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2017-03-22

インターネットでの再放送――久しぶりに『輪るピングドラム』(2011)をAbemaTVで見返した

ツイッターでやたらやかましく宣伝活動をしてたのだけど、AbemaTV輪るピングドラム』(2011)を鑑賞した。『ピングドラム』は2010年代のなかでもベストクラスに好きだし、オールタイムベストを考えても少なくても100本に入るだろう。好きな作品なので個別にエピソードはたまに見返すことがあっても、全話通してみる機会はなかなかない。昨今ネット配信が盛んだけど、Abemaは「再放送」って位置づけを見事に獲得したと思う。ニコニコの一挙配信もあったりするけど、ある決まった時間に昔のアニメが放送するっていうと、円盤を持っている人でもちょっと見てしまったりする。SNS時代だからこそ、誰かと何かを共有するといったことの素晴らしさってのがあるよな〜と感じた。昔はこういう考えにも及ばなかったんだけど、そこからの語りってのがあってもいいんだと思う。

この『ピングドラム』って作品がそういった繋がりを強固にしていくんだと思う。ド直球に「愛」についての作品だけど、動詞としての「愛」を相手に与える(思いやる)ってことなんですね。24話は涙なしでは語れない訳ですが、結局のところそれまでの23話の積み上げがあったからこその24話なんだよね。キャラクターだけでいっても、苹果ちゃんなんて「プロジェクトM」とか気が狂った作戦を実行しようとするけど、彼女も何かを失った(痛みを知った)者であり、バックグランドが回を重ねるにつれて見えてくる。最初に出てきたときに誰が「運命の果実を一緒に食べよう」と運命の乗り換えを遂行しようとする愛のあるキャラクターに見えただろうか。こういったキャラクターの変化(実際は変化していないが)が、物語を愛おしいものにする。

真砂子なんかもほんとうそんなキャラクターだと思う。22話のバックショットがあまりにもキマり過ぎてて、それで24話のマリオと冠葉の話をするところなんで号泣だよね。変わって欲しくない瞬間が、乗換によって微妙に違う世界になっている。記憶は引き継がれていないけど、どこかで何かとつながっている感覚。どうしようもなく愛おしい。みんな抱きしめて「大スキだよ!!」って伝えたい。

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完全にスタッフのこととか忘れてたんだけど、陽毬が多蕗につかまってしまうエピソード・18話「だから私のためにいてほしい」は山内重保コンテ・演出なんだよね。あっ出崎っぽい(出崎でないとはわかっていても)って思ってたら、山内重保だから、やっぱりこの二人の演出は手法は違えど根底は似ているのかもしれないって感じた。山内重保というと、画面全体に顔をど〜んと映したり、ロングショットを多用したりするんだけど、やっぱショットと時間の人って感じなのかな。『キャシャ―ンSins』(2008)でキャシャ―ンが飛ぶシーンとか躍動を感じながらも、ゆったりとした時間を獲得してる。詩的で美しく、儚くて今にも壊れそうなっていう。『ピングドラム』18話でいうところの陽毬を載せた籠みたいなものが落ちるシーンかな、言語化しにくいけど、あそこでそういった時間を感じた。出崎が繰り返しショットやハーモニーを使うのと同じような効果が出てるんだよね。ほんと食い入るように見てしまったよ。

ほんとAbemaTVは素晴らしいね。昨年ウテナの放送やったと思えば、20周年でまたやってるし(笑)新作/懐かしの/深夜とかアニメひとつにとっても複数のチャンネルがあるし、こういうのいいよねってほんと思う。アニメは映画と違って短くても12話見なければならない。毎週継続して一つのアニメを見るってのは慣れるまで大変な行為だと思う。正直忙しいと録画がたまってしまって追いつくのも大変だったりする。そういったときに、再放送って枠がテレビ以外に存在している(しかも無料で)ってのが結構重要なんじゃないかと。ツイッターのリンクからスマホで鑑賞するってことだって可能。そりゃ出来れば大画面のモニタないしスクリーンで見るということがベストではあるが、それよりも初めて見る人が見る機会を得るほうが重要。気軽だけど、ガッツリと胸打たれるのもいいだろうって。

例えば『ピングドラム』で初めて幾原アニメに触れた人なら、このまま『少女革命ウテナ』(1997)に行ってもいいし、『ウテナ』が強烈過ぎるならちょっと見やすい『劇場版美少女戦士セーラームーンR』(1993)に行くのもいい。今のところ幾原アニメの最新作である『ユリ熊嵐』(2015)にいくのもいいかもしれない。『ウテナ』の前に幾原遺伝子を辿ってみて、『ウテナ』でコンテマンとして参加した五十嵐卓哉の『STAR DRIVER 輝きのタクト』(2010−2011)や『キャプテン・アース』(2014)など『ウテナ』の系譜から攻めるのも面白いだろう。五十嵐卓哉ならば『桜蘭高校ホスト部』(2006)も大好きな作品だ。これからアニメを辿って行く人が、どういうところに着目して見るか、そしてどんな影響を受けていくか、これは楽しいことだと思う。これからもたくさんのアニメと触れ合っていきたいし、たくさんの人が素敵なアニメに触れて欲しいなと願ってる。

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2017-03-13

ある日、山から帰ってきたら人が変わってしまっていた――ナ・ホンジン『哭声/コクソン』感想

ナ・ホンジン『哭声/コクソン』を見た。(演出について書いていますが、物語の結末には触れていません)

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古くからの言い伝えで「神隠しにあった」とか、「道を歩いていたらいつの間にかに全然違う場所にいた」といった物語がある。どうだろうか、最近だとデジタルりマスターされて再フィーチャーされていた、ピーター・ウィアーの『ピクニックatハンギング・ロック』(1975)なんかは実話がベースになっているが、ある日、山に行ったら女学生が消えてしまったといった物語が存在する。日本でいえば中平康『結婚相談』(1965)では、ある日、山に行ったら頭がおかしくなって帰ってきた……といったキャラクターが出てくる。何かに触れてしまうことや怪異に化かされることによって、突然と人が変わったようになってしまう。京極夏彦塗仏の宴』(1998)でも山奥の村にまつわる事件が起き、まるで化かされたかのように物語が右往左往する。このように何がなんだかわからないけど、超常現象によって摩訶不思議な世界に引き込まれるといった物語はたくさん存在する。

ナ・ホンジンの新作『哭声/コクソン』は、まさにこの手の「わけがわからないけど何かが起きて村ごと巻き込まれてしまう」物語だ。簡単にあらすじを書くと、コクソンと呼ばれる韓国山奥の村で、残忍な殺人事件が起こる。犯人は逮捕されているのだが、どうも様子がおかしい。相次ぐ不審死に警察が捜査をしていると、最近山に住みはじめた「日本人」の怪しい噂が入ってくる。変化を恐れる平和な村の警察は「よそ者」が悪いという先入観から日本人に危害を加えることになるが、決して解明されない「何か」に右往左往する。はたして事件の真相はなんだったのだろうか?と。

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本作が面白かったのは右往左往される物語でもあるが、「よそ者」つまり、“外からやってきた者”であるように、何かが画面の外から内にやってくるといった演出が物語と密接に絡み合っていたことだ。例えば晴れているのに突然雨の音が聞こえてきて、徐々に画面の外から雨が降ってくる。そして雷の音が聞こえてくると思ったら、真上から雷が落ちてくる。また、犬が襲ってきて扉をぶち破ってきたり、部屋の仕切りが重要な意味を持っていたりと、オフスクリーンや仕切りの演出が巧い。それが外からやってきたもの(よそ者)であることを強調するように。それと面白いのが、「日本人」の話が「全裸でシカを食べている…」といった嘘か誠かよくわからないような胡散臭い噂であること。この「胡散臭さ」は、画面からも伝わってくる。例えば冒頭から晴れているのに、なぜか雨が降っていたり(山の天気が変わりやすいのだろうと思うが)、現実と虚構どちらなんだ?といったシーンが存在したり、まるでデタラメなシーンの連続。殺人事件が起きているのになぜかコメディノリであったりと、どこかズレていて胡散臭い。

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このノリはなんだろうか?と思っていたのだが、いうなれば投稿モノで構成される心霊ビデオと似たようなノリだなと感じた。特に交番で「日本人がシカを食べていて、こちらに気付くと襲ってきた」といったシーンなんて、まさに心霊ビデオのノリ。とういうか物語だけ見ていると白石晃士の映画的キャラクター(祈祷師)など、日本で60分〜70分程度でやっている低予算・心霊ビデオものをミステリー、スリラー、コメディ、ゾンビエクソシストといったあらゆる要素をぶち込み156分かけてやったという何とも大げさな映画なのである。

かなり右往左往する物語なので、「何が起きているんだ」とあたふたしてしまうが、事件の真相に関しては画面に注力していると、点と点が繋がりあうような仕掛けづくりがされている。ただ正直なところ「そんな風にもとれるな」といった真意をひたすら隠したりする為、本当にそうなのだろうか?と疑問も持つ点もいくつかある。重要なのは「よそ者」という言葉。これに惑わされていくが、重要な意味をもっている。それと疑心暗鬼。そう信じてしまえばその通りに現実も表象されていまう……といったような。(結末には触れたくないのでこの辺でやめます)

それと本作レーティングはGであり、規制されていない。確かに起こっていることは悲惨ではあるが、そこまで直接描写が多いわけではないし、主題がそこにはないので避けられたのだろうと考えられる。室内の薄暗いシーンでは、意図的に照明が落とされグロテスクなシーンは見づらい。この物語自身が「なんだかよくわからない」デタラメな噂話であることから、主題的背景からいっても「事実が見づらい」といったことから撮影されているのではないだろうか。物語的に読み解いていくと、古くは柳田國男の『遠野物語』(1910)であったり、文化人類学、民俗学、妖怪論で著名の小松和彦による『異人論―民族社会の心性』(1995)などと絡めていくと面白いのではないのであろうか。主に私が読みたいので誰かに書いてもらいたい。(願望)

ナ・ホンジンは『チェイサー』(2008)にノレなかったので、次作の『哀しき獣』(2010)をスルーしていたのだが、どうもスタイルを大幅に変えてきたようだ。多分、日本のホラー映画や心霊ビデオ*1をかなりみてごった煮に詰め込んだスタイルになったのだろう。だからなのだろうか「強いショット」というものは感じられず、それよりもはるかに画面から力の抜けたようなショットに見えた。なかなか言語化しづらいのであるが、そういったショットによって、オカルト、心霊ビデオモノはフィクションの強度を保つことができる。*2

正直なところ156分の上映時間は長すぎるので、70分くらいに纏めてくれたら今年のベストと断定してもいいと思ったのだが、それでも怪作であるし、韓国映画といえばバイオレンスといったムーブメントからも外れた作品が出てきたのが嬉しかった。次作も楽しみですね。とりあえず今度『哀しき獣』を見てみようかな。

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異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

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*1:『呪いのビデオ』『闇動画』『封印映像』等々

*2:『監死カメラ16』(2016)や『妖怪カメラ』(2015)を参照されたい。

2017-03-08

スティーブン・キジャック『WE ARE X』感想

スティーブン・キジャック『WE ARE X』鑑賞。

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DAHLIA』から既に21年経ちアルバムを作るんだか、壊しちゃったんだか、そんなことばかり持ち上げられるYOSHIKIですが、長年のファンとして『WE ARE X』は足を運ばざるを得ないというか、見なければならない義務というか、様々な感情が入り混じってしまう。結局、素直に見てきたのだけど、一言でいうとすごくよかった。ちょっと『WE ARE X』に触れる前に『ラ・ラ・ランド』でよく言われることについて軽く。

自分でもなぜだかよくわからなくて論理的に説明できるわけでもないんだけど、周りの人もいっているのでそうなんだと思うこと。『ラ・ラ・ランド』って恐らく個人的な恋愛体験の映画のように感じられた。もう終わってしまった恋バナ。そんなものを逆算して再構築して、ミュージカル映画という隠れ蓑に隠して、大きくハッタリを使ってアカデミー賞ノミネートまでたどり着いたのではないか?と思った。わざわざ、エマ・ストーンが遅れて『理由なき反抗』に入場して画面なんか関係なしに、キスムードになってトラブルで上映さえ終わってしまうというくだり。もう、こんなふわふわしたデートだってあるよね?って感じのやつ。

それらを見ていてなんとなく「自己体験」なんだって思った。それで『WE ARE X』がどうだったかというと、観客の体験した記憶を再構築して現代にアップデートしたって思ったわけ。「自己体験」を表現した『ラ・ラ・ランド』とは手法が逆だけど、観客の「自己体験」を表現したって感じで似ているなと。それでなんでそれが上手くいったかというと、スティーブン・キジャックがオファーを受けた時にXのことを知らなかったことが功を奏したと推測する。良くも悪くもXはとてもドラマチックなバンドだった。今であればベビメタちゃんのように「へヴィメタルxアイドル」のようなグループもメガヒットがあるような時代であるが、インターネットないような80年代ではこのようなバンドはイロモノに見られた。そんなバンドがメジャーで大ヒットして紅白に出たり、衝撃的な解散をしたり、メンバーが亡くなったり……と話題につきることがなかった。

だから想い入れが強ければ強いほど、このバンドのドキュメンタリーを撮ろうなんて思うこと自体がつらくて仕方ない。自分の内面を覗いていかなければならない。少なくても自分には無理だなと思ってしまう。キジャックはX JAPANを知らなかったので、その分、客観的に考察ができたのではないか。そんな彼もXに興味を持ってしまい(wiki情報なので正しいかわかりませんが)、「この映画の製作が終わったら、私は音楽ドキュメンタリーをやめなければならないかもしれない。X JAPANの物語はあまりにもドラマチックでこの後、どう作ればいいかわからない」と語っているらしい。それだけ人を魅了するパワーをもったバンドだ。

『WE ARE X』のあらすじを簡単に書くと、2014年のマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴに至るまでのX JAPANの人生(というよりYOSHIKIの人生)を丁寧に振り返りどのようにして一度は挫折した世界に羽ばたけたのか?といったような物語だ。キーなのはX JAPAN全体にスポットを当てるのではなく、YOSHIKIを中心に物語を組んだといったところだろう。病弱だった子供の頃の話、父親の自殺TAIJIへの宣告、TOSHI脱退、バンドの解散、hideの死、とYOSHIKI視点からの振り返り。僕がX JAPANファンになったのは96年の頃だったので、以前については後から調べて知った事実ばかりだが、解散からhideの死といったことは体験として残っているので、まるで自分の記憶めぐりをしているかのような気分になった。

またよかったことは無理に詰め込まないで93分で抑えたことだろう。それと編集がとてもよかった。正直あまり冷静な気持ちで見れていないので、どこがどうつながってとか記憶が定かではないのだけど、物語ることだけに終わらず、ダイナミックさを欠かさずに編集されていると思った。YOSHIKIhideならこんなフレーズを……と語っているシーンや、YOSHIKIとTOSHIがスタジオで思い出話をしているシーンなど、ほんとに幸福感に包まれるというか、温かい気持ちになるくだりも存在した。

Xはその壮大な物語や、今回の『WE ARE X』が着目したように「死」についての事柄が多いことがわかる。演奏スタイルやライヴスタイルについてもそれは同じことが言えるだろう。インディーズ時はジャパコアの暴力性や繊細な情感と、メタルのスピード感をごった煮して、デーハーにヴィジュアルを固めたスタイル。この映画でも触れられているが、「殺気立つ」「生き急ぐ」といったことが音楽性からも伝わってきている。それからメジャーデビューした『BLUE BLOOD』(1989)からは、クラシック出身のYOSHIKIの音楽性が見え隠れして、『ROSE OF PAIN』のような壮大な曲も演奏されるようになる。それから続く『Jealousy』(1991)は、それをもう少しアルバム全体に行き届くようにして、現時点での最新アルバム『DAHLIA』(1996)では激しいメタルナンバーよりも、バラードが増えていった。『DAHLIA』では「生き急ぐ」ようなことはなかっただろうが、タイトルソングの『DAHLIA』はまさに、「破壊」と「美」が共存したような曲であり、激しい中にも繊細なメロディ。どこか凍りついたとても冷たい「死」が見え隠れする曲だと思う。

そんな「死」に対しての物語や音楽性というものが、この映画にはたくさんつまっていて、それが過多にならずハマっていてとても素晴らしい作品だと思った。正直に書いているつもりだけど、hideのくだりのときはわかってても涙が止まらなかったし、TOSHIが戻ってきほんとよかったねYOSHIKI!って感じで後半ほとんど泣いてた。97年の解散時には小学生だったのでライヴにいけるような年齢でもなかったのだけど、特にhideが亡くなってからは後悔していた。初めて好きになったバンドだし、今でも世界一かっこいいと思っている人を見ることなく生きていかなければならないのは死ぬほどつらかった。ただ、08年の復活時にはなんとか見ることができてある程度気持ちの踏ん切りがついた。それから早9年が経つ。ほんとに早かった。多分、僕はもうXのライヴを見に行くってことはないんだろうけど、こうやって世界に羽ばたいて新たなファンを獲得するのはいいことだよねって素直に思う。

彼らももう歳ですし、バンドにしろ音楽をやっている人たちってのは、ほんとにいつ見られるかわからなくなってしまう。だから、ちょっとしたきっかけでも興味を持ったら音源聴いてみるとか、現場にいって音楽を体験してみるってのを全力で勧めたい。あとから後悔しても、二度と体験できなくなってしまうので。というわけでとてもしんみりした幕引きとなりますが、『WE ARE X』はそんな想いをめぐらせてくれるほど、素晴らしい映画だったと思います。親切な映画だと思いますし、X JAPANを知らない人でも見やすいんじゃないでしょうか。では最後に。

「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK

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 恋愛の不格好さ――デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』感想 - つぶやきの延長線上

「WE ARE X」オリジナル・サウンドトラック

「WE ARE X」オリジナル・サウンドトラック

DAHLIA

DAHLIA

Blue Blood

Blue Blood

VANISHING VISION EXC-001

VANISHING VISION EXC-001

2017-03-07

恋愛の不格好さ――デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』感想

恋愛に夢中になると「この人とどんな風に歩んでいくのだろう」と未来に希望を見出したり、本当にうまくいくのだろうかと、少し不安になったりする。もちろん、全てが上手くいくわけでもなく、喧嘩したりしまいには破綻することもあるだろう。あの時あーしてればよかった。こーしていればこんな風になったのかもしれないと、実現しなかったある未来を考え後悔することもあるだろう。『セッション』で話題となったデミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』は、ミュージカル映画といったふれこみであったが、実際のところはそういった恋愛についての映画だったと思う。

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映画冒頭の高速道路でのミュージカルパートでは、ダンスを見せるというよりも、ダイナミズムを追求したかのように、ダンサーの動きをカメラが車と車の間を縦横無尽に追いかける。逆光やそれによるレンズフレアでダンサーが見えづらいのもお構いなし、カメラがブレるのも気にせず、ただひたすらにキャラクターを追うことに徹する。そのシーンからは『セッション』でのマイルズ・テラーとJ・Kシモンズによる、まるで喧嘩のような9分の演奏と同じように、カメラは音響と動作の節合性よりも、多少不格好でもダイナミズムを優先する姿勢と似たような印象を受けた。*1

ただ、『セッション』と大きく違うのはこの見せ場といえる冒頭のミュージカルシーンにおいて、主役であるエマ・ストーンライアン・ゴズリングは登場しないことだ。ミュージカルシーンが終わり、カメラがグーッとライアン・ゴズリングの車に寄っていき、エマ・ストーンとのとてもいいとは言えない出会いをおさめる。まるで夢のようなミュージカルシーンから一転して、印象の悪い出会いを見せて現実に引き戻すといった演出。ミュージカルシーンがとてもいいとはいえなかったので、正直なところノレなかったのだが、この映画は恋愛における「不格好さ」というものについて描いているのではないか?とも思えた。と、いうのも例えばデートで『理由なき反抗』を見にいったときでさえ、エマ・ストーンは遅れてやってきて画面を遮ってライアン・ゴズリング探して見つけるが、上映トラブルで中止となってしまうというくだりがある。単に映画のオマージュをサンプリングしているのではなく、好きな人と初めて見る映画はなんかフワフワしてしまう…といった体験談からなっているようにも思えてくるからだ。

※ここから結末について触れています。

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その他にも確かにオマージュというものは存在するが、映像快楽があったかというとピンとこないものが多い。キャッチ―な音楽とめまぐるしく展開する恋愛事情。まるで既に終わってしまった恋愛を思い出して再構築していくような感覚。そういった「不格好さ」がこの映画には存在した。とても巧いとはいいがたい。でも、これが悪いと一言でいってしまうのもなんだかむなしい気もしないでもない。物語のラスト“あり得たかもしれない未来”を想像する。お互いに成功した結果、2人は離れ離れとなり関係は終わってしまったが、こんな光景もあったのかもしれないと。変に執着したり、今ならやり直せるのかもしれないといった可能性は全て捨て去り、感情を秘め去っていく。

とても巧い映画だとは思えなかったし、正直なところピンと来ることは少なかったのだが、この「不格好さ」を不格好に描いた恋愛映画をどうしても嫌いになれなかった。映画の形式的なところから離れていって個人の体験と結びつくような映画。それと、ある音楽がキーとなり人と人を繋いでいくといった装置的役割にポロっと泣かされてしまうのもあったかもしれない。なんだかんだ最後まで楽しめました。

*1:そもそもダイナミズムを生み出すのも技術だという話もあるが

2017-03-04

舞い落ちる黄色い葉――『昭和元禄落語心中 -助六再び篇-』第七話・第八話【感想】

例のごとくスロースターターの僕は『ACCA13区監察課』くらいしか追えていなかったのだけど、HDDにたまってた『落語心中』2期を見たら、あまりにも傑作で感動した。1期のときから素晴らしき声優たちの活躍、劇伴とショットの選択など、完璧な作品だと思っていたが、2期は更に洗練された演出の目白押しであった。特に2期・七話の1期とのクロスオーバー助六とみよ吉の真相といったような種明かし含め、ドラマティックに2期を演出する。七話・八話はたっぷりと「時間」を演出したエピソードになっていた。

「時間」を演出する方法は多岐にわたる。特に時間の演出が見事だった『あしたのジョー2』の監督・出崎統は、繰り返しショット、ハーモニー、画面分割などを組み合わせたりすることで、視聴者にその「瞬間」を目撃させ、感情を揺さぶり時間を演出した。昨年でいえば『響け!ユーフォニアム2』。ステージ上とステージ袖、屋外、という外/内の関係や、写真やキャラクターの回想(瞬間の)と、記憶をモチーフに時間・空間を表象しタイトル通りに響かせた。

そして本題の『落語心中』。七話・八話はキャラクターの記憶が重要なものとなっている。そのあたりは『響け!2』に近しいのだが、これは「青春アニメ」ではない。いうまでもなく助六とみよ吉といった死んでいった仲間。そして死期の近い八雲。青春といった生きる力とは全く逆の死についてのエピソードだった。

入院していた八雲が無事目を覚ますが、まるで死神に取りつかれ、今にも魂を持っていかれそうな死期の近さが伝わってくる。それが、身体の線の細さ、表情の硬さ、肌の白さから見受けられる。特に、助六与太郎)と小夏が橋の上の八雲を見つけた時のシーンは、着ている服のせいか、生気が無く死人のような風貌だ。

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彼の死期は近いのだろう。ただ、自分では死ねないといっているよう死に引き寄せられながらも、ギリギリのところで立ち止まっている。七話の冒頭、彼が散歩をしているシーン。生気を失った彼とは対照的に、色鮮やかなイチョウの木々に目がいく。枯れる前に精一杯、美しく色づく木々。もう少しで、死ぬことが出来ない八雲とどうしてもダブらせてしまう。特にそのイチョウの木から落ちた葉が、風に流されるシーンが八雲の姿と重なり感動してしまった。*1

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またこの時、風に流された落ち葉をよく覚えておくと、八話のラストにもつながってくることがわかる。助六の感動的な落語の後、八雲の番となったが、ここで警察が飛び入りしてきて中断する羽目になる。そのまま泣かしてくれないのか?と思うところだが、強制的に時間をストップされる。それまで夢心地であった視聴者を一気に現実へ引き戻す。そしてラストカット。一枚の黄色い落ち葉がテーブルの上へそっと舞ってくる。まるで落ちるところはその場所しかなかったような。まるでピタッと時間が止まったかのような……

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もちろん七話の落ち葉が風に乗ってここまで舞ってきたというわけではないし、そもそもこんな料亭の中にイチョウの木があるとは考えにくい。確証があるわけではないが、料亭といった場所を考えると、「モチノキ」ではないかと思う。実際にこのお座敷の外には庭園があるし、そこからひらっと舞ってきたといったことが現実的な推測じゃないだろうか。ただこういった現実的な推測よりも、黄色い落ち葉がピタッとテーブルの上に落ちてくる。といったことが感動的なのだ。八雲の足元で風に流される落ち葉。そして、感動的な助六落語から、八雲へ移った瞬間に止められた時間。そこで待っていたかのように落ちてくる葉。これほど繊細に時間を演出して見せれらたらお手上げもんだし、涙が止まらなかった。七話・八話は続けて畠山守コンテなので、確信犯的な演出だろうと思う。

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落ち葉に着目に書いてみたが、もちろん助六の『芝浜』を映写機で見るといった体験。そして、それを三代目・助六が再現するといったこと。こんなことやられては感動しないわけがない。そして、一期に仕掛けられたカラクリがとける七話。確かに一期の物語は八雲与太郎に話したことが、そのまま映像化するといったものだった。本人の着色があってもおかしくない。

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映画になるが、ウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)でも、口承によって誰かから誰かへ伝えられていく物語というものを描いていた。『落語心中』も同じように時代を超えて人から人へで伝わっていく物語だ。「落語」そのものが話芸であるように。はたして八雲が付いた嘘は真実ではなかったのであろうか。「本当のこと」ではなかったとしても、人を守ろうとしてついた嘘にこめられた思いは紛れもない真実だったはずだ。人から語られたことは、例え「本当のこと」でなくても、その人の想いは真実だろうし、そうやって伝えられた人たちもそれを真実として伝えていく。一期と二期がお互いにお互いを補完し合っていく。とても愛おしい物語だ。

*1:このシーン(俯瞰ショット:八雲と○○を上から捉える)、水たまりに雲が反射して動いていることがわかる。ここからも何かが「動くこと」が明示される。