名前の通り、石見(現在の島根県)にあった銀山。鎌倉時代に発見され、室町期に本格的な開発が進む。戦国期には毛利、尼子らの戦国大名の重要な資金源として、争奪の対象となった。のちに江戸時代になると天領(幕府直轄領)となり、奉行・代官が置かれた。 最盛期は江戸時代初期で、この時期は世界最大級の銀山であったと推測される。 2007年、アジアの鉱山遺跡としては初の世界遺産指定。 2008年には遺跡を後世に伝えるための石見銀山基金募金委員会が設立され、官民協働で保全活動がされている。
旅の記録。
こんにちは、皆さん! 今回は、日本の歴史と産業の発展に大きな影響を与えた石見銀山についてご紹介します。石見銀山は、島根県大田市に位置し、その歴史的価値から2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。銀の採掘と精錬が行われたこの地は、かつての繁栄を物語る遺跡や建造物が多く残されています。
島根県のちょうど真ん中あたりにある大田市。 世界遺産の石見銀山をはじめ、温泉津温泉などのとても良いスポットが揃っている。 前編では大田・波根エリアと石見銀山を中心に紹介。 大田・波根エリアを巡る 物部神社 クチーナ カンターレ 金子旅館 石見銀山エリアを巡る いも代官ミュージアム 石見銀山 石見銀山 世界遺産センター 大田・波根エリアを巡る まずは大田(おおだ)市の東部にある大田・波根(はね)エリアを紹介。 これはは大田市の中心駅である大田市駅。 石見銀山をイメージしているのか、茶色が取り入れられたレトロな感じになっている。 駅の構内はこんな感じ。 銀山みやげのコーナーがあった。 こちらは島根…
石見国温泉郷の国人領主。官途名は信濃守。初名は隆長か。当初は周防大内氏に属していたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属した。弘治年間から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えた。永禄五年(1562)六月頃に没落し、尼子氏の富田城籠城戦に加わった。 16世紀前半の温泉氏 温泉信濃守隆長 出雲尼子氏に属す 小笠原氏の降伏 福光要害の戦い 温泉氏の没落 石見帰還の願い 温泉氏の支配領域 参考文献 16世紀前半の温泉氏 永正三年(1506)、温泉英永は生まれた。ただ文安元年の温泉次郎以降、温泉氏の動向は16世紀中頃まで確認できない。しかし温泉氏の本拠とみられる…
入り組んだ入江である温泉津湾をに臨む港町。大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まると銀山への物資搬入と銀の積み出しのため、各地から多くの船が集まって大いに栄えた。永禄五年(1562)に銀山および温泉津を制圧した毛利氏は、温泉津を重要な戦略拠点と位置づけ、温泉津奉行を配置して直轄支配を行っている。一方で温泉地としても知られ、島津家久が旅の途中で温泉に入っていることが彼の日記にみえる。 温泉氏と大内氏の支配 毛利氏と尼子氏の攻防 対馬との交流拠点 鵜丸城の築城 毛利氏の直轄港 温泉津の「町」 島津家久と薩摩国の舟衆 温泉津の住人たち 関連人物 参考文献 温泉氏と大内氏の支配 元暦元年(1184…
石見銀山地区を見学し、お菓子処で、銀山の坑夫たちも食べていたという昔ながらの菓子を買いました。 島根県大田市の温泉津温泉(ゆのつおんせん)から、世界遺産に登録されている石見銀山に向かいます。まずは、大小さまざまな坑道が残されている地区のハイライト「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」へ。間歩とは坑道のことです。 まるでハイキングをするように山をどんどん奥へと進み、やっとたどり着き、入場料を払い、ヘルメットを借りてかぶり、 間歩の中へ。これが手掘りの坑道。 メインの坑道がうねうねと続き、脇に幾つもの細い側坑…なかなか感慨深いものがあります。 それから、間歩地区とは反対側になる江戸時代の街並みが残る大…
西日本旅三日目、最終日。今日は世界遺産・石見銀山を訪ねます! とはいえ、今回ももちろんノープラン。「世界遺産を見てみたいので石見銀山に行く」「鉱山跡までめっちゃ歩くらしい」の情報のみ。どうなるか……乞うご期待! 出雲のホテル(出雲グリーンホテルモーリス)で朝ご飯からスタート。バイキングは和食のおばんざいが豊富。かまぼこなど、出雲の名物も並びます。660円とは思えない充実ぶり! お天気はあいにくの雨。ホテルの方がフロントで傘を貸してくださったので、ありがたくご厚意に甘えることに。荷物はフロントに預けて、電車で石見銀山に向かいます。 山陰本線で大田市駅まで。一両編成だった!ちょっとテンション上がっ…
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。 山神社の社家 銀山の「当役人六人」 参考文献 山神社の社家 天正二十年(1592)二月、「熱田平右衛門平秀信」は「狩野源介藤原重信筆」による絵馬を銀山内の清水寺に奉納している。清水寺は慶長四年(1599)に鉱山師の安原知種が施主となった本堂が建立されているが、天正末年は熱田秀信が外護していたことがうかがえる。 kuregure.hatenablog.com 熱田秀信は…
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。 石見銀山の三宅一族 備中国出身の銀山住人 参考文献 石見銀山の三宅一族 「浄心院姓名録」*1には、銀山昆布山の住人として「三宅壱岐守」の名がみえる。昆布山では同族とみられる三宅与衛門も、天正十九年(1591)十月十六日の紀年とともに記載されている。 kuregure.hatenablog.com 江戸期の享保三年(1718)に作成された「厳島神社廻廊棟札写」*2によれば、天正十九年(1…
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 毛利氏の時代 備中国との繋がり 死後 参考文献 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 『徳川実紀』によれば、慶長八年(1603)八月一日、「石見国の土人安原伝兵衛(安原田兵衛知種)」が大久保長安に伴われて徳川家康に拝謁した。 知種は、大久保長安の許可を得て石見銀山で銀を採掘し、年に三千六百貫、あるい…