京都出身のプロ野球選手・監督。通称「ノムさん」「ムース」
右投右打、ポジションは捕手。背番号は19→73→82→73→19*1。
1935年6月29日生まれ。京都府京丹後市出身。
1955年、南海ホークスに入団。「生涯一捕手」を貫き、輝かしい成績を残した。
1969年より選手兼任監督となり、1973年優勝を遂げるなどの実績も残したが、1977年に「公私混同」を理由に解雇(自由契約)、その後ロッテオリオンズ、西武ライオンズに移籍し1980年引退。
引退後は野球解説者や監督業務の傍ら、タレント活動や執筆活動も積極的に行っている。
現役時代、バッターボックスに立つ選手に向かって選手の私生活を囁きかけ、打ち気を逸らした「ささやき戦術」はあまりにも有名。独自の野球観を持ち、チーム再建、選手育成に長けることから、彼の采配の一つは「野村再生工場」と呼ばれる。また、関西弁をまじえた独特の「ボヤキ」によって、球史に残る名言を幾つも残している。*2
ただし、選手起用についてはかなりの好き嫌いが見られ、ヤクルト時代は苫篠賢治、栗山英樹などと反りが合わず、また長嶋一茂を飼い殺しにしたり、伊藤智仁、岡林洋一、山部太を筆頭に投手を使い潰し、長期にわたって投手が活躍する機会が稀だったことから「野村焼畑農場」などと揶揄されることもあった。
また、妻(野村沙知代)に関連しては、数々の公私混同(リトルリーグチーム運営に口を出すなど)ならびに脱税などの問題を巻き起こしたことにより、その結果チームを不本意な形で去ることとなっている。
楽天の監督時代に言った「マー君、神の子、不思議な子」という言葉は名言となり、田中将大の素質の高さを象徴した。後に文字通り田中は一皮むけて、ライバルのダルビッシュ有をも脅かす存在になった。
楽天監督退任の際には、札幌ドームでの試合終了後に、稲葉篤紀の音頭取りで日本ハム・楽天両選手らが胴上げをして、監督としての引退の花道を飾った。
それ以降は、サンドウィッチマンのものまねのネタに本人出演するなど、野球解説以外にバラエティ方面にも出演。富士通やスカイパーフェクTVのCMでは、堂々とした演技で話題となった。
経歴
- 1954(昭和29)年 19歳の時、テスト生から南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団。
- 1957(昭和32)年 本塁打王獲得。
- 1961(昭和36)年〜1968(昭和43)年の間、8年連続本塁打王を獲得。
- 1965(昭和40)年 初の三冠王を獲得。(戦後球界初の三冠王)
- 1969(昭和44)年、選手兼任監督となり、1973(昭和48)年優勝を遂げる。
- 1978(昭和53)年 ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)へ移籍。
- 1980(昭和55)年 プロ野球選手の現役を引退。45歳。
- 1981(昭和56)年〜1989(平成元)年 プロ野球解説者として活動。
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- テレビの画面にストライクゾーンを9分割する線と、投手の配球を入れる『野村スコープ』を使用した解説で話題となった。
- 1990(平成2)年〜1998(平成10)年 ヤクルトスワローズの監督就任。
- Bクラスの常連であったヤクルトスワローズに、他球団のデータを徹底的に分析する頭脳的作戦「ID野球」をいち早く取り入れて浸透させ、また選手起用においても、古田敦也の冴える頭脳と野球センスをいち早く見抜き、正捕手に抜擢し捕手としての英才教育を施した。野村の野球方針と、選手個々の能力が何倍も引き上げられた結果、監督辞任の平成10年までにリーグ優勝4回、日本一3回を達成。「常勝球団」へと見事転身させ黄金時代を築き上げた。
- 1998(平成10)年 ヤクルトスワローズ監督辞任。
- 1999(平成11)年 再生手腕を見込まれて、阪神タイガースの監督に就任。
- 暗黒時代を驀進していた阪神タイガースの救世主として招かれ、スワローズと同じ手法で再生を試みるが、球団フロントとの確執、選手の理解度の低さ、過剰なマスコミ報道などにより、3年間の就任では思うような成績を上げることが出来なかった。新庄剛志、桧山進次郎を復活させ、矢野輝弘の潜在能力を開花させ、赤星憲広、藤本敦士らの素質を見抜いて起用するなど、強豪となるための"種"を撒いたが、夫人である野村沙知代のスキャンダルにより、監督を辞任。後任に星野仙一を推薦し、退団。
- 2003(平成15)年 社会人野球『シダックス』GM兼監督に就任。
- 2005(平成17)年 東北楽天ゴールデンイーグルスの2代目監督に就任。
- 2009(平成21)年 東北楽天ゴールデンイーグルス監督辞任。球団は高齢を理由としている。
通算成績
- 実働
- 26年(1980(昭和55)年 45歳で現役引退)
- 生涯打率
- .277
- 出場試合数
- 3071試合
- 打数
- 10472
- 安打
- 2901(1970(昭和45)年10月18日2000本安打達成)
- 本塁打
- 657
- 打点
- 1988
- 得点
- 1509
- 四球
- 1252
- 三振
- 1478
- 盗塁
- 117
- 死球
- 122
- 失策
- 273
タイトル
- 三冠王1回
- MVP5回
- 首位打者1回
- 本塁打王9回
- 打点王7回
- ベストナイン19回
- ゴールデングラブ賞1回
その他
- 1989年 野球殿堂入り
- 1993年 正力松太郎賞