中国後漢の人物(137年 - 192年)。太原郡祁県の人。兄に王宏。甥に王凌。『後漢書』に立伝されている人物。
桓帝の時代から漢王朝に仕え、正義派の官僚として活動したため、腐敗した政治の中でしばしば免職や投獄の憂き目を見た。
光和7年(184年)に黄巾の乱が勃発したときは、豫州刺史の任にあり、荀爽・孔融らを率いて乱の鎮圧にあたった。次いで、十常侍の一員で霊帝の信任が厚い宦官の張譲が太平道と内通している証拠を突き止めたが、張譲の反撃に遭い、かえって免職となった。
霊帝の没後、少帝(劉弁)の時代になると、外戚の大将軍何進が政権を握るようになり、王允も河南尹・尚書令に任命された。
何進が暗殺され、十常侍も袁紹らに滅ぼされると、董卓が政権を握るようになり、少帝の廃立と献帝(劉協)の即位や、長安への遷都も容認した。王允は董卓に尊敬され、三公の司徒に任命された。
その後、董卓の専横がますますひどくなると、王允もやはり董卓の専横を憎むようになり、黄琬や士孫瑞と図って董卓の暗殺計画を秘密裏にすすめた。董卓の側近の呂布を抱き込むことに成功し、初平3年(192年)4月に董卓を暗殺し、その一族を皆殺しにしたが、まもなく、董卓の部下の李傕・郭汜らの攻撃を受けて殺害された。
『三国志演義』では曹操に七星の剣を渡して董卓を暗殺させようとしたが失敗した。その後、養女の貂蝉を使った連環の計により、董卓と呂布の仲を裂くことに成功し、呂布と共に董卓を滅ぼした。