人生を振返り、『楽しく、面白い人生だった!』と断言できることは、
有難いことが、そう思えば、そう思えてくるのが人生。考え方次第である。
森の生活(現役)から、サバンナの生活(隠居)に移行してからは、
日々を、いかに面白く楽しく過ごすかが目標になっている。51歳の年
から、人生観を切替え、10年以上を前倒しにし、捨身で「面白、可笑しく」
をテーマに生きることにしたが、その面白かったこと、この上なかった。
 それもあってか、「楽しむ」の格言は、どれもこれも納得できる。
秘境:異郷ツアーは、ごく短期間に圧縮された人生を垣間見ることができた。
≪・そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、
  こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮らし、
 一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ。
       〜ドストエフスキーロシアの小説家、思想家/1821〜1881)
・わたしにとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、
  自分と他人の欠点を受け入れられるようになったことです。
       〜オードリー・ヘップバーン(英国の女優 / 1929〜1993)
・良いものでも、悪いものでも、人生での経験には感謝しましょう。
       〜スーザン・サマーズ(米国の女優、作家/1946〜)
・年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ。
  〜バーナード・ショーアイルランド劇作家、ノーベル受賞/1856〜1950)
・人生は楽ではない。そこが面白い。
   〜武者小路実篤(日本の小説家、詩人、劇作家、画家/1885〜1976)
・各人はその考え次第で幸福にもなり、不幸にもなる。
  他人が見てそう思う人ではなく、自分でそう思う人が幸福なのである。
     〜モンテーニュ(フランスの哲学者、モラリスト /1533〜1592)
・世間を知り、世間に寛大であれ。世間を楽しむためには、
  世間をかすめて生きるべきだ。〜ヴォルテール(フランスの哲学者、
                 作家、文学者、歴史家 / 1694〜1778)
・晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、
  楽しみなきところに楽しむ。 〜吉川英治(日本の小説家/1892〜1962)
・僕は生きてることが幸せさ。僕が僕らしくいられることが幸せなんだ。
 (I’m happy to be alive, I’m happy to be who I am.)
  〜マイケル・ジャクソン(米国のシンガーソングライター/1958〜2009)
・神より賦与されたる人生は短きも、楽しく送りし人生の記憶は永遠なり。
 (The life given us, by nature is short; but the memory of a well
   -spent life is eternal.)
  〜キケロ共和政ローマの政治家、哲学者 / 紀元前106〜紀元前43)≫
▼ 【人生は楽ではない。そこが面白い!〜武者小路】がよい。
 「幸福の4階建」の全てのフロアーを味わい、それを楽しむのが人生!
<  4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
  3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
 2階:獲得した「快」を永続させる。
1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。>
「人生は楽ではないそこが面白い」の「人生」を、「生老病死」に、いや
「死」に置換えてみるとよい。現点の私は「老いは楽でない。そこが面白い」。
成るほど納得できる。老いを面白がって楽しめば「豊穣の老い」になる。
「幸福の4階建」には屋上がある。屋上の外には広大な世界がある。
「そこには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の
栄光があふれている」ことに気づくことだ。その為には、とにかく屋上に
出てみること! 生涯現役も悪くはないが、違う楽しみが世界に満ちている。
 で、昨日と同様、以下に続く! たっく、楽しみ方が、まだ中途半端だ。
そうこう考えると、無知は致命的な欠損である。但し、全ての人だが!
・・・・・・
5006,人は死ぬとき何を後悔するのか? 〜2
2014年11月28日(金)
       『人は死ぬとき何を後悔するのか 』小野寺 時夫(著)
   * 死を忘れた日本人
 41年前に、一年間、同居していた父親の死際を目の当りにした。
その時の生への渇望は、砂漠の真中に一人取り残された彷徨い人のようだった。
その時から現在まで、多くの死に関する書物を読んできたが、
一般的に人は死に関し目を背けているようだ。ーその辺りからー
≪☆ ホスピスにくる患者に接すると、自分が死ぬということをあまり考えた
ことのない人や、どうしても死を認められない人が増えている。若い人は当然
だが、中高年の人にも多く、特に金や権力のある人にこの傾向が強い印象がある。
自分は平均年齢までは生きられると考えている人が多いが、その一方で、平均
年齢に達しないで亡くなる人も多い。
☆ 日本は「寝たきり老人」が世界一多く、脳卒中の後遺症、認知症などで
 自分で食べられなくなったため、胃瘻(腹壁から胃に管を通し食べ物や薬を
流し込む処置)で生かされている人が5万人以上もいる。北欧の老人施設を
見学して驚くのは、寝たきりや胃瘻で生きている人がいないこと。これは日本
の介護と欧米の介護の考え方の違いで、欧米はどんなに手がかかっても、最期
まで自力で歩かせ、自力で食べるよう仕向け、それができなくなったら、あまり
手をかけない。意識がなく回復の可能性のない人に胃瘻で生かす考えはない。
☆ がん患者の在宅死の率は、米国では8割、欧州で5〜6割、しかし日本では
 1割弱。病院は死を迎えるには適切ではない場合が多く、住み慣れた自宅で、
家族や孫の声を聞きながら死んでいくのが求められる。
☆ がんで助からないと分かると、ほとんどが「こういう病気で今死ぬとは
思わなかった」と述べる。実際には、人は常に死にまとわりつかれ生きている。
人が死に向き合う時は、それまで身につけていた社会的衣のすべてが剥がれ、
むき出しの個人になる。繰り返すが、死に直面すると金、権力、名誉など
社会的衣は役立たない。「人は生きてきたようにしか、死ねない」死に直面
しても、その性格の本質が変わることはなく、自立心の強い人は死ぬときも
動揺が少なく、世の潮流に流されながら、他人や社会への依存心の強い人は
死に向かうときに不安や動揺が顕著になる。確かな死生観を持って、誠実に
努力して生きてきた人は、死に様も立派な人が多い。死ぬということは自然
現象で、死には金も権力も全く無力である。
☆「金で命は引き延ばせるか」金さえあれば世の中できないことはないと
 思っている人がいるが、そういう人が死に直面すると、金ではどうにも
ならないことに憤慨して不穏な気持ちになる。特に多いのは免疫療法に対する
"思い込み"である。特別高価な免疫療法が効かないわけはないと誤解して
いる人が多い。民間の代替医療も高いほど 効くと誤解している人が多い。≫
▼ 一部の望みは妄想でしかない。その妄想で、最期は悲惨な死をむかえる
 ケースが多い。元気なうちに、ノートかパソコンに、書き残しておくべき。
死の現場は悲惨である。
・・・・・・
4639, デフレの真実 ー金持ちの本音 ―�
2013年11月28日(木)
         ー庶民は知らないデフレの真実 ー森永 卓郎 (著)
   * 東日本大震災後の第三次震災恐慌が狙い目
 貧乏人が金持ちになるには震災が狙い目?それが数年後の恐慌、経済大変動
というが、御隠居の身で鳥瞰するには良いが、知れば知るほど末恐ろしい。
震災恐慌では大部分が被災者になり、弱者になる。金持ちは、海外に資産を
移動して最小の打撃で済むか、焼け太りになる。しかし、貧乏人にもチャンス
があるはず!と。  まずは、ーその辺りからー
《 関東大震災後に世界恐慌の煽りで、第一次震災恐慌が起こった。
 そして1995年1月に起こった阪神・淡路大震災から2年後の1997年、橋本内閣は
�消費税を3%から5%に引き上げ、�特別減税を廃止、�会社員の医療費本人負担
を2割から3割に引上げ、都合9兆円もの国民負担を断行し、その後14年続く
デフレの原因を作ってしまった。
 恐慌ほどでないにしても、先進国でデフレに陥ったのは日本だけ。
これを第二次震災恐慌という。そして、この情勢から早ければ2014年、
遅くとも2015年に、第3次震災恐慌が日本を襲うだろう、消費税率は2014年4月
に8%、遅くとも2015年に10%に引き上げられる。一方で2014年には徐々に
復興需要のカンフル魂剤が切れる―過去の例を振り返っても震炎恐慌が起こる
確率はかなり高いのだ。 どれだけ資産価格が下がるかを正確に予測すること
ほできない。しかし、第3次震災恐慌は、少なくとも1997年以降に起った
のと同じくらいのインパクトを持っだろう。1997年から2010年までの13年間で、
全国の市街地価格指数に49ポイント下落し、日経平均株価は45ポイント下落
している。だから、資産価格の半額セールが始まると見てよいだう。・・・》
▼「日本の二つの大震災の数年後、恐慌か、それに比類する経済大震災が
 起こった。だから、今回も起こるのでは?それも、来年か、再来年に?」
という筆者の論も、ある面、納得できる。アベノミクスの政策をみれば経済震災
は至極当然。その時どう対処するか? その混乱を中国が虎視眈々と領土を
狙っている上に、米国がTPPを隠れ蓑にした郵貯を狙っている。
「刺激的なことを書いているが、恐慌など起こってないじゃないか!」は、
「日本のバブル崩壊後の20年間で、何も起こってないじゃないか!」と似ている。
二つの大震災、20以上あった都銀が3つになり、20年のデフレが続き、経済は疲弊。
 世界ブランドの、パナソニックソニー、日立、カシオは地に落ち、ダイエー
西武グループが消滅。それと同じか、より激しい経済変動が静かに起こっている。
かくいう私も、大波に飲み込まれてしまった。 偶然だが、以下に金融面で
コンサルティングをして貰っていた林さんの著書の感想文があった。
この春で、円滑法が打ち切りになったが、表立った倒産の急増の話はない。
どうして? と思うが、消費税の増税で金融を緩めているため。地元の知人の話
を聞くと、景気悪化は止まっていない現実がある。株価が上がっているのは、
金融緩和の資金が実需でなく株式に回っているため。これも金持優遇である。
中国との領土問題など戦争の匂いもしてきた。被害者は弱者の大衆になる。
・・・・・・
4274, 「金融円滑法の打ち切りの是非」を 世に問う
2012年11月28日(水)
  「中小企業金融政策の理念」林憲昭著
* 初めてのアマゾンのレビューへの書き込み
 以前、金融に関してコンサルティングをしてもらっていた林さんが、
新著を出された。何冊目になるだろうか。そこで一度、アマゾンのレビューを
書いてみたいと思っていたので、投稿してみた。赤裸々な事態を曝してよい
ものか、どうか考えたが、実名を出すわけでなく、今さらと思い投稿した。  
 ーまずは、その内容からー
≪ 昨年の3・11直後、事業を断念して1年8ヶ月経ち、少し気持ちが落ち
 着いた矢先、以前、読んだことのある著者の、この本を見つけました。
9・11以来、売り上げが三分の二になり、血の滲む思いでリストラを断行し、
何とか目安がついた矢先にリーマンショックで、さらに半分、合計で三分一
まで激減。それでも金融円滑法と、雇用調整給付金で、何とか持ちこたえていた。
しかし、あと半年〜1年で資金が底をつくのが目に見えてきた矢先に東北震災が
発生。その直後に前倒しで会社を整理した。それでも複雑な思いがあります。 
大きな肩の荷が下りて本当に良かった、という思いと、重大な経営ミスをした
わけでなく震災ともいえる経済津波で長年培ってきた事業が消滅した無念さが
あります。大不況の中、大多数の中小企業は血の滲む思いで踏ん張っていますが、
来年三月で金融円滑法の打ち切りになります。著者が現場の窮状を目の当りにし、
可能な限り弱い立場に置かれた中小企業を、この非常事態に擁護すべき、
という熱い思いが、伝わってきます。来春このまま金融円滑法が打ち切られた
場合、数千、数万の中小が大きな岐路に立たされることは、私の経験からしても
間違いありません。しかしグローバル化の時代、3年も猶予を与えられたので
打ち切りも致しかたがない、のも道理です。悪いことに再来年には消費税の増税
が控えています。ここで1〜2年、更に引伸ばしても同じでは? というのも、
既に事業から退いたから言えること。私の事業フィールドが地方だったことも
ありますが、地域経済の冷え込みは、想像を絶しています。
著者の指摘で中小企業の金融政策関係者に大きく取り上げられ中小企業の助け
になることを望みます。私が、3・11以降、あのまま事業を続けていたらと思う
と背筋が寒くなります。経済的大津波は、外海から内海に向けて押し寄せて来て
いるのが、私には見えています。私は償却前赤字を事業断念の目安にしました。 
情報化と、グローバル化による生産の国内から海外へのシフトによる空洞化と、
物価と資産デフレの中小企業への直撃が、この異常事態を引き起こしています。
それを割り切り諦めるか、最後の最後まで踏み止まるか、難しい問題です。
小泉改革は、あまりに大手銀行よりで、私の経験からしても酷いものでした。
その方向に、自民党が政権をとった時に戻るとしたら、恐ろしい結果が待って
いるはずです。その中で、丁度良いタイミングで世に問うている素晴らしい
中小企業擁護論です。多くに金融関係者に是非とも読まれることを勧めます。≫
▼ 昨夜、TVで「来春の『金融円滑法の打ち切り』後は、弾力的に対応する」
 というコメントが流されていた。この著書が大きく影響したのか、タイミング
的に同じだったのか? 世情の厳しさは、止まることはない。
 ・・・・・・
3899, 国債クラッシュ
2011年11月28日(月)
   「国債クラッシュ―震災ショックで迫り来る財政破綻」須田慎一郎(著)
 ◎ 国債金利2%で発生 ?
図書館で何気なく手にした本だが、来年暮れの具体的な国債暴落の
シュミレーションが生々しい。この本の出版日が今年の6月末。それからし
4〜5月に書かれたもの。半年間の流れは、この本のシュミレーションより
危機の度合いは激しい。ギリシャ危機で世界恐慌一歩手前まで行ってしまい、
イタリアがIMFの実質管理入りし、そしてスペインとハンガリーが危険水域
まできた。さらに一番安全とみられていたドイツ国債が三分の一も売れ残って
しまった。 日米より遥かに健全?と思われているドイツ国債の売れ残りには
世界中が唖然とした。それならば日本は?の連想になる。
この本のシュミレーションは一年後の11月から12月の想定。この本を読み
始めた直後に、ある人からメールが入り、石角完爾『ファイナル・クラッシュ』
朝日新聞出版)が、シビアに現在の日本の危機が書いてあると教えてくれた。
また昨日の関西系TVの政治経済を話題にしたバラエティーでも、この本を
取り上げていた。アマゾンの書評を読んで、こちらの方がよりシビアと早速、
購入した。 ー「国債クラッシュ」のアマゾンの内容紹介からー
 2012年12月、ついに「その日」がやって来る。大震災が「財政破綻」の引き金
をひく戦慄のシナリオを詳細シミュレーションで検証。3.11大震災以降、
日本の抱える「財政破綻」という"時限爆弾"のタイマーは、確実に時を刻む
スピードを上げている。国債の大暴落が円・株・債券の全面安という、空前の
「日本売り」を引き起こす戦慄のシナリオを詳細シミュレーションで徹底検証。
  〜印象的な部分を、書き出してみると・・
*「具体的には長期金利2%が、実質的な[国債クラッシュ]の目安。
 その数値に達成した場合、為替では、現在の様相がウソのように円安にぶれて
 いき、それによる価値の目減り分を嫌った資産の海外逃避が、いっせいに進み、
 円安の底なし沼にはまる」
*「マーケットには現実を正確に把握する力も、結果を見通す眼力もない。
 マーケットには不安に駆られやすく臆病で、かつ利己的な心理があり、
 それに従った場当たり的な判断があるだけ」
*「国は国民から税金を取れないがために、国債を発行して『借りる』という
 形で茶を濁してきた。国民は税金さえ取られなければ、国の借金体質には
 寛容だった。・・・そして危機が訪れるや、企業や個人は自己防衛のため、
 いっせいに日本売りに乗る・・・」
*「日本国債アメリカ国債は、よく見ると連動している。アメリカの金利
 が上がり出すと、それにつれて国債金利も上がる。と同時に、連動して
 日本の国債と銀行金利も上がるとすると、2%など直ぐにでも上がっても
 不思議でない。」
▼ 何か不気味な風が日本を覆い始めている。それも来年の今頃の
 シュミレーションが具体的な物語風に書かれているのをみると、不気味と
いうより、恐怖を感じる。それも半年前に書かれた時は、ドイツの国債
三分の一も売れ残るなど著者も思いもよらぬこと。
 ・・・・・・
3534, エコポイントの駆込み購入の愚!
2010年11月28日(日)
  * エコポイントは目先延命の劇薬、それが切れる来年は? 
 少し考えれば分ることだが「エコポイントの駆け込み購入」で、このところ
家電チェーンが賑わっている。しかし、この騒ぎが終われば値崩れが起きて、
このポイント以上に値下がりをするのは火を見るより明らか。元もと
エコポイント制度そのものが、恐慌に対する延命のカンフル剤で、目先の苦痛
を避けるためのもの。しかし来年の前半には、この前倒しの反動が大きくなる。
薄型TVは典型的な相場商品、大きく値崩れをするのは火を見るより明らか。
そういう批判がないのは、マスコミがメーカーから広告を貰っているため。
地デジ化は来年7月、その間に大きく値下がりは当然のこと。その上に世界的
恐慌の火の手が更に大きくなる。 
 他人事ではない、当方は460台のTVの買い替えがある。来年7月の瀬戸際
ほど安くなる、と仮説を立てたところ、このことに気づいたのである。エコ
ポイントは、間接的には住宅、家電、自動車メーカーに対する間接的援助では
ないか。そのピエロが、それで買いに走っている大衆。決して穿った見方でない。
誰も気づかないだけで、これはこれで良い。それを声高にいうこともない。
国家にとって目先の失業と倒産を避けなければならない。しかし来年は、
この反動で、日本経済は大きく落ち込むことになる。「来年、怖い!」が、
キーワードか。デフレ・スパイラルが更に大きくなる。総中流が、総下流社会
に墜ちていく。しかし、総下流が大部分なら、それが普通になり、総中流では。 
ブラックジョークになるが、それが社会主義の理想とするところ。格差のない
清貧の社会。(以上、字数制限のためカット 2011年11月28日)
・・・
3159,金を通して世界を読む  −2
2009年11月28日(土)
 「金を通して世界を読む 」 豊島 逸夫 (著)
住宅価格下落を予測して、下げで大もうけをしたジョン・ポールソンが近く金
《ゴールド》を中心としたファンドを始めるという。彼が3〜5年スパンで金に
「兆」単位を投資するというから、2〜3倍以上の高騰を予測しているはず。
銀も一年前から高騰を始め、年に90パー以上も値上がりをしているから、
金はまだ40パーセントだから、50パーの値上がりと考えることができる。 
そうはいかないのが相場の世界である。まあ、どうなることやら。
   ーこの本の中で、含蓄の深い部分を抜粋してみるー 
≪ 日本で最も金が売れる地域といえば、京都である。店舗の面積坪当たり最大
 の金小売店も京都にある。京都には宗教法人が多く、資産も蓄積されている。 
長年歴史の波にさらされてきたからこそ、スイス流の「最後に頼りになるのは金」
という考えも強いようだ。ある金ディーラーが縁あって某名刹の住職と面談した
ときのこと。住職曰く「金は先の大戦でもそのまま残り、資産として破損する
ことはありませんでしたな」。ディーラー氏答えて「はあ、第二次大戦でも
京都は空襲を免れましたしね」。 住職「なにをおっしゃる。私の申している
のは応仁の乱のことです」。各県別に見ても、金が売れる地域というのは
必ずしも県庁所在地とは限らない。 現代の経済行政の中心地より、城下町で
あった都市のほうが資産のストックは多いようだ。 郡山より会津山形市
より米沢、青森市より津軽、というようなあんばいである。  
(以上、字数制限のためカット 2011年11月28日)

つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 
   今日のYoutube

 昨日のシネマは、『007』シリーズをみたきた。 評)は85点。
年齢とともに、刺激の強いスリルとサスペンスは、疲れる。
主役だけは大丈夫という思いがあるので、何とか見終ることができる。

 


・・・・・・
2794.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・3
2008年11月28日(金)

【第二の法則】
・なんでも鵜呑みにするな!人間は鵜ではない。
「世間において 常織とみなされていることに対して、疑問を呈する
勇気を忘れてはならない。健全な猜疑心こそ、ものごとの裏に潜む
本質を見極める近道である 」       ロバート・ルービン
・「誰もが同じように考えているときは、一人として真剣には考えて
いないものである」  ウォルター・リップマン
・「貴殿の理論が狂っている、つまり突飛であるかという点では、
我々の意見は一致している。だが、正解になる可能性があるほ
ど狂っているかについては、意見がわかれている。私の直感では、
まだ十分に狂っているようには思えないのだが」ニールス・ボーア
・「二つの文化のうち、それぞれの半分だけ足しても、
一つの文化は 生まれてこない」    アーサー・ケストラー
・「半分の真実といえば聞こえはいいが、本当は真っ赤なウソである」     
                    ユダヤの掟
・「権力とは 究極の媚華である」 ヘンリー・キ・ソシンジャー
・「違うよ。そうじゃないんだ。君は、思考していない。
ただ、論理に支配されているだけなんだ」 ニールス・ボーア

「嘘には三つの種類がある。ウソ、真っ赤なウソ、そして統計である」 
                 ベンジャミン・ディズレイリ
  ーーーーー
 何事も、自分の頭で一度は精査することが必要である。
それが、考えることになるのだ。考えない方が良い人が多いが。
・・・・・・・・
2007年11月28日(水)
2429, 20世紀を生き、21世紀を覗き見て

大よそ半世紀少しを20世紀に生き、世界の色いろな変化を見てきたが、
明治・大正生まれの人は、その感慨は更に深いだろう。
この20数年間、憑かれたように秘境ツアーで地球の果て?を見てきて、
自分の庭とは言わないが、デズィニーランドのように世界の文明と
自然を見ることができたのが最大の収穫である。

21世紀になって、携帯電話やパソコンによる情報革命の大きな変動を見る
につけ、何と恵まれためぐり合わせが良かったと、信じられない思いである。
情報化が良いか悪いかは二の次に置いて、これだけの知識・情報が世界を
駆け巡る事態はSFの世界に迷い出た思いである。20世紀と対比できる
から言えるのだろうが。恐らく、数百年、いや数千年の経験を60年余り
の時間の中で味わったのである。その不思議である。 
21世紀は、やはり違う世界である。それも想像を遥かに超えた。

その結果だろうか?、この数年から哲学が面白くなってきたのである。
この地球の大自然の由来は、宇宙の果ては、130数億年前のビッグバンは
何故おきたのか、それ以前は何があったのか、人間の6千年の文明史は
どのようになっているのか、等々、疑問が噴出してからである。

地球を見てまわり、少なからず人生経験を積み、人類の遺産の文化や
文明を見てきた。そして、知れば知るほど、知らないことの多さと
不思議の多さに呆然とする。それらを考えること(哲学をすること)
で、少しずつ理解できると哲学者は言う。
「死んでしまえば、それが何だった」としてもである。
少し地球に存在し、少し認識したということか? 
それが存在の不思議を問う存在論になり、認識の意味を問う認識論になる。
我われは地球に、遊びに、働きに、そして学びに来ているのである。
「よく遊び、学び、学べ」とは、よく言ったものである。
                 (((。・-・)从ホンジャ
・・・・・・・・・
2006年11月28日(火)
2065, あたりまえなことばかり -16
  b(^o^)d おっ W(^O^)W  はよー! ー♪

この女哲学者よりも、私のほうが「心の中で生きているとは、
どういう意味か」という内容に関しては、深い経験をしているように
思えたが、どうであろうか? 両親が亡くなったときに、あくまで夢?
であるが、色いろな体験をしているからだ。父の場合、父の方の心理
そのものになったり、母親も最近まで夢の中に出てきたからだ。

{全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で
存在そのものではなかろうか。記憶は、「心の中」に存在するのではない。
記憶こそが存在する現在である。逆に、我われが現在生きるとは
、存在の記憶を生きることである。}

「記憶をなくした男」の映画を観たことがあるが、まさに上記の
とおりである。「自分が何者かわからない」ほど、恐ろしいものはないと、
寒気がしたのを憶えている。ただ虚無が自分を取り囲んでいるだけだろう。
本人がどうしてよいか解らない心理が、その映画で出いていた。
「過去を消したい」と思うのは、都合の悪い過去を消したいだけである。
「いま、ここ」は、全過去があるからこそ、垂直に立ち上がる。

ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー?
ーーーーーーーーーーーー

*心の中で生きているとは、どういう意味なのか? 肉体として
存在しないけれど、記憶として存在する他者は、その限り「存在する」。
この存在の意味を考えてみよう。
死んだ人が心の中で生きている、しかし、先に我われは、死んだ人は
あの世にいると納得したのではなかったか。心の中にいながら、あの世に
いるその人は、すると、どこにいることになるのか。
彼は「今」どこにいるというのか。生きていたのは誰なのか。という、
かなりの程度奇妙な問いが、押えがたく立ち上がってくるのが、
ここである。更には、「生きている」ということすら、
肉体の所有と消滅で理解できるような自明な何かなのか。

 肉体として消滅してなお、死者は生者の記憶として存在する。
死者の記憶を心に抱いて、生者もまた死者になる。
それなら、その人が存在したということはなかったことになるだろうか。
そんなことはあり得ない。存在したことは、存在する。すなわち過去は
現在である。全過去はこの現在に存在しているということだ。

 全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で、
存在そのものではなかろうか。記憶は、「心の中」存在するのではない。 
記憶こそが存在する現在である。逆に、我われが現在生きるとは、
存在の記憶を生きることである。

 死者の記憶が存在の一風景なら、現在に自身を生きていると思って
いる生者にとってそうだろう。自身の生の記憶を抱いて、生者も死者になる。
このように自覚する時、生きているか、死んでいるかは、もはや存在の記憶
として明滅する我われの、仮の衣装にすぎなくなる。
さらには、生者の記憶にその姿で存在している死者も、別の衣装をきて
何処にか存在するだろう。存在しないということはないからである。
ここで時系列の逆の側、すなわち未来の意味が現れる。
したがって、未来もまた存在の記憶と言えよう。

 生きてきたのは誰なのか。裏返し、生きているのは誰なのか。
にもかかわらず、明らかに、他の誰かでない彼であるところのその人は、
存在した。ある時そこに生きていた。言葉の正確な意味で「唯一無二の」
その人を喪って、喪った人はその人の死を悲しむ。やがては、時間が心を
癒すだろう。 彼の存在を、無限的存在のひとつの風景として見ることが
できるようになった時、「一期一会」、この奇跡的出来事への感謝の
感情が、地上にあることの悲しみの感情に、代われるのではないか。
--
 現在、こうしてあること、そして考えている自分を、あらためて
振り返ると、本当の不思議そのものである。大いなる孤独が、
宇宙に浮いているという感覚になる。  └(=^O^=) バイバイ!
・・・・・・・・・
2005年11月28日(月)
1700, 人生の価値についてー2  (*´o)*ゞふぁぁ

このHPの維持も、「退屈と不安の解消が目的か?」と、
問われれば、「目的ではないが、手段である」が答えになる。
退屈に対して、これだけ赤裸々に抉っているのも珍しい。
「小人閑居して不善をなす」というが、閑居に対する姿勢が小人か
どうかを決めるのだろう。閑居は何か悪いように錯覚するが、逆に最も
大事なことである。アラブの遊牧民は、閑居を第三の時間ー瞑想( ̄^ ̄)
(仕事と遊びと、そして休みの時間)として、一番大事にしている。   
第104節の「人生の退屈そして不安 」でさらに、生きるとは何かを
さらに掘り下げている。 何ヶ所か抜粋してみる。
                       φ(・_・)
ドストエフスキーはシベリアの徒刑地で、懲役の労働が囚人達に
苛酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。
つらさという点では農民の方がよほど苛酷なはずだ。
しかし、農民には自分のために働いているという目的がある。
だが懲役の労働には目的も意味もない。それが刑罰の刑罰たるゆえん。
ー彼は囚人達が「意味の無い労働」でない、例えば家を建てる仕事を
与えられると、にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。
強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、
刑期が短くなるわけでもない。それでも囚人達は少しでも具合よく、
良い家を仕上げようと一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、
人間の生きる目的ということの秘密が宿っているのではないだろうか。」 
この節で、人間の日々の行動に何らかの目的があることの重要性が
説かれている。
    ∥┓  ((  
  (_)   匚P 
   ━┻    
ドストエフスキーは次のようにいう。
「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、れをまた逆に
始めの手桶にあけたり、砂を搗いたり、あるいはまた、土の山を
一つの場所から他の場所へ移し、それをまた元へ戻すというような
ことをさせたら・・ 囚人はきっと四、五日も経ったら首を吊るか、
でなければむしろ死んでそんな侮辱や苦痛から逃れようと思って
どんな罪でも犯すだろうと思う」     ヽ(゜Д゜;)ノ!!  
ーわれわれの暮らしや仕事もまた、つきつめて考えると
「一つの手桶の水を他の手桶にあける」作業の繰り返しのような
ものだと自嘲せずにいられぬ一面をも具えている。しかしそれを刑罰
とも感じないし、苦痛とも感じないのは、我々が鈍感だからということ
もあるが、毎日の活動の中に、なにか物を作る行為にも似た行為によって
自分で自分を生かす目的なり意味なりをいつの間にか黙って自ずと
見出して、その日その日の自分を無言のうちに支えているからだ
ともいえるであろう。」
以上からみて 人間が生きるということは、
・死を直視するのを避けられる生活で
・「時間を短く過ごす」事の出来るような行動を求めて    
・その中に意味や価値を見いだせる行動と思い込んでいるに過ぎない
ということになるが、人生をかけたライフワークの裏面は、
        そんなところかもしれない。
                        (^┰^;)ゞ
・・・・・・・
2004年11月28日(日)
1335, 「おカネの発想法」 ー読書日記-2
 ー前回に続いて、印象的なところを抜粋してみるー

 ーおカネが本物かニセモノかという点は、実は本質論ではないのです。
そのおカネが受け取ってもらえるのか、それとももらえないのか、
というところに、おカネであるか否かを峻別する本質があるという
その性質がおカネにとって最も重要な「一般受容性」なのです。
おカネが増えるとしたら、それはそのおカネを使ってビジネスをする人が
いるから増えるのです

 ー株式会社の株式を所有していると、万が一倒産したときに投資がパーに
なってしまうということを「リスク」と呼んでいるのであれば、
株式会社に勤めることはもっと大きな「リスク」である。
 おカネの発想法に基づく株式投資
・どの株式会社がうまくいくかわからないから、
 いろいろな株式会社に分散投資することによって、
 全部が全部ダメになるということのないようにしよう
・二〇銘柄に分散→「転職してみたい会社の株式」がお勧め
株式投資における究極の目的は、おカネを儲けることではないのです。
株式投資の究極の目的は、人を動かすパワーを手に入れるということ。

ーおカネというツールに頼らないコミュニケーション能力を持っている人は
おカネが要らないということなのです。おカネがなくとも、他人を動かせる人
には、おカネは不要なのです。おカネに頼らなくとも、自分の好きなモノが
手に入る人には、おカネは要らない。めざすべき究極の姿は、
「自分自身がおカネになる」ということ。

コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、信用というモノは
カネと同じなのです。そういうおカネをどういうふうに獲得していくのかが
極めて重要なのです。おカネは、インフレで価値が減ってしまいますが、
コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、信用というモノは、
インフレによって影響を受けません。逆に、そういうときこそ、真価が発揮
されるに違いありません。『金持ち父さん貧乏父さん』の教えには反して
しまいますが、まずは仕事をしておカネを稼ぎながら、自らを鍛えなければ
なりません。何も他のことは考えずに一二〇%の力を現在の仕事に注ぎ込む
べきである。節約ができる人は、意志が強い人です。自分の行動を自分で
コントロールできる人です。外部の雑音や他人の行動に惑わされることなく、
自分の意志を貫ける人です。そして、意志が強いということは、財産形成で
成功するために不可欠の要素なのです。複利を味方につけられるかどうかが、
あなたの財産形成の成否を決定づける。

財産形成のメインエンジンは、仕事からの収入→最も重要な投資は自己投資。
財産形成のスピードをアップするためには、
仕事で成功することが一番重要(中略)株式を売買する前に、
まずは自分を磨く――それが財産形成の王道です。

 ーーー
ー以上が抜粋である。
書き写すに(前回分を含めて)2時間近くかかったが、戒めのためだ。

日本にバブルを起こさせたのも、アメリカの強引な景気浮揚と称して
大幅な日銀発行を押し付けためである。
そして、株価の操作で日本株の暴落を図ったり、連銀のドル操作などで
日本を骨抜きにしたのもアメリカの操作である。

さらに自国に都合の良い格付け機関をつくって、日本の株価を叩き落して
いった。そして、その美味しいところを買いあさっている。
我われの国庫から、アメリカの国債を買わされて、その国債の価値を落とす
のだから、「インチキ・ルーレットで胴元が操作をして全て巻き上げている」
ことと、どこが違うというのか。

アメリカの従属国家として、第二次大戦後に恩恵を受けてきたことも
事実である。日本が二分割されて北朝鮮のようになっていたことを考えれば、
これでも仕方がないのか?という、日本独特の諦念がある。アラブが怒る
のもわかる。世界の石油の決済の殆ど全てがドルでおこなわれている。
アメリカの紙切れで、石油が全て持ち出されているのだから。彼等の質の
悪さ?も手伝って、それをモノの再生産に投資できない事情もある。

その対極の日本も、稼いだ金をドルとアメリカ国債に半強制的に替えられて
いるにすぎない。アラブの人たちと大して変わりはないのだ。ユダの世界
戦略の一環でしかない。

ー以上であるが、80対20の法則でいう殆どの要点はここに書いた。
あとは、本屋の立ち読みで充分である。但し、その意味を噛砕いての話だが。

---------------
2003年11月28日(金)
968, 「企業の人間的側面」

以下は字数の関係でカット
この後は、分類のコーナーの検索に「X理論とY理論」と入れてください。
ー2007年11月28日ー削除

・・・・・・・・・
594, パソコンの恩恵
- 2002年11月28日(木)

毎日飽きずに、こうも書けるか種明かしをしよう。パソコンのおかげである。
会社の机の上と、自宅の居間のパソコンの存在のおかげで、
パソコンが無かったら絶対に不可能である。

何か思いついたときパソコン内のメモ帳に書きこむ。それに気楽に書き
足していくのである。最後に適当にテーマを書いて保存しておく。
反対にテーマを思いついたら、まずはテーマと思いついたことを2~3
でも書いておく。特に一番リラックスしている夕食前後に面白いテーマや
キーワードが出てくる。10秒もしないうちに書ける休止状態にしておき、
遊び感覚で打ち込む。これで飛躍的に文章力と量が増えたのだ。 
その場が一瞬に書斎に変わるのだ。

更にパソコンのよいことは修正と追加が軽くできることだ。
順序も考えないで、思いついた事が打ち込めるのだ。
後で順序を並べ替えればよい。そのプロセスは思考である。そうすると
パソコンは思考機械になる。これが紙に書くとそれ自体で気分が重くなる。
さらに書きなぐっていると、頭が混乱してくるのだ。勿論大切な事だが。

ポイントはテーマなどは後で面白おかしく書き換える事だ。
毎日書き続けて解ったことは推敲の回数を重ねるほど文章は良くなって
いくことだ。文章上達はそれしかないといってよい。
それがパソコンの場合簡単にできるのである。

話しは変わるが随想日記の最大の読み手は実をいうと私なのだ。
数ヶ月前のある日の随想日記を突然ランダムに呼び出して、毎日のように
読んでいる。その都度、こんなことを書いていたのかという驚きがある。
これは自己対話をしていることである。あるいは自分を深耕していること
にもなる。これもパソコンだからできる。書斎に移動して読む必要はない。
我が家には書斎はない、いや必要ないのだ??

この一年半で、自分の文章力が飛躍的に向上した。
これは毎日文章を書き続けたことと推敲を毎日重ねたおかげである。
その最大の武器がこのパソコンである。 それとホームページのおかげだ。
誰かとつながっているという動機づけがあったからである。
パソコンは知的玩具です。 痴的にもなるが?!