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高杉弾

(アート)
たかすぎだん

1954年、東京生まれ。自称「メディアマン」。編集者、ライター、評論家、AV監督。伝説的な自販機ポルノ雑誌『Jam』『HEAVEN』初代編集長。本名、佐内順一郎
日本大学芸術学部中退。70年代後半から、エロ、性的逸脱、ドラッグ、ギャンブル、バット・テイスト、モンド・カルチャー等、アンダーグラウンドなサブカルチャーの分野で大きな影響を与えた人物であるが、高杉名義での著書が4冊しかないため、その活動の全貌はつかみがたい。
なお、似たようなフィールドで活躍して、すでに死去している、ライター・編集者の青山正明は、高杉弾の影響を、もっとも強く受けている。
現在は、目の病気もあり、超逸脱的オンラインマガジン・e-zine《JWEbB》のみで活動。

著書(高杉弾名義)

「メディアになりたい」(JICC出版局)、「週刊本・霊的衝動・100万人のポルノ」(朝日出版社)、「楽しいステレオ写真」(竹書房文庫)、「香港夢幻」(大栄出版)。

著書(佐内順一郎名義)

「プライベート写真術 恋びとたち4」(ニ見書房・プレイブックス)

共著

「全東京街道」(光文社文庫)、「百人力新発売」(ネスコ)。

自己紹介(HPから引用)

東京品川生まれ
4歳から9歳まで、川崎市等々力の水郷地帯で蓮の実を食べて育つ。
1979年から1980年にかけて自販機雑誌『Jam』『HEAVEN』の編集長として数々の伝説を生み出す。
現在は"メディアマン"というコンセプトのもとに言語アーチスト、作家、写真家、編集者、企画家、観光家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家、ラリ公、廃人、天才詐欺師などと呼ばれながら"MEDIAMAN"としての国際的な隠居生活を楽しんでいる。
競馬と散歩と昼寝が好き。
雑誌、単行本、インターネット等のメディアに突発的な仕事を発表することもある。
仕事は一貫してジャンルではなくマインドで選び独自の世界観からの発言や表現活動を極めて気まぐれに続けている。
金銭的利益追求を第一義とするマスコミや出版業界は嫌い。
現在はくも膜下嚢胞、糖尿病、結核、手足の痺れ、関節炎、睡眠障害、勃起不全、難聴、認知障害、健忘症、心配性、失語症、貧乏症、便秘、痔、歯槽膿漏、ニコチン中毒、五十肩など多くの病を得て隠居療養中。
脳内リゾート開発事業団所属。
ステレオオタク学会会員。
《imperialMEDIAMANinternational》代表。

履歴(HPより)

1958年(昭和33年)、東京品川区から川崎市等々力に引っ越す。これより1963年まで蓮の池で蓮の実を食べて育つ。この頃、万引の常習犯となる。


●娯楽的結社時代
1968年(昭和43年)、この頃から漫画とSFにハマる。


1969年(昭和44年)、この頃、漫画を描きまくる。10月21日、国際反戦デーに野次馬として参加。


1970年(昭和45年)、大阪万国博見物。この頃からジャズと競馬にハマる。


1974年(昭和49年)、娯楽的芸術グループ〈ZONE〉を結成。個人誌『便所虫』『BEE-BEE』を発刊。この頃、武邑光裕(のちにメディア美学研究家)、加藤芳一(のちに放送作家)、近藤十四郎(のちに『HEAVEN』編集者)、林真理子(のちに作家)らと会う。娯楽的頽廃グループ〈廃人同盟〉を結成。


1975年(昭和50年)、イカサマ大学受験グループを結成(未遂)。娯楽的出版グループ
〈冗談社〉を設立、漫画創作集などを刊行。漫画同人誌『neu』を創刊。この頃、仙人・美沢真之助八木真一郎、舞踏家・田中泯らと会う。『本の雑誌』主催第1回全国ミニコミ・ガリ版誌コンテストで『BEE-BEE』が優勝、椎名誠(のちに作家)に会う。この頃からレゲエにハマる。


1977年(昭和52年)、山崎春美と会う。単身サンフランシスコ、ロサンゼルスへ 旅行、コカインLSDにハマる。八木真一郎の誘惑で雑誌『冗談王』(日本文華社)の編集に参加。


●自販機本時代
1978年(昭和53年)、娯楽的デザイン工房〈Lightbox〉を設立、ローヤル電機株式会社(現在店頭上場企業)のCIなどを製作。原宿表参道で娯楽的露店商を開店。池袋の〈エルシー企画〉で明石賢生佐山哲郎岡克巳らと会い、自販機雑誌『スキャンダル』の8ページを編集・制作。娯楽的雑誌編集グループ〈CAMP〉を設立、美沢真之助とともに自販機雑誌『Xマガジン』(エルシー企画)を編集・制作。


1979年(昭和54年)、山口百恵のゴミをあさり、3月、自販機雑誌『Jam』(エルシー企画)を創刊。この頃、エルシー企画発行のエロ本にモデルと してたびたび出演。
この後、数年の間にデザイナー羽良多平吉湯村輝彦、マンガ家渡辺和博蛭子能収、編集者末井昭亀和田武高取英(のちに劇作家)、手塚能理子、僧侶・劇作家上杉清文、写真家荒木経惟、イラストレーター南伸坊、カメラマン滝本淳助、評論家平岡正明、作家鈴木いづみ、フィルム・オーガナイザー佐藤重臣]、ミュージシャン巻上公一山下洋輔坂田明らと会う。
ヒッピー金田トメ八木真一郎山崎春美らが『Jam』編集に参加。山崎春美と『遊』(工作舎)増刊号編集に参加、松岡正剛荒俣宏らと会う。山口百恵のゴミあさりの件で栗本薫の小説「イミテーション・ゴールド」のモデルとなる。この年、ボブ・マーリー来日公演を見る。


1980年(昭和55年)、フーテン山本勝之Jam』編集に参加。4月、羽良多平吉の全面協力を得て自販機雑誌『HEAVEN』(エルシー企画、のちにアリス出版と合併)創刊、近藤十四郎が編集に参加。この頃、ラジオ関東で〈ウルトラヘブン放送局〉開始、近藤十四郎と2人でDJ。6月、新宿アシベにて『HEAVEN』創刊イベント〈天国注射の夜〉開催。編集者・松尾由紀夫と会う。『HEAVEN』の版元が群雄社に移り自販機から撤退、直販体制へ。別冊宝島『センスパワー』(JICC出版局)の一章を山崎春美山本勝之近藤十四郎と編集・制作。11月『HEAVEN』の編集長を退き作文家に。河野悦子(のちに陶芸家)に会う。


●作文時代
1981年(昭和56年)、イラストレーター八木康夫と会う。ロサンゼルス、サンフランシスコへ旅行。カメラマン岡克巳の協力を得て新書版『プライベート写真術』(二見書房)刊行。『写真時代』(白夜書房)で「海外面白写真集」連載開始。伊達一行の小説「沙耶のいる透視図」(のちに映画化)のモデルとなる。この頃からシーメールに興味を持つ。


1982年(昭和57年)、『朝日新聞』の文化情報欄「タウン&キャンパス」のレギュラーとなる。『噂の真相』で「チャンネル・オフ」、『写真時代Jr』(白夜書房)で「プライベート写真館」、『Boom』(JICC出版局)で「乱調少年大図鑑」連載開始。9月、筒井康隆原作、内藤誠監督の映画「俗物図鑑」にほんのチョイ役で出演。この頃からステレオ写真を撮りはじめる。


1983年(昭和58年)、『ヘイ・バディ』(白夜書房)で「ミュージックランド」連載開始。単行本『俗物図鑑の本』(群雄社出版)に原稿4本。『SALE2』(フィクションinc)に「面白快感ライフ」、『スティック』(版元不明)で「メディア・トリップ」、『Boom』で「少年犯罪者の夕焼け」連載開始。『MAZAR』(群雄社出版)創刊、原稿多数。『写真時代Jr』で「東京ドキュメント」、『Boom』で「ぷーぱー勉強塾」連載開始。この頃、編集者小田代千晶と会う。
1984年(昭和59年)、『写真時代Jr』で「ハイパーTV」連載開始。あがた森魚『永遠の遠国(限定版)』にステレオ写真撮影(発売はずっと後)。 『ビデオ・ザ・ワールド』(白夜書房)でビデオ映画レビューを 連載開始。単行本『言相楽』(角川書店)編集協力。単行本『メ ディアになりたい』(JICC出版局)刊行、装丁は八木康夫。『ビデオ・ザ・ワールド』でAV批評欄を担当開始。『噂の真相』で「メディア散歩」連載開始。レコード『レゲエ・クリスマス』(オーバーヒート)ライナーノート。『BODY PRESS』(白夜書房)で「甘い世間」連載開始。


1985年(昭和60年)、『Mr.DANDY』(サンデー社)に「メディア・ワンダーランド」連載開始。輸入ビデオクラブ〈セカンドハウス〉設立。ビデオ『スーパー・カットアップ』制作。有楽町西武で武邑光裕とSFXについて公開対談。『AVIC』(リットーミュージック)で「ビデオ・ワンダーランド」連載開始。この頃、劇作家高取英主宰のカルチャー・センターで講師。ワープロを導入。週刊本『霊的衝動・100万人のポルノ』(朝日出版社)刊行。『福娘』(ミリオン出版)で「TV FUCKIN’」、『写真時代』で「新・海外面白写真集」、『スーパー写真塾』(白夜書房)で「広告散歩」連載開始。ビデオ版『メディアになりたい』を制作。『ビッグコミック・スピリッツ』(小学館)で手塚真原作の立体写真マンガの撮影と監修。渋谷PARCOでアスク講談社のビデオイベント司会。『クラッシュ』(白夜書房)で「エロティカル・ワンダーランド」連載開始。香港旅行。


1986年(昭和61年)、『オトメクラブ』(白夜書房)でレコード・レビュー、『キングコング』(同)で「メディアでヤッホー」、『アサヒグラフ』(朝日新聞社)でルポルタージュ、『写真時代』で「海外面白写真」、『Q−Tai』(学生援護会)で「斜眼タイムス」、『スーパー写真塾』で「ビデオ・ショウイング」、『写真時代Jr』で「東京山手線めぐり」、『青春写真』(日本文華社)で「ワールド・イレギュラーズ」連載開始。この頃から「MONDO」という不思議なアメリカ文化を紹介しはじめる。『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)文化欄にコラムを書きはじめる。光文社文庫『全東京街道』に「早稲田通りとパラレル・タイムス」を書き下ろし(写真も)。『ビデオファン』(白夜書房)創刊、レギュラーで原稿多数。香港・マカオ旅行、九龍城砦にハマる。『ボディ・プレス』(白夜書房)でAV女優黒木香と対談。『週刊プレイボーイ』(集英社)でAV紹介欄「謎のレンタルおやじ」連載開始。損害保険代理店・初級資格を取得、有限会社S興産(資本金14億円)の代表取締役社長となる。この年、鈴木いづみ自殺。


●トライアングル時代
1987年(昭和62年)、損害保険代理店・普通資格を取得。新宿二丁目のバー〈との山〉の店内放映用ビデオ制作。LD『ショック・トリートメント』(パイオニア)ライナーノート。『写真時代』で鳥羽・伊勢の秘宝館を取材、カメラマン瀬戸山和樹(のちに瀬戸山玄に改名)に会う。にっかつ撮影所との共同企画で〈MAGMAビデオ〉設立、1920年代の実験映画5タイトルを発売。山本勝之、モデル中村京子らと香港、マカオ、ロサンゼルスを旅行。香港で大型トレーラーにハネられるも軽傷、帰国後、目黒駅で駅員を暴行、書類送検されるも不起訴。渋谷センター街に輸入ビデオ&雑貨の店〈トライアングル〉をオープン。『ビデオ・ザ・ワールド』でAV監督代々木忠と対談。ロサンゼルスへ旅行。香港・マカオへ旅行、〈大小〉にハマり、スナッフボトルに魅了される。この年、猫が3匹生まれ、1匹を里子に出し、合計4匹となる。


1988年(昭和63年)、『夜想』(ペヨトル工房)にシーメール論。ビデオクラブ〈セカンドハウス〉を〈トライアングル〉に改称。香港旅行。2月、佐藤重臣死去。『写真時代』廃刊。ロサンゼルスへ旅行。ベティ・ブープのイベントで作家筒井康隆に会う。『ON STAGE』(白夜書房)で「ラリハイ小僧、音楽の旅」連載開始。ロサンゼルスへ旅行。天皇病気のため『週刊プレイボーイ』の連載自粛を通告される。単行本『百人力新発売』(ネスコ・共著)に原稿。
 商品先物取引を開始。『写真世界』(白夜書房)で「国際写真珍品堂」、『ビデオ・ザ・ワールド』で「ビデオだワールド」連載開始。S興産から〈トライアングル〉を買収。香港・マカオ旅行。この頃、宗教学者植島啓司と会う。
1989年(平成元年)、1月、昭和天皇崩御。マルチメディア・クリエーター高城剛とロサンゼルスへ旅行、豪遊。帰国後、糖尿病の疑い判明。香港・マ カオ旅行。NIFTY-Serveでパソコン通信を開始。『噂の真相』で 「チャンネル・オフ」、NIFTY-Serveで『高杉弾通信』を連載開始。この頃からモダン・プリミティブ関係の原稿依頼が増える。
 高城剛と香港・マカオ旅行。S興産代表取締役を解任される。『アリスクラブ』(白夜書房)で変態告白小説、『RM』(タキオン)で「ビデオ・ヘブン」を連載開始。高城剛とロサンゼルス・サンフランシスコへ旅行、コカインを吸ったりして豪遊。『エキセントリック』(全英出版)で「マインド・リンク」連載開始。
 はっきり糖尿病と診断されて1か月入院。『エキセントリック』で植島啓司と対談、その後も香港特集などを企画。この年、パソコン(98互換機)を導入。


●AV時代
1990年(平成2年)、LD『ヘア・スプレー』(パイオニア)ライナーノート。成田税関から猥褻図画密輸容疑でガサ入れを受けるも誤認で決着。友人のロッカー江戸アケミ死去。AV監督伊勢鱗太朗からAVの監督を依頼され、伊香保温泉でロケ。AV監督村西とおると会う。NY金先物暴落で数百万円損失。香港旅行、マカオで数百万円勝つ。
 渋谷〈トライアングル〉を閉店。6月、AV第1作『高杉弾のイカすSEX天国』(ダイヤモンド映像系・裸の王様レーベル)発売。以後1年間で11本を監督。金先物の暴落で数百万円損失。AV第4作『欲情遊園地』ヒット。AV製作会社〈鱗太朗商店〉と嘱託契約、宣材『裸の王様NEWS』を編集・制作。商品先物取引をすべて決済。香港旅行。NIFTY-Serveに〈高杉弾のサブカルチャーHP〉を開設。


脳内リゾート開発時代
1991年(平成3年)、『SPY』(ワールドフォトプレス)で「倶楽部イレギュラーズ」連載開始。『流行通信』にサブカルチャー関係の原稿、香港版にも翻訳掲載されるが原稿料は未払いとなる。Macintoshを導入。
 香港旅行、マカオで大勝。AV監督を引退。この頃からライター・編集者島本慶の誘いで『週刊プレイボーイ』にギャンブル・コラムを書きはじめる(イラスト・中崎タツヤ)。〈鱗太朗商店〉との嘱託契約解除。日本ダービートウカイテイオー単勝に100万円投入。『RM』で「高杉弾の極楽めがね」連載開始。6月、赤瀬川原平らと〈ステレオオタク学会〉を設立。島本慶編集の『コラムニスト』(東京三世社)創刊、レギュラーとなり、植島啓司とAV女優黒木香の対談(テーマ・宗教)などを企画。『SPY』のSEX特集を企画・制作、回収騒ぎとなる。奈良へ旅行、
 俳人野尻拓也と会う。8月、延べ30人が来宅。俳優三上博史のカレンダー用ステレオ写真撮影。『ガロ』10月号(青林堂)で「中途半端な女装」。『SPY』の休刊にともない「倶楽部イレギュラーズ」を『ガロ』に移し、11月号から連載再開。女装誌『クロスドレッシング』(一水社)に女装小説。〈大富豪馬券倶楽部〉を設立、パソコン通信による馬券予想送信事業と〈高杉式!儲かる馬券Q2〉の運用開始。京都、大阪、奈良へ旅行、京都のバーの階段で頭を強打、以後半年間に渡って頭痛に悩まされる。
 この年2月、友人のデザイナー丸山浩伸死去。


1992年(平成4年)、『おとなの特選街』(KKベストセラーズ)で「快楽有象無象」連載開始。CTスキャナー検査で先天性の脳の畸形が判明。コン ピュータの故障により〈高杉式!儲かる馬券Q2〉を中止。『銀座3丁目から』(マガジンハウス)で「高杉式脳内リゾート開発計画」連載開始、後に「マリファナを推薦している文章は掲載できない」との理由で連載中止となる。6月、大阪のギャラリー〈インターフォーム・アトリエ〉で赤瀬川原平のキュレーションによるグループ展〈大阪ステレオ博・立体写真館〉に参加、カタログにも寄稿。〈脳内リゾート開発事業団〉を設立。敬愛するダブ・ミキサー&ミュージシャン、超人リー・スクラッチ・ペリー来日。衛星放送に出てコメントを喋る。NIFTY-Serveの映画フォーラムに〈脳内リゾート開発〉会議室を開設。8月、天むすを食べて食中毒になる。『i-D JAPAN』(ユー・ピー・ユー)でオンライン・コラムニスト宣言。茨城県古河で蓮の花見物。
 NIFTY-Serveに疑似カジノを開設。『ハート・オブ・ギャンブル』(東京三世社)で香港・マカオへギャンブル取材。臨済禅のバイブル『臨済録』の超現代語訳に着手。単行本『3Dステレオグラム』(小学館)に寄稿。NIFTY-Serveより疑似カジノを即刻閉鎖せよとの内容証明郵便。乃木坂のギャラリー〈LA CAMERA〉にて〈トライアングル 10 DAYS」開催。デザイナー永原康史とCD-ROM『OLD TREASURE FILMS』(日本スタックマガジン社)を制作、印税未払いとなる。


1993年(平成5年)、『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)でカメラマン滝本淳助と写真ページ「こちらH探偵局」連載開始。借金返済不能の危機。3月、結核で国立療養所中野病院に79日間隔離入院。その間『週刊プレイボーイ』でステレオ写真の連載ページを10週間監修。6月、竹書房文庫『楽しいステレオ写真』の原稿を4日間で書きあげる。
 退院後に糖尿病が悪化、目黒の厚生中央病院に再入院、両足首から先が痺れはじめる。左眼に異常発生するも入院期間40日で退院。入院中に制作・校正した『楽しいステレオ写真』完成、発売。カバー・デザインは南伸坊。右目にも異常発生。NHKの高城剛のテレビ番組にコメント出演。『ステレオ必勝ガイド』(白夜書房)に寄稿、東陽片岡(のちに『ガロ』で漫画家デビュー)と会う。小玉敏勝撮影、島本慶編集のステレオ・ヌード本『ステレオ・ヌード・キング』(集英社)で監修を担当。『ガロ』9月号で自販機本・エロ劇画本特集に協力。足と目の鍼治療を開始。9月、国際ステレオ写真会議に出席のため赤瀬川原平、南伸坊らとイギリスへ。帰路、香港に寄って観光。帰国後、視神経障害のためやむなく『ガロ』の連載を休載とする。『銀座百点』(銀座百店会)で赤瀬川原平、南伸坊とステレオ写真について座談会。CD-ROM『OLD TREASURE FILMS 2 BETTY PAGE』(デジタローグ)発売。原宿・デジタローグ・ギャラリーにて発売記念イベント開催。CD-ROM写真集『美麗死体写真集Lilly』制作開始。視神経障害治療のため眼孔注射を受ける。右眼の視力かなり回復。
 CD-ROM『極楽蓮=ウルトラ・リゾート・ロータス』、CD-ROM美麗死体写真集『Lilly』(トライアングル)発売。『別冊海燕』(福武書店)で脳内リゾート開発関連原稿。この年、ステレオグラフィック・ブーム。香港九龍城砦消滅。


●メディアマンの時代
1994年(平成6年)、病院を済生会中央病院に変え、インシュリン注射開始。鍼の効果があり左眼も視力回復。荒木経惟CD-ROM写真集『アラキトロニクス』のネーミングと写真セレクト。NIFTY-Serveに〈勝手に競馬会〉HPを開設。脳内リゾート開発事業団の機関誌『脳内界』ようやく発行。CD-ROM『OLD TREASURE FILMS 3 20's AVANT GARDE』(デジタローグ)『アラキトロニクス』(同)発売。
 『GURU』(翔詠社)創刊、寄稿。『日刊ゲンダイ』でAV女優風吹あんなと対談。4月、乃木坂〈LA CAMERA〉で島本慶滝本淳助と《トライアングル=LA CAMERA=おつな堂》を毎月10日間だけ開店(9月で終了)。CD-ROMマガジン『極楽蓮』(トライアングル)第2号が性器露出作品多数収録のため問屋への販売が不可能となる。NIFTY-Serve映画フォーラム2に〈メディアマンズ・トライアングル〉会議室を開設。南伸坊夫妻や友人たちと古河で蓮の花を見物。CD-ROM『Lilly』ヒット。
 『トパーズ』(英知出版)で「HEAVEN」の特集。『週間プレイボーイ』と『SMスナイパー』の共同取材で香港、マカオへ。
 『アクションプレス』(少年出版社)で「Mediaman's GET NOW」連載開始。菊花賞のナリタブライアン単勝に100万を投入。バリ島へ旅行。一旦帰国し、12月にシンガポールを経て再びバリ島へ長期旅行。ウブドの王族に会い、首までウブドにハマる。この年〈メディアマン〉というコンセプトを強化、〈iMi = imperial MEDIAMAN international〉を設立。


1995年(平成7年)、1月、バリ島からタイのバンコクを経てサムイ島に移動、ハンモックの上で阪神大震災を知る。その後、バンコクを経て再びバリ島に戻る。2月末にシンガポール経由で帰国。熱帯の空気に当てられて気力急激に低下。リハビリで短篇小説『アビアン・スラマ物語』を書きNIFTY-Serveで発表、連載『高杉弾通信』は72号で終刊。『おとなの特選街』のヌード撮影でタイのサムイ島へ、3人のモデルたちと遊び惚ける。NIFTY-Serveに〈メディアマンズ・アイランド〉HPを開設。8月、大栄出版から依頼された小説の取材で香港へ。友人の放送作家加藤芳一死去。12月、小説『香港夢幻』350枚完成、発売(大栄出版)。白夜書房創立20周年記念パーティーの景品抽選で旅行券18万円分が当たり、さっそく香港で豪遊。NIFTY-Serveの〈メディアマンズ・アイランド〉HPを閉鎖。


1996年(平成8年)、1月、青林堂会長長井勝一死去。『ザ・ベストマガジン・オリジナル』(KKベストセラーズ)の連載「ワールド・エロティカル・ビューイング」3回分の写真データと原稿を入稿し、タイへ長期旅行。サムイ島で40日間過ごしてからバンコクへ。友人2人と香港へ移動、競馬と飲茶と散歩。一旦バンコクに戻り、3月中旬に帰国。雑誌のレギュラーは『ガロ』と『RM』だけになっていた。気力減退し、競馬を一日に12レースやって全敗という生れて初めての経験をする。『ゴーゴーWindows』(コアマガジン)に原稿。あまりにもヒマなのでインターネットのアドレスを取得し、5月にオンライン・マガジン《JWEbB= Jappy World Expresss by Bus》を創刊、NIFTY-Serveでの活動を休止。《JWEbB》で〈大富豪馬券倶楽部〉と〈トライアングル〉を復活。イギリスのテレビ局〈チャンネル4〉ディレクターからの依頼で、荒木経惟のドキュメント番組製作に協力。友人とバンコク、サムイ島へ旅行。帰国後、巨額の借金返済に追いまくられる。『Jam』『HEAVEN』の発行人だった明石賢生死去。単行本『インターネットXファイル』(オークラ出版)、『探検アジアリゾート・タイ篇』(総和社)に寄稿。『BAD TASTE』(東京三世社)で「ヒューマン・バッドテイスト」を2回連載。
 荒木経惟CD-ROM写真集『アラキグラフ』(光文社)の編集開始。由紀さおりロミ山田のヘアヌード写真集を夢想。


1997年(平成9年)、隠居生活に入る。

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