* ミニ物語の効用
 毎日、随想日記を13年も書いてきた効用で、何時も頭の中で、気楽に何かの考え事を楽しめるようになった。
人間は誰もしているのだろうが、ミニテーマを決め、サブテーマと、その他のキーワードを幾つか思い浮かべ、
その言葉の羅列を繰返す。一種の黙想だが、これが頭と心の整理に良い。 ここでライブで、その実例をしてみる。
【 テーマは ー今朝方の夢ー 夜半、というより朝方になるが、寝床で目を醒ますと、そこは学生時代の寮の部屋。
まさか!と思い、ジッと部屋を観察すると、やはり当時の部屋。これは、間違いなく夢。しかし、どうも、現実の
ような感じもする。とすると、私は、誰かの居住部分に無断で寝ていることになる。まずいとしても、これは夢?
それにしても懐かしい!と思っていると、何時の間にか、そこの学生が、近くに寝ている。そうこうして、夢からさめ、
ウトウトした後、覚醒した。 現在の随日のテーマ「事業人生を決心して45年の、語り直し」を書いているが、
過去の折折を思い出すに、当時の具体的イメージの細部を引っ張り出し、糸口にすれば、色いろ思い出されるのでは!
と思い至った。これは、過去の思い出だけでなく、近未来の計画も、可能のはず・・】というふうに。
 そんな暇があったら、TVでドラマか、旅番組を見ていた方が良いと思うだろうが、目の前の現象を言語化するのも、
面白いもの。 NHK朝ドラの『花子とアン』のハナが、想像の翼を広げて、その文章化を楽しんでいる場面が度々、
出てくるが、それを自分でも身に着ければ、より心が豊かになる。度が過ぎると、私のような変人、奇人になる?
   * マークX・ジオ
 先週末の土曜の午後、中古だが、マークX・ジオがとどく。家内がオーナーだが、22年ぶりの車・・ 
「車好きの55歳以上向けの多機能が、売り」だが、実際には、その層には、受けなかったようだ。
去年の秋に生産中止になって、殆ど見かけないことと、荷台にスポーツ自転車を乗せ、近隣の山や海辺で
ミニサイクリングが可能なことが決めてになった。 納車後に、初めて乗ったが、やはり試乗してみるのが筋。 
 果たして、自転車を乗せて何処かに行って乗りまわす?どうだろう。燃費がリッター12キロというから、
ソアラの1・5倍の距離を走るが・・ 年齢もあって、もう近くしか乗ることもない。 もう一つ選定にあたって、
自宅と車のバランスもあった。その辺の陰口?まで吟味すると、こんなところ? やはり、スポーツ車だったか?
・・・・・
4467,ガン闘病と刑務所暮らし、どっちがきついか
2013年06月09日(日)
 昨日の午後のタカジンのバラエティで、ホリエモンが特別出演した、「タカジンのガン入院とホリエモンの刑務所暮らしの、
どちらがきついか」の質問に対して笑い飛ばす内容。1年2ケ月の闘病と、1年9ヶ月の獄房生活の厳しさ、さてどちらか?
前者は多くの人が通る道だが、生命危機の瀬戸際。後者は、期限付きだが、普通の人にとって特殊な経験で、興味という面で、
ホリエモンの体験談の方が圧倒的に面白い。まあ、関西系のTV番組としても、各質問が下ネタなどエゲツナイ。
 −要点をまとめると
・体重がホリエモンが30キロ減に対し、タカジンは10キロあまり。 それは入院と獄内の規則正しい食事と運動量の差。
・現在、ブログの会員がいて、会費840円で、会員1万(有料会員6千)人。 これだけで既に月五百万が入ってくる。
・2年半の実刑に対して1年9ヶ月で出所したが、入獄後半年の頃、この生活が、あと二年も続くと思った時と、夜半に
 死を考えた時が辛かったという。
・地獄の沙汰も金次第。獄内の楽しみは読書、それが買えるかどうかが、大きい。
・楽しみは大相撲のTV観戦と、慰問のショー、それと知人などの面会。何がしたいかというと、気心のしれた人との雑談。
 何か分かるような気がする。
・「お金は道具」と過って言っていたが、その考えは変わりませんか?の質門には、「基本は変わらない」。
・「先のことを考えず、過去の良かったことを思い出し日々を過ごす方が良いと聞いていたので、そのようにしていた」とも。
・「極限の中で、何か自分に気づいたことは?」の質問に、「忍耐強い自分に驚いた」と。
・獄内で、幾つかの事業プランをたててある。やはり、その衝動は大きい。
 ▼ 私も倒産という特異体験をして、2年3ヵ月経った。二人ほどではないが、やはり白眼の中、甘くない日々。
  失意平然としているつもりだが、頼れるのは、自分の気持ちだけ。まずは「ウツ」対策。早朝のミニサイクリングと
  スポーツジムで三時間の運動と、この随想日記と、幾つかの習慣を淡々とコナスことで、むしろ健康的であるが、
  やはり特異体験である。それにしても、堂々と、自分を曝け出せるホリエモンには驚かされる。
  ホリエモンのブログ、一ヶ月無料というから、会員に入ってみようか・・・
・・・・・・
4093、私は完全な本 "日本の自殺"ー1を作った
2012年6月9日(土)
 先日、何気なく文芸春秋3月号を借りてきた。この号は二月に図書館内で田中慎弥芥川賞受賞作品を読んだ。しかし、、
トップに取り上げていた論文を見逃してしまった。 最初は最近書かれた内容と思っていた。 その内容が的を得ているので
冒頭に戻って見直すと、何と37年前に文芸春秋で掲載された論文と知り衝撃を受けてしまった。 
今年一月の朝日新聞の一面で、これを取り上げた主筆が瞠目したという内容。 著者は「共同執筆・グループ1984年」とある。 
そこに添えられていた要約=「1975年、小誌にある論文が掲載された、それは高度経済成長を遂げ、繁栄を謳歌する日本に迫る
内部崩壊の危機に警鐘をならすものだった。それから37年、朝日新聞若宮啓文主筆が1月10日付朝刊の一面で、この論文に注目し、
「『日本の自殺』がかってなく現実味を帯びて感じられる」と、今なお「予言」の響きを失わない論文を再考していた。
 ーまずは、小見出しを拾ってみる
1 日本没落の予感      
2 ローマ帝国滅亡との類似点  
3 日本が直面する困難    
4 危機は日本人の内部にある 
5 豊かさの代償       
6 現代文明がもたらす幼稚化  
7 デマによる集団ヒステリー 
8 情報の洪水が人間を劣化させる
9 自殺のイデオロギー    
10 戦後民主主義の弊害
11 没落を阻止するために、
 この見出しだけでも、現在の日本の現状分析の項目そのもの。 敗戦後、日本は物質的に歴史的な復興をしてきたが、
 精神的には、ほとんど敗者のまま。現在の日本はギリシャ並み?か、それ以下に荒廃した魂で、茫然自失の状態である。
 次回から、見出しごとに、要点を書き出してみる。 「日本の自殺」を、「我々(私)の自滅」と置き換えて読むと、
 身に覚えのあることばかり。我々は、私は緑の原野で何をしてきたのだろうか。欧米が主導してきた文明とは何だったのか。
・・・・・・
3727, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  〜�
2011年06月09日(木)
             『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
 ただ好きなことをすればよいのではなく、シナリオにそった周到な準備があることは、言うまでもない。
以下の部分は、この本の中の一番の要の部分である。 よく調べ、勉強し、実践し、準備をした上で何事にものぞめ、
準備を遊びになるまで熱中しろ、ということ。そこまで集中した相手に勝つには、並大抵でない。
【  * 私が百戦百勝している最大の秘訣
  準備! そこから魔法がはじまる!だが、私がそう言うと、若い弁護士は当てが外れたような顔をする。彼らは労働と呼ばれる
 退屈なものを迂回できるような、楽な方法を知りたがるが、本当の準備は労働ではないと彼らに説明できればいいのだが・・・。 
 準備とは、創造する喜びだ。準備とは人生を苦労して前進すること、悩みながら生きていくこと、波に揉まれながら生きていくこと、
 人生を喜んで引き受けること、人生を自分自身に塗りつけること、人生を生きることである。
  モーツアルトに労働したことがあるかと尋ねてみたとしたら、おそらくノーと答えたのではないだろうか。だが彼の人生、
 彼の呼吸が、彼の音楽だった。 不朽の音譜という形でなされた彼の議論は、人生のすべてを費やした周到な準備の成果だった。
 並はずれたIQを持っているが準備をするほど賢明ではない人よりも、力強い議論の準備を整えているふつうの人になりたい。
 準備とは、あくまでも「心の底」の栄養だ。 結局、天才とは脳細胞の幸運な並び方を言うのではない。天才とは、エネルギー、
 単に何かに向けられたエネルギーにすぎない。 天才とは準備なのだ。 議論の準備をしている時、私は労働をしていない。
 この本を書く時も労働をしていない。遊んでいるのだ。準備をしている時の私は子供。子供だから遊びに飽きることはない。
 子供だから自分本位で、熱中していて、ひたすら遊びを楽しもうとしている。子供だから、遊ぶという仕事に忙しい蜂や蝶や鳥と
 同じように、夢中になり、大いに喜び、好奇心にあふれ、胸を躍らせる。 ネズパース族のスモーホール酋長が言ったように、
 「子供は決して労働をしてはならない。労働するものは夢を見ることできない。そして知恵は夢のなかで得られるものなのだ」 
 あなたは共同経営者に会社の方針を変えることを納得させ、そして勝ちたいのだろうか。 配偶者に話をして転職に同意させ、
 そして勝ちたいのだろうか。暗審員に自分の主張は正いことを納得させたいのだろうか。 それなら、よく調ぺ、勉強し、実践し、
 準備しなさい。遊びなさい。議論の準備をしなさい。自分の考えをくわしく書きなさい。 新しいアイディアが魔法の穴から
 飛び出してくるのを注意して見ていなさい。議論に関して知っておかなけばならないことが何かだけではなく、人類の歴史上、
 最も興味深い人物 ーつまり、あなについて知らなければならないことは何かを発見した時の気分を味わいなさい。 
 私はいまだに他の弁護士から「スペンスさん、あなたは法廷でどんな魔法を使うんですかと聞かれる。
 以前、私は暗審員に催眠術をかけたということで被告側のリーダー的な人から訴えられた。
 私は裁判所からこの計略に加わるよう命令されたに違いない、と彼は陪審員に論じた。】
▼ まず第一歩は、何ごとも準備から始る。サエゼリアには、あれだけの客席があるのに、ホールには一人、厨房に一人か二人。
 あれは、セントラルキッチンで、ほぼ店の厨房で加工しなくてもよいまで、準備がされているためだ。スーパーより、ある意味で
 合理的なのかもしれない。飲食店は、開店前に大方の仕込をして、更に開店した後の暇の時間に、ピーク時の為の準備をしている。
 居酒屋チェーン店の強いところは、チェーン全体の力で、その仕掛け作りがしてあるから強いのである。 人間も同じ。
 ・・・・・・・
3362, すでに世界は恐慌に突入した ー3
2010年06月09日(水)
  * アメリカの公共事業は、戦争!
 ここで著者は、「アメリカの公共事業は戦争だ」という。 これまではイラクとアフガンで、これからはイランか北朝鮮か、
それとも中国あたり? 兵器の在庫処分が必要になるからである。軍事産業という公共事業は、常に戦争をしておかないと
世界各国の需要が喚起出来ない。 第二次世界大戦時の日本の真珠湾攻撃は、あきらかにアメリカによって追い込まれたもの。
彼等にとって願ったり叶ったり。そこで日本人の一般人までが数百万人も虐殺された。度重なる東京大空襲、広島・長崎の
原子爆弾による殺りく。その大部分が一般人を狙った非道の攻撃である。そして朝鮮戦争ベトナム戦争、冷戦による軍事力の
強化等の需要。その間に、アフガン、イラク戦争、今度ねらうは、北朝鮮かイラン。民族紛争のタネなら世界中に満ちている。
まずは北朝鮮で仕掛けてくる可能性が充分にある。これまでは世界はアメリカよりの情報にコントロールされていたが、
情報化で色いろな情報が入手可能になってしまった。 アメリカはニクソンがドルの金への交換を止めたと宣言した辺りから、
金融を戦争の武器にすることに気づいた。
 (字数制限のためカット 2012年6月9日)
 ・・・・・・・・
2987,縁は異なもの ー4
 2009年06月09日(火)
 河合隼雄が取り上げている次の青山二郎の言葉が熾烈である。「魂というものが本当にあるものなら、陶器に外形の形の上に
現われずにはおかない」とは、これは美術全般に言えることである。いや、商売にしても、演劇にしても何事にもいえること。
さらに、「精神は認めたが、精神的なものは認めない」とは、グサリと来る言葉である。
  ーその河合の語っている部分をコピーしてみるー
【憶憬や心酔、それは一面的な「主観」の世界なのである。そんなのは、没個性的客観と同様に「何物も生みはしないのである」。
主観と客観、現実と虚妄などと、一般に区別されるものの皮膜の間に、確かな「存在」がある。それを私は「たましい」
と呼んでいる。私は「美」とは無縁と言っていいほどの生き方をしてきたが、心理療法という仕事をしていると、たましいの
真実に触れる体験をする。あるいは、そうせざるを得ないことになる。そのようなところから、白洲さんの作品のなかの「美」への
理解が、少しずつひろがってきたと思っている。 たましいと言えば、白洲さんの『いまなぜ青山ニ郎なのか』には次のような
印象的な言葉がある。青山二郎は陶器の鑑定においては天才的と言っていい人であった。その青山ニ郎について白洲さんは
「青山さんが偉いのは、『写真で見れば解る』鑑賞陶器から、『写真で見ても解らない』陶器の真髄、いわば形の中にある
魂を求めたことにある」と言う。そして、「人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、
もし本当に存在するものならば、それは外側の形の上に現われずにはおかない。それが青山ニ郎の信仰であった。」 
これに続いて、青山二郎は「精神は尊重したが、『精神的』なものは認めなかった。 意味も、精神も、すべて形に現われる。
現われなければそんなものは空な言葉に過ぎないと信じていたからだ。」という烈しい言葉が語られる。
『精神的』なもの言いが「精神」そのものを覆い隠してしまうのである。 我われ心理学者はなどといわれる人間は、
心理的」や「心」そのものを見えなくしているのではないか、と反省させられる。】
 〜〜以上だが、
 世界の主だった美術館で有名な作品の前で思わず竦むことがある。作家の魂が直に伝わってくるからである。
直近では、ロンドンの美術館でゴッホの「ひまわり」の前で、独りで5分位、立ちすくんでしまった。
絵を通して、ゴッホの燃え上がるようなエネルギー(魂)が直接伝わってくるのである。
だから世界の名だたる美術館に人は押し寄せるのである。 「お宝鑑定団」で、陶器の鑑定で映像を通しても
本物と偽者は一目で大体わかる。(そっくり真似た‘写し’は無理だが)これは子供の頃より父と古物商で
数限りの陶器を見てきたからである。 色・形に品格が出ていて、見た瞬間に分かるのである。
・・・・・・・・・
2623, 『12の口癖』 成功者たちの幸運を呼び込む言葉。 ?2
 2008年06月09日(月)      ー読書日記
 それでは ?「失敗者たちの不幸を呼び込む言葉ー『12の口癖』」?を書いてみよう
   ー私をマイナスにする『12の口癖』ー

第12の口癖 「あの馬鹿め」「死ね」「きもい」「あれほど酷い奴はいないよ」

  (字数制限のためカット 2010年6月9日)
ーーーー
2007年06月09日(土)
2258, 今日、ホームレスになった -1              
「今日、ホームレスになった」増田明利著 新風舎   ー読書日記
 自らの身に置き換えて考えざるを得ないようなリアリティな内容で、13人のホームレスの過去と現状が綴られている。  
 (字数の関係でカット2009年6月9日)
 ーーー
2006年06月09日(金)
1893, 不良のための読書術ー1   おはよー!(*^ワ^*)i      
     「不良のための読書術」永江朗著    ー 読書日記ー
「不良のための文章術」を図書館から借りてきて、あまりの面白さのためネットで買うことにした。
ところが送料無料の1500円には少し足りない。そこで、同じ読者が書いた「不良(プロ)のための読書術」を買うことにした。
既に文庫本になっているので半額である。「20対80の法則を、違う言葉で言い替えたのだろう」と思っていたが、
正にその通りのものであった。ゴダール式読書法と言い替えていた。 ゴタールという作家の映画の見方がユニークという。
三十分観るとさっさと次の映画館に行ってしまうという。原作を読んでいれば、それで充分なのだろう。
著者はその言葉からピンと来てゴダール式読書法と名づけたという。 それでも面白いのである。若い人向けの本だが、
基本中の基本が書いてある。老練の詐欺師が「女は見た目だよ!」と、ある本に書いてあったが、当たらずとも遠からず?である。
数十年本屋に通っていて、見てくれを意識したことは無かった。本は見てくれではない!と思うのが常識である。
しかし、良くないものに出版社が「見てくれ」を良くして売ろうとはしないのも事実である。見てくれだけを良くして売ろうと
するのは、若い娘か、薄っぺらの教養のない男である。本人は見てくれを良くしているつもりが、どこかバランスがとれてない。
銀座で闊歩する夜の蝶ー蛾を見れば、一目瞭然である。  (字数制限のためカット 2011年6月9日)
・・・・・・・
2005年06月09日(木)
 1528, 生きて死んでいく重み
最近、中島義道哲学書をよく読んでいる。そして、この日記にも何度か取り上げてきた。
同年齢ということもあって身近に感じられ、似た考え方だから次々と図書館で借りてくることになる。
特に還暦を八ヶ月後に控えていることもあり、「人生とは何だったのか?」という人生の総括が頭をよぎる。
その時、中島がストレートに著書の中で答えてくれる。 大体は本を借りてくると、
まずは目次と最後の10ページの中の要所を探す。 そして遇った、彼が真剣にいっている箇所が。
 ー抜粋してみるー
オリンピックで金メダルをとっても、どんなに災害撲滅を見出しても、せいぜい二番目に重要なことだと思います。
では、一番目に重要なことは何かというと「生きている」ことでしょう。 生きて死んでいくことでしょう。
 この絶対的な重みは、忘れてはならないと思います。有名人が死ぬと、その人が何をしたということばかりが
報じられますけれど、そのすべては、ハッキリいいまして幻想です。何故かというと、全体を見ていないからです。
100億年もすれば全部なくなるわけです。 そうすると、多分一回きりだと思いますけど、自分の人生を、見ないようにして、
仕事に逃れていくというのは、もったいないのではないかと思うのです。つまり、自分の持っている不適正、欠点を
しっかり見ていくことです。 私は理不尽に人生を与えられしまった、その中でよいことをしようということでなくて、
それをごまかさないで見よう、そういうことです。つまり、世間的には何も貢献しない、場合によってはマイナスのことを
してきたかもしれない。でも、その人の生きてきた重みは、立派な建設をしたとか、トンネルを掘ったり、という全てを
もっても代えられないものだ、と実感するんです。 私にとっては、生きる仕事以上の仕事はないわけですから、
どんなに世間的に立派な仕事でも、そんなに感動しないわけです。 働いて生きがいを感じ生き生きと生きる人生を、
私は批判しませんし、そういう人を批判しません。働くことが嫌でしようがない、あるいは働いても働いても報われない
ということを、ごまかさないで徹底的にみてみると、そこから新しい視点が出てくるのではないかと思います。
▼ 以上だが、これは私にとって考え直さなくてはならない見方・視点である。自分の中で、見ないふりをしていた自分の
欠点や、自分を鼓舞するために否定してきた考え方を含めて「もう一度人生観を見直してみる必要のある問いかけ」をしている。
身近な人の死を経験した時、まず実感するのは「人生は生きているうちが花!金持ちとか、肩書きとかいう社会的属性などは
二次的なもの!生きていることが、生きてきたことが、最も大事。この人は(亡くなった人)好きなことをどれだけしてきたのか?
その総量こそが人生である!人生は生きているうちである。そして最後はたった独りで死んでいくのだ! 人生などはかない。 
    (字数制限のためカット 2011年6月9日)
・・・・・・・・・・
2004年06月09日(水)
1163, JRー駅なか商店街
(字数の関係でカット2008年6月9日)
・・・・・・・・・
2003年06月09日(月)
796, 至高体験ー読書日記ー2
歓喜 ー>  理智 ー> 意志 ー> 気  ー>肉体」
至高体験歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、肉体に反応する。
(以下字数の関係でカット2008年6月9日)
・・・・・・
2002年06月09日(日)
432, スイス旅行
   スイス旅行日程 ー7月3日(水)?12日(金) 
(字数制限のためカット 2011年6月9日)
・・・・・・・・・・
2001年06月09日(土)
 [47] シンクロ二シテ-
これは普通では考えられない遇然の一致を言う。 意味ある遇然の一致と心理学で言うー特にユングが深く研究ー 

(字数制限のためカット 2012年6月9日)

つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=ImjzRBNww5c

 まあ、面白いように日々が早く経っていく。
プロ野球のセ・パ交流戦も終わろうとしている中、今度は
ワールドサッカーが開幕、そして7月になれば、大相撲と・・・

 

・・・・・・
1528, 生きて死んでいく重み
2005年06月09日(木)
最近、中島義道哲学書をよく読んでいる。
そして、この日記にも何度か取り上げてきた。
同年齢ということもあって身近に感じられ、
似た考え方だから次々と図書館で借りてくることになる。
特に還暦を八ヶ月後に控えていることもあり、「人生とは何だったのか?」
という人生の総括が頭をよぎる。その時、中島がストレートに著書の中で答えてくれる。
大体は本を借りてくると、まずは目次と最後の10ページの中の要所を探す。
そして遇った、彼が真剣にいっている箇所が。
ー抜粋してみるー
オリンピックで金メダルをとっても、どんなに災害撲滅を見出しても、せいぜい二番目に
重要なことだと思います。
では、一番目に重要なことは何かというと「生きている」ことでしょう。
生きて死んでいくことでしょう。この絶対的な重みは、忘れてはならないと思います。
有名人が死ぬと、その人が何をしたということばかりが報じられますけれど、
そのすべては、ハッキリいいまして幻想です。何故かというと,全体を見ていないからです。
100億年もすれば全部なくなるわけです。そうすると、多分一回きりだと思いますけど、
自分の人生を、見ないようにして、仕事に逃れていくというのは、
もったいないのではないかと思うのです。
つまり、自分の持っている不適正、欠点をしっかり見ていくことです。
私は理不尽に人生を与えられしまった、その中でよいことをしようということでなくて、
それをごまかさないで見よう、そういうことです。
つまり、世間的には何も貢献しない、場合によってはマイナスのことをしてきたかもしれない。
でも、その人の生きてきた重みは、立派な建設をしたとか、トンネルを掘ったり、という
すべてをもっても代えられないものだ、と実感するんです。
私にとっては、生きる仕事以上の仕事はないわけですから、どんなに世間的に立派な
仕事でも、そんなに感動しないわけです。
働いて生きがいを感じ生き生きと生きる人生を、私は批判しませんし、そういう人を批判しません。
働くことが嫌でしようがない、あるいは働いても働いても報われないということを、
ごまかさないで徹底的にみてみると、そこから新しい視点が出てくるのではないかと思います。
ーーー
以上だが、これは私にとって、根こそぎ考え直さなくてはならない見方・視点である。
自分の中で、観ないふりをしていた自分の欠点や、自分を鼓舞するために
否定してきた考え方を含めて、「もう一度人生観を見直してみる必要のある問いかけ」をしている。
身近な人の死を経験した時、まず実感するのは
「人生は生きているうちが花!金持ちとか、肩書きとかいう社会的属性などは二次的なもの!
生きていることが、生きてきたことが、最も大事。この人は(亡くなった人)好きなことを
どれだけしてきたのか? その総量こそが人生である!人生は生きているうちである。
そして最後はたった独りで死んでいくのだ!人生などはかない。
常に死を思え!そして生きていること、生きてきたことを味わえ!」である。

中途半端に生きてきた人や、他人の批判だけが特性の人を徹底的に嫌い、
傍によらないようにしてきた。しかし身近な人の死で実感することは
生きること、生きていることが人生の第一の仕事ということだ。
「長く生きればよいということではない!」ではない。
「生きて死んでいくことそのことが、人生である!」人の人生を勝手に判断すべきではない。
当たり前のことだが、それぞれの人生があるのだ。
誰もが光の中を生きてきたのである。そして、光の元に戻るのである。
社会的属性や、行蔵も二の次でしかないのである。
しかし、小学生や中学生が、こんなことを親から学んで老成していたら、
おかしいんじゃないか?気の小さい優等生哲学者の戯言でしかない?
それとも、哲学病者の戯言じゃないか?とも思うが、その疑問自体が彼に
哲学を誘導されていることになる。

今朝の新聞の週刊誌広告の見出しに亡くなった二子山と二人の息子の確執が出ていた。
彼が何をしたかというより、家庭の揉め事も含めて全てが生きてきたことである。
揉め事結構!部屋を繁栄させたことも結構!
それが生きてきたことであり、亡くなった時にその重みの一端が顕れただけである。
一人一人を見れば、誰もが人生の荷物を抱えている。そして、それを抱えてこの世から消えていく。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・

2004年06月09日(水)
1163, JR-駅なか商店街

最近JRの駅がドンドン変わっている。
JR関連に知人がいる為に、駅内SCの内情を聞いていた。
パテオやセゾンなどの構内専門店街をつくって、いま勢いのあるテナントを誘致する
デベロッパーに変身している。
JRになって、一番変わったところだろう。
身近な新潟駅長岡駅もこの十年で、全く様かわりをしてしまった。

駅前の「街」を、構内の「駅なか」に取り入れることによって、
根こそぎ顧客を奪ってしまうという発想である。
よいところに目をつけたものだ。
最近はビジネスホテルもつくり始めてきている。

見方によれば駅前商店街の最大の敵のはずだが、彼等はそれすら気がついてない。
まだまだ見ていると、幾らでもネタがある。
映画館・専門学校・カプセルホテル・専門病院、変わったところでは動物用ホテル、
託児所などある。
そういえば、私の学生時代に山手線の駅にステーション・デパートとかいう、
商売気のない専門店街があったが。

考えてみたら、自社でも駅構内の広告代で年300万も払っている。
バカバカしいが、といって駅からのお客が半分以上を占めているから、出さないわけには
いかない。駅前の25万のテナントの賃料と同じである。
最近、新幹線の席の前の網に2冊の通販のパンフレットを置いている。

来年から新潟駅の再開発が始まるが、そこで全く新しい街づくりが始まろうとしている。
オーバーにいえば、そこが新潟の一極集中の場になる可能性を秘めている。
新しい時代に対して、新しいコンセプトで、新しいテナントを組み合わせて、
国や、県、市の援助金をもらってやるのだから、上手くいって当然である。

といって国や県そのものが衰えれば、単なる空虚な空間になる。
最後の賭けになるかもしれない。

・・・・・・
2003年06月09日(月)
796, 至高体験ー読書日記ー2
歓喜 ー>  理智 ー> 意志 ー> 気  ー>肉体」
至高体験歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、
肉体に反応する。たとえると野球で9回の裏逆転のホームランを打った。
そして歓喜する、その体験が理智になる、さらなるよい選手・バッターになる意志を固める、
それが気(気合)に変わり、練習をして積み重ねるようになり一流選手なっていく。
 他には薬草や苔類を使う場合と、アルコールを使う場合や、禅などの修業で到達する
場合などがある。教祖様やシャーマンは、この歓喜体験を通して自己より解脱をして理智を得る。
好きなことを見つけ一生かけて続けるプロセスで、この歓喜体験をするケースが多くある。
女性の千人切りも好きな人には、歓喜体験ー至高体験を多くする事になるのだろう。
 音楽会の会場が歓喜に包まれ、アンコールの嵐をTVなどで見かけるが、至高体験をしている。
この瞬間を味あう以前と以後位に感動するのだろう。
そういえば初めてロッキーに行った時も、旅行に行く以前と以後位に感動をした。
ー昨日とは別のホームページよりコピーしてみた。
 ・・・・・    
■覚醒・至高体験とは(1)

◆事例集に入れる基準は?  
臨死体験・気功・瞑想」の中心になるのは、やはり「覚醒・至高体験の事例 集」です。
さまざまな文献や投稿のなかからこの事例集に入れるにふさわしいと思われるものを
Noboru(このサイトの作成者)が選んで載せています。
そのおおよその基準をまずここで明らかにします。
ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。
この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、
それぞれの意味を考えます。
自己実現した人間  
覚醒と至高体験という二つの言葉は、はっきり区別できるものとして私自身は使用しています。
この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っています。  
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的 傾向を
持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の
状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。  
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が
「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについ てまわります。
そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循 環的方法を採用しました。  
循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味
するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の 上でも矛盾するところが
あればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」
のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。  
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。
このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。
このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的な のに
しながら研究を深めていくのです。  
こうしてマズローは、たとえばアインシュタインシュバイツァーマルティン・ブ ーバー、
鈴木大拙ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる
人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、
自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な 人々の日常的な
それとはっきりとした違いを示しているということでした。    
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 は
B認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、
実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。

至高体験  
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、
ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでも
いうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。
至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 の
ことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。
あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで
体験されるかも知れません。  
ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも
深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある
といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、
マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに
気 がついたというのです。  
ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、
その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、
あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は
誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。
つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。
私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。  
こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、
多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより
一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。  
以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。
至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。

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2002年06月09日(日)
432, スイス旅行
スイス旅行日程ー  7月3日(水)~12日(金)   新日本トラベル
http://www2.plala.or.jp/dontak/Swiss-AlCont.htm
http://www2.plala.or.jp/dontak/map01.html
1日目、 日本航空チューリッヒへ。          
 -チューリッヒ
2日目、 リヒテンシュタインの首都ファドーツ散策と
アルプスの少女ハイジ」の舞台マイエンフェルトで
ミニハイキングを楽しんだ後、サンモリッツへ。
   夕食は郷土料理ビュントナー・ゲルステンズッペ。-サンモリッツ
http://www2.plala.or.jp/dontak/heidi-01.htm
3日目、 神秘的な白い湖を眺める”もうひとつの氷河特急”ベルニナ特急
とディアボレッツァ登頂観光の旅。夕食はマス料理。
   http://www2.plala.or.jp/dontak/glacier1.html -サンモリッツ
4日目、スイスの観光列車の中でも最も人気のある氷河特急
ツェルマットへ。夕食はチーズ料理ラクレット。     -ツェルマット泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/mthr01.htm
5日目、登山電車でゴルナグラードへ登り”
ピラミッド”の愛称をもつマッターホルン(希望者は高原ハイキ
ング)。下山後モンブラン山麓シャモニーへ。
   http://www2.plala.or.jp/dontak/dan04.htm    -シャモニー
6日目、 ロープウェーでエギーユ・デュ・ミディへ上がりモンブラン観光。
   昼食はサヴォア料理。
午後、美しいシヨン城を観光しながらモントルーへ。
   夕食はレマン湖産の魚料理とヴォー州産ワイン。  -モントルー

7日目、 風景の美しさで有名なパノラマ特急と”山峡の宝石”
   と謳われてエッシネン湖観光を満喫後グリンデルワルドへ。
   夕食はミートフォンデュ。         -グリンデルワルド泊
8日目、 登山電車で名峰ユウグフランヨッホ登頂観光
(希望者はアルプス高原ハイキング)。
   下山後、中世都市ルッツェルン小観光。
  夕食はゲシュネッツェルテス。         ールッツェルン泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/Jungfr01.htm
9日目、チューリッヒへ。
   チューリッヒ日本航空で帰国の途へ。  -機内泊
10日目 成田到着

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2001年06月09日(土)
[47] シンクロ二シテ-

これは普通では考えられない、遇然の一致を言う。
‐意味ある遇然の一致と心理学で言う‐特にユングが深く研究ー
私の場合非常に多い。人間個人を考えれば、今生きている事こそ
奇跡‐遇然の一致の積み重ねである。
・ある自死をした元の部下の所に行ったとき起きた、不思議な遇然の一致の重なり
・柏崎の義父の葬式の帰り、そち峠で7回の‘虹の下’を通りすぎた考えられない出来事!
・従兄弟が自死をした時の納棺のおり、突風が吹き桜吹雪が舞い散った光景!
・大学を卒業して1年ぶりに池袋の本屋に行ったとき、たまたま学生時代の親友だった
  男が目の前を歩いていた。
・家内の実家で展示会があり、いっしゅのお祭りで地元の道具やが出店を出していた。 
 そこの象 牙の仏像が気になり、帰ってから電話でそれを買いもとめた。
 4~5日経ってから送られてきて、底をみたら
 家内と同じ銘で恵子と彫ってあったこと。‐その時全身鳥肌が立った! 等々書けばきりがない。
 遠藤周作などは、イギリスにある作家に興味があり、その地を訪ねた折ホテルのエレベーターで
ぶつかった相手がその作家だったと言う。葬式とか、自分が行きずっまって
ヒステリック状態の時とか、気持ちが異常に近いときに考えてみるとおき易い。