天保7年6月10日(1836年)7月23日-明治21年(1888年)7月19日 幕末の幕臣。明治期の政治家。 剣豪としても知られる。
駿府にて西郷隆盛と面会し、勝海舟の会談をとりつけて、 江戸城の無血開城と徳川家の存続に貢献した。 ゆえに、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。
また、清水の次郎長と交友関係が深いことで知られる。
今日教えていただいた、禅の言葉 「空手把鋤頭 歩行騎水牛」 「空手(くうしゅ)にして鋤頭(じょとう)を把(と)り、歩行して水牛に騎(の)る」 傅大士(ふだいし)(497ー569)の「法身(ほっしん)の偈(げ)」 手をわすれて(無心になって)鋤を使って畑仕事をし、水牛に騎ったようにゆったりと(無心で)歩いて家に帰る。 物事に固執しないで、全体で感じて、心を開いてすべてのことにあたろう、ということ。 手にとらわれていると、仕事などもなかなかうまくいかない。畑仕事は、もちろん手を使うことではあるけれど、手を忘れて仕事をする。うちに帰るときには、ゆったりと心を開いて、水牛に乗っているときと同じくらい、…
伊勢の海千尋の底の一つ石 今朝、教えていただいた、禅の一言。 伊勢の海千尋の底の一つ石 (いせのうみ ちひろのそこの ひとつのいし) 臨済禅の公案の一つ。 伊勢の海、というのは、伊勢神宮のある伊勢の海のこと。日本が舞台の公案。 「伊勢の海 千尋の底の一つ石 袖をぬらさで 取るよしもがな」 意味伊勢の海の深いところにある石、石碑みたいなものを、袖をぬらさないでとる方法はあるか? 禅の師匠が弟子に問いかけた。 師匠の答えは、「境界(きょうがい)で見よ」ということだった。頭で考えないで、心で解いてみなさい、ということ。 袖が濡れることを気にしていては、石はとってこれない、あれこれ考えないで、ザブンと…
私が禅の手ほどきを受けたのは2002年、32歳の頃ですが、本格的に老師に師事して禅に打ち込むようになったのは2007年秋、その2月に父が他界しました。 それまでの21年間は武芸一筋でしたが、2007年は生まれてから現在に至るまで一番最悪の時期でした。会社の人間関係、武芸の問題、家庭内の問題その上に父の他界が重なり、精神状態がかなりおかしくなり、一時期鬱症状が出ていたぐらいです。何度か自殺未遂にまでなりました。そう言うときは本当に死ぬことが怖くなくなるものです。それまでは武芸で培った精神力で何とかなると思っていましたが普通に全く歯が立ちませんでしたね(笑) そこでその5年前から手ほどきを受けてい…
物は言い様の考察 目下「ぬか床」の育成に夢中である。 近年の発酵ブームに乗り「無印良品」でも特設コーナーを設えるほどの大ヒット商品となっているのが「発酵ぬか床」である。 やや硬質のビニール袋に、既に「発酵済みの糠」が入っていて、好きな野菜を入れたら、チャックを締めてそのまま冷蔵庫へ。 キュウリなどは半日もあれば程よく酸味を湛え、どこに出しても恥ずかしくない、立派な「ぬか漬け」となる。 暗闇で何十億とも知れぬ「乳酸菌」が手をつなぎ、励ましあい、力を合わせて懸命に「発酵」に勤しんでいると思えば愛おしくさえあるのだ。 ぬか床と言えば、臭くて、ニチャニチャした「気持ちの悪い物の頭目」であったが、現代版…
今日教えていただいた禅の言葉は、 かたつむり 登らば登れ 富士の山 山岡 鉄舟 全体をみなさい、という教え。 かたつむりが1時間で 50㎝進むとして、1 日10時間登ったら5 m。1 年間で1825 m。3776 m の富士山の山頂まで756日。ゆっくりの歩みでも、2年前後で登頂に至る。 ということ。 とある資格試験を目前にして、これまで勉強をきちんとしてきていない私には、いたたたた、、、の言葉。でも、ちょっとずつでもやってきたことは、多少は身についているか?と、良きに解釈したりして。 毎日1時間の積み重ねでも、毎日続けていると、前に進むはず。。。 そこへ、次の言葉が刺さる。 着眼大局 着手小…
なにやら極楽は大変良いところだと聞きます。 なぜ? 誰ひとりとして帰って来た者がいないから。 そう考えると、地獄も案外住めば都なのかもしれません。 しかし極楽や地獄とは場所の事ではありません。 雲の上が極楽、地面の下が地獄。 もし本当にそうならば、宇宙飛行士や人工衛星で極楽は見えるでしょう。 地面の下に地獄があるならば、 東京23区はあちらこちらが地獄に通じていることになります。 極楽も地獄も全ては想い。 別の言い方をすれば、 「生き方。」 こんなお話をしましょう。 コップがあります。 このコップには美味しいジュースが半分入っています。 極楽の人は 「やった! ジュースが半分も入っている。」 …
本好きの知人から勧 められて私が山本兼一さんの本を読み始めたのは 2014年に57歳で亡くなってからのこと。 以来 彼の作品は何冊読んでも面白く きっと資料を詳しく調べて史書を読み込み 物語の骨格を太くした後に 精密な肉付けしてから作品にして送り出した。と思わせるものでした。 先日 図書館の寄贈本棚でみつけたのが 山本兼一著「命もいらず 名もいらず」上(幕末篇)・下(明治篇)の2冊。 この本の主人公は 飛騨高山の武士の家に生まれ 後に江戸に出て剣術の腕を磨き 江戸城無血開城の”真の功労者”と言われる山岡鉄舟です。 名前を聞いたことがあっても 認識不足で幕末から明治時代にかけて活躍した剣豪の武士…
<一度は食べてみたい高級茶漬け忠七めし 江戸ならぬ明治ならぬ 禅の味わい> 食べたことはないんですが、知っておくだけでもありがたいような気のする一品、忠七めしの話です。聞いたことあります? 特に埼玉県のみなさん、知ってました?昭和14年、といいますから戦争時代の初期ですが、当時の宮内庁が日本全国の郷土料理の中から代表的料理を選出したのが「日本五大名飯」その中の一つに数えられるのが埼玉県小川町の「忠七めし」なんですね。 他の4つは、東京深川の「深川めし」岐阜県の「さよりめし」大阪難波の「かやくめし」島根県津和野の「うずめめし」だそうですから、どうやら人物名を冠しているのは「忠七めし」だけのようで…
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)【誕生数③ 日本】 数秘術で偉人を分析シリーズ、3人目は、幕末の三舟と呼ばれた『山岡鉄舟』殿。 江戸城無血開城が成功した裏に鉄舟あり。 江戸城総攻撃の前に、勝海舟と西郷隆盛が会談したことは良く知られていますが、その会談の直前に、西郷隆盛と直談判し、勝・西郷会談をお膳立てしたのが山岡鉄舟でした。 勝海舟の使者として、鉄舟は従者と二人だけで西郷のいる静岡の伝馬町まで向かいます。 途中、川崎あたりで官軍の先遣隊に出くわしたとき、左右に隊列を組む銃隊の中央を堂々と歩いていったとい…
変革を迎えた男達ということで、この時代に輝いた、激動を生き抜いたカッコよすぎる男達をご紹介していきたいと思います! 明治といえばこの男!もはや歴史上一番カッコイイんじゃないかな!? 私個人的にはNO.1イケメンです! 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)さん この時代では珍しい身長188cmもあったそうです。剣の達人で、人望も厚く、全てにおいて最強の男だったのは言うまでもないでしょう。江戸城無血開城の立役者でもあり、明治維新、徳川家にとっても最重要人物です。 そんな晩年の彼がこちらです。 いや〜、お年を召してもカッコイイですね〜! 髪型に注目してみてください! そうなんです。今流行りの2ブロックス…
こちらが苦しいときは、向うにもそれに対応する何かが生じかけています。ですから、ダメなようで大チャンスです。フォームは学べるが、そのタイミングはつかむしかないのです。 土台づくり、足腰なら歩くこと、登ること、走ることからやり直すことです。 山岡鉄舟の五剣、真剣、妙剣、絶妙剣、金翅鳥王剣、無刀の5段階、 そのなかで金翅鳥は羽のなかに宇宙を収める、といいます。
最後の仇討ち 5月になって「蒼天見ゆ」(葉室麟/著)を読んだ。妻が市立図書館から借りた本のうちの1つである。最初は少しずつだったが、途中から一気に読んだ。史実を元にした歴史時代小説である。主人公は福岡藩の支藩である秋月藩の家老・臼井亘理(うすい・わたり)とその長男六郎である。幕末最後の1868年、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たした。1873年(明治6年)に明治政府の太政官布告の仇討禁止令が出されており、日本最後の仇討ちとされているようだ。 秋月には何回か行ったことがある。こぢんまりとした山あいの城下町で、城跡のところに学校があったことが印象に残っていた。(調べたら、…
全宿の4分の1を過ぎて第2ラウンドは、吉原宿から蒲原宿です。 この工程は12kmと長く、しかもいろいろとチェックポイントも多かったので2回にわけてお送りします。 スタートは岳南鉄道の吉原本町駅。 線路を越えて直進すると、そこはそれなりに発達している商店街で、その商店街沿いに史跡がたくさんある、というガイドの表示なんですが、どこにもそれらしきものが見当たらない。 どっかになにかあるだろう。小さい石碑でも立っているんじゃないかと視線を下に向けたらこんなのがありました。 これは本陣跡を示していて、なんと道路にはっついていました。 こんな感じで商店街のお店の前の歩道に埋め込まれているんです。 姉川一夢…
#### ワタテツの{然修録|139}【座学】赤{鷲|ワシ}と金色の{鵞鳥|ガチョウ}【息恒循】〈二循の初〉少年/少女学年 #### {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。 門人学年 **ワタテツ** 青循令{猛牛|もうぎゅう} 【座学】 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 赤鷲と金色の鵞鳥 赤い若鷲に、どんな秘密が隠されているというのだろう。 しかもそれは、悠久……和の{民族|エスノ}に、語り継がれてきた。文明エスノも、自然エスノも、その源流は、和のエスノだ。ということは、我らヒト種が亜種に分化する前の大昔から、それは、神話よろしく大事として、ヒト種の源流の人びとによ…
【彰義隊の墓のすぐ近くの案内板に書かれていた戦いの図】 年号が「慶應」から「明治」に代わる 1868年旧暦5月15日、 江戸の町で新政府軍と幕府軍との戦いが起き、 幕府軍の彰義隊がわずか1日で壊滅します。 (彰義隊結成) 1868年(慶応4年)2月11日、鳥羽・伏見の戦の後、徳川慶喜は江戸へ帰り,翌12日、 上野寛永寺に謹慎して明治政府に対し恭順の意を示します。 しかし慶喜の側近の旧幕臣などを中心とする約800人は、官軍に対して徹底抗戦を唱えます。 そして2月23日、将軍徳川慶喜の身辺警護などを目的として浅草本願寺で結成式が 行われ、頭取に慶喜側近である渋沢成一郎(喜作),副頭取に天野八郎で彰…
3②の内容は釈宗演が慶應義塾卒業後、スリランカやタイの上座部仏教に触れることで仏教の近代化を目指した経緯についてです。 鈴木大拙は釈宗演について次のように述べています。(『鈴木大拙全集第30巻』岩波書店) 宗演老師はなかなかの偉い人であったな。老師に参禅した者は大変な数で、坊さんばかりでなく居士(在家信者)が沢山いたわけだ。老師は禅の修行が済むと、慶應義塾に入って福沢諭吉先生のもとで勉強し、それからセイロンにまで留学して勉強修行をせられた。禅宗の坊さんとしては全く破天荒な行動といわなくてはならん。 それでは今回の内容に入ります。 ②福沢諭吉と山岡鉄舟の薫陶を受け、セイロン(スリランカ)に渡る …
百人一首No.30. 壬生忠岑(みぶのただみね):有明のつれなく見えし別れより あかつきばかり憂きものはなし 明け方の月が素っ気なく見えた、その素っ気ない別れ以降、私は「(宵闇よりも)明け方こそが最も辛い」と思うようになった。 N君:「つれなく見えし別れより」の「より」が、比較ではなくて時間の起点を表していることを知るのに時間を要しました。 A morning moon seemed to be indifferent to me when I was forced to part from her. I have come to feel the most mournful at dawn …
仁木作品。初めての作家。1973年大阪生まれ。2016年作品という。 三舟とは勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3人という。友人だったり親戚だったりと幕末ごろの同じ時代を生きての交流した武士の話。いずれも刀や槍の使い手だったという。勝海舟は分かるけれど他は何で名を成した人かよく見えない。 『三舟、奔る!』 山岡鉄舟は若いころ小野鉄太郎といい郡代の次男で小野一刀流の流れを汲む家に生まれた。親の郡代朝右衛門が3000両と幼い子供たちを残して亡くなる。子供たちを養子にする持参金と言い残す。鉄太郎は江戸にでて幼い弟たちを遺言どおり養子に収めたあとは無一文に。剣と書に努力して皆伝を得た鉄太郎は麟太郎といわれた…
●埼玉県立歴史と民俗の博物館で「埼玉武術英名録」展を見てきました。剣術や柔術が広く親しまれてきた埼玉県にゆかりある武術諸流派を紹介する企画展です。 ●ところで、1880年代、イギリスの「オックスフォード英英辞典」に初めて掲載された日本語をごぞんじでしょうか?正解は……「富士山」でも「鮨」でもなく……何と「柔術」です。 ●身長160センチしかない谷幸雄という武術家が西欧をめぐり、屈強な外国人をバッタバッタと投げ倒し、あっという間に絞め落としたりもして、当時のヨーロッパでは柔術が一大センセーションとなりました。そういった近世から近代にかけての柔術に関する講話を、筑波大学名誉教授の藤堂良明氏からまず…
幕末、はた目には徳川家茂との政略結婚の犠牲となって悲惨な生涯をおくったと言われる皇女和宮(かずのみや)。しかし、様々な思惑から夫婦となった二人ですが、蓋を開けてみればとても仲の良い夫婦でした。
申し訳ありません。1④を抜かしてしまいました…。今日は1に戻って、鈴木大拙を指導した二人の禅師にとの出会いについての内容です。幕末から明治の初期は、廃仏毀釈が起こり、仏教にとっては苦難の時代でした。 これは江戸時代、寺が長きにわたって幕府の保護下で民衆の戸籍管理のようなことをしたり、葬送儀礼を行うことで収入を得たり(今で言う葬式仏教は江戸時代に成立?した)、出家僧の堕落などに対する民衆の不満や反発が、討幕と尊王攘夷の中で爆発したことが大本にあります。そうした中、鈴木大拙の最初の師、今北洪川は武家のみに限られていた参禅を広く受け入れ、近代化に適応した新しい禅の道を啓こうとしました。 鈴木大拙が世…
明治時代「文明開化の七つ道具」に数えられた意外なもの明治の初期の流行語に「文明開化の7つ道具」というものがありました。「文明開化」という言葉がはやりだしたときのことです。 「七つ道具」は、資料によって違うので実際は七つ以上あるのですが、その内訳は「新聞社」「郵便」「ガス灯」「蒸気船」「写真絵」「展覧会」「軽気球」「陸蒸気」そして「あんぱん」が取り上げられていました。 「あんぱん」が含まれているのはとても意外ですが、当時にしてみれば「あんぱん」の斬新さが、いかに人々に驚きを与えたかがわかります。木村屋が開発したあんぱんは、明治天皇に献上されました。今のイースト菌ではなく、米麹による酒種が使われ、…
なぜ4月4日は「あんぱんの日」なのか? 「あんぱん」は日本発祥のパンです。あんには、こしあん、粒あんとあり、好みは人それぞれですが、オーソドックスな菓子パンとして、今なお人気です。 そんな「あんぱん」は、明治7年パンがまだ一般的ではなかった時代に、木村屋が「あんぱん」を開発し誕生しました。 そんな木村屋の創業者・木村安兵衛と知り合いだった山岡鉄舟。彼は、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれ、幕臣として江戸を戦火から救ったとされています。 そんな山岡鉄舟は、「あんぱん」を試食すると大絶賛。 当時、明治天皇に仕えていた彼は、天皇家の花見に「あんぱん」を献上することを提案しました。 そして…
☆◆ 今日のつぶやき・覚え書き ☆◆ 今日は(2022年)令和4年卯月(うづき)4月4日(月曜日)赤口です。・・・ 奈良(北部)の天気予報・ ・ 晴れ ・・ 18℃・08℃・・・・ (^^)今日も お立ち寄り 下さいまして 感謝します(^^) 今日は何の日。 お話しのネタ があれば幸いです。 (^^) ☆◆ ~今日は何の日~ ☆◆ ☆◆ 4月4日は 交通反戦デー ( 記念日) 1981年(昭和56年)のこの日、東京都の「交通遺児を励ます会」が交通反戦大会を開き、この日を「交通反戦デー」とすることを決めた。 それまで減り続けてきた交通事後が、前年から再び増加する傾向がみられたことがきっかけ。4月…
日本を代表する菓子パンである「あんぱん」は、 「パン」という欧米から渡来した食文化と 「あん」という日本古来の素材が融合した、 和洋折衷の初めての「パン」です。 「あんぱん」の歴史 あんぱんの日 あんぱんの上には、なぜゴマやケシの実が? あんぱんの「へそ」の意味 「あんぱん」の歴史 「あんぱん」は、明治7(1874)年)に 木村屋(現・木村屋總本店)創業者の木村安兵衛と その次男の木村英三郎によって考案されました。 木村屋は明治2(1869)年に木村安兵衛によって創業されました。 文明開化に沸き、西洋の文化をどんどん取り入れていた時代でした。 創業から5年後の明治7(1874)年、 木村親子は…