聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その3 第二論考が「いかに」記されていたか 宮村武夫

聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その3 第二論考が「いかに」記されていたか 宮村武夫

(2)無教会はどこへ行くのか
② いかに
本論考が第二論考から1カ月以内に記されている事実、また、本論考の後半は第二論考の内容が語られた講演会を中心に、講演会前日と翌日の経験の報告であることからも、両論考が密接に関係していることは明らかです。それで、以下に再述する第二論考が「いかに」記されていたかの諸点、
・沖縄と本土の対比
・要約と問い――他者との対話と自己との対話――
・「聖書を」と「聖書で」
・具体的――事実認識の課題――
これら4点のすべては、この第三論考が「いかに」展開されているかを考察する場合にも、当然前提とされ、本来は十分考察されるべきです。ここではその余裕がないと限界を認めた上で、本論考そのものの特徴と重なる2点に限り、「いかに」を問いたいのです。
(イ)「日頃」と沖縄での3日間
本論考の第一行、「この標題で今回の沖縄内村鑑三記念講演に関連して感じたことを述べておきたい」(67ページ)は、細心の注意を払うべき文章です。「この標題」とは、ほかならない「無教会はどこに行くのか」です。「今回の沖縄内村鑑三記念講演会」、そこで語られたのは、「沖縄からの叫び」の講話であり、その講話に加筆し整理したのが、第二論考です。
鍵となるのは、「講演会に関連して感じた」と言われている「関連」の意味です。
第一行目に続き、「まず、日本の各地で行われている内村鑑三記念講演会について日頃思っていること」(67ページ)を、以下76ページまでの本論考前半で展開しています。その内容は、本来の無教会と現実の無教会のずれを直視し、日頃思索し続けている事柄を具体的に内村鑑三記念講演会に焦点を合わせ、文章化したものです。
後半76ページ以下は、1996年6月16日の講演会を挟んで、6月15日から17日まで、3日間の沖縄訪問の要約的報告です。そこには講演会の様子と共に、「沖縄戦当時の罪」と「戦後五十一年の罪」(88ページ)を告発するガマ(壕)での経験を記します。
前半と後半、その全体を一貫した論考となるように結ぶもの、かすがいの役割を果たすのは、「そう思っているところへ講演の依頼を受けた」(76ページ)事実の記述です。講師として「ふさわしくないことを自覚したが、しかし本土の罪を双肩に負って苦しむ沖縄からの依頼であったので、『そうだ、いま謝罪に行かなければならない』という思いに満たされ、引き受けた」(76ページ)とある、罪と謝罪をめぐる決断です。
さらに、この罪と謝罪をめぐる自分自身の持ち場での掘り下げこそ、「沖縄からの叫び」と「無教会はどこへ行くのか」、2つの論考を結ぶものです。日頃、無教会の罪を直視し、謝罪、ざんげする中から、「沖縄からの叫び」は語られているのです。
また、沖縄での3日間の経験、特に日本本土の二重の罪を告発するガマ(壕)に身を置く経験に基づき、「無教会はどこへ行くのか」は刻まれています。沖縄と無教会、この場所で、この共同体で直面するのは、罪、個人の罪ばかりでなく、「国家、社会、そしてエクレシアの罪」(73ページ)なのです。謝罪・ざんげへの促しです。
以上の点を、時の流れと文章化の課題を中心に図式化してみます。
日頃の思い(67ページ)
A II
書斎で書物(証言集)(87ページ)

B 講演 Aに基づく。聴衆との出会い

C ガマ(壕)の経験(84〜88ページ)

D「沖縄からの叫び」 Bを、Cを中心に3日間の経験に基づき加筆し整理

E「無教会はどこへ行くのか」 A、B、Cを対象・内容にDの文章化を経て、それを踏まえて文章化

(ロ)内村鑑三と無教会
本論考は、1996年6月15日の沖縄内村鑑三記念講演会を直接の引き金として書き記されたものであり、表題が「無教会はどこへ行くのか」であることからも、当然、内村や無教会に集中して論を展開します。しかし注意すべきは、内村鑑三と無教会をどのような関係で取り上げ、本来の無教会と現実の無教会をどのように位置づけ、理解し、課題に切り込むかなのです。
(a)現実の無教会
まず、現実の無教会の姿を示すものとして、毎年内村鑑三記念講演会が日本各地で行われている現状を直視します。「どうしてこういうことが起こるか」(67ページ)と、現象の根底まで掘り下げ、「いまの無教会は自足している人たちの集団になっているのではないか」(73ページ)、「最近の無教会は、歴史への接続という重要問題を無視している」(74ページ)のではないかと危惧の思いを明らかにします。
「いま」「世界」から自らを切り離し、「課せられた世界史的使命を見失い、セクト」(74ページ)と化したのではないかと自問します。「内村を無教会キリスト教の開祖とみ」「無教会キリスト教創始者とみ」(75ページ)、「開祖が切り開いた新しいキリスト教への絶対的信奉によって成立している」(75ページ)とすれば、それはセクトに外ならないと恐れます。

(b)本来の無教会
しかし、現実の無教会の実体を明らかにするだけではなく、本来の無教会の在り方に深い感謝を抱き、そこに立つべき場を見いだすのです。記念講演会についても、「講壇に立った諸先生は、猛勉強と御霊の力によって、国の内外から押し寄せる異端的新思想に対する防波堤を築いてくださった」(69ページ)と感謝します。「ひたすら御霊の導きを信じ、一人ひとりを全き自由の中へ放置する無教会。私はこのような無教会が好きで好きでたまらない」(70ページ)とさえ言い切ります。
無教会に「あるのはただ一つ、御霊に従おうとする心。御霊の声を聞く耳」(70ページ)だけであり、「聖書を虚心に精読した内村の弟子たちは、各自の主体的な決断によって、内村と同じ信仰に導かれた。彼らはみな、主体的な決断によって、使徒信条の信仰を告白した」(70ページ)と的確に描き、「それはそれはみごとな一致であった。御霊の導きによる一致であった」(71ページ)と、教会の公同性、公同の教会を信じ生きる群れ、セクトと鋭く対比される群れの姿に心熱くするのです。
さらに、「無教会とは何か。それは、自己を神とする精神に対する根源的プロテスト」(73ページ)と指摘します。この本来の無教会の姿を見失わないゆえに、現実の無教会の姿、そのゆがみを見抜くことができるのです。現実の無教会の姿を鋭く指摘する悲しみの心と、本来の無教会の姿を描く熱き心は1つです。

(c)内村鑑三自身
さらに、記念している無教会だけではなく、記念されている内村鑑三自身へと、源をたどるのです。「内村は福音の原点への復帰をめざしつつ、あくまでも神の民の一人として生きることを重視した。つまり内村は教会史への接続を重視した」(74ページ)と、内村に留まるのではなく、さらに内村自身が探求し続け、重んじ続けた、さらなる本源を目指す道を進むのです。

(d)1つの出会い
実に興味深いことがあります。前述した、細心の注意を払うべき本論考の一行目に引き続き、「日本の各地で行われている内村鑑三記念講演会について日頃思っていること」(67ページ)について論を展開しています。その論が、「そう思っているところへ講演の依頼を受けた」(76ページ)ことの記述から、沖縄への謝罪旅行への報告に移行(76ページ以下)します。
報告の中心である6月16日の沖縄内村鑑三先生記念キリスト教講演会の様子を伝えた後、「以上私は、沖縄内村鑑三先生キリスト教講演会について述べたが」(82ページ)と、今まで述べてきたことの全体を見通しています。「以上」という表現が指示しているのは、直接的には76ページ以下の謝罪旅行、特に、「ここでこの時感じたことを記しておきたい」(77ページ)以下の講演会をめぐる記述です。
ところが、本論考の一行目、「この表題で今回の沖縄内村鑑三記念講演会に関連して感じたことを述べたい」(67ページ)が生きて、「以上」は、67ページ以下全体を指すことになります。
つまり、現実の無教会、本来の無教会、内村鑑三自身についての記述(67〜76ページ)も、沖縄内村鑑三先生記念キリスト教講演会について述べた事柄(「関連して感じたこと」)になります。6月16日の講演会、これを主催した小さな那覇聖書研究会の群れ、この現実の無教会の群れにおいて本来の無教会を見る貴重な経験、希望の無教会に出会う喜びの経験をなしたのです。この喜びが、興味深い文章構成を生み出す原動力となっていると見たいのです。
では、貴重な経験、喜びの出会いの内容は。それは小さな那覇聖研、無教会の群れが主催した講演会の「参加者の中に教会の方がたくさんいた」(80ページ)ことです。その事実の意味を、「那覇聖研が神の民として、教会と共に生きていることを意味する。沖縄無教会は、教会に接続している」(80ページ)と判断するのです。
また、「ほんとうに驚いたことは、教会信者の方が無教会信者よりも内村鑑三を深く理解しているということだ。内村鑑三に対する深い感謝を述べたのは教会の方であった」(80ページ)、「教会の方は、内村の信仰の内容を深く理解していた」(81ページ)と繰り返し指摘しています。
しかし内村を理解し、感謝するからといっても、無教会になるのではないのです。これは当然なことです。前述の本来の無教会の姿として描かれた一つ一つのことは、本来の教会の姿でもあるからです。本来の無教会の姿を描く一つ一つについて、「無教会」の代わりに、「教会」と言っても何ら違和感はないのです。
たとえば、現実の無教会と同様、現実の教会はどうであれ、本来の教会は、「御霊に従おうとする心」「聖書を虚心に精読」する群れなのです。そこに希望の教会の姿を見るのです。
内村鑑三を理解し、感謝する。それは、内村が全生活と全生涯をもって指し示すお方を同じく全生活・全生涯をもって仰ぎ望み、仰ぎ信じたいと切望するからなのです。(つづく)

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◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。

日本女子大、わが母校!?

日本女子大、わが母校!?

☆昨日も、日本女子大がらみで新しい出会いの予感。
日本クリスチャンカレッジが大学でないため、日本の大学院で学ぶ道が閉ざされたり、埼玉寄居時代、定時制高校で教鞭をとることが、ネメシェギ先生の努力によっても開かれなかった苦い経験をしました。
 そんな私にとって、日本女子大での8年間非常勤の日々は、そうした思い出を癒し、「日本女子大、わが母校!?」と表現すべき、積極的効果をもたらしました。いや今後ももたらし続けると判断しています。

★女性コラムニストの一人の9回目のコラムが、掲載されました。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16213/20150602/tanima-no-hitsuji-9.htm
日本女子大の授業で出会ってからの恵みを覚えます。
 さらに日本女子大での8年かの恵みの数々を、改めて感謝します。その波紋の広がりを味わっています。
 以前、以下の文を、沖縄で書き続けていました、『恵みから恵みへ』に掲載しました。

日本女子大学聖書研究会は、私にとって』
ガラテヤ3章25−29節

(1)日本女子大学
「男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3章28節)
 青梅から沖縄へ移住して間もなく、聖書研究会OGの姉妹方の依頼に答えて、「日本女子大の聖書研究会、私にとって」と題し以下のように記しました。

「 ・・・この期間(1978年4月より1986年3月まで)の忘れ難い恵みの一つが、聖書研究会に参加させて頂いたことです。
 何年目のことでしたか。女子大のクラスのため出講する際、聖書研究会で聖書から話すようお招きを受けました。
 その時から1986年4月に沖縄へ移るまで、週一回目白に行く時には、聖書研究会の部室で、数名の方々と聖書を読み続け、共に祈るときを持つことが許されたのです。
 聖研の時間は限られたものでした。しかし集会出席を積み重ねて行く過程で、女子大の中に置かれている聖書研究会の真に大切な位置を私なりに強く実感するようになりました。
 男子校から学生全体がキリスト者である日本クリスチャン・カレッジに進学した私にとって、小さなグル−プで聖書を読みながら、大学全体を意識して執り成し祈る経験は、とても貴重なものでした。
 また聖書研究会の集会に参加してからは、毎年の『聖書』の講座も、青梅キリスト教会の祈りの支えと同時に、聖研の姉妹方の背後の祈りに負うところが多いと自覚しました。
 私の知る数年の短い期間だけでも、その年、その年の聖研にそれぞれ特徴があったのは興味深いことで、高校生時代数名の友人たちと続けた、ささやかな聖書研究会のことを思い出したものです。

 私ども首里福音教会では、間もなく会堂の三階に、祈り続けてきました学生センタ−の建設を開始します。一地域教会として学生伝道の使命を果たしたいと願っての一歩です。
 教会から車で10分ほどの所にある、琉球大学の聖書研究会の方々からお招きを受けています。この4月から、毎週金曜日午後6時から7時までともに聖書を読み続けよう、ともに祈り続けようと話し合い、計画を進めているのです。
 あの日本女子大での貴重な経験は、単に過去の思い出というのではなく、これからの歩みにおいて生かされて行くと確信します。
 
 姉妹方も、それぞれの場で、それぞれの方法で聖書研究会での経験を生かし、その継承展開に努めておれられことを覚えます。
 私も私なりに与えられた場で、あの貴重な経験の感謝の印を刻むことを許されるなら、幸いです。
 日本女子大の聖書研究会、それは私にとって、何か自分自身の大学生時代の聖研でもあるような錯覚を与えるほど、意味深いもの。そのように言っても、過言ではないのです。」

 そしてこの23年の間、東京と沖縄の大きな隔たりを越え、女子と男子の差別の壁を越えて日本女子大学は、男子である私にとって、絆が強まり続ける存在なのです。
 私の日本女子大への思いがあまりにも独りよがりにならないように、この30年いつも日本女子大と私どもの仲立ちであり続けくださっている、村田紋子姉に、学生また卒業生の立場から、一文を書いて頂きました。

「宮村先生と日本女子大学」   村田 紋子
宮村先生が、日本女子大プロテスタント聖書研究会に関ってくださったのは、1982年ごろでした。
当時、それまで導いてくださっていた食物学科の荒井先生が牧会のため退職され、学生もとても少なくなっていました。そのような時、英文学科で「聖書」を担当なさっていた宮村先生が、部室に時々来て下さるようになりました。
私たちは、いのちのことば社から後に発行された「申命記」注解書のメッセージに、一般読者よりも早く預かるという恵みを頂いたこともありました。
21章から、「私たちの人生には、なぜこんなことがと思うことが起きる。しかしどのようなことも、神様の御手の中にある」というお話はその後の人生で、時々思い出すことにもなりました。
英文科の授業を、教育学科の私は、単位とは無関係に2年間伺いました。
先生のお話は緻密で丁寧でした。第一コリント12章の箇所で、「あの人の目にとても惹かれたという話は聞きますが、耳に惹かれたということは聞いたことがありません。」という先生の真面目な冗談に、学生たちが遠慮がちに笑っていました。
友人の一人が「先生が、『本当に神様がいる』と思っておられることは感じる」と言っていたこともあります。
当時は手書きの細かいレジメを頂きました。また電車の事故で5分ほど遅れられる時にも先生からのお電話が入っていました。後から遅れてきた学生に、先生は歩み寄ってレジメを手渡しされていました。
小さなことのようですが、大変記憶に残っています。
宮村先生と私たちの聖研の交流は、先生が女子大をお辞めになられてから現在までもずっと続いています。年に1度、川奈から荒井先生もお招きしてOG会を開いてきましたが、宮村先生にはその会にも何度かおいで頂きました。
また数年前荒井先生が沖縄に行かれたことがあり、私もお供しましたが、首里福音教会を直接お訪ねする機会に恵まれました。砂糖黍畑の中の白い教会でした。首里城ひめゆりの塔などをいろいろご案内頂いたことも印象深い思い出です。
聖研は、キャンパスが目白と生田に分かれたこともあり、一時期部員数が減って現在は廃部となってしまいました。経過を折々に宮村先生にもお知らせし、祈って頂きました。
その後は、芦澤姉妹や島田姉妹など聖研OGであり教授として女子大に戻られた姉妹方を中心として、再び聖書を学ぶ会が起こされています。女子大の聖研は長い歴史がありますが、その時々に神様が必要な助けを与えてくださり、導いて下さっていることを感謝したいと思います。

この後現在に至るまで沖縄おける20年の歩みの中で、女子大との絆がさらに、さらに深くなって行くとの思いを深める幾つもの実例があります。
たとえば、私が女子大でお世話になっていた時代から、英文科の新井明先生とは、折に触れ幸いな対話のときを与えられていました。
けれども沖縄移住後は、二人とも息子を農愛高校へ送り出した共通の経験などもあって、以前にも増して一層深い心からの対話を文通を通して重ねて来ました。そうです。先生のお手紙により励ましを受け続けてきました。この主にある交わりは、現に今も深まり広まり行く恵みの物語なのです。

ここでは、宮崎(鈴木)順子さんと蓮見幸恵先生のお二人についお伝えし、主の導きへの感謝を表したいのです。
宮崎順子さんとの出会いを鮮明に記憶しております。
 沖縄移住がすでに定まっていた頃、ある日授業が終った直後、一人の学生が講壇の私のところに来られたのです。そして、授業を通して聖書に深く心を引かれ、教会に出席するようになったこと。さらにこの度、洗礼を受けることになったので報告したいとのお話。
 驚き感謝しながら、「どちらの教会ですか」と聞くと、
「吉祥寺教会、竹森満佐一先生のところです」と。
「え、吉祥寺教会、竹森先生」、
 この喜びの報告を驚きをもって聞いたのが、昨日のようです。

それ以後も手紙を通して、お互いに連絡を保ってきました。
そこへ、今年のはじめ、宮崎順子著、『奇跡のあとに 緑のイングランド滞在記』(文芸社)が恵送されて来たのです。
その本を手にしながら、思わず愛知の地へ電話をかけました。
20数年の年月と距離の隔たりを越え、電話を通し話し合いながら、ごく自然に感謝の祈りへと導かれました。繁聡、健太、知道君三人のこれからの生涯へ恵みの波紋が広がり続けると確信しながらの小さな祈りでした。
今も、『恵みから恵みへ』をお送りすることをはじめ、断続的にメールによる交流が続いています。たとえば、以下のメールを頂き、大いに励まされました。
「宮村 武夫先生
この度は早速お返事をいただきまして、どうも有難うございました。
先生がペテロ・ネメシギ先生の元で学ばれたこともおありだったと知り、とても嬉しく存じました。
女子大で先生から『聖書』のご講義を拝聴させていただきましたが、上智大のクラウス・ルーメル神父もキリスト教の講義にいらしてまして、私はどちらも拝聴する恵みをいただきました。
当時、所属教会は故竹森先生の吉祥寺教会でしたが、そんなこともあって、入信当初から宗派を超えたエキュメニカルな信仰に強く心を惹かれておりました。
名古屋に移り住んで、教会毎に色彩の異なるプロテスタントよりも、カトリックのより普遍的なものを求めて移籍するに至りました。
でも、アメリカで見たカトリック教会は、アメリカナイズされたものでしたし、日本のそれも七五三まで行事に取り入れるほどの柔軟なものでした。
右往左往しましたが、結局、カトリックプロテスタントも、教義上の違いこそあれ、神につながる信仰の根本は同じであるとの結論に達しました。
それにしても、あまりにも我流で意固地な信者に堕したことを恥じ入っております。同時に、神様はこんな私をもお見捨てになることなく、宮村先生を通して光を注ぎ給うことに、深く感謝致しております。
私も、日々戦いつつも楽観的に、すべてを神に委ねて生きてまいりたいと存じます。
宇都宮カトリック教会でのレジメ、本当に有難うございました。
ゆっくり拝読させていただきます。
取り急ぎ御礼まで。
鈴木 順子」

  この場合も、二人のやり取りはそこに留まり限定されることなく、必然的に拡がりを持つのです。二人から三人へ、そして・・・。
  新井明先生からの葉書には、「・・・こうして創造主の栄光が徐々にこの世に満ちていくのだ、と心強く感じます。この世の闇の力がいかに強くともです。
 鈴木順子さんは、先生のご講義に打たれてキリスト教に関心を懐きました。結婚のときには私も関わりました。・・・」と、キリストにある恵みの波紋を、ここにも実感します。

蓮見幸恵先生との出会いは、比較的最近のことです。
2003年4月、J.モルトマン先生が沖縄を訪問された際、蓮見ご夫妻がご一緒に同行なさったのときのことでした。
通訳の労で多忙な蓮見先生。幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子でした。
ごく自然なことで声をお掛けしたのに、間もなく話しが弾み、先生が日本女子大のご卒業であることや、ある期間『聖書』の授業を私が担当したことなどに及んだのです。
 そうした中で、幸恵先生が聖書研究会やその卒業生会のことをご存知ないと知りました。
 失礼を省みず思い切って言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ロ−マ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ロ−マ11章節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。
 そこで、聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えしたのです。
 そして新井明先生の著書、『湘南雑記――英学徒の随想』(リーベル出版、2001)と『ユリノキの木陰で』(日本女子大学英文科、2000)をお貸ししたのです。
 幸恵先生は、滞在中のホテルで、これらに目を通してくださったのです。
 
他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの女性神学者が現に活躍なさっていると村田姉を通しOG会にお伝えしたのです。
 ですから、幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と伺った時、とても嬉しく思いました。
 青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが一つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

(2)日本女子大学、劣等感からの解き放ち
私が自分は大学卒でないとの劣等感を抱くようになったのは、日本クリスチャン・カレッジ卒業前後のときでした。
 卒業後、大学院で学びを継続したいと願ったのです。しかし大学の認可がない各種学校卒業では、学部の1年生の試験を受ける以外道がないとのことでした。
さらに劣等感が一層強くなった出来事がありました。
それは、4年間の留学を終え、寄居キリスト福音教会の牧師に復職した後のことでした。
埼玉県の寄居の夜間高校で教えるように、当時教会で開いていた読書会のメンバーであった夜間高校の先生方(そのお一人の松本鶴雄先生は、のちに文芸評論家として活躍)から勧められたのです。
しかしこの場合も、大学卒の資格がないため、一同の願いは実現しなかったのです。
このような背景の中で、1978年に日本女子大で『聖書』の講義を担当してから30年、聖研の姉妹方との絆を通して、さらに広く日本女子大のことを考え喜ぶ中で、いつの間にか、大卒でないとの劣等感から解き放たれていったのです。
同時に、日本クリスチャン・カレッジで学びえた恵みがどれほどのものであるかをそれまで以上にはっきりと確認できるようになったのです。
 このように30年の年月の流れの中で、私なりに日本女子大学について知り、学生や卒業生のために祈る営みの中で、誤解を恐れないで言えば、
日本女子大、わが母校』とでも言いたい内的事態が生じてきたと判断するのです。
この事実は、渡邉先生がローマ1章16節に基づき強調され続けた福音の力の実証と、私なりに受け止めています。
 そしてガラテヤ3章5−29節で、
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。
 なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と、
さらに多様な差別を乗り越える福音の力をパウロは明示しています。
 日本センド派遣会の小さな働きが、実際的に諸所各所の場面で、人間が築き、人間を分断する様々な差別を超える役割を少しでも果たすことができますように。
また人を劣等感の苦しみから解き放つために、世界宣教を目指す日本センド派遣会の働きが少しでも足もとでも役立つようにと祈ります。

(3)今にして思えば、1958年秋が
 日本女子大での講義を思い巡らすと、その基盤が、1958年秋に据えられていた事実を今にして思うのです。
 少なくとも、二つの点においてです。
 第一は、1958年、日本クリスチャン・カレッジ入1年生の秋、埼玉県寄居で、アメリカからのジ−ンズ宣教師とカナダからのプライス宣教師、両婦人宣教師による開拓伝道を、私は第一歩からお手伝いしたことです。生まれたばかりの寄居キリスト福音教会で、毎週主日礼拝説教を担当。十代の説教者の卵の誕生です。
危なっかしい初陣の説教を深い祈りをもって毎週聞き続けてくださった、両宣教師と幾人かの方々は、この50年の年月を貫いて、私どものキリスト信仰二人旅のため、忠実に執り成し祈り続けてくださり、現に祈ってくださっているのです。本当に感謝、感謝です。
私は、主の一方的な恵みにより、主イエス・キリストにある兄姉との堅い信頼の絆の中で、説教者としての深い自覚を与えられたのです。

私ども二人は、寄居キリスト福音教会、青梅キリスト教会、そして首里福音教会と、三つの地域教会に仕え切ることを許され、心から感謝しております。
 その間、三つの神学教育機関日本女子大学で私は教えてきた訳です。
 そのすべての授業・講義を、深い意味で、神のことばの説教者として担当してきたと今にして覚えるのです。二足の草鞋(わらじ)を履くのではない。教会の講壇で説教しないことを、教室の教壇で語ることはないと公言してきました。
曲がりなりにも、説教者また説教者の妻としての道を、一方的な恵みに支えられて、50年歩み続けている。そのことが、まさに恵みです(Ⅰコリント15章10節)。
その基盤は、1958年、あの寄居で確かに据えられたのです。

第二は、吉祥寺教会です、竹森満佐一先生です。
 日本クリスチャン・カレッジ入学後、最初に学んでクラスの一つは、ウエストミンスターで学んで来られた柳生望先生のクラスでした。
そこで、「宮村、君の聖書観は、機械霊感説だ」との指摘を受けました。
その時から、聖書をどのように見るか、どのように解釈するかが、私なりに真剣な課題となりました。
そのクラスの課題として、『啓示』というレポートを書き続けたのです。
それと前後して、雑誌『興文』で、竹森先生の一文を読みました。
聖書を真ん中に置き、一方の側に宗教改革者の書を、他の側には無神論者の書を置いて、聖書を読み進める。この先達からの引用を読んだとき、心に記すものがありました。
次の水曜日、日本クリスチャン・カレッジがあった浜田山から井の頭線に乗って吉祥寺に行き教会を訪ねたのです。
 日本クリスチャン・カレッジを卒業するまで3年半、水曜日の集会に通いました。
4年生になってからは、月に一度寄居でなく吉祥寺の教会に出席し、卒業後の牧師としての歩みに備えることを両宣教師と相談し実行したのです。
ですから、「え、吉祥寺教会、竹森先生」なのです。

私のような者が、日本女子大で授業を担当させて頂くためにも、それなりの備えを主はなしてくださる。驚くべき恵みです。

50年前が、ほんの昨日のようです。
ですから、50年後も、実に明日のようです。

OG会は、単に過去の善き時の思い出に留まるのではないはずです。
現在の日本女子大のため、かってあの小さな部室で姉妹方が大学全体のために執り成したように、執り成し祈るのです。
そうして未だ来たらずとも、まさに将来しようとする日本女子大の日々のために、祈る祈祷会としてOG会が尊い使命を果たし続けるように心より期待し、ささやかなりとも私なりに祈るのです。

日本女子大の聖研OG会の姉妹方の外野席にいる応援団の一員として、祈りにおける時間的センスをもって、沖縄で生活する。もったいない恵みです。感謝。

10代も、70代も、欠如の恵みに応答して、共に

10代も、70代も、欠如の恵みに応答して、共に

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1961年秋、部活活動として認められていた聖書研究会発行の謄写版印刷の救いの証集。これを読んで、キリスト信仰へ導かれた一人が、クリスチャントゥデイに、高校生を意識して、入魂の連載を書き続けた、阿部兄。

私にとっても、文書伝道の原点の一つ。執筆した各自が、それぞれの生涯のテーマになった課題を書いているのは、面白い。
私が書いた、「兄弟愛について」は、寄居キリスト福音教会の『月報』の第1号の巻頭言としても掲載(宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』ドストエフスキーの神学的一考察、他116頁)。