合理ゆえに我信ず


科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想

(前略)要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。

(前略)下に書いてある通り、科学は科学的ではない。私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。疑似科学批判に余念がない人は、世の中の人が全員科学を信仰しているとでも思ってやしないだろうか。その<普遍性>も「わからん」。と言っておく。

詐欺とかと関連づけて考えちゃう人の気持ちはわからんでもないけど、詐欺は疑似科学の結果じゃないでしょ。逆。詐欺ありき。疑似科学に罪はないだろ別に。


詐欺の方法論としての疑似科学が「罪深い」のは。――以下数百年を十数行で犯罪的なまでに単純化した記述なのでその点は諸賢の御了承と突っ込みを。


chnpkさんが参照しておられる20世紀のポパー―クーンの議論は、おそろしく単純化して要点を述べると、科学は「真理」たりえない、ということの確認としてありました。それは現代における科学の前提。問題は、合理的な帰結として物事を了解することの陥穽にあります。


合理的な帰結として物事はある、その認識をかつて神様が司っていたとき、世界の合理的な記述として宗教はありました。そして来るべきルネサンスにおいて、切込隊長レオナルドは、世界の合理的な記述を、万物をイデアの顧現と見なし諸事を御心と規定する発想を排して、自然人体機械工学、具体的な事物に即して追求しました。人間の人間的なる意思と力量において。


かくて人文主義は出発し、やがて世界の合理的な記述は自然人体機械工学という具体的な事物に即して展開されるようになって、要素還元主義へと到着しました。そして真善美は分解され、社会的諸関係の総体として人間は定義され、合理的な帰結として物事はある――その認識が神様から人間自身の管轄へと、人間の人間的なる意思と力量において移管された結果、世界の選択は人間において善と美を疎外しました。そして人間の人間的なる意思と力量さえその肯定性を否定され、無意識へとトレースされていきました。


その趨勢に棹差したひとりに、20世紀のフランスにおけるベルクソンがあり、ひいては戦後日本における小林秀雄がありました。人には内的真実があり、内的真実に即した個人的な世界の記述がある。そして、その記述は人間の内的時間すなわち歴史意識に即して合理的である、と。その記述を不合理と考えるなら所謂ロマン主義です、たとえば三島由紀夫のような。そして三島は最後となった作品においてそのことを超克しようとしました。結果は、たぶん最後となったことが示している。


ポパーークーンの「科学は真理たりえない」という確認は、以上を前提として、合理的な帰結とその集積として物事を了解し世界を記述することの限定性についての確認としてあり、そのゆえにきわめて重要でした。不合理を否応なく処理する(それが生きるということ)人間存在は合理たりえないがゆえに科学的認識の合理性は「真理」たりえず、物理法則に基づく世界の記述は不合理を処理した結果として構成される人間の内的世界を記述しえず、ゆえに――たとえば現代文明人にとっての信仰のような――個々の内的真理と対立するものではない。


信仰は、現代文明人にとって人間の内的世界における不合理の依り代としていまなおあって、それは科学的認識の合理性ならびに物理法則に基づく世界記述と対立するものではない。いわゆる根本主義、あるいは広義の原理主義とは、人間の内的世界において科学的認識の合理性ならびに物理法則に基づく世界記述を否定する態度のことです。


そして現代文明人にとっての信仰と同程度に誤解があるのは、擬似科学討伐に血眼な科学原理主義者、という捉え方で、第一に、科学が「真理」たりえないことは現代科学の前提であり、第二に、「人間の内的世界あるいは個人の内的真実において科学的認識の合理性ならびに物理法則に基づく世界記述を否定する態度」を批判することと、人間の内的世界ならびに個人の内的真実を批判することは違います。


ベルクソン小林秀雄があるいは三島由紀夫がそして付け加えるなら茂木健一郎が偽科学でないのは、ゆえにその点において批判されうるものでないのは、彼らが個人の内的真実に即した世界記述において人間の内的世界の価値を大戦の世紀ひいてはテクノロジーの世紀に改めて提示したからで、私は必ずしもよい読者ではないけれど、著述家茂木健一郎は科学者でなくエッセイストと思っているし、本人もそう名乗っているだろう。科学的認識に対して科学者茂木健一郎でなく「私」としての茂木健一郎が感じた違和感について再三述べていることは知っています。

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京極夏彦が言ったことですが、現代科学を懐疑する貴方はなぜ飛行機に乗るのか。桂枝雀の落語ではないが、あのような巨大な鉄の塊が空を飛んでいることさえ信じ難いというのに自分が乗るなんて。むろん事故統計は公開されており、そして航空機事故には合理的な原因があり、それは再発防止のため徹底的に究明される。「責任」の問題は措きます。


そして航空機事故の合理的な原因は事後に判明するため、航空機乗客としての私たちはその合理性をむろん機内に乗り込む際知りうるものではない。だから、私たちは、やはり最終的には飛行機に乗ることを、むろん通勤電車を利用することも、博打と思わざるをえない。この世に完全はない、とか、そういう話ではない。余談ながら、キューブリックの飛行機嫌いとはそういうことと私は思っています。彼は個人的にも運命論を嫌った。


物理法則の合理性を「私」は事故に遭う以前に知りえず、事後に判明したとき「私」はこの世にいない。物理法則の合理性から「私」が疎外されることが必然であるとき、人間の内的世界は不合理の処理に否応なく迫られ、結果「私」が物理法則の合理性において世界を記述することは不可能である。


それが戦中戦後の小林秀雄の問題意識であり、そして小林は不合理の処理に否応なく迫られた「私」の内的真実に即した個人的な世界記述がしかし歴史に照らしたとき合理的なものでもあることを、示すべく戦中の古典回帰以来の思考を重ね、それは『感想』を経て『本居宣長』において成った、と私は考えています。


そしておそらくはそれは、戦争という不条理な大量死にさらされた「私」において広範に共有された問題意識であり、戦争を経た多くの作家の、あるいは未来の作家の痛切な問題意識でもありました。『虚無への供物』は覿面にその主題を描いていました。「――その人々に」中井英夫はその作品を捧げ、作中の殺人者は自らの死者を捧げた。それが、彼らにとっての、そして探偵小説の金字塔における方法論的な、合理的ならざる死に対する回答であり、意趣返しだった。


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新装版 虚無への供物(下) (講談社文庫)

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――だから。物理法則の合理性から「私」が疎外されることが必然である以上、神なき近代人の内的世界が不合理の処理に否応なく直面するとき、「私」が物理法則の合理性において世界を記述することの不可能にもかかわらずなお人が合理的な帰結として物事を了解しようとする不合理が、個人にとっての決定的な不幸に由来することは、あまりに多い。『虚無への供物』の殺人者がそうあろうとして、しかしそうありえなかったように。


それは「貴方」や「誰か」の死であり、「私」に降りかかる災難であり、その後遺症であり、家族関係の因果であり、「私」と分かち難い誰か、たとえば親にとっての幼い子のような存在の、生来の疾患や障碍であり、そのことに対する自身の「因果」としてある。別にナチなど持ち出さずとも、合理的な帰結として物事を了解しようとすることは、残酷であり、そこには陥穽があります。


個人的な運命論に対してトンデモと詰ることは許されないが、第三者が運命論において日航機墜落事故阪神大震災を記述することもまた許されない、そうした話です。かつて岡田斗司夫も述べたように、個人的な霊体験は誰も否定できない。そして私たちが飛行機に乗ることを最終的に博打と思うことと、「だから」飛行機が飛ぶことを否定することは違うし、航空関係者の不断の努力を否定することも違う。

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「詐欺ありき。疑似科学に罪はないだろ別に。」というchnpkさんの問題提起に答える形で冒頭に戻ると。詐欺の方法論としての疑似科学が「罪深い」のは、合理的なる物理法則に対する人間存在の必然としての不合理を、合理的な帰結としての物理法則に還元するべく機能する、そして詐欺師はそれを意図するからです。競馬必勝法を科学的に論じる詐欺と陰謀論的に論じる詐欺と「私を信じろ」と論じる詐欺はそれぞれ違い、そして科学的に論じる詐欺は端的に社会的な科学リソースの横領であり結果としての毀損です。


信仰持ち合わせる人の肩身が狭い現代日本社会の文明人にとって「信じる」ことは人間の内的世界における必然としての不合理の依り代としてあります。だから、たとえば結婚詐欺が典型的にそうであるように、「信じる」という博打の別名において多く詐欺は成る。


そして、詐欺の方法論としての疑似科学は「信じる」という博打をひいては個人の個人的選択、言うなれば人間の人間的なる意思と力量を、勝負の選択肢として端から除去するからこそ悪質であって、それは物理法則の合理性において世界を記述しようとする科学とその業績の、端的に横領以外の何物でもありません。科学関係者が批判するのは当然のことであって、エリーティズムでも馬鹿差別でもなんでもない。


『宗教なんかこわくない!』において橋本治が言ったように、人は不合理ゆえに我信じるのではない、合理ゆえに信じる。そして合理ゆえに信じたら最後、その合理性が御破算しようとも信じ続ける。合理ゆえに信じた自分を信じて。ポパー―クーンを経た科学的認識とは、そのような人間存在が要請するその内的世界に基づいた不合理をリジェクトするための社会的/方法的プログラムとしてあり、絶えざるテストを重ねています。私たちの社会のために。


物理法則の合理性において世界を記述しようとすることと、物理法則の合理性に基づく不合理の処理にさらされる「私」が物事を合理的な帰結として了解しようとすることは、違う。その違いについて常に確認するべきは、物事を合理的な帰結として了解しようとする「私」がさらされる不合理とその必然を知ることであり、そしてそのことは科学的認識の問題でも科学の管轄でもない。だから、繰り返すけれど、小林秀雄ポパーは両立しうる。


ただ、このようなことは言いえます。物理法則の合理性の絶えざる確認と不合理の処理への「私」の常なる直面は、共犯関係を取り結んでいる。むろん、「だから」物理法則の合理性の絶えざる確認が不合理の処理への「私」の常なる直面に責を負う、ということではありません。というか、物理法則の合理性への絶えざる確認を行う「私」と不合理の処理への常なる直面にさらされる「私」は同一人としてある。それが近代人の心象の必然としてある、ということです。


私がこういうことで他人を馬鹿とあまり言いたくないのは、かつて唐沢俊一が血液型相性診断について述べたように、問題は正誤ではない、たとえば恋愛という重大な私事において、人がそれを半ば本気で参照するとはどういうことか、あるいは占師の友人が述べたように、人生の大事を占星術の結果を参照して判断するとはどういうことか、考えるなら考えるべきはそのことと思うからです。言うまでもなく、人生の大事を占星術の結果を参照して判断する人がなべて馬鹿であるはずもない。友人いわくというか私も知っているけれど、少なくとも「成功者」は多い。


スティーヴン・キングの世界観を退けたキューブリックがその当時うさんくさい石を健康のためしじゅう身に付けていたという話を彼の死後聞いて、『博士の異常な愛情』を改めて思い出すと共に、私は色々と合点しました。『ブライズヘッドふたたび』のように回心を勧める趣味は毛頭ありませんし、キューブリックがビリーバーであった、とかそういうことではむろんない。けれども、いみじくもグリーンが言ったように、この世で近代人が正気であり続けることの困難を思いはします。

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宗教はアヘンとマルクスは言ったけれども、むろん人がアヘンを必要とする不条理な現実をマルクスは見ていました。そして、あらゆる宗教が詐欺であるとして、大店と香具師は区別される。たぶん、こと日本におかれては、世界の合理的な記述ならびに真善美を司る神仏の代理人でなくなってなお歴史的な共同体の基盤としてある大店より、人は個人の内的世界における必然としての不合理の依り代を、たとえば香具師や個人商店に求めるのでしょう。江原啓之のような。その個人性ゆえに。


そのことの是非は措く、というか仕方のないこととしても、むろん江原氏はそうではないけれど、物事を合理的な帰結として了解しようとする「私」に付け込むべく物理法則の合理性において世界を再記述する言説は、物理法則の合理性がそうした不合理な心象を必然するからこそ、そのヤバさについて詐欺自体の問題と別個に指摘されてしかるべきです。


そして言うまでもなく、物理法則の合理性においてそうした不合理な心象は、そもそも討伐されないし手当もされない。ゆえに、繰り返すけれどそもそも論としての問題は科学的認識にも科学の管轄にもない。擬似科学批判批判として「科学信仰」を持ち出すというのは、なんだろうとは思います。科学者の疑似科学批判とはつまるところ宗教戦争でしかない、という話ならまったく同意できません。


前世商売が、物事を合理的な帰結として「説明」することと、詐欺に使用される擬似科学が、物事を合理的な帰結として「説明」することは、同じことです。そして、物理法則の合理性に基づく不合理の処理に即して人間存在が合理的な帰結としての「説明」を必然として求めることは、そのような「説明」を、ことに社会的資源を横領して為されるそれを、まして詐欺のためにされるそれを、批判しないことの理由にはならない。


所謂根本主義以外の現代文明人における信仰にとって聖書とは「信じる」ことの問題であって、物事の合理的な帰結としての世界の「説明」ではない。自称無神論者がそのことに対して嘴を挟むなら、現代文明社会はその行為を野蛮人と指します。


水からの伝言が物理法則の合理性において世界を記述し「説明」するとき、それは「真理」と世人に誤解されがちな科学的認識の、誤解を承知しての横領であり、すなわち社会資源の概念的な横領であり、物理法則の合理性において世界を記述しようとすることの、まさにポパー―クーン的な倫理に対する「冒涜」であり、物事を合理的な帰結として了解することの――物理法則の合理性の絶えざる確認がセッテイングする人間存在とその内的世界の不合理に基づいた――陥穽としてあります。


そして、結局のところ、小林秀雄が傾倒したヴァレリーが明晰に謳ったように、「虚無」に捧げる供物とは、せいぜいが、いとすこしの美酒を海に流すことでしかありません。広義の象徴主義とは、言葉との「意味」に基づいた適切な関係性を失った文明人の、世界に対する切実な倫理でした。余談ながら、原作読んでいないけれど福山雅治主演の『ガリレオ』は、映画含めてそうした主題をそれなりにポイントを押さえて取り扱っており、面白かった。


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