中国後漢から三国時代の人物(206年? - 239年)。字(あざな)は元仲。三国の魏(曹魏)の第2代皇帝。諡号は明帝。初代皇帝曹丕(文帝)の子。生母は甄氏。妻は皇后の毛氏、郭氏ら。
母は元々は袁煕の妻であったが、204年、曹操の攻撃により袁氏の拠点の冀州が陥落したときに曹丕に略奪され、その夫人の一人となった。
曹叡は祖父の曹操に寵愛を受けたが、父の曹丕には生母の甄氏が221年に殺害されると冷遇され、人前に出ることはほとんどなかった。曹丕の皇后となった郭氏に養育されたという。
226年、父の曹丕が急死すると、急遽後継者として即位し、曹休、曹真、陳羣、司馬懿らの輔佐を受けた。
227年以降、西では蜀(蜀漢)の諸葛亮が侵攻(北伐)し、東では孫権の計略により曹休が石亭の戦いで一敗地にまみれるなど苦戦もあったが、曹叡は曹真、司馬懿、満寵らに各地の軍を率いさせて防衛させ、魏の領地をよく守った。
中央においては陳羣が宰相格として政治を取り仕切ったが、陳羣が死去する頃から曹叡の政治は乱れ始め、宮殿造営に熱中し民心は疲弊した。それでも曹叡は多くの臣下からの諫言を受け入れ、彼等に害をなすことはなかった。
238年、遼東の公孫淵が反乱し燕王を自称すると、司馬懿に遠征させてこれを滅ぼしたが、曹叡は病に倒れてしまう。当初は一族の曹宇と曹爽、秦朗らに国政を委ねようとしたが、側近の劉放と孫資の画策で司馬懿が急遽呼び戻され、曹宇らを罷免し曹爽と司馬懿に国政を委ねるとそのまま死去した。実子が何人かいたが男子はすべて夭折したため、養子としていた曹芳が後継者となった。