ガレス・エヴァンズ『指示の諸相』導入

Evans, Gareth. (1982). The Varieties of Reference. Oxford: Clarendon Press.

重要な著書だけれど,未だに翻訳が出版されないので,さわりだけ.

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

  • 作者:Evans, Gareth
  • 発売日: 1989/05/04
  • メディア: ペーパーバック
 

ふつうに観察した場合には似ているように見え,ふつうの目的においては似たような振る舞いをするものは,同じ名前で呼ばれることが多い.人々がもっと詳細に観察する方法を身につけ,理論構築に興味を持つようになると,こうしたグループ化の多くは修正されなければならなくなる.クジラは,表層的に似ている魚類には属していないのだ.今や,ぼくたちの直感的な意味論的分類は,同じような修正を必要としているのかもしれない.
「何を意味しているんだい?」,「誰について語っているんだい?」,「それは君が言った事じゃない」,「それは真実ではない」.これらは街場で用いられる,大まかで平易な意味論的概念だ.これらは哲学者や文法学者,教師など,様々な人々によって使用され,洗練されてきた.彼らは自身の言語の作動について省察せざるをえなかった人々だ.そして,こうした洗練を経てもなお,これらの概念は,言語の形式と機能においてきわめて顕著な類似性を反映し続けている.本書の目的は,こうした直観的意味論の一つのグループ化,すなわち単数辞 singlar terms あるいは指示表現 referring expressions *1のグループ化が,自然言語についての,もっと発達した意味論の中に位置づけられるかどうかを検討することだ.もしそうだとしたら,こうしたグループ化はどのような地位をもつのだろうか?
指示表現の分類には,伝統的に,固有名詞,確定記述(「世界でもっとも背の高い男」),直示語(「この男」,「あの女」),そしていくつかの代名詞が含まれる.この伝統的な分類においては,(文法的な)形式が部分的に類似しており,機能も部分的に類似している.ぼくが言及したそれぞれの種類の表現は,名詞句によって構成されている.そしてそれらは主語-述語文において,伝統的な主語の位置を占めることができる.こうした表現は,「タバコを吸う」といった(単項)述語と組み合わさって,完全な文を生み出す.他方,「ある男は」,「どの少女も〜ない」,「どの少年も」といった量化子表現も同じ位置を占める.けれども,これらは指示表現とはみなされてこなかった.あるいは,すくなくとも,一貫して指示表現であるとはみなされてこなかった.ここで,役割や機能についての直感的な概念の出番となる.指示表現と述語(例えば「タバコを吸う」)を結びつける場合,話者は,ある特定のことについての発言をしていると受け取られることを意図している.つまり,あるひとりの特定された個人が喫煙をしているかどうかに応じて,真か偽かが決定されるような発言だ.このように,指示表現の役割は,発言の真理値に関係する対象がなんであるかを聴者に示すことにあるといわれている.例えば,A.N. プライヤーは次のように書いている.

我々がある言明をなす際,どの個物について語っているのかを示すために用いる表現を,論理学者は一般的に,名前によって理解する*2

また,P.F. ストローソンも同様のことを書いている.

「何(誰,どのこと)について語っているのか?」という…質問を防ぐのが,指示がとりくむ…課題だ*3

ここでポイントとなるのは,〔指示表現の役割が言明の対象を特定することだとしても,たとえば〕「誰々がタバコを吸っている」という言明は,それが真である場合,ひとり以上がタバコを吸っていることによって常に真になっているのではない.なぜならば,誰々は一人しかいないかもしれないからだ.むしろ実際は,タバコを吸っているいるひとが,仮にいるとして,それが一人しかいないということがこの発言を真にしているのだ.この事実は,聴者に慣習的に示されるものではない.これは指示表現という分類が持つ,第二の,機能的な側面なのだ.この側面は,次の形式化によって捉えられるかもしれない*4.すなわち,「もし t が,"t は F である" と "t は G である" という両方の文の生起において同じように理解される指示表現であるならば,これらの文が真であることから,次のことが論理的に帰結する.つまり,F かつ G である何かが存在する」.

指示表現であると伝統的にみなされてきた全ての表現が,この役割を果たしているといえることは否定できない.けれども,ぼくたちの疑問はこの事実の重要性に関わる.この類似性はもっと深い差異を隠蔽しているのではないだろうか? 仮にこの機能を意味の理論が認めるべきものだとしても,それぞれの表現が果たしている,根本的に異なるあり方がないだろうか?

こうした問いは決して新しいものではなく,哲学文献で広範な議論がなされてきたため,歴史的な前置きはほとんど不可避だ.系統的な意味理論はフレーゲから始まった.とはいえ,ぼくの提起した問題についての理論的考察として捉えることのできる指示の理論は,ある意味では,ラッセルから始まった.なぜなら,伝統的なグループ化の妥当性について初めて問いただしたのがラッセルであり,それによってこうした問いが哲学において注目の的となったからだ.他方,フレーゲの意味理論は非常に洗練されていたにもかかわらず,フレーゲは,指示的表現として直感的にみなされる語のカテゴリーを理論の中心にすえることで満足していた.
とはいえ,ぼくはフレーゲから始めたいと思う.というのも,フレーゲは,ぼくたちの探求に非常に重要な,コミュニケーションの状況モデルの創始者だからだ.ある場合は,彼のモデルを使うことができ,ある場合は,それを拒絶しなければならない.けれども全ての場合において,彼のモデルは明確で効果的な基準となるものだから,本書全体を通じてフレーゲのアイディアを扱うつもりだ.

ぼくは,指示表現の主な種類のすべてを考察しようとした.それによってある種類の働きを他の種類の働きと比較し,他の種類の働きに光を当てるできるようにしようと思った.そして,多くのことが未だ明らかではないことを意識してはいるけれど,この作品を指示という現象についてのかなり包括的な探求へと仕上げようとした.けれども,ぼくが観察することのできた重要な限界が一つある.それは,存在論の問題を無視してきたことだ.ぼくは,ある言語の話者が,あれやこれやの類の対象を構成する存在論を有しているということが何を意味するのか,あるいは,それをどのようにして立証することができるのか,といったことに踏み込んだことはない*5.実際,ぼくは先人たちの多くにしたがって,時空間的な個物に対する指示に集中してきた.けれども,議論のさまざまなところで,慎重な建築家のように,後から追加されるべき構造へと思いを馳せたつもりだ.

 

 

*1:今後はこの二つの語句を交換可能なものとして扱う

*2:Objects of Thought, edited by P. T. Geach and A. J. P. Kenny (Clarendon Press, Oxford, 1971), p. 155. (ぼくはプライヤーが「名前」という語で全ての単数辞を意味していると前提している

*3:'On Referring', in Logico-Linguistic Papers (Methuen, London, 1971), pp. 1-27, at p. 17. (Reprinted from Mind lix (1950), 320-44.)

*4:このセクションは id:emerose さんからの助言に基づき完成させました

*5:こうした問題に関する議論については,ぼくの「同一性と述語」,Journal of Philosophy lxxii (1975), 343-63. を参照のこと

ジョン・ミハイル『道徳認知の諸要素:ロールズの言語アナロジーと道徳・法的判断の認知科学』


おひさしぶりです.今年も,いや,この 5 年も,いろいろありましたが,結局のところ,図々しくも,僕は元気です.いや,あまり元気がないかもしれません.君はどうですか?
このところ,道徳について考えていました.いや不道徳について考えていたといったほうがいいかもしれません.
以下は,人間の道徳認知の基盤は,普遍的な「道徳文法」 Universal Moral Grammar によって特徴づけられると主張したジョン・ミハイル John Mikhail の著著 Elements of Moral Cognition: Rawls' Linguistic Analogy and the Cognitive Science of Moral and Legal Judgment (2011) の第一章の翻訳です.彼は,ノーム・チョムスキーに始まる生成言語学の手法を道徳認知の領域にも適用することで,興味深い探究が可能になると論じています.第一章は,言語学的な手法で人間の道徳の何を明らかにしようとしているのかを簡潔に概観しております.この後の章では,より具体的な理論の内容や,行為の知覚から道徳判断に至るまでの計算に関する非常に詳細な分析が展開されているので,興味のある方は,読んでみてください.

それでは,また.

正義の規則は文法の規則になぞらえることができるだろう.そして,その他の徳の規則は,批評家たちが表現の中に崇高で優美な部分を加えるために確立した規則になぞらえることができるだろう.前者は厳密で,正確で,必要不可欠なものである.後者は,あいまいで,漠然として,確定不可能なものであり,それを獲得するために確かで誤りのない方向性を与えてくれるというよりは,我々が目指すべき完成についての一般的な考えを与えてくれるものなのである.
アダム・スミス道徳感情論』

農夫であれ,子供であれ,分別と一貫性を持って,論理的に考え,判断し,言語を話すことができる.そうした行為が原理に則っていること,一般的な規則に従っていること,そしてそれらがたいへん馴染み深く,また,個別の事例においてもよく維持されていることを発見したとき,論理学者や道徳家,文法学者は戸惑うのである.
―アダム・ファーガソン市民社会史試論』



道徳認知の理論は普遍文法の側面に基づいてうまくモデル化できるだろうか?ノーム・チョムスキー Noam Chomsky は,たびたび,そのとおりかもしれないと示唆してきた(例えば,1978, 1986a, 1988a, 1993a).ジョン・ロールズ John Rawls は,『正義論』 A Theory of Justice において同様の提案を行い,言語学者による言語能力の説明と,彼自身が詳細に特徴づけた正義の感覚とを比較した (1971: 46-53).他にも多くの哲学者,とりわけスティーヴン・スティッチ Stephen Stich (1993),アルヴィン・ゴールドマン Alvin Goldman (1993),スーザン・ドワイヤー Susan Dweyer (1999),マティアス・マールマン Matthias Mahlmann (1999),そしてギルバート・ハーマン Gilbert Harman (2000) らが,同様のアイディアについて公に思いを巡らせてきた.それにもかかわらず,そして,視覚や音楽認知といった認知科学の他の分野で,チョムスキーによる能力と運用の区別やその他の基本的な理論的枠組みが成功裏に利用されてきたという事実*1にもかかわらず,普遍文法の中心的特徴に基づいて道徳認知をモデル化する研究プログラムとはどのようなものなのか,あるいは,道徳性に関する伝統的な哲学の問いがこうした観点からどのように実りある形で扱えるのか,といった問いには持続した注意が払われてこなかった.本研究はこのギャップを埋めようとするものだ.
こうしたトピックについて新たな観点から取り組み始めるのにふさわしい地点は,ロールズの影響力のある本『正義論』だ.1950年代と1960年代に,チョムスキーは,通常の人間はだれもが言語獲得のための遺伝的プログラムを備えていると主張し,言語と心の研究を変革した.チョムスキーは,形式的な教育が行われる前段階であっても,子供が母語を獲得してしまえば,言語表現の特性や関係について,広範な直観的判断が可能になるという事実に注意を向けさせる.こうした判断には,ランダムな音の連なりが文法的な文となるかどうかや,与えられた表現が曖昧かどうかや,二つの適当な表現のお互いが,韻を踏んでいるか,言い換えに当たるかどうか,含意を持つか,矛盾するかといった判断が含まれる.チョムスキーは、こうした言語行動は,言語の文法の暗黙的な知識を子供が持っているいという前提なくしては説明出来ないと主張した.彼は理論言語学を,仮定されるこうした知識の基盤となる原理―あるいは彼が言語能力と名付けたもの―を経験的に探求するように方向づけた.そして,彼はプラトンデカルトライプニッツ,そしてカントに連なる合理主義的伝統の一側面を復活させる手助けをしたのだ.
ロールズは,チョムスキーのプロジェクトが道徳哲学に与える潜在的な影響を認識した最初の哲学者の一人だった.『正義論』の第九節で,彼は倫理学の記述的側面と理論言語学との間のいくつかの構造的類似性を指摘し,言語学が言語能力の側面を研究するように,倫理学は我々の道徳能力―あるいは,ロールズが「正義の感覚」(1971: 46) と呼んだもの―の調査に向けられるべきであることを示唆した*2ロールズは,G. E. ムーア Moore (1903)、A.J. エイヤー Ayer (1946/1936),そしてチャールズ・L・スティーブンソン Charles L. Stevenson (1944) といった20世紀初頭の分析哲学者が行ったような,意味論的な狭い関心からは遠ざかる姿勢を見せた*3.そして,啓蒙時代のほとんどすべての主要な哲学者や法学者が想定していた,倫理学のより古い構想に戻ることを試みた.すなわち,人間の精神およびその道徳器官と道徳感情の経験的研究を探求の最前線に置いたのだ*4
正義論は非常に大きな影響を及ぼすようになったものの,ロールズの言語アナロジーが暖かく受け容れられることはなかった.R. M. ヘア Hare (1973),トーマス・ネーゲル Thomas Nagel (1973),ロナルド・ドウォーキン Ronald Dworkin (1973),そしてピーター・シンガー Peter Singer (1974) らによる書評は, 道徳理論が言語学と比較できる,あるいは,すべきであるという考えを鋭く批判した.さらに最近では,とりわけ,ノーマン・ダニエルズ Norman Daniels (1979, 1980),リチャード・ブラント Richard Brandt (1979, 1990),ジョセフ・ラズ Joseph Raz (1982),そしてバーナード・ウィリアムズ Bernard Williams (1985) といった面々が,同様に,ロールズのアイディアに反対してきた.
ロールズは『正義論』で最初に言語アナロジーを提案した後は,刊行物においてそれを擁護することはなかった.これは,彼の多様な関心と,時とともに彼にとって重要なものになってきた実践的な懸案事項により近い,非常に多くの批判に応答する必要性があったこととを考えれば,ある程度は理解可能なものだ.また,批判者らの言語アナロジーへの異議のすくなくとも一部に対しては,ロールズが暗黙に同意していたことも反映されているのかもしれない*5.けれども,非常に驚くべきことは,アナロジー自体をめぐる議論がとても一方的であったということだ.ロールズのアイディアについての持続的な擁護にせよ批判的な検証にせよ,近年まで,ただのひとつも哲学の文献全体の中に存在しなかったのだ*6.一見すると,これは奇妙に思われる.言語学におけるチョムスキーの革命は,大規模な追従者を生み出し,認知心理学と人間の心の研究における根本的に新しい有望なアプローチを構成するものとして多くの哲学者や科学者によって捉えられてきた(例えば、George 1989; Harman 1974; Kasher 1991; Otero 1994).同様に,ロールズの仕事は,最近の道徳哲学,政治哲学,および法哲学の文脈において革命的だったし,それはまた膨大な二次文献を生み出してきた(例えば,Wellbank, Snook, & Mason 1982; 一般的には Freeman 2003; Pogge 2007; Richardson & Weithman 1999 を参照).ロールズが道徳理論を「一種の心理学」として見ている(あるいは,すくなくともかつて見ていた)という事実 (Rawls 1975: 7, 9, 22) や,道徳理論と生成言語学を繰り返し比較する,『正義論』におけるもっとも明示的な方法論的発言 (1971: 46-53) を考慮すると,この比較についての詳細な研究が存在しないことは,かなり印象的だ*7
もちろん,この主題についてほとんど書かれてこなかった理由は,ほとんど興味深いことが言えないためだということ,つまりいいかえれば,アナロジーが明白に不適当であるためだ,ということはあり得る.これはぼくが参照してきた批判者の一般的な態度のようだ(Freeman 2007: 34-35 参照).ぼくはこれには反対だ. 確かにアナロジーが有効に機能することができる範囲には限界があるとぼくは考えている.けれども,その一方で,道徳能力を言語能力に置き換えてみることは,道徳理論の目的とアプローチとを概観するうえで,非常に啓発的な視点を与えてくれると信じている.
したがって,以下で,ぼくは,道徳理論が普遍文法のある側面に基づいて有効にモデル化できるとするロールズの主張を擁護する.私の説明は3つの主要な部分に分類される.第一部の残りの部分では,人間の道徳に関する研究と比較する上で有用な言語理論の重要な特徴をいくつか明らかにし,また,道徳認知の理論のための新しい分析の枠組みを策定するためにそうした特徴を用い,言語アナロジーを導入する.また,ロールズが正義論の中で道徳理論の本性について実際に述べたことを検証し,ぼくたちの目的において,彼の言明の重要な特徴がなんであるのかについて注意を促す.第二部では,ロールズの言語アナロジーの経験的な意義を明確にする.そうして,常識的な道徳的直観の範囲に関する記述的妥当性の問題への暫定的な解決策を定式化して示すことによって,道徳的認知の理論にしっかりとした足場をつくる.こうした問題には,フィリッパ・フット Philippa Foot (1967) とジュディス・ジャーヴィス・トムソン Judith Jarvis Thomson (1986) の仕事から始まったトロッコ問題に関する文献で議論されたものも含まれる.最後に,第三部では,ロールズの言語アナロジーやそれが前提とする道徳理論の構想に対して投げかけられた影響力の大きい初期の批判―特に,ヘア,シンガー,ネーゲル,そしてドウォーキンのもの―を考察する.これらの批判はロールズが『正義論』で描いた研究プログラムに対して無力であることをぼくは主張する.そして,その研究プログラムをぼくはさらに発展させたいと思う.
こうした作業を始める前に,以下の言明について,準備としていくつかの明確化を行うのが有意義だろう.最初の問題は,哲学の歴史の中で言語アナロジーが占める位置だ.ロールズは,文法規則と正義の規則とを比較してきた唯一の著述家では決してない.それどころか,他の多くの作家が,同一または類似した比較を行ってきた.また,スミスとファーガソンの引用から明らかなように,言語アナロジーは,実際,伝統的なものだ.事実として,一見すれば,常識的な道徳や法的知識の起源や発達を説明しようとした真剣な論者のほとんどは,インスピレーションとしてそれらを言語と比較してきたことがわかる*8
表1.1(略)は,近現代において,まさにロールズのように,何らかの形で,文法のルールあるいは言語理論を,道徳理論あるいは正義のルールと比較した著者の一部まとめたものだ.表1.1 から明らかなように,言語アナロジーは,哲学者だけでなく,多くの人類学者,生物学者,経済学者,言語学者,心理学者,社会学者,政治学者,法律家を含む科学者や学者の想像力を掻きたててきた*9.こうしてみると,ロールズの言語アナロジーは他のひとびとが行ってきた様々な比較とどのように異なり,何が特別だったのかと不思議に思うかもしれない.ぼくの答えは,いくつかの部分からなる.まず,ロールズは,このグループの中でも,道徳哲学の歴史と生成言語学の理論的基礎の両方についておそらく最も精通しているものとして際立っている*10.第二に,ロールズは, 普遍文法の現代的な復活が倫理学に与える潜在的な影響を理解している最初の哲学者だったように思われる.すでに1960年代に,能力と運用の区別や,チョムスキーフレームワークの他の側面からインスピレーションを得た他の哲学者として,ロバート・ノージック Robert Nozick (1968: 47-48) などを挙げることができる.しかし,そうした基礎のもとに道徳理論の構想全体を最初に組織化し明確化したのは,ロールズだ.第三に,『正義論』は,間違いなく,二十世紀の道徳哲学,政治哲学における最も重要な本だ.リチャード・ローティ Richard Rorty (1982: 216) は,ますます断片化されていく分野における少数の「真正の分野間パラダイム」の一つとして,『正義論』を描写している.ぼくはローティがただしいと思う.
ロールズの言語アナロジーが特別な注意を払うに値する第四の理由は,『正義論』の議論を解釈するための最善の方法に関係する.ロールズのテクストがさまざまな読みを許すもので,様々な方法論やメタ倫理的な観点と整合的なものであるように見えるということは,すでにおなじみの観察だ(例えば,Brink 1989).けれども,ロールズが道徳哲学の主題をどのように理解しているかを明確にし,どのように原理を追求すべきであるかと考えているかを明示的にするために本の1つのセクション,つまり第9節,を充てているという事実にはあまり注意が与えられてこなかった.第九節でロールズが述べた目的は,「反照的均衡における熟慮された判断という概念と,それを導入する理由をより詳細に説明することで」,「道徳理論の本性」についての「誤解を避けるためである」(1971: 46).しかし,ロールズの努力にもかかわらず,この言及の中の三つの鍵となる概念―熟慮された判断,反照的均衡,そして道徳理論そのもの―を巡る不確かさは広くいきわたったものだった.
ぼくの考えでは,第9節のロールズの言明は,道徳理論の性質についてこれまでに書かれたなかで最も力強い短い声明の一つだ.その理由の一部は,ロールズの行った道徳理論と生成文法との比較によっている.それにもかかわらず,反照的均衡や熟慮された判断といった話題を中心にして築きあげられた二次文献を注意深くレビューすれば,多くのこうした論評はロールズの哲学におけるこうした概念や生成言語学における対応する概念の発展について誤解していることが示唆されるだろうと僕は信じている.これらの問題を明確にすることで,『正義論』においてロールズが想定していた道徳理論の構想をより良く理解することに貢献したいとぼくは望んでいる.
こうした言明は,もう一つの重要な留保につながる.この本において「ロールズの道徳理論の構想」という語が指示するものは,1950-1975 年におけるロールズの道徳理論の構想のみを指示することを強調することは重要だ.ここでのぼくの探求は「初期の」ロールズが道徳理論の主題についてどのような構想を持っていたか―そして,特に,その構想のなかでの言語アナロジーの地位―に限定される.こうした問題の証拠は,キャリアの前半においてこうしたトピックについて彼が行った4つの主要な主張を見ればよい.


 (i). ロールズの博士論文「倫理的知識の根拠に関する研究」 (1950)(以下「根拠」)
 (ii). 最初に出版されたロールズの論文「倫理学のための決定手続きの概要」 (1951a)(以下「概要」)
 (iii). 「道徳論のいくつかの注意事項」と題する『正義論』 (1971) の第9節(以下「第9節」)
 (iv). アメリカ哲学協会におけるロールズの1974年会長就任言明「道徳理論の独立性」 (1975)(以下「独立性」).


ぼくはこの本において,道徳理論の自然主義的な構想をロールズに帰するのだけれど,彼がそうした構想をキャリアの終盤にも依然として抱いていたものであるかどうかははっきりしない*11.いずれにせよ,ロールズの道徳理論の構想は時代とともに変化していったのか,そうだとすればそれはなぜなのか,といったことは,先行する問いがより良く理解されてから議論するのが有益だろうとぼくは信じている.先行する問いとは,つまり,言語アナロジーとそれが意味する道徳理論の構想が,それに向けられた異議に対して脆弱なのかどうかである.
この研究の一つの目的は『正義論』のより良い理解に貢献することであると,ぼくはすでに述べた.これが正しいとしても,この後の議論はロールズロールズの言語アナロジー自体に関するものというよりは,言語アナロジーそのものに関するものであるということを明確にしておくことは重要だろう.あるいは,より正確にいえば,ロールズが初期のテクストで記述した道徳理論の構想についてのものである.ぼくの最優先目標は,『正義論』についての特定の解釈を主張することではなく,ロールズが第九節で描いた実質的な研究プログラムを発展させることだ.それは,ぼくが普遍道徳文法として特徴づけるものであり,よりシンプルには,道徳感覚の科学的探求と呼べるものだ.道徳哲学の将来は認知科学脳科学の中にぴったりと位置づけられるとするスティッチ (1993: 228) にぼくは同意する.けれども,道徳的認知の理論は,現在,無視され,未発達で,中傷されている*12.現在のこの不幸な状況には様々な理由がある.その理由のいくつかは歴史的あるいは社会学的なもので,行動主義,論理実証主義,そして精神分析の台頭と関係がある.そして,それぞれの分野の境界を策定するための専門的哲学者と心理学者との闘争も関係がある.その他の理由は,より概念的なものだ.
いずれにしても,ぼくにとっては明らかなことであり,ここで論じたいことは,言語アナロジーに対するこうした多くの初期の批判が現在の状況に大きく影響をもたらしているということだ.事実として,ロールズの初期の書物は,ジャン・ピアジェ Jean Piaget (1932/1965)やローレンス・コールバーグ Laurence Kohlberg (1981, 1984) のような心理学者の仕事と比べても,深さや一貫性,分析的な厳格さの面で遥かに凌駕するものであり,科学的な道徳認知の科学理論の芽をはらんでいた.けれども,残念なことに,言語アナロジーに対する当初のもっともらしい批判によって,言語アナロジーは,この数十年,事実上の休眠状態だった.
ぼくがこの本の中で実現したいと願っていることの一部は,ロールズの理論を復活し更新させることで,また,哲学者,認知科学者,法学者のコミュニティに,今後の研究へと目を向ける中で,それを再導入することだ.この意味で,この後の発言は,生成言語学の側面から道徳認知をモデル化する研究プログラムを定式化し,擁護する試みであると同時に,ロールズについての既存の概説に新たなものを加える試みでもある.
ロールズの言語アナロジーによって提起される科学的な問いは,古典的なものだ.すなわち,何が道徳的な知識を構成しているのか? それは生得的なものだろうか?脳には道徳判断に特化したモジュールが含まれているのか?人間の遺伝的プログラムには,正義の感覚あるいは道徳的な感覚を獲得するための指示が含まれているのだろうか?こうした問いは様々な形式で何世紀にもわたって問われてきたものだ.この本では,ぼくは,それらを明確にし,それらをどのように探求すべきかを『正義論』におけるロールズの提案を発展することを目的に,こうした問いをあらためて取り上げる.

*1:視覚認知については,例えば,Gregory (1970), Marr (1982), および Richards (1988) を参照.音楽の認知については,例えば,Bernstein (1976), Lerdahl & Jackendoff (1983), および Jackendoff (1992: 165-183) を参照.論理的な認知についての経験的探求にチョムスキーの枠組みの一部を適用する近年の試みについては,Macnamara (1986).認知科学チョムスキーの枠組みを適用する可能性について有意義な議論を重ねてくれ,また,視覚能力に関する Richards の論文にぼくを導いてくれた Joshua Tenenbaum に感謝する.

*2:ロールズは,初期の論文「倫理学における決定手順の概要」(1951a) において,「道徳的に能力のある」morally competent や「能力にもとづいた判断」competent judge といった関連するフレーズを用いているが,道徳能力という語は『正義論』第9節における議論では姿を見せない.その代わりに,「道徳的な能力」moral capacity,「道徳の構想」moral conception,「正義の感覚」sense of justice といった異なる概念によって,探求の主要な対象を同定している.たとえば,ロールズは,道徳哲学の主要な課題を,道徳能力 moral competence を記述することと考える代わりに,「道徳哲学を…道徳能力 moral capacity を記述する試みとしてまずは考えることができる.あるいは,この場合,正義論を正義の感覚を記述するものとして考えることができる」(1976: 46) と述べる. 道徳能力の正確な記述が長年の哲学的疑問の解決に役立つ可能性があることを示唆する代わりに,ロールズは次のように書いている.「ぼくたちが自身の道徳の構想について性格な説明を与えることができれば,そのとき,意味や正当化の問題ははるかに答えるのが簡単であることが示されるかもしれない」(1971: 51).最後に道徳能力をすべての正常な人間に帰する代わりに,ロールズは「ある年齢を超え,必要な知的能力を保持しているものは誰でも,通常の社会環境の下では,正義の感覚を発達させる」(1971: 46, 50) と述べる.ぼくと話した際には,ロールズは,チョムスキーの言語能力の概念と類似した意味での道徳能力 moral competence こそが,正義論において道徳哲学者が暫定的に探求する対象となるとロールズが考えた,道徳能力 moral capacity,正義の感覚,そして道徳の構想に関する正しい記述であると承認した.

*3:こうした発展についての初期の見通しについては,Rawls (1951b) を参照.

*4:道徳哲学,道徳心理学,そして法学は,19世紀の少なくとも後半までは,明らかに異なる分野ではなかったし,ある一つの主題を調べたほとんどの著者は,同様に他の種代についても幅広く扱った.特に,道徳哲学,自然法,及び国家の法律を扱った啓蒙時代の主要な論文の多くには,道徳心理学の重要な議論が含まれている.この本が依拠するそうした研究の部分的なリストを,初刊の(あるいは,いくつかの場合,オリジナルの集成時の)時系列順に並べたものは以下のとおりである.Hugo Grotius, On the Law of War and Peace (1625), Thomas Hobbes, Leviathan (1651), Samuel Pufendorf, Elements of Universal Jurisprudence (1660), John Locke, Essays on the Law of Nature (1660), Samuel Pufendorf, On the Law of Nature and Nations (1672), John Locke, An Essay Concerning Human Understanding (1689), G. W. Leibniz, New Essays on Human Understanding (1705), Joseph Butler, Fifteen Sermons on Human Nature (1726), Francis Hutcheson, Illustrations on the Moral Sense (1728), David Hume, A Treatise of Human Nature (1739-1740), Christian Wolff, The Law of Nations Treated According to Scientific Method (1740-1749), Francis Hutcheson, A Short Introduction to Moral Philosophy (1747), Jean-Jacques Burlamaqui, The Principles of Natural and Politic Law (1748), David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals (1751), Jean-Jacques Rousseau, Discourse on the Origin of Inequality (1754), Emile Vattel, The Law of Nations; or Principles of the Law of Nature Applied to the Conduct and Affairs of Nations and Sovereigns (1758), Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments (1759), Jean-Jacques Rousseau, On the Social Contract (1762), Immanuel Kant, Groundwork of the Metaphysics of Morals (1785), Thomas Reid, Essays on the Intellectual Powers of Man (1785), Immanuel Kant, Critique of Practical Reason (1788), Thomas Reid, Essays on the Active Powers of the Human Mind (1788), Mary Wollestonecraft, A Vindication of the Rights of Men (1790), James Wilson, Lectures on Law (1790-1791), Mary Wollestonecraft, A Vindication of the Rights of Woman (1792), and James Mackintosh, A Discourse on the Law of Nature and Nations (1799).シジウィック Sedgwick (1988/1902: 160-161) を参照のこと.彼によれば,グロティウス以前の道徳哲学には「倫理学と法学の領分に区別はなかった」.グロティウスは部分的にのみ,これを放棄した.さらなる議論として,Haakonsscn (1996) と Schneewind (1998). Mikhail (2007b, 2008c) とそこでの参考文献も参照のこと.

*5:ロールズが『正義論』の改訂版に加えた変更点のいくつかはこの仮定を指示するように思われる (Rawls 1999a: 40-46 と Rawls 1971: 46-53 を比較のこと).

*6:ぼくが最初に博士論文のプロポーザルの一環としてこの文章を1995年に書いたときには,この文の要旨が正確だったけれど,それはもはや完全に適切であるとはいえないだろう.このトピックに関する以前のぼくの仕事(たとえば,Mikhail 2000, 2002a, 2002b; Mikhail & Sorrentino 1999; Mikhail, Sorrentino, & Spelke 1998)によって刺激されたということもあり,言語アナロジーについての多くの重要な議論が,現在は文献として存在する.例えば,Dubber (2006), Dupoux & Jacob (2007, 2008), Dwyer (2007, 2008), Dwyer & Hauser (2008), Greene (2005, 2008a, 2008b), Harman (1999, 2008), Hauser (2006), Hauser, Cushman, & Young (2008a, 2008b), Hauser et al. (2007), Jackendoff (2007), Kar (2006), Knobe (2005), Mahlmann (2005a, 2005b, 2007), Mahlmann & Mikhail (2005), Mallon (2008), Mikhail (2005, 2007a, 2007b, 2008a, 2008b), Nado, Kelly, & Stich (2006), Nichols (2005), Patterson (2008), Prinz (2007, 2008a, 2008b, 2008c), Roeddcr & Harman (2008a, 2008b), Sripada (2008a, 2008b), Sripada & Stich (2006), and Stich (2006).けれども,ぼくの知る限り,ロールズの言語アナロジーは,このトピックについて唯一,一巻をかけて扱ったオリジナルの本であり続けている.

*7:道徳哲学者が道徳心理学を経験的によりよく説明することの重要性について,一世紀離れて書かれた二つの重要な声明として,Bain (1868) と Darwall, Gibbard, & Raillon (1992) を参照.より適切な「哲学的心理学」を発展させることが,哲学者にとって必要だとするアンスコム (1958) の重要な発言と比較してほしい.Darwali, Gibbard, & Railton (1992: 188-189) は,長い間比較的関心が払われてこなかった道徳心理学に(例えば,Flanagan 1991; Miller 1992) 1990年代初頭ごろから,多くの哲学者が道徳的な心理学に新たな関心を示し始めたことを認めている.

*8:歴史的な問題としては,言語アナロジーは,すくなくとも,アリストテレスの観察にさかのぼる.彼は言語と正義の感覚の賜物こそが人間を他の動物から区別するとした.アリストテレスの『政治学』 (1253a1-15) を参照.「ひとがミツバチや他の群生動物よりもはるかに政治的な動物であることは明らかである」.自然は…無駄なことはしない,男はことばの贈り物を与えられた唯一の動物であり,男だけが,善悪や正義・不正義といった感覚を持っているということ[も]特徴的である.そして この感覚を備えた生物の連帯が家族や国家を形成するのである.

*9:表1.1 に挙げられた著者たちの全てが,同様の,あるいは,両立可能な理論的観点から言語アナロジーのアイディアにアプローチしたわけではないことを,ぼくはここではっきりとさせておかなければならないだろう.たとえば,ベンサムの言語アナロジーは,普遍文法と普遍法学の間のつながりへの関心から生まれたものだけれど,フォン・サヴィニーのものはそうではない.リードは,正義の規則と文法の規則はともに生得的であると考えたが,ミルは道徳性が生得的ではなく,学習するものであることを主張するために,言語アナロジーを用いた.同様に,チョムスキークワインは,言語習得と道徳的発達の間の一見した類似点と相違点については,かなり異なる見解を持っている.この点を強調する必要性に私の注意を向けてくれた Allen Wood に感謝したい.

*10:道徳哲学史に関するロールズの知識は,よく知られており,ここでの詳述は必要ないだろう.幸いにも,このトピックに関する彼の講義は,政治哲学の彼の講義と一緒に,現在刊行されている (Rawls 2000, 2007; 前者の書評として Mahlman & Mikhail 2003 参照).ロールズが生成言語学に精通していたことはあまり知られていないが,ぼくが説明しようとするように,それはかなりのものであり,(いくつかの点で不十分であるように見えるとはいえ)しばしば想定されるよりも深いものだ.この点については,ロールズが 1960 年代初期に,MIT における言語哲学科の新設に貢献して数年を費やしたことを強調してもよいだろう.この時代に,チョムスキーによる言語学および心と言語の哲学の新しいパラダイムが展開し始めたのだ(いくつかの関連する背景については Pogge 2007 参照).この時代の個人的な思い出をぼくに話してくれ,ロールズへのチョムスキーの仕事の直接的,間接的な影響を議論してくれたシルヴェイン・ブロンバーガー Sylvain Bromberger,ノーム・チョムスキー,チャールズ・フライド Charles Fried,ギルバート・ハーマン,ジョン・ロールズに感謝する.

*11:ロールズの哲学的見解の多くは,彼のキャリアの過程で変更された.特に,ロールズは,包括的な道徳的な教義の一部として彼の正義の理論を捉える立場から,現代のリベラルな民主主義社会の具体的なニーズや特徴に結びついた正義の政治的構想として,正義の理論をみなすように変化した.『正義論』第9節で描写された道徳理論の自然主義的な構想は,ぼくがこの本で発展させようとしているものだが,その本質はキャリアを通じてロールズが抱き続けたものであったと,彼との会話を通して,ぼくは信じている.けれども,この主張をぼくはここで擁護しようとするのではないし,ぼくの議論はいずれもその主張に依存するものではない.ロールズの理論が時と共にどのように進化したのかについての彼自身の解釈については,おおまかに,Rawls (1980, 1985, 1993, 2001a, 2001b) を参照.

*12:この言明は,やはり,それが最初にロールズの言語アナロジーの紹介において登場したときよりも,今日では,より不正確なようだ.実際,多くの点で,それはもはやまったく正確ではないようだ.すなわち,道徳心理学は,現在ルネッサンスを迎えており,広く解釈されるところの,哲学,認知・脳科学の双方において,間違いなくもっとも実りある研究分野のひとつとなったといってよいだろう.有用かつ刺激的な論文集として,Walter Sinnott-Armstrong によって編纂された3巻のアンソロジーを挙げることができる.これらのエッセイや注 6 に記載されている参照に加えて,この後の議論に関係する注目すべき最近の貢献の部分的なリストとして,Baron & Ritov (in press), Bartels (2005), Bartels & Medin (2007), Blair (202), Bucciarelli, Khemlani, & Johnson-Laird (2008), Casebeer (2003), Cushman (2008), Cushman, Young, & Hauser (2006), Doris (200z), Doris & Stich (zoos), Gazzaniga (2005), Greene & Haidt (2002), Greene et at. (zo01), Haidt (2001), Haidt & Joseph (2004), Kelly ct a!. (2007), Killen & Smetana (in press), Koenigs et al. (2007), Lombrozo (2005), Machery (2007), Miller (2005), Moll, de Oliveira-Sousa, & Eslinger (2003), Nichols (2004), Nichols & Mallon (2006), Pinker (2005), Pizarro & Bloom (2003), Robinson, Kurzban, & Jones (2005), Saxe (2005), Schnall et a!. (2005), Sinnott-Armstrong et a!. (2005), Solum (2006), Sunstcin (2005), Tctlock (2003), Valdesolo & DcStcno (2006), Waldmann & Dieterich (2007), Wellman & Miller (2005), Wheatley & Haidt (2005), Young et al. (2007), and Young & Saxe (2008). 広範な文献は,とりわけ,Sinnott-Armstrong (2008) と Sunstain (2008) で確認できる.

雑誌 『SYNAPSE -Academic Groove-』 vol. 1 つくりました!

ご無沙汰しています.
この度,研究を通じて出会った友人たちと雑誌『SYNAPSE -Academic Groove-』*1を制作しました.ぼくたち編集チーム SYNAPSE project は,学術の魅力をより多くの人へ届ける「サイエンス・コミュニケーション」を目的とし,専門領域の枠組みを飛び越えたイベントやメディア発信を企画・運営するプロジェクトとして,今後もイベントや Web も含めた発信を予定しています *2
創刊号では,神経科学,宗教学,建築,哲学など多彩な分野の研究者たちを魅了してやまない学問の「パターン・カタチ・リズム」を集めて魅せています!(詳細は以下参照)
 

*3
 
『SYNAPSE -Academic Groove-』刊行に際して入手方法などについて多くのお問い合わせを頂いておりますので,以下に入手方法など詳細を掲載いたします.今後も SYNAPSE project 主催イベント等,ぼくたちの活動を通じて,より多くの方に手にとっていただけるよう,努力していく所存です.今後とも 『SYNAPSE -Academic Groove-』をよろしくおねがいいたします!
 

追記:テレメール(資料請求受付専用サイト)にて『SYNAPSE -Academic Groove-』vol.1 が送料のみにて入手可能になりました.直接の入手が難しい方々はぜひご利用ください.
テレメール:東京大学 本部広報グループ 資料請求

 

『SYNAPSE -ACADEMIC GROOVE-』vol.1

目次
Pattern, Form and Rhythm in the Academic Groove
世界を記述する「わたし」たち 高木正勝×坂井克之
一千億個のニューロンの繋がりから見えてくる、パターン・カタチ・リズム 池谷裕二
 
学問のカタチ
太陽系最古の火成岩 三河内岳
折り紙のかたち 舘知宏
学問的文化伝統としてのタルムード 市川裕
遺体科学、死のかたちを追う 遠藤秀紀
ウォーターブロック 隈研吾
寺田寅彦が覗いた顕微鏡の中の美 橋本毅彦
神経のかたち 伊藤啓
節がかたちづくる動物 武田洋幸
 
形はどこにあるのか? 村田純一
生きることの科学 - パターンから脱パターンへ 池上高志
 
執筆者
坂井克之 東京大学医学系研究科 脳神経医学専攻 准教授
池谷裕二 東京大学薬学系研究科 生命薬学専攻 准教授
市川裕 東京大学人文社会系研究科 基礎文化研究専攻 教授
伊藤啓 東京大学分子細胞生物学研究所 細胞・機能情報研究センター 准教授
遠藤秀紀 東京大学総合研究博物館 キュラトリアル・ワーク研究系 教授
隈研吾 東京大学工学系研究科 建築学専攻 教授
武田洋幸 東京大学理学系研究科 生物科学専攻 教授
舘知宏 東京大学総合文化研究科 広域科学専攻 助教
橋本毅彦 東京大学総合文化研究科 広域科学専攻 教授
三河内岳 東京大学理学系研究科 地球惑星科学専攻 助教
村田純一 東京大学総合文化研究科 広域科学専攻 教授
池上高志 東京大学総合文化研究科 広域科学専攻 教授
 
インタビュー協力
高木正勝 映像作家・音楽家 http://www.takagimasakatsu.com/
 
編集者
菅野康太 東京大学大学院 理学系研究科博士課程 http://web.me.com/canno.mac/synapse.world/home.html
飯島和樹 東京大学大学院 総合文化研究科博士課程 
住田朋久 東京大学大学院 総合文化研究科博士課程 http://researchmap.jp/sumidatomohisa/
塚田有那 +81Creatives 
 
アートディレクター
NOSIGNER http://www.nosigner.com/
 
デザイン・プロデュース
{+}81Creatives http://www.plus81creatives.com/
 
スーパーバイザー
江川雅子 東京大学 理事
武田洋幸 東京大学 広報室長
本郷恵子 東京大学 広報室副室長
 
コーディネーター
清水修 東京大学 特任専門員
 
スペシャルサンクス
濱田純一 東京大学 総長
 
編集・発行
東京大学
〒113-8654
電話 03-5841-1046 FAX 03-3816-3913
印刷・製本 プライズコミュニケーション
2010年7月31日
ⓒThe University of Tokyo, 2010
Printed in Japan

 
今回の活動の支柱となった書籍
今回コーディネートを担当してくださった清水修さんが,ほとんど,独力で作り上げた,たいへんエキサイティングな学術エンターテイメント本です.
「学問はわくわくするほどおもしろい!研究者はどきどきするほどかっこいい!」

ACADEMIC GROOVE―東京大学アカデミックグルーヴ

ACADEMIC GROOVE―東京大学アカデミックグルーヴ

*1:Academic Groove とは,「学問はワクワクするほどおもしろい」をコンセプトに,一見閉鎖的な学問の世界を先鋭的なビジュアル・デザインと斬新な編集企画から紐解いた東大出版部発行の書籍(2008年発行)のタイトルであり,同様のコンセプトに基づく活動体の名称でもあります.東大広報部の清水修を主軸に展開.

*2:参考:学生による「タフな学生養成企画」優秀賞「東京大学を編集して魅せる!」

*3:撮影:古戎道典 東京大学大学院 総合文化研究科修士過程

「信じる運命?」進化心理学・認知科学による宗教への科学的接近

豊浦噴火湾20090811
おひさしぶりです.今年もいろいろありましたが,結局のところ,図々しくも,僕は元気です.君はどうですか?
さて,年始年末は日本においても宗教に関わるイベントが目白押しですが,それらの忙しさをやりすごしたら,ふと立ち止まって宗教や信仰そのものについて考えてみるのもよいのではないでしょうか.そのきっかけとなるネタを提供できれば光栄です.

はてなで学ぶ非-インテリジェント・デザイン
長老「人は人に似せて全能の神様を創ったのじゃよ.その証拠に,わしらが考える神様はひどく人間くさいではないか」
ぼく「ふうん,なるほどね.神様がぼくたちに似ているのは,僕たちが考えたものだからなのか….待てよ?ということは,神様もぼくたちと同じように神様を創るんじゃない?」
長老「…う,うむ,そ,そうじゃ,よくぞ気がついた.わしらが神様を創ったのと同じように,きっと神様も全-全能のメタ神様をお創りになるじゃろう」
ぼく「ふうん,なるほどね.メタ神様は神様より強くてエラいんだね,うはは.そして今度はメタ神様が全-全-全能のメタメタ神様を創るんだ!」
長老「そうぢゃ!」
ぼく「…ぼく,頭がごちゃごちゃしてきたよ.ねえ,じゃあ僕たちを創ったのはいったい誰なの?」
長老「お前ごときを全能として創ったのだから,お前より非-インテリジェントで無-能な存在に決まっちょる」
ぼく「わかった!空飛ぶスパゲッティーモンスターだ!あいつら,アホ丸出しじゃないか!」

空飛ぶスパゲッティーモンスター
さて,非-インテリジェントな小噺は手短に切り上げて本題へ.以下は Nature に 2008 年に掲載された パスカル・ボイヤーによるエッセイを訳出したものです.このエッセイは "Being Human" (ヒトであるということ) という一連の連載記事の中のひとつで,他にも言語や愛といった人間固有と考えられてきた特質について,近年の科学的な探求の成果がやさしく解説されています.購読できる環境にあるかたは是非アクセスしてみてください.
それでは以下,拙訳です.

Being human: Religion: bound to believe?
Boyer P.
Nature. 2008 Oct 23;455(7216):1038-9.

無神論はこれからも常に宗教よりウケが悪いだろう.なぜなら多くの認知的特性が我々に宗教を信仰するようにしむけるからだ.
宗教は進化の産物なのだろうか?この問いかけこそが多くの人々を宗教的にさせている.あるいは,そうでなければ,萎縮させているのだ.もちろん理由はそれぞれに違うけれども.信仰深い人々は信仰の基盤となるプロセスを理解することで信仰の土台が突き崩されることを恐れている.信仰を持たない人々は,進化的遺産の一部として示されたものが,善であり,真であり,必然的あるいは避けようのないものとして解釈されることに気を揉んでいる.多くの科学者を含め,そのどちらでもない人々は,単に争点全てを退け,宗教を子供じみて危険で無意味なものとして見る.
 このような反応をとってしまうと,宗教的思考が,どうして,そして,どのようにして,人類の社会の中でここまで広範囲に広がっているのか (これは特に宗教的原理主義の現状に関係する) についてはっきりと知ることが難しくなってしまう.僕たちがたまたま手に入れたあるタイプの脳によって生じる様々な結果のひとつとして宗教があるのかどうか,を問うことによって,どのタイプの宗教が僕たちの精神にとって「自然」なのか,ということが明らかになる.またこの問いによって,「宗教はそれぞれ様々に異なるとはいえ,人の手によって作りあげられたものである」という一般に共有された仮説を検証することができ,宗教と民族紛争との関係を探求することができる.そして最後に,無神論へと至る現実的な可能性を大胆に予測してみることができる.
 過去10年に,宗教の進化的・認知的な研究が成熟をはじめた.といっても,宗教的思考を担う遺伝子や遺伝子群を識別しようとする研究ではない.また,僕たちの知っているような宗教を生み出した進化のシナリオを単に夢想することでもない.実際の研究は,もっと巧妙なものだ.新しい研究は,新しい仮説と検証可能な予測を提示している.人間の構成のうちで,何が宗教を可能にさせ,成功させているのかを問うのだ.宗教的思考や振る舞いは,音楽,政治体制,親族関係,民族連合といった人間の自然的な能力の一部と考えることができる.認知心理学神経科学,文化人類学,考古学における発見は,宗教に関する僕たちの考え方を変えることを約束している.

仮説に基づいて
重要な発見のひとつは,人々は自らの宗教的思考の一部しか意識できないというものだ.なるほど,人々は「世界を作った全能の神がいる」だとか「精霊が森林の中に潜んでいる」といった自らの信条について記述することができる.けれども,認知心理学が示すところによれば,この種の明示的にアクセス可能な信条には,意識的な内省では一般に捉えることの出来ない多くの暗黙の仮定が常に伴っている.
 例えば,どのような明示的な信条をもっていようと,多くの人々は神に対する非常に擬人的な期待を抱いていることが実験によって示されている.神がいくつかの問題に同時に専念しなければならないストーリーを聞かされた場合,一般的に神は無制限の認知的能力を持っていると描写されるため,人々はそのストーリーが全く妥当なものだと考える.一定時間後にストーリーを思い出させると,ほとんどの人々は,1つの状況に神が専念した後に次のものへと注意を向けた,と答える.人々は彼らの神の心が人間の心とそっくり同じように働くことも暗黙に期待している.知覚や記憶,推論,動機づけについて同じプロセスを示すと考えているのだ.そのような期待は意識には上らず,多くの場合,彼らの明示的な信条と対立することになる.
 伝統ごとに大きく異なる意識的な信条とは違って,暗黙の仮定は異なる文化や宗教においても非常に類似していることが研究によって示されてきた.これらの類似性は人間の記憶の特性から生じるのかもしれない.人々に最もよく記憶されるのは,物理的直観に反した業 (キャラクターが壁を通り抜けたり,瞬間的に移動する) と,もっともらしい人間の心理的特性 (知覚,思考,意図) との組み合わせを含んだ物語であることが実験によって示唆されている.恐らく,神と精霊が文化的に成功している理由はこの記憶バイアスによるのだろう.
 人間は非常に幼いころから,神や精霊,そして他の非物理的なエージェントとの社会関係をはぐくむ傾向がある.他の社会性動物とは異なり,人間は物理的に存在しているかどうかに依らず,エージェントとの関係を確立し維持することが非常に上手い.例えば,社会的な階層や連合の中には一時的にその場に不在のメンバーが含まれる.この傾向は更に突き進む.人間は,幼年期から,虚構のキャラクターや想像上の友達,死去した親類,目に見えないヒーロー,空想の仲間たちと持続して安定した重要な社会的関係を形成する.実際,他の霊長動物と比較して異常ともいえる人間の社会的技能は,想像されたパートナーや不在のパートナーとの恒常的な実践によって磨かれている可能性がある.
 非物理的なエージェントとの絆を形成するこの能力から,精霊・死んだ先祖・神 (彼らは目に見えず触ることもできないが,それでも社会的に関わる) の概念化へはちょっとした一歩だ.ほとんどの文化において,人々の信頼する超人間的なエージェントたちが道徳に関係している理由がこれで説明できるかもしれない.そういったエージェントは,道徳に関わる行為にのみ完全なアクセスを有しているかのように描写されることが多い*1.「神は私が朝食にお粥を食べたことを知っている」と考えるより,「神は私がこのお金を盗んだことを知っている」と考えるほうがはるかに自然であることが実験によって示されている.
 さらに,人間や他の動物における強迫行動に関する神経生理学が宗教儀式を解明し始めている.強迫行動の中には,患者に対して明瞭で観察可能な結果をほとんどもたらすことがないにも関わらず,行わなければならないと感じさせるような紋切り型で頻繁に繰り返されるものがある.例えば,一連の決まり文句を繰り返しながら胸を 3 回打つといったものだ*2.儀式化された行動も,強迫性障害の患者や幼時の定式行動に見られる.こういった文脈では一般に儀式は,汚染と浄化に関する思考,危険と防護,特別の色や数を使用することの要求,安全で秩序だった環境を構築する欲求といったものに関係している.
 今や,僕たちは,人間の脳には,捕食や汚染といった危険な可能性を避けるための安全確保と予防措置のネットワークが備わっていることを知っている.このようなネットワークは周囲の環境を洗浄したり点検したりするといった特定の行動を引き起こす.そしてシステムが暴走すると,強迫性障害を生み出すことになる.純潔,穢れ,潜んだ悪魔による隠された危険といった宗教的メッセージは,これらのネットワークを活性化し,儀式的な予防措置 (洗浄,点検,聖域の制定) を直感的に魅力的なものにする.
 最後に,社会/進化心理学の研究は,宗教に影響をもたらす人間特異的な連携能力の存在を明らかにしている.人間は,相互信頼で強く結ばれた,無関係な個体との広大で安定した連合を維持することで動物の中でも特異な存在だ.人間はそれを達成するための認知的ツールを進化させてきた.人々はどのようにして他者の信頼性を計測するかを知っている.また,人々は相互行為のエピソードを思い出し,人々の性格がどのようなものかを推測する.そして,人々は,コストが高く欺きにくい,態度表明の信号*3を発し,検知することができる.
 こういった連携に関する心理は公的な宗教的態度のダイナミクスに関係している.人々が特定の信仰への忠誠を公表するとき,彼らは他の宗教グループにとっては自分たちが明らかに誤っており馬鹿げているととられることに,同意しているのだ.信仰の表明は,グループの特定の規範を,それがまさにグループの規範であること以外の理由なしに受容することへの意思を周囲に発しているのだ.

認知的な隠し場所
ということは,宗教は適応,あるいは,進化の副産物なのだろうか?おそらくいつの日か,僕たちは,社会・政治的な近代的制度としての「宗教」というよりも,むしろ,宗教的思考の能力こそが,祖先の時代においては適応に貢献していたという説得力ある証拠を発見するだろう.その日が来るまでは,データはもう少し控えめな結論を支持する.つまり,宗教的思考は僕たちの標準的な認知能力から創発した特質であるように思われる,というものだ.
 音楽や視覚的芸術や美味や政治や経済制度や流行と同じように,宗教的な概念や活動が僕たちの認知資源をハイジャックしているのだ.心理学者が超正常刺激*4と呼ぶような形式を宗教が備えているというだけの理由で,このハイジャックがおこるのだ.視覚的芸術が,自然の中に見られるものより,より対称的で鮮やかな色を持つのと同様に,宗教的エージェントは,現前しない人間的エージェントが極めて単純化されたものであり,宗教的儀式は,予防的手続きが高度に様式化されたものなのだ.ハイジャックが起こるのは,宗教が特定の行動の表出を促がすためでもある.集団へのコミットメントの場合がそれに当たり,特に,奇抜で自明でない信念を受け入れることが表明される場合には,信頼性が高まることになる.
 人間の心に宗教に固有の領域はないのだから,宗教的信念に固有の源を正確に示そうとするべきではない.ちょうど色と形が視覚システムの異なる部位によって扱われるように,異なる認知システムが,集団へのコミットメント,儀式化された行動,超自然的なエージェントといった表象を扱う.言いかえれば,神概念を説得力あるものにしているのは,儀式を直観的に強迫的なものにするものでもないし,道徳的規範を自明のものにするものでもない.最も近代的で組織的な宗教は,これらバラバラな要素 (儀式,道徳,形而上学,社会的アイデンティティ) 全てを1つの一貫した教義と実践へと統合するパッケージとして現われるのだ.けれども,パッケージはただの広告に過ぎない.これらの領域は人間の認知の中で分離されたままだ.証拠が示すところでは,心は単一の信念ネットワークではなく,無数の別個のネットワークを持っており,このネットワーク群が宗教的主張を多くの人々に極めて自然なものに感じさせるのだ.
 この認知-進化アプローチから生まれた発見は,最も確立されている宗教における 2 つの中心的教義に変更を迫る.ひとつは,自分たちの特定の宗教的信仰は,(おそらく誤って思い込まされた) 他のいかなる信仰とも異なるという考えだ.もうひとつは,宗教的観念が生まれたのは,超常的な出来事が生じた,あるいは超自然的なエージェントが実際に存在したためで,それだけが理由である,という考えだ.しかし,実際は真逆であり,あらゆるバージョンの宗教は非常に類似した暗黙の仮定に基づいており,超自然的なエージェントを想像するのに必要なものは,最も自然なやり方で情報を処理する正常な人間の心だけであることを,僕たちは今や知っているのだ.
 これらの結論を知ったからといって,さらには受け容れたからといってさえ,恐らく,宗教への傾倒が阻まれることはない.あるタイプの宗教的思考は,僕たちの認知体系にとって最も抵抗の少ない経路のように思われる.対照的に,懐疑は,一般的に言って,僕たちの自然な認知傾向に逆らって行われる慎重で骨の折れる作業の結果だ.懐疑が最も伝播しやすいイデオロギーである,などということはほとんどありえないのだ.

以上,拙訳でした.

あわせて読みたい
P. Boyer の著書

Religion Explained: The Evolutionary Origins of Religious Thought

Religion Explained: The Evolutionary Origins of Religious Thought

その邦訳 (id:shorebird さんによる書評)
神はなぜいるのか? (叢書コムニス 6)

神はなぜいるのか? (叢書コムニス 6)

儀式的行動と強迫性障害の関係についてのより詳細な論文

Why ritualized behavior? Precaution Systems and action parsing in developmental, pathological and cultural rituals. (PDF)
Boyer P, Liénard P.
Behav Brain Sci. 2006 Dec;29(6):595-613; discussion 613-50.

進化学による統合の試み

Consilience

Consilience

その邦訳 (三中信宏先生による書評)
知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

genxx さんによる「宗教がいかに進化してきたのかを科学的に説明する(ふたたび)」も同様の試みに関する記事.
■ そうそう,最後になりますが,twitter 上で交わされた @genxx さんと @edouard_edouard くん (id:edouard-edouard) との対話 (宗教を生きる) も宗教について考える上で大変示唆に富むものでした.

それでは,みなさま,よいお年をお迎えください.

*1:訳者注:たとえば,「閻魔さま」とかかな.

*2:訳者註:日本だと「二礼二拍一礼」とかかな.

*3:訳者注:クリスマス・プレゼント!お布施!!

*4:訳者注:進化的に適応した自然界の刺激よりも強い影響をもたらす刺激.id:optical_frog さんの「別訳バージョン:デネット『かわいい,えろい,あまい,おもしろい』」がたいへん参考になります.

ご無沙汰しておりました。

冬になると恒例のように更新が鈍るこのブログ。寒いとなかなか心が発火点を超えないのである。今日は初夏のような陽気だから。と言ったら、分かり易すぎて恥ずかしいのだけれど、事実だから、仕方がない。どうやら、この実に恥ずかしい心身を抱えた私を、何らかの仕方で開示していくのがブログというもののようである。かえすがえす、実に、恥ずかしい。
全てが停滞しがちな冬の間にも、僕や、周りのひとたちや、世界に、いろいろなことがあった。それらのひとつひとつを記録していくこと、あるいは記録しないこと、にどういった意味があるのか、は過ぎ去ってみなければわからないのだけれど、ただ日々が流れていってしまうのなら、ただ流れていってしまう日記というものがあってよいのだろう、と思う。そういう良い意味での軽みを持った日記を読むのが僕は好きなのだけれど、いざ自ら書くとなると、思った以上に難しく、僕はいつもそれを目指しながらも躓いてしまうのだった。

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)

三崎日和―いしいしんじのごはん日記〈2〉 (新潮文庫)

三崎日和―いしいしんじのごはん日記〈2〉 (新潮文庫)

今年はうまくいきますように。
今日は池谷裕二先生の授業に出た。数学と高度な技術の合わせ技に打ちのめされる。数学、やっぱり磨かないとな。
今から夜勤へ。