3)に設置されています。

*1 遠地津波:その地点で地震波動を感じないような遠方の地震による津波のこと。
*2 この引用での津波は2010年2月27日に発生したチリ地震(M8.8)を指しています。
*3 南鳥島小笠原諸島。東京から南東に1950km洋上。


・広報「ぼうさい」での該当記事はこちらです。(57〜59号)
「貯木場から大量の木材が流失散乱し、陸上海上交通への障害や家屋破壊の凶器となった。何処でも結局は人手で取り除いている。現在でも流出防止対策を講じている港湾は少ない。鉄工業で熱処理用に使っていた青酸カリ1.1トンが流される事故も発生した」「発生頻度の高い中小規模の津波に対して構造物は有効だが、構造物に特有の問題がある。構造物そのものの劣化に加え、浜が浸食でやせ、風波が構造物内部の土砂を吸い出すようになると危ない。この結果、突然堤防裏側が陥没した事故が実際に生じている。50年、100年の間隔で来襲する津波に対して、構造物の機能・強度を如何に維持していくかが、大きな問題となっている」とも指摘されています。

1960年5月24日 チリ地震津波 その1「不意打ちへの対処」
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/bs1005.pdf

1960年5月24日 チリ地震津波 その2 「流れによる被害と都市化への警鐘」
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/bs1007.pdf

1960年5月24日 チリ地震津波 その3「構造物主体の対策とその後」
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/bs1009.pdf



・最新の遠地地震についての情報は以下の気象庁のページからご覧になれます。
http://www.jma.go.jp/jp/quake/quake_foreign_index.html

気象庁南鳥島気象観測所のページ
http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/minamitorishima/

気象庁・Northwest Pacific Tsunami Advisory
http://www.jma.go.jp/en/distant_tsunami/WEPA40/indexo.html



【関連記事】
・・・昭和35年のチリ地震津波以降に、木造を上回る強度などを意識して建造された補強コンクリートブロック造の家屋。東日本大震災で浸水被害を受けながらも流失せずに残った赤崎町内の家屋を保存し、記念館として活用する構想がある。まずは景観を高めようと、敷地内に花苗を植えた賛同者たち。被災の現実や教訓を後世に語り継ぐための施設としての利用に、期待を膨らませていた。
 保存・活用に向けた取り組みが始まったのは、赤崎町大洞地内の三陸鉄道南リアス線沿いにある三浦千花野さん(81)の自宅。夫で市議会議員を務めた故・賢吉さんは、気仙大工としても活躍。この自宅は、賢吉さんが昭和44年ごろ実験的に建設したとされる。
 賢吉さんは昭和35年のチリ地震津波後に、高砂建設を設立。赤崎地区内の被災地などに、当時主流だった木造ではなく補強コンクリートブロック造の建物を多数建設した。
 塀などで一般的なブロック状のコンクリートを積み重ね、さらに鉄筋を挿入して補強する構造。被災の教訓をふまえ、木造よりも強度を確保し、さらに建築費用を安価に抑えるメリットがあった。
 東日本大震災では、浸水した地区内の木造建物はほとんどが倒壊、流出被害を受けた。希望郷・いわて文化大使で、東京都台東区にあるジェネスプランニング(株)の代表取締役を務める三舩康道一級建築士らによると、賢吉さんが建築に携わり、被災後も残った家屋は23棟。このうち18棟は補強コンクリートブロック造だった。
 大津波は線路を乗り越え、三浦家は2階部分も2メートル程度の高さまで襲来。当時自宅にいた千花野さんは、2階室内の浸水しなかった部分に手をかけて顔を出し、一命を取りとめた。住宅が倒壊せず、流されなかったことが、命を守った一因とされている。
 昨年春以降、周囲ではがれき撤去作業が本格化。多くの建造物は解体を選択する中、三浦家にはスプレー塗料で「のこす」と記されている。娘で画家の千波さん(56)は「近くを通る三陸鉄道も復旧作業が進められています。津波の爪痕を伝え、語り次ぐためにも有効に活用してほしいですね」と語る。
 三舩さんをはじめ、千波さんの知人らは「赤崎地区津波記念館を考える会(仮称)」を立ち上げ、活用へのアイデアを膨らませる。三浦家はそのまま保存し、内部を見学できるように改修したい考え。居住スペースは木目調の内装となっており、賢吉さんの気仙大工としてのこだわりも残っている。
 敷地内には三浦家とは別に、補強コンクリートブロック造による「資料館」建造の構想も。津波襲来から生還した人々に関する資料をそろえるだけでなく、震災経験者らによる「語り部」の話を聞く集会施設としての活用にも期待を寄せる。
 現時点ではNPO法人の設立や建造・保存に向けた寄付金集めなど調整事項は多いが、同会メンバーらは敷地内の環境美化活動に着手。先月29日には、趣旨に賛同する(株)花の企画社(東京都新宿区)から提供を受けたマリーゴールドなどの花苗を庭先に植え、彩りを演出した。
 三舩さんは「チリ地震後に、将来を見据えて建築した非常に意味のある施設。命を守り、形が残ったこの建物を保存し、見学できるような施設となれば」と話している・・・

東海新報(2012年5月4日)より引用
http://www.tohkaishimpo.com/scripts/index_main.cgi?mode=kiji_zoom&cd=nws7591





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