『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』

一条真也です。

今日は、2010年3月20日です。
義兄弟で文通相手の鎌田東二先生の59回目の誕生日です。
鎌田先生、お誕生日おめでとうございます! 来年は、いよいよ還暦ですね。



それから、あの悪夢のような「地下鉄サリン事件」から、ちょうど15年が経ちました。
この間、麻原彰晃こと松本智津夫をはじめ、事件に関わった多くの人々の罪が確定してゆきました。当然ながら、あくまでも「宗教」の問題であるはずなのに、問題の焦点が「法律」に移ったことに違和感がありました。
日本の犯罪史上に残るカルト宗教が生まれた背景のひとつには、既存の宗教のだらしなさがあります。
あのとき、オウムは確かに一部の人々の宗教的ニーズをつかんだのだと思いますが、そのオウムは自らを仏教と称していました。
そもそもオウムは仏教ではなかったという見方ができました。
オウムは地獄が実在するとして、地獄に堕ちると信者を脅して金をまきあげ、拉致したり、殺したり、犯罪を命令したりしたわけです。
本来の仏教において、地獄は存在しません。魂すら存在しません。
存在しない魂が存在しない地獄に堕ちると言った時点で、日本の仏教者が「オウムは仏教ではない」と断言するべきでした。
ましてやオウムは、ユダヤキリスト教的な「ハルマゲドン」まで持ち出していたのです。
わたしは、日本人の宗教的寛容性を全面的に肯定します。
しかし、その最大の弱点であり欠点が出たものこそオウム真理教事件でした。
仏教に関する著書の多い五木寛之氏は、悪人正機説を唱えた親鸞に「御聖人、麻原彰晃もまた救われるのでしょうか」と問いかけました。核心を衝く問いです。
五木氏は最近、小説『親鸞』(講談社)上下巻を発表してベストセラーになっていますが、くだんの問いは、親鸞が開いた浄土真宗はもちろん、すべての仏教、いや、すべての宗教に関わる人々が真剣に考えるべき問いだと思います。



さて、地下鉄サリン事件に代表される「オウム真理教事件」を総括する最高のテキストは、島田裕巳著『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)です。
著者は日本を代表する宗教学者でありながら、オウム真理教の正体が見抜けずに、同教を擁護する発言を繰り返して、事件以後に激しいバッシングに遭った人物です。
東京大学を卒業し、日本女子大学の教授となっていた著者は、学者としてエリート人生を歩んでいました。ところが、事件によって日本女子大の教授を辞任はするは、離婚はするはで、まさに人生を踏み外した痛恨の事件だったと思います。


                なぜ宗教はテロリズムを生んだのか


本書の「序章 オウム事件と私」で島田氏は、「私は、オウムが引き起こした一連の事件の意味を探り、ひいてはオウムとは何か、さらにはなぜ日本の社会にオウムのような集団が出現したのかを明らかにしていきたいと考えている」と述べています。
しかしながら、それに続いて島田氏は、「私にはその作業を進める上でためらいがあることを告白しなければならない。それは、私にとってひどく気の進まないことでもある。私の人生はオウムとかかわることによって、あるいはオウムについて発言することによって、大きくそのコースを変えることとなったからである。私は勤めていた大学を辞めなければならなかった。そして私には『オウムを擁護した宗教学者』という負のレッテル、『スティグマ』が張りつけられた。そのスティグマは、今もはがれていない。」と述べます。



本書で、島田氏はきわめて素直に自らの過ちを認め、真摯にポスト・オウムの日本宗教について考えています。その姿勢は誠に潔いものであり、宗教学者としての禊(みそぎ)は済んだのではないかと思います。
また本書では、「村上春樹オウム事件」として1章を割かれています。
後のベストセラー『1Q84』誕生の予感が漂っていますね。
さらに本文では、「オウム事件は宗教の問題であるとともに、日本的な組織の問題でもある。オウム事件は、日本の組織がかかえている根本的な矛盾を露呈することになった。その点について考察を進めていかないかぎり、現在の日本社会がかかえている問題への展望は開かれていかない。」と書かれています。
著者は、この事件によって絶望したかというと、そうではありませんでした。
それどころか、「人間が生きるということは常に困難をともなう。自分たちを支えるものを失ってしまうという体験を、これまで人類はくり返してきた。問題は、その危機を直視するか否かにある。危機を直視したとき、たとえかすかな手がかりであろうと、その状況を乗り越えるための道を見出すことができるはずである。人類の歴史が、その可能性を証明している」と述べています。



たしかに、孤独はつらいでしょう。また、苦しいでしょう。
しかし、著者は本書の最後で、「私たちは長い歴史を経て、さまざまなしがらみから開放され、はじめて孤独を得ることができた。オウムの人間たちは、その教祖を含め、孤独に耐えられなかったのではないか。私たちは、孤独に耐え、その孤独を楽しみながら、自分の頭を使って、これからを考えていかなければならないのである」と締め括ります。
以上、本書はオウム真理教事件を振り返るのに、じつに最適の一冊ではあります。
なぜ宗教はテロリズムを生んだのか?
なぜエリート学者がカルト宗教に丸め込まれたのか?
本書を読めば、いろいろな謎が解けてきます。
いずれにせよ、15年前に起こった悲劇を、わたしたちは絶対に忘れてはなりません。


2010年3月20日 一条真也

『アンダーグラウンド』

一条真也です。

島田裕巳著『オウム』を再読したところ、「村上春樹オウム事件」として一章が割かれていたことを思い出しました。
そこで、3月20日の今日は、オウム関連の本を部分的に再読することに決めました。
オウム記念日といっては不謹慎かもしれません。
まあ、こんな日があってもいいでしょう。


今や日本を代表する作家というより、世界的な作家となった村上春樹氏。
彼は、「1995年3月20日の朝、東京の地下でいったい何が起こったのか」「地下鉄サリン事件を境にして日本人はどこに向かおうとしているのか」を追求して、じつに62人もの関係者にインタビューを重ねて事件の真相に迫った本を書き上げました。
それが『アンダーグラウンド』(講談社文庫)です。
まず、800ページ近い分厚さに圧倒されます。


                    「祈り」とは何か



「はじめに」で、著者は、1995年3月20日、月曜日の朝を「まず想像していただきたい」と読者に呼びかけ、次のように語ります。
「気持ちよく晴れ上がった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみーーつまり連休の谷間だ。あるいはあなたは『できたら今日ぐらいは休みたかったな』と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。
だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。
変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは・・・。」
本当に、15年前の3月20日の朝を生きているような感覚にとらわれますね。
さすがは、超一流の作家です。


その筆力には感服しますけれども、それよりも、62人もの人々のもとに出向いていって自らインタビューを続けていった行為には感動を覚えます。
ノーベル文学賞の最有力候補ともされ、当時すでに日本で最も有名な作家の一人であった村上春樹がJRで千葉までインタビューに出かけてゆくのです。
そこで一日、サリン事件の被害者の言葉にひたすら耳を傾けます。
そして、東京に戻ってから自分自身でインタビュー原稿をまとめるのです。
同じ姓を持ち、一時は村上春樹氏のライバルと目された作家がいます。
その彼がろくな小説も書かず、経済番組のホストとして、価格破壊が売り物のベンチャー企業の経営者たちにお世辞を言いながら、付け刃の経済知識をひけらかしています。
そんな堕落した作家に比べて、村上春樹氏には作家としての純粋さ、真摯さを強く感じてしまいます。
アンダーグラウンド』での途方もないインタビュー行為を知ってから、わたしは「この人の語る言葉は信じられる」と心の底から確信しました。


62人の人々が語る体験談は、ここには紹介しきれないほどの重みを持っています。
ぜひ、まだ読んでおられない方がいれば、お読み下さい。
きっと、人生というものを見つめ直す契機になるはずです。
村上春樹著『カンガルー日和』(講談社文庫)には、「4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて」という素敵なショート・ストーリーが出てきます。
わたしの大好きな、とてもロマンティックな文章です。
4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うかもしれません。
しかし、3月のある晴れた日にサリン入りの袋を持った変装した男たちに出会うかもしれないのです。それが人生なのです。


地下鉄サリン事件の被害者の中には、亡くなった方をはじめ、その後も入院されたまま意識が戻らない方もいました。
村上春樹氏は、取材を通じて出会ったすべての人々が、これから末永く健康で、実り豊かな人生を歩んでほしいと祈ったそうです。そして、最後に次のように書いています。
「私が祈ることがどのような効力を持ちうるのか、正直に言ってわからない。少しくらいは効力を持つだろう、と言い切るほどの自信もない。結局のところ、私は数多くの個人的欠陥を抱えた一人の作家に過ぎないのだから。でもそのような私のつたない非力な祈りが、少しでも受け入れられる隙間がこの世界のどこかにーーいわば見落とされたようなかっこうでーーあるなら、私は強く祈りたいと思う。
『私があなたによって与えられたものを、あなたのもとにそのまま送り届けることができれば』と。」

作家の祈りは被害者たちの「こころ」に届いたでしょうか。
そして、「祈り」とは何でしょうか。
わたしは、人は祈らなければならないと思っています。
祈りの対象は太陽でも神でも仏でもよい。
人が不可知な力について感じるようになれば、人生そのものに必ず大きな展開がもたらされてくるものだと信じています。
100パーセントの女の子に出会うか、サリン入りの袋を持った変装した男たちに出会うか、不可知な人生を前にしたとき、人にできることは祈ることだけかもしれません。


2010年3月20日 一条真也

『約束された場所で』

一条真也です。

村上春樹氏が『アンダーグラウンド』に続いてオウムに向き合ったノンフィクションが『約束された場所で』(文春文庫)です。
「文藝春秋」1998年4月号〜11月号に掲載したインタビュー記事が中心です。

オウム真理教の信者たちは、癒されることを求めていました。
そんな彼らが、なぜ「地下鉄サリン事件」という救いのない無差別殺人に行き着いたのか。彼らは、なぜこの現世を生きてゆくことができなかったのか。
元信者、あるいは現在も信者であり続ける者・・・村上氏による彼らへの徹底的なインタビューが収められています。
『アンダーグランド』だけでなく、『約束された場所で』という続編を発表したことについて、村上氏は「まえがき」で次のように書いています。
「『アンダーグランド』の中では、オウム真理教団という存在は、なんの前触れもなしに日常に唐突に襲いかかってくる〈正体不明の脅威=ブラック・ボックス〉として捉えられていたわけだが、今度はそのブラック・ボックスの中身を、私なりにある程度開いてみようと思った。そしてその中身を『アンダーグランド』という本が提出したパースぺクティブと比較対照することによって、言い換えればその異質性と同質性を腑分けすることによって、より深みを持った視座を獲得することができるのではないかと思ったのだ。」
「もうひとつ、私が『オウム側』に正面から取り組んでみようかと思ったのは、『結局あれだけの事件が起こっても、それを引き起こした根本的な問題は何ひとつ解決してはいないんじゃないか』という危機感のようなものをひしひしと感じ続けていたからだった。」

村上氏によれば、日本には、日本社会というメイン・システムから外れた人々を受け入れるための有効で正常なサブ・システム、いわば「安全ネット」が存在しないそうです。
メイン・システムから外れた人々の中でも、とくに若年層が受け入れられない。
そして、安全システムが存在しないという現実は、オウム真理教事件の後でも何ひとつ変化していないというのです。
それは本質的で重大な欠落です。そして、そんな欠落がわたしたちの社会にブラック・ホールのように存在している限りは、たとえここでオウム真理教という集団を潰したとしても同じような組成の吸引体(オウム的なるもの)はまたいつか登場してくるし、同じような事件がもう一度起こるかもしれないと、村上氏は考えるのです。
村上氏は次のように述べます。
「私はこの取材にとりかかる前からそのような不安を感じ続けていたし、取材を終えた今では、より強くそれを実感している(たとえば一連の中学生の『切れる』事件にしても、そのようなポスト・オウム的状況の一環として捉えていくことが可能なのではあるまいか)。」
村上氏がこの文章を書いてから12年。
その不安は、ますます現実のものとなっています。


                 オウム的なるものの正体とは


本書には、心理学者である故・河合隼雄氏と村上氏との対談も収録されています。
以下の発言が印象に残りました。
村上「オウムの人に会っていて思ったんですが、『けっこういいやつだな』という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。良くも悪くも『ああ、これが社会だ』と思いました。それに比べると、オウムの人はおしなべて『感じがいい』としか言いようがなかったです。
河合「それはやっぱりね、世間を騒がすのはだいたい『いいやつ』なんですよ。悪いやつって、そんなに大したことはできないですよ。悪いやつで人殺ししたやついうたら、そんなに多くないはずです。だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。」

さらに、日本におけるユング派の第一人者であった河合氏は、事件に関わったオウム信者たちについて、次のように述べています。
「この人たちは頭ですごく考えとるでしょう。こんなふうにぐっと小さい箱に入ってものをぐんぐん考えようとするときに、それをくい止めるのはやはり人間関係なんです。やっぱり父親とか母親です。感情です。それが動いていると、こんな小さな箱にはなかなか入れないんです。なんやらおかしいやないかと、そういう気持ちが働くんですよ。」
村上氏はこのコメントに対して「バランス感覚が働くということですね」と答えていますが、まさにバランス感覚が大事なのです。
そして、何よりも重要なのは「人間関係」。
わたしは、つねづね問題なのは「人間」ではなく「人間関係」であると言い続けていますが、そのことをあらためて痛感しました。


2010年3月20日 一条真也

『1Q84』 BOOK1&2

一条真也です。

わたしは、昨年の5月に村上春樹氏の長編小説を集中して読みました。
きっかけは、同年の2月15日にイスラエルで行われた村上氏の例のスピーチです。
そう、エルサレム賞受賞スピーチの内容(「高く堅牢な壁と、そこにぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私は常に卵の側に立とう」という言葉はあまりにも有名になりました)を知り、「彼の全作品をどうしても、いま、読まなければならない」と強く感じたのです。
そういうわけで、デビュー作の『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』『アフターダーク』へと至る彼の長編小説を一気に固め読みしました。
その中には既読のものもありましたが、未読の作品もありました。
感じたことは、内田樹氏も指摘していたかと思いますが、村上作品の多くには「幽霊」が登場すること。幽霊でなくとも、死者の存在というものが大きい。
つまり、村上作品とは、基本的に死者と生者との交流を描いているということです。


                   「こころ」を見つめた小説


きわめて短期間に村上ワンダーランドにどっぷり浸かったわたしですが、その直後に『1Q84』BOOK1&2が発売され、満を期して読み始めました。なにしろ、2009年5月29日の発売日の時点ですでに4刷、68万部という超話題のベストセラーです。
1984年に刊行されたジョージ・オーウェルの近未来小説『1984』とは逆に、2009年の未来からの近過去小説、それが『1Q84』です。とにかく、冒頭からハラハラドキドキ、文字通り寝食を忘れて読み耽ってしまう面白さでした。「小説とは、こんなにも面白いものか!」と久々に思わせてくれる作品でした。やはり、ノーベル文学賞に一番近い作家とされるだけあって、その筆力は当代一ではないでしょうか。
そこには実に奇妙な世界が描かれています。
1Q84年は、本来の1984年とはまったく異なった世界なのです。
セックス描写のみならず殺人描写までがこれ以上は不可能なほど具体的に描かれていますが、紛れもなく人間の「こころ」を深く見つめた作品だと思います。



その理由は主に3つあります。
第1に、『1Q84』は純愛小説だからです。
一組の男女が、10歳のときに手を握ります。ともに特殊な家庭環境にあった二人は、その後20年間も会わないのに、相手のことを忘れずに深く愛する。
こんな純粋な恋愛が他にあるでしょうか!
ラスト近くでは、相手を愛するがゆえの究極の自己犠牲の姿まで描かれています。
著者の代表作『ノルウェイの森』は「100%の恋愛小説」と謳われましたが、『1Q84』はさらにその上をゆくピュアな純愛小説だと思います。



第2に、『1Q84』は宗教小説だからです。
これまで、著者は『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』では「宗教」をテーマとしましたが、長編小説で真正面から扱ったのは今回が初めてです。
いくつかの宗教団体が登場しますが、架空の教団の名で描いていても、そのモデルがエホバの証人ヤマギシ会、そしてオウム真理教であることは一目瞭然です。
教団の裏側を描き、「信仰」や「祈り」の本質に迫る部分は、篠田節子の『仮想儀礼』にも通じるリアリティがあります。著者がずいぶん宗教団体について調べたことがわかります。『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』のインタビューが大いに役立ったことと思われます。主人公の一人である天吾は、「誰に世界のすべての人々を救済することができるだろう?」と自問します。
「世界中の神様をひとつに集めたところで、核兵器を廃絶することも、テロを根絶することもできないのではないか?アフリカの旱魃(かんばつ)を終わらせることも、ジョン・レノンを生き返らせることもできず、それどころか神様同士が仲間割れして、激しい喧嘩を始めることになるのではないか。そして世界はもっと混乱したものになるかもしれない。」と思います。これは、明らかにエルサレムで繰り広げられているユダヤ・キリスト・イスラムの宗教衝突を揶揄しています。
また、「宗教とは真実よりもむしろ美しい仮説を提供するもの」であるとか、「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛」があれば「宗教を必要としない」とか、『1Q84』には神や宗教の本質についての著者の結論のようなものが、ある種の覚悟をもって直球で明言されているのです。こんなにもストレートに宗教を語るくだりは文中にも登場するドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を連想させます。
1Q84年の日本に、大審問官がよみがえる!
その他にも、オーウェルの『1984』はもちろん、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』など、さまざまな世界の名作が気前良く作品中に登場してきます。
小説のみならず、なんと民俗学の古典中の古典であるフレーザーの『金枝篇』までも!ある意味で、『1Q84』は日本には珍しい教養小説の側面も持っているのです。



「こころ」を深く描いている第3の理由は、『1Q84』が月を描いた小説だからです。
わたしは、かつて『ロマンティック・デス』で、『ノルウェイの森』の真の主人公は月ではないかと指摘したことがありますが、今回も月が物語の重要な役割を果たしています。
それも、1Q84年の世界では、空には二つの月が浮かんでいるのです。
アーサー・C・クラークは、『2001年宇宙の旅』の続編である『2010年宇宙の旅』で空に二つの太陽を浮かべましたが、村上春樹は二つの月です。
月とは人間の心のメタファーであり、「ハートフル」とは「心の満月」です。
そして、愛する二人は同じ月を見ている
かつて、同じ月を見ていた人々がいました。ユダヤ・キリスト・イスラムの三姉妹宗教のルーツは月信仰にあったと、わたしは考えています。同じ月を見て同じ神を信仰していた人々が、三つの宗教に分かれ、傷つけ合い、血を流し合いました。
そう、純粋な「愛」を説き、「宗教」なるものを真正面からとらえた、このシュールな月の小説は、あのエルサレムでの著者のスピーチにつながっているのです。たぶん。



BOOK1&2で完結するのか、それとも続編が出るのか、ずいぶん議論が交わされましたが、続編はやはり出ることになりました。
もうすぐ、『1Q84』のBOOK3が読めると思うと、ワクワクしますね。


2010年3月20日 一条真也

『二十歳からの20年間』

一条真也です。

出版界の青年将校」こと、三五館の中野長武さんから新刊本をいただきました。
宗形真紀子著『二十歳からの20年間』です。
著者は、20歳のときにオウム真理教に出家した女性です。
3年前の2007年になってやっとオウムの後継団体であるアレフを脱会しました。
彼女のオウムや麻原彰晃へのはまり込み方は、かなり深いものでした。
そのため、過ちに気づくまでに地下鉄サリン事件から数えて8年を要しました。
気づいてから脱会するまでにはさらに4年かかったので、合計して事件後12年も経ってようやく脱会できたのでした。

それから、さらに3年が経って、彼女は本書を書いたのです。
20歳のときに出家した彼女は41歳となりました。
つまり、人生の半分以上がオウム以降となったわけです。
宗形氏は、次のように書いています。
「わたしの、二十歳からの20年間は、ひと言で言えば、『魔境』というものの深みにはまり込み、そこからもがき苦しみながら抜け出していった、とてもとても長い歳月でした。そして同時に、本当の意味で抜け出すためには、わたしにとっては必要不可欠な、かけがえのない歳月でもあったのです。」


                “オウムの青春”の魔境を超えて


彼女が陥った「魔境」とは何か。
それは、古来より、修行を志した者が必ず直面する「心の中の悪魔」「増上慢」として戒められてきたものです。
そして同時にこれは、修行を志さずとも、すべての人が必ず直面する「心の落とし穴」のことでもあると、宗形氏は述べます。

出家後、彼女はさらなる神秘体験、夢と現実のシンクロニシティによりオウムに傾倒しました。その結果、さらなる魔境に入ってしまいました。しかし、この「魔境」は彼女だけの問題ではなく、じつはオウムの中核の問題であったそうです。

現在の宗形氏は、同じような境遇にあって脱会した、上祐史浩や約40名の元出家信者と、約150名の元在家信者からなる「ひかりの輪」という団体の中で、約3年前より、その中心メンバーの一人として、人生をやり直す一歩を踏み出しているとか。



本書によれば、宗形氏は14歳での霊体験をはじめ、16歳での父の死、そしてノイローゼ、登校拒否、自殺衝動などを体験しています。
そんな傷だらけの心を持った彼女が、いかにしてオウムに引き寄せられ、もがき苦しみ、その悪因縁を断ち切って脱出したのか。
彼女自身はサリン事件などのテロリズムに直接関与はしていないにせよ、本書が史上例を見ない宗教犯罪における貴重な現場からの証言であることに変わりはありません。
本書を読んで感じたのは、宗形氏がいかにも純粋であり、真面目であり、いわゆる「いい人」であったことです。
わたしは、『約束された場所で』に収録された村上春樹氏と故・河合隼雄氏の対談を連想しました。そこで村上氏は「オウムの人に会っていて思ったんですが、『けっこういいやつだな』という人が多いんですね」と言い、河合氏は「世間を騒がすのはだいたい『いいやつ』なんですよ」と語ったのでした。

宗形氏が本当の意味で救われたのは、母親へ深い感謝の念を抱いたときでした。
当然ながら、オウム出家によって、彼女はあらゆる人間関係を失いました。
しかし、彼女の母親だけは違ったのです。
母は、誰にも耐えられないような目に遭いながら、微笑を絶やしませんでした。
そして、いつも淡々と優しい気持ちを持ち続けていました。
そんな母の姿を見たとき、宗形氏は大きなショックを受けました。
何か世界を踏み越えて、本当のことを垣間見てしまったように感じたそうです。
そのとき、母が観音さまのように見え、目から鱗の落ちる思いがしたといいます。
宗形氏は次のように書いています。
「すべてを捨てて、ある意味命がけで、十数年も修行して、遠くに求め続けていた観音さまが、意外なことに、こんなに身近なところにいたなんて、この現実に驚かされました。」
彼女は、「わたしはもしかしたら、このままでとても幸福なのではないか?」と心の底から思ったそうです。
『二十歳からの20年間』と同じく中野さんが編集をしてくれた拙著『法則の法則』では、「幸福になる法則」というものを紹介しています。
それは、ずばり、自分を産んでくれた親に感謝するというものです。親を感謝する心さえ持てれば、自分を肯定することができ、根源的な存在の不安が消えてなくなるのです。
そして、心からの幸福感を感じることができます。
地下鉄サリン事件から15年目の日に読んだ元オウム信者の体験記から、この「幸福になる法則」がやはり正しいことを再確認することができました。
中野さん、どうも、ありがとうございました。


2010年3月20日 一条真也

「地獄」(石井輝男監督)

一条真也です。

今日は、地下鉄サリン事件15周年ということで、オウム関連の本を固め読みしました。
村上春樹著『約束された場所で』や宗形真紀子著『二十歳からの20年間」などを読んでいると、信者の立場からの視点も理解できて、一連の「オウム真理教事件」が立体的に浮かび上がってくるような気がします。
ところで、さらに当時のオウム真理教団内部の様子がよくわかる映画があります。
石井輝男監督の「地獄」です。1999年の作品ですが、石井監督は「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」などのカルト・ムービーで知られています。


                  阿鼻叫喚の世界へようこそ!


恐怖奇形人間」は、もう言葉では表現できないほど、グロくて凄まじい映画です。
わたしも最初に観たときは、あまりの過激さにブッ飛びました。
大袈裟ではなく、ヤバ過ぎる映画です。そんな“キング・オブ・カルト”が「地獄」を描いたのですから、これはもうタダではすみません。「恐怖奇形人間」に負けないぐらい「地獄」も、鬼才・石井輝男ワールドが炸裂しています。



言うまでもなく、地獄とは現世で大罪を犯した亡者たちが行くところ。
そこでは、閻魔の裁きにより、亡者たちは鬼たちにあらゆる責め苦を受けます。
まさに、阿鼻叫喚の世界なのです。

この作品では、毒物カレー事件のM・Hが糞尿地獄の刑に遭い、連続幼女殺害事件のT・Mがノコギリ引きの刑に処されます。
そして、モロ麻原彰晃そのもののカルト教団教祖は、皮剥ぎの刑に遭うのです!
なんだか聞いただけで凄い内容でしょう。
それを超リアルな映像で描くのだから、たまりません。
ちなみに、毒物カレー事件のM・Hとはもちろん林真須美被告のことですが、わたしは彼女が真犯人だったかどうかには少々疑問を持っています。
事件の捜査方法にいろいろズサンな点があったことを知ったからです。
初めはコンビニで売られているコミックの類で知ったのですが、興味を抱いて、本格的に調べていくうちに彼女を真犯人と決めつけるのは問題が多すぎることに気づきました。
今その問題に深入りすることは避けますが、彼女が獄中で詠んだという「人殺し それはアンタよ 裁判官」という川柳に異様なほどの情念がこもっているのを感じます。



さて映画「地獄」では、毒物カレー事件の犯人も、連続幼女殺害事件の犯人も、しょせんは一つのエピソードを飾る脇役でしかありません。メイン・ストーリーはあくまでオウム真理教事件であり、主役は麻原彰晃をモデルとした教祖なのです。
映画の中では、オウム真理教は「宇宙真理教」と言い換えられています。
教団内リンチ、イニシエーション、ポア、サリン、ハルマゲドン・・・実際のオウムはきっとこうであったに違いないと思えるほど、リアルに事件を再現しています。

15年前の悪夢をさらに立体的に追体験するのに、おススメの映画です。

最後の場面で、かの丹波哲郎さんが出演しているのも、なんだか嬉しかったです。


2010年3月20日 一条真也