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2016-02-03 自由民主主義は人権人権人権だね

表現の自由と人権の関係


実に基本的な一般論をざっくりと

ここでは日本国憲法に即して述べているが、自由民主主義について一般的にあてはまることであろうとは思う。


承前

丹羽良徳がギャラリーにデリヘル呼ぼうとして怒られたことについての反応 - Togetterまとめ


2016年1月30日にギャラリーに呼ばれたげいまきまきさんのツイート - Togetterまとめ



後者のまとめのコメント欄において、僕は以下の発言をした


「表現の自由」がなぜ重視されるかというと、それは人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだからだ、という基本中の基本を理解せずに、「表現の自由」をふりまわす愚か者の多さよ・・・



すると以下のリプライが僕宛にあった。


@online_checker

違います。#表現の自由 は一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため。#まなざし村 村民は、憲法の基本書を読みましょう(「88の提案」が思考実験である事も忘れるべきではない)。


https://twitter.com/online_checker/status/694427617852727296


その後のやりとりによると、どうやらonline_checker氏は「京都大学法学部卒で佐藤本使い」を自称されているようである。

ちょうどよいので、憲法における人権と表現の自由の根本的な関係について、憲法学の基本書を参照しつつ*1ざっくりとまとめてみたい。

僕の議論の妥当性については、氏を含めた読者諸賢の批判を喜んでお受けしよう。


まず、「表現の自由がなぜ重視されるか」についてであるが

・人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから←地下猫

・一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため←online_checker氏


なのだが、氏の議論では、なぜ他の諸権利や諸自由よりも表現の自由が重視されるかの理由としては不十分なものである。

例えば、私の眼前にある灰皿の中の吸い殻の配置は、毀損されやすく回復も困難であるが何の価値もない。毀損されやすく回復が困難であること自体は、特定の自由が他の自由より重視される理由にはなりにくく、また他の自由が頑健なものであるとの論証もされていないし、毀損されやすい自由など他にも多くあろう。




では、「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから、表現の自由が重視される」の論証にはいろう。

手許にあるのは1999年第一刷発行の芦部憲法である。2016年現在の憲法学との違いについては、専門家でないのでご容赦されたいが、基本的な論点なので大きな違いはないと思う。




憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基いて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。(P5 憲法の意味 より)


近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。

(中略)

しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕*2するものとして存在している。

このような自由の観念は自然権の思想に基づく。この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。(P10 憲法規範の特質 より)


憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。(P12 憲法規範の特質 より)



総論の部分から何箇所か引用した。

憲法の目的が権利と自由を守ること・人権規範に「奉仕」することにあり、人権規定こそが憲法の中核をなす根本原理であり、人間の権利と自由(すなわち人権)を保障する規範を中心に構成されていることは一目瞭然であろう。


総論で特に強調された原理原則を前提とし、他の部分に敷衍するのはどのような学問においても当然であろう。 したがって僕の前提はきわめて平明なものである。

・特定の自由がより重視されているとすれば、それはその自由が人権規範により「奉仕」するものでなければならない




「表現の自由」には2つの側面がある。

1つは「俺が俺の言いたいことを言う権利」であって、これ自体が人間の本質的な欲求のひとつではあろうし、この権利はそのまま「個人の尊厳」「人権」の重要な部分を構成する私権であると思う。

もう1つは、民意の形成に必要不可欠なことであり、自由民主主義政体の運用において必須の権利であり自由であるということで、公的な性格がここにはある。


ただ、じゃあなんで自由民主主義政体が大切なのかというと、自由民主主義の政府は「人権規範に奉仕する」と憲法によって宣言しているからなのだ。

僕たちを不当に逮捕拘束したり、財産を奪ったり、暴力をふるったり、つまりそういう人権侵害をしない、そういうことをさせないと宣言している政府だから僕たちにとって価値があるのである。

そして僕たちの人権を守ると宣言している政府にとって、表現の自由が生命線となるわけだ。


なるほど確かに表現の自由は「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつ」であり、だからこそ重要な権利といえよう。

表現の自由がない社会は、国家権力による国民の弾圧がしばしば行われ、それは人権侵害の最悪の形態であることが多い。ある国の国民にとって最悪の抑圧者は、しばしばその国の公権力なのだ。表現の自由は、人権規範におおきく奉仕するものであるがゆえに、重要なものであるということは間違いのないところだろう。


さて、こちらからはざっとこんなところである。

僕のとった立場は、憲法における根本的な理念を焦点化し、たえずそこにもどって諸権利や諸自由を考察するべきだというものである。これが憲法を読む際に要求される態度であると考える。

また、自由民主主義を考える際には、憲法学の議論の蓄積を参照することは必須であると確信している。



蛇足1

「表現の自由」が人権規範に奉仕するから重視されることは述べたが、その「表現の自由」が他者の人権を毀損するという面倒な話については、この文の目的でないので稿を改める。ただ、「表現の自由」が人権の上位にある特権というわけではないことだけは前提としてよい。



蛇足2

online_checker氏の発言からは「地下猫=まなざし村村民」と氏はみなしているようだが、まなざし村とやらはどういうもので、僕のどの発言がそれに該当しているかご教授いただけぬものであろうか?

自分の発言の意味がわかっているのなら可能であろう。気に食わない相手を見たら自分でも理解できないレッテル貼りをするよくある能なしではあるまいと思いたいが、あまり期待もしていない。

*1:憲法学の基本書の引用については、「京都大学法学部卒で佐藤本使い」のonline_checker氏が後出しで要求してきた。もちろん喜んで乗ろう!

*2:原文で「奉仕」の部分を傍点にて強調

2015-01-06

芸術崇拝と表現規制(敗北追記あり


ツィッターで連続ツィートするくらいなら、粗くても短くてもブログに書こうという方針にしたので、思いつきをさらりと。


承前


日本においては、「表現の自由」という名目で差別表現が正当化されることが多いってのはまあ確かにソノトオリなんだと思いますにゃー。じゃあだからといって、表現の自由を理由に差別表現をも許容する人たちをただちに差別主義者といってしまってよいかというと、これはそんなに簡単な話ではにゃーとは思うのですにゃ。


絶版になっちゃってて手に入れにくい(あっても古本クソ高い)のでリンクしにゃーけど「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神: 松宮 秀治」という書籍を以前に友人から借りて読んだことがありますにゃ。

刺激的な議論を展開しているので、ウェブ上にもけっこー書評がありますにゃー。代表的なものとして



ものすごく乱暴にいうと、近代国家・資本主義の要請により、芸術というものが聖性を担わされ崇拝対象となったということが書いてある本ですにゃ。

この芸術という【神】は、天才的な芸術家の切磋琢磨と魂の懊悩のはてに作品に宿る神であり、個人の内奥のさらに内奥において到達する神であり、あらゆる社会性や善悪を超えた深みあるいは高みにおいて触れることのできる神であり、言い換えれば近代の個人主義的人権思想・自由主義思想ときわめて相性のよい神様なんですにゃー。こうした芸術観は、多かれ少なかれ近代国家においては受容されており、僕たちもその影響を免れているわけではないのですにゃん*1


小林よしのりなんかがよく「公と私」とか公私を対立物のようにいってて、これはほんとによくある通俗的な誤解なんですよにゃ。近代社会というのは個人が公的な存在である社会のことであって公と個に対立はにゃーの*2。憲法が個人主義であるとかいうのはそういうことなんですにゃ。

で、公的な存在というのは必ず聖性を帯びる、というか、聖性を帯びることなくして公的な存在たりえにゃーんだな、人間社会においては*3

個というものの聖性を認める近代社会において、個の表出の究極的な形態(ということになってる)である芸術表現が崇拝対象になるのは、まあ必然といえば必然だよにゃー。


そもそも日本社会って、無宗教な人が多いのではなく、自分の信仰に無自覚な人が多いだけという話もありましてにゃ。個人主義的で政治的なものから距離をおきたい人ってのは、けっこうこの「芸術崇拝」に親和的になるのではにゃーかと。

なんで日本でこんなにゴッホが人気があるのかというと、あれは芸術という神への殉教者だからともいえますにゃ。中原中也とかジミ・ヘンドリックスとかな、ああいう殉教者たちを頭から否定できる人ってのはむしろ少数でにゃーの? 僕も大好き♪ 僕らはなんだかんだと芸術を崇拝してるのではにゃーの?


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近代国家において芸術崇拝が制度的に要請されているとすると、法における「表現の自由」というのはこの神様への信仰を法制度において確立する装置であるという見方もできるかにゃー。近代国家においてはあらゆる「自由」は聖性を帯びているのだけれど、その聖性において上位のヒエラルキーを占めるのが「表現の自由」ということになるんでにゃーのかな。


この個人の内奥を突き詰めるところに聖性が現出する芸術崇拝においては、芸術的営為の純粋性を阻害する要因はなににしろ排除されなければならなくなりますにゃー。

この観点からすると、保守派の表現規制もリベラル側のポリティカル・コレクトネスも同じことになるのではにゃーのか? これも、近代における個人主義のひとつの帰結だにゃ。


さて

冒頭リンクにおいては、アニメやマンガにおける「作家主義」が語られておりましたにゃ。ここでは、日本のアニメやマンガが作家主義に基いて作られているかどうかは問題にしにゃーです。しかし、作家主義のものとして、つまりは芸術崇拝の思想にのっとってこれらが受容されているというところは確実にあると思うのですにゃ*4


というわけで、表現におけるポリティカル・コレクトネスを拒絶するのは、別に差別主義だけを要因とするものではにゃーだろうというお話でしたにゃ。

もちろんこの立場に問題なしというつもりはまったくにゃーのだが、このありえる立場に対して「差別主義者の自己正当化」とみなしては話がかえってややこしくなって仕方にゃーのではにゃーかと。


それと、ここでは「芸術崇拝の思想」に基づく表現規制反対について批判するのはパス。これ、真っ向から批判するのは考えてみると難儀だわーw

この文をここでやめておくとあっちこっちから批判されるだろうけど、本論はここでやめとく。



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だそく

作品におけるポリティカル・コレクトネスに関して、冒頭のtogetterまとめにある、ポリティカル・コレクトネスの考慮はSF考証や時代考証のようなもの、という視点は面白いと思いますにゃ。

あと、

多様な民族的あるいは性的指向性などなどにおける出自を前提としたチームによる制作を前提としたとき、作品におけるポリティカル・コレクトネスはグローバル市場での興行的成功のために必須である以前に、制作現場をまわすために必須なのではにゃーかと思われましたにゃ。


いいかえると

よりブラックでない、個々の多様な制作者を尊重した制作現場で作品をつくるのであれば、その作品はポリティカル・コレクトネスを考慮したものになるのは必然になるのではにゃーのだろうか? それとも日本の制作現場は、文化的に同質な中で、同化主義的に個々人を食いつぶしながら作品を作り続けるのでしょうかにゃ? それならばPCなんていらんだろうけどw


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追記

id:kamayan

「にゃー」文体は目が拒絶するので、ツイッターでの文体と同じ文体で書いてほしいと切に願う。


このブコメにスターがダントツでついてるじゃにゃーかああああ

℃ちくしょおおおおおおおおおおおおおおお!!!!


・・・しかたにゃーな

とりあえず

http://d.hatena.ne.jp/rna/20090208/p2 から

javascript:void(document.body.innerHTML=document.body.innerHTML.replace(/にゃー。/g,"ね。").replace(/にゃー/g,"ない").replace(/にゃん/g,"なの").replace(/にゃ/g,"ね"));

これをブックマークレットにしてくださいにゃー(なんか敗北感

*1:僕は神様だとか宗教だとかいうコトバを否定的に扱ったことはにゃーからね。神様だから宗教だから駄目だとかいうつもりはまったくにゃーのよ

*2:公と私には領域設定がある

*3:もちろん科学も聖性を帯びる。芸術も科学も近代社会においては神の代替物だから

*4:このあたりの話には、ハイカルチャーとサブカルチャーとかいう話もでてくるかもしれにゃーのだが、個人の内奥の表出という視点でみればそのあたりに区別なんてにゃーしさ、むしろ、自らを周辺にいる存在という自意識を持つものにとってはサブカルのほうが投影と崇拝の対象になりやすいとすらいえるのではにゃーだろうか?

2014-12-21

健康とは社会的なものでもあります、菊池センセイ


承前



WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。


Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.


健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)


http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html


このように定義されている「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」というのは、本来ならばわざわざ言うまでもなく【価値】の領域にあるものだといえますにゃー。

これで【よい】、こうである【べき】と【感じられ】ることが健康ということであり、ここで定義されている【健康】という概念は、【幸福】や【福祉】といった概念と類似のものであるといえるでしょうにゃ。少なくとも、【健康】という概念は素粒子やチャバネゴキブリの生態なんかよりは、【幸福】によほど近いカテゴリにあるんだにゃー。

というあたりを前提とした上で、冒頭にリンクしたtogetterで総叩きにあっている雑誌「科学」の公式ツィートを読んでみましょうかにゃ。




「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? 専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域があること。科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識すること。3.11後の『科学』論文選『科学者に委ねてはいけないこと』の底流にある問題意識です。


https://twitter.com/IwanamiKagaku/status/545935734251606016


このツィートのポイントは、まず「専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域がある」の部分ですにゃ。この言明はけっして専門家集団の知見を否定したり排除したりしたものではにゃーですね。「〜の領域がある」という言明は、他の領域の存在を否定しているものではにゃーよな。

続いて「科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識する」とあり、科学の領域を否定したり排除したりするものではにゃーということは明白となりますにゃん。

togetterコメント欄やブクマコメを見る限り、ここのところをちゃんと読めてにゃーお歴々が大量にいらっしゃりやがりますにゃー。こまったもんだ。


そもそも「社会的に満たされた状態」が健康の定義にはいってるんだから、そこに「社会的な合意による判断の領域」があるってのはアタリマエ。ニンゲンの幸福や福祉に近い概念である【健康】に、ニンゲンが意味を与え価値を認める状態である【健康】に、「社会的合意による判断の領域がある」ことのいったいどこがどうおかしいの?(呆気

冒頭リンク先で岩波「科学」公式ツィートを嘲笑している連中は、まるで駄目、0点、顔洗って出直して来い、のレベル。彼らが完全に間違っているのは明らかで規定事実なんだけど、それを彼らが理解できるかどうかは何ともいえにゃーなw

字が読めればここまでで十分なはずだけど、補足的な説明を試みてはみますにゃ。



ほそく1

三年以上前、放射線被曝の【許容量】について、武谷三男の引用からはじめたブログ記事を書きましたにゃ*1。武谷三男はこういっていますにゃ。

許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。


この記事、いわゆるニセ科学批判クラスタの皆様に否定的には見られなかった記事ですにゃー(むしろ、一部の脱原発の人たちにものすごく嫌われたw)。放射線の被曝量と健康被害の関係についての事実は、そりゃ確かに専門家が検証するべきことがらにゃんな。しかし、その数値をもとにして許容量を決めるのはまさに「社会的合意による判断の領域」ですにゃー。

放射線被曝の許容量という、一見すると【健康】よりもはるかに自然科学の対象っぽい量的概念すら、社会的な合意なしに成立しにゃーのね。


ほそく2

【医療化 Medicalization】というコトバがありますにゃ。

詳しくは、以下のリンク先を参照


リンク先ではボケなんかが医療化の例として紹介されてますにゃ。最近ではメタボリック症候群あたりも医療化の例かにゃー? 以前はただのデブだったのが、最近では治療対象にゃんからなw あるいはニコチン中毒なんかも最近は治療対象にゃんなあ。

社会的な合意と医療化(脱医療化)が密接な関係をもつというのは、これもリンク先に紹介されている「同性愛的性向や男性間における肛門性交」なんかが典型例。同性愛は以前には唾棄すべきものとされ、医学的な治療対象であったけど、現在のいわゆる先進国ではそうでもにゃーでしょ?(ひどい例外は多々あるけどな)。


こうした、社会的な合意と医学的治療の対象になるかどうかの関連なんて、もういっくらでもあるんだにゃ。精神医学とか性医学なんかではもうてんこ盛りw


ほそく3

先ほどの論点の展開となりますにゃ。

国民健康保険などの公的な【健康保険】ってあるだろ? いうまでもなく、僕たちを健康にするための保険制度ですよにゃ。健康保険証を持っていれば、病気になったときに医療費の7割を支給されて大ラッキーにゃんね。

さてこの健康保険、美容整形に使うことはできにゃーですね、アタリマエ。美容整形というのは、医療というよりは医療技術を使ったサービスであって医療ではにゃーと思う。


しかし

ある種の病気などの原因で容姿に重大な問題が生じたときはどうでしょうかにゃ? あるいは先天的に極端な醜貌であったとしたら? 美容的な措置を医療と認めるべき状況というのはありえるように思われますにゃ。性同一障害もこのあたりの問題圏にゃんな。

極端な醜貌が心身の健康に関係ない、っていうお方は少数だろうし公的保険適用をよしとする方もいるでしょうにゃ。かといって、ちょっと鼻の形が気に入らにゃーからって健康保険で美容整形もありえにゃーよな。どういう状況において美容的な措置を健康保険でまかなうか、なんてのは「社会的合意による判断の領域」なんですにゃ。

つまり

おなじような美容的な措置であっても、それを医療とみなすのか医療ではないサービスとみなすのか、は社会的合意が必須なんですにゃー。



まとめと動機とおねがい

はい、というわけで

まず、健康とは価値判断を抜きには語れないので、価値判断は自然科学の領域外であること。「科学」公式ツィートでは専門家の知見を否定しているわけではないこと。補足説明においては、一見すると自然科学の対象っぽい許容量概念も社会的合意なしになりたたないこと、医療化の例により現実に社会的な合意により医療の対象(つまり健康概念)が変化していること、さらに健康や医療というものは社会的な合意なしに対象範囲を設定できないことをごくごく乱暴に述べましたにゃー。


以上

「「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? 専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域があること。科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識すること。」

という問題意識は至極まっとうなものであるといえますにゃ。医療や健康について考えるのであれば、当然におさえておかなければならにゃー論点にゃんな。ちょっと考えればわからなきゃならにゃーともいえる。


冒頭リンクで、「科学」公式ツィートを嘲笑している連中は、医療とか健康とかについてごく基本的なことを知らず、そして医療や健康について考えたこともなく、ただひたすら己のバカさを晒していることは明らかだと思われますにゃ。

togetter読みながら、ああいつものように馬鹿が並んで自らの馬鹿を世界に宣伝しているなあ、と思ってたわけだにゃ。でもまあ、見識のあるニセ科学批判の人は、こんな馬鹿に同調なんてしないよね、と思って読んでたらさー

岩波「科学」はどこまでおかしくなっていくのかな。ツイートもめちゃくちゃだね。あ、「科学」にも「いちから聞きたい放射線のほんとう」送ったけど、読んでくれてないだろうな


菊池誠 @kikumaco

https://twitter.com/kikumaco/status/546268728833216513


orz



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