泗川の戦い(しせんのたたかい)
文禄・慶長の役における合戦の1つ。1598年10月、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が、董一元率いる数万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退させた戦い。数十倍もの圧倒的戦力差があるにも関わらず島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られ、義弘は鬼石曼子と呼ばれ明で恐れられたといわれるが、明軍の数は3万7千から20万と諸説あり、明軍の死者も数千から8万と開きがある。
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう)跡を示す白い標柱がある。 「高尾城跡」 高尾城は平山城(帖佐本城)の支城である。位置関係から想像すると、平山城(帖佐本城)へ侵入してきた敵を、道の途中で叩く防衛拠点のような感じだろうか。 また、高尾城跡にはかつて稲荷神社が鎮座していた。「元稲荷」とも呼ばれている。 ちょっと登ってみた。 平山城について 高尾城での戦い 高尾城跡へ 曲輪跡に元稲荷 日付につい…
島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面の主力を担った。 16世紀半ばから島津家は薩摩国(鹿児島県の西側)より勢力を広げていく。そして大隅国・日向国をも制圧。勢いはとまらず、九州全土を覆っていく。その中で、島津義弘の戦場での活躍が光る。 豊臣政権下に入ったあとも、島津義弘は戦場で凄みを見せる。「泗川の戦い」や「関ヶ原の戦い」では絶望的な状況を突破した。 島津義弘の戦いぶりは泥臭い感じがする。…
九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた。島津義弘の「強さ」のイメージは、老境に入ったこの頃以降の戦いぶりからきているようにも思う。朝鮮の泗川(サチョン)の戦いのときは63歳。関ヶ原の戦いは65歳での参戦だった。 その戦場での凄みは、経験によるところが大きいと思う。なんといっても、踏んできた場数が多いのである。若い頃から厳しい戦場に身を投じ、そして生き抜いてきた。その中で「戦場での感覚」…
鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)」「帖佐御屋地(ちょうさおやじ)」などの呼称がある。 当時の石垣が残る 島津義弘の御治所 島津義弘の看経所 古帖佐焼宇都窯跡 膝跪騂の墓 当時の石垣が残る 県道42号から帖佐小学校横の道に入ってちょっと行くと、鳥居が見える。ここが帖佐館跡である。現在、館跡には稲荷神社が鎮座。鳥居に向かって左側へ行くと花園寺(かえんじ)跡公園の駐車場がある。こちら…