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徳川光圀

社会

徳川光圀

とくがわみつくに

水戸藩第2代藩主水戸光圀、源光圀とも。(1628年-1700年)

初代水戸藩主、頼房の三男。1661年、34歳で藩主となる。

明から亡命してきた儒学者朱舜水を招き教えを享受、江戸藩邸の彰考館で「大日本史」の編纂に着手し、いわゆる水戸学の礎を築く。

講談(及びテレビドラマ)では「黄門さま」と親しまれている。実際には全国漫遊したわけではない(リンク先参照)が、助さんと格さんは実在している*1

常陸太田市の水道は、江戸時代水戸黄門が建設した山寺水道が始まりです。延宝5年(1677年)稲木町に母の菩提を弔う久昌寺(明治時代新宿町に移転)と、檀林(仏教の学問所)を建てました。この一体は地盤が岩盤で井戸をほっても水がでませんでした。また、寺域に隣接する集落でも水に不自由していました。光圀公は住民の困窮を救おうと山寺水道の建設に着手しました。 光圀公といえば、「水戸黄門漫遊記」とか「大日本史」とか、精神面でのリーダーとして受けとめられがちですが、こうした「地域基礎整備」にも力を注だ事実を忘れてはなりません。

*1:「大日本史」編纂の過程で招かれた学者の浅賀格兵衛と佐々介三郎がモデル