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 漢字を なるべく つかわない かきかたを こころみているので、いちぶの ひとには 「よみにくい」と かんじられることと おもいます。ごめんなさい。わたしの 意図を せつめいした 記事を こちらに まとめております。ごらんいただけると さいわいです。

2010年01月20日(水)

あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動(転載)

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 ヘイトスピーチに反対する会の ブログより、よびかけの ぶんしょうを てんさい(転載)します。

http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-21.html


 また、この エントリの さいごに、この よびかけぶんに かんれんして、わたしの かんがえを すこし のべました。


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m9 あれがヘイトクライムだ! m9

レ イ シ ス ト を 通 す な !

1.24緊急行動


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集  合:1月24日(日)午前11時〜 新宿駅南口出口

(集合場所は変更する可能性がありますので、当日まで「ヘイトスピーチに反対する会」のHPを注視してください)


行動予定:レイシズムに反対する街頭宣伝・フリースピーチを行います。

レイシスト在特会」の「ヘイトデモ」に対して言論・表現による抗議を呼びかけます)


呼びかけ:ヘイトスピーチに反対する会

http://livingtogether.blog91.fc2.com/


主  催:「レイシストを通すな!1.24緊急行動」実行委員会


連絡先:livingtogether09@gmail.com


*意見の相違を暴力で解決し、それを正当化してきたグループの参加を認めません。


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永住者に選挙権を認める法改正が政治的な日程に上っている。そもそも選挙権とは、それぞれが平等な政治的主体のひとりとして投票をつうじて意思表示する権利であり、上からお恵みのように与えられる特権として扱うべきではない。それは、同じ社会に暮らす人々が互いに承認しあうべき権利である。


だが1月24日、「在特会(在日特権を許さない市民の会)」は新宿区・四谷で臨時大会を開き、新宿駅に向かって「外国人参政権反対」をさけぶ「行進」をするのだと言う。「参政権」要求があたかも「特権」の要求であり、そのような要求をするならこの社会から出て行けと言うのだ。彼らは、日本社会に在住する外国人、とりわけ韓国・朝鮮、中国人への憎悪を顕わにし、この社会に存在する民族的少数者への嫌悪を煽動してきた。埼玉県に住む外国人一家の追放を呼号し、家族の子どもが通う学校を標的にした排外主義的扇動、京都ウトロ地区への脅迫と朝鮮学校への襲撃は記憶に新しい。今回の「行進」もその一環にある。


いったい彼らはどこでどのように問題をはき違えてしまったのか。この問いに答えるために多くの人々が苦心している。


だがとりあえず今はその作業を置いておく。ただここに生きる私たちは、この社会の保守主義が、生まれによって人に身分を与え、たがいを軽蔑させ憎悪させるものでしかなかったことを注視しよう。特定の少数者を二級市民として扱い、まして公民権を奪う社会では、多数派の享受する権利すら、常に与奪可能な「特権」としかならない。そのような社会を問うことすらできず、性や身体や民族を指標に憎悪を煽動することに腐心する「在特会」ら「行動する保守」には一片の未来もない。


私たちは民族的憎悪と性差別をまき散らす行為に怒りを覚えるすべての人々に呼びかける。自らの属性に屈辱を覚えさせられることのない社会を求めるすべての人々に呼びかける。彼らの「行進」に抗議しよう。街頭に立ち、抗議の意思を示そう。


この呼びかけに賛同し街頭宣伝と「ヘイトデモ」への抗議行動に協力していただける方々の参加を求めます。




 いかで のべるのは、うえの よびかけぶん(呼びかけ文)に ついての わたしの こじんてきな かんがえです。


 1/24に よていされて いる ざいとくかい(在日特権を許さない市民の会)の デモは、「がいこくじん さんせいけん はんたい」を テーマに した ものの ようです。

 いっぽう、かれらの デモは、これまで そうだったように、まちなかで 「がいこくじん」、とりわけ 「ちょうせんじん」や 「ちゅうごくじん」への さべつてきな ことばを さけび、その はいせき(排斥)を となえる ものに なると よそうされます。

 さて、うえの よびかけの ぶんしょうは、そうした せまい いみでの 「はいがいしゅぎ」「さべつ」だけを もんだいに する ものでは ありません。ざいとくかいが 「がいこくじん さんせいけん はんたい」を となえて いる ことへの ひはんも、あわせて もりこんで おります。

 この ことに ついては、つぎの ような いわかんを おぼえる ひとも いるかも しれません。すなわち、「ざいとくかいの はいがいしゅぎ・さべつだけを ひはんすれば じゅうぶんじゃないか? ざいとくかいの ぼうりょくてきな ふるまいに いかりや ききかん(危機感)を もつ ひとの なかにも、がいこくじん さんせいけんに はんたいの いけんを もって いる ひとも おおく いるはず。あえて いけんの わかれる がいこくじん さんせいけんの もんだいに ふれる ひつようは ないのでは ないか?」と。

 しかし、わたしは、ざいとくかいを ひはんする ときに、かれらの となえる 「がいこくじん さんせいけん はんたい」への はんたいの いしひょうめいを する ことは、さけて とおれないと おもって います。というのも、つぎの ふたつは、けっして りょうりつできる ことでは ないからです。


  1. ざいとくかいの さべつてきな げんどう(言動)に はんたいする こと
  2. がいこくじんに さんせいけんを 「あたえる」ことに はんたいの いけんを もつ こと

 1を おこうないつつ、どうじに 2の いけんを もつとしたら、それは しりめつれつです。そういった ひとは、ざいとくかいの 「いきすぎた がいこくじん さべつ」には はんたいした ことに なるかも しれませんが、にほん こっか および にほん こくみんによる がいこくじん さべつ そのものは こうてい(肯定)する ことに なります。


 さきの よびかけぶんの さいしょの だんらくが じゅうようだと おもうので、もう いちど いんようします。


永住者に選挙権を認める法改正が政治的な日程に上っている。そもそも選挙権とは、それぞれが平等な政治的主体のひとりとして投票をつうじて意思表示する権利であり、上からお恵みのように与えられる特権として扱うべきではない。それは、同じ社会に暮らす人々が互いに承認しあうべき権利である。


 わたしは この ぶんしょうに ふかく どうい(同意)します。

 さんせいけんを ふくむ けんりとは、だれかによって いっぽうてきに 「あたえられる」ものでは ない。おなじ しゃかいに くらす ひとびとが びょうどうな たちばで おたがいに みとめあうものだと かんがえます。

 その てんで、「がいこくじん さんせいけんへの はんたい」を しゅちょうする ひとは その しゅっぱつてんにおいて おもいあがりが あります。

「がいこくじんに さんせいけんを あたえるべきか、あたえないべきか?」

 こうした もんだいの たてかた じたいが、このうえなく ごうまんです。オマエに なんの しかくが あって たにんに けんりを 「あたえる」とか 「あたえない」とか いっぽうてきに いえるんだよ? たまたま にほん こくせきを もってる というだけで どうして たかみから えらそうな ものいいが できるんだよ?

 しかも、その けんりを 「あたえる」か どうか という そうだん*1を、その けんりから 《はいじょ》された ひとを 《はいじょ》した くうかん(空間)で おこなって いる わけです。ここには ふたつの いみでの 《はいじょ》が あります。さんせいけんという けんり そのものからの 《はいじょ》と、その けんりを たがいに みとめあうための くうかん・ばしょからの 《はいじょ》。

  • けんりを 「あたえる」べきだとか なんとか という ごたくを いっぽうてきに ならべる とっけんが にほんこくみんには 「あたえられて いる」 いる という おもいあがり。これを まずは すてる こと。
  • そして、おなじ しゃかいを つくって いく もの どうしとして、びょうどうな たちばで たがいの けんりと そんげんを みとめあう こと。

 この ほかに さべつに はんたい するための しゅっぱつてんは ありえないと かんがえます。

*1:むしろ 「だんごう(談合)」と よんだ ほうが てきせつかも しれません。

2009年12月19日(土)

てんのうせいと はいせんご にほんの ナショナリズム

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 ないかくが セッティングした てんのう アキヒトと ちゅうごくの ふくしゅせきの かいだんが 「てんのうの せいじてき りように あたるか どうか?」が、ちょっと まえから わだいに なって いるようです。こういった ことを ぎろんする ひとたちは、てんのうせい そのもの、てんのう という そんざい じたいは 「せいじてきで ない」と かんがえて いるのでしょうか? そう かんがえてるので なければ、ろんりてきに いって、その「せいじ りよう」が もんだいに される はずが ありません。

 しかし、あらためて いうのも ばかばかしいですが、てんのうせい そのものが きわめて せいじてきなので あって、umeten さんが おっしゃる とおり、てんのうは つねに せいじ りようされて いる わけです。


天皇は常に「政治利用」されている。○か×か - こころ世代のテンノーゲーム

そもそも象徴などという、体よく言っても欺瞞、悪し様に言えば嘘も方便でしかないものを、さも当然のようにとらえるというのは、酔っぱらいが「俺は飲んだ方が調子がいいんだ」とクダを巻きながら車を運転するようなものである。


 では、「てんのうせいが せいじてきである」とは どういう ことか?

 この といに たいしては、さまざまな アプローチが ありうるでしょうが、つぎの ふたつの てんが じゅうようだと おもいます。


  • はいせんご(敗戦後)の てんのうせいは、アメリカ がっしゅうこくの いこう(意向)ぬきには そんぞくできなかったで あろうし、また アメリカが せんりゃくてきに りようする ために そんぞくさせた ものである、という こと。したがって、にほんの ほしゅ せいけんと アメリカとの きょうはん かんけい(共犯関係)が もんだいに されなければ ならない。
  • アメリカは、せんぜんの にほんの ていこくしゅぎを ひきつぐ かたちで、あらたな ていこくしゅぎしゃとして ひがしアジアに くんりん(君臨)して いる こと。したがって、にほんと アメリカは、ひがしアジアに おける せんぜんから こんにちに つづく しょくみんちしゅぎの きょうはんしゃ(共犯者)であり、その めいはくな はんざいせい(犯罪性)を たしゃから とわれたり、あるいは みずから じかくしたり する ことを さけたい という よくぼうを きょうゆう(共有)して いる。

 おそらく、ここに、はいせんごから こんにちに いたるまでの、にほんの すべての あいこくしゃ ないし ナショナリストどもの きわめて げれつで はじしらずな ありようが ゆらいして います。「すべての」と かいたのは、うよくは もちろんの こと、てんのうせいを ようにんする リベラルや さよくも ふくめての はなしを したいからです。

 うえの ふたつの てんを ふまえると、にほんの ナショナリズムが ひつぜんてきに げれつで はじしらずな ものにしか なりえない こと、そして その げれつ きわまりない にほんじんの ナショナリズムが てんのうせいと みっせつに かんけいして いる ことが りかいできます。




 この ブログでは たびたび いんようして いるのですが、こんかいも さかい・なおき(酒井直樹)さんの ぶんしょうを さんこうに して います。

 さかいさんは、2000ねんの NHKの ばんぐみ「問われる戦時性暴力」の かいざん・けんえつを だいざい(題材)に とりながら、「日本と合州国の間で働いている空想上の分離*1の メカニズムを ぶんせきして います。かなり ながく なりますが、いんようします。


 ……この分離のお陰で、日本と合州国での戦後天皇制が言説としては連続的であり、共犯性をもっていることが見え難くなってしまうのである。ここで分離という言葉で私が示そうとしているのはこういうことである。

 あきらかに、戦後の天皇は合州国によって作り上げられたものであり、それは満州国の皇帝制が日本の制度であった意味で、戦後の天皇制は合州国の発明になるものであった。確かに満州国皇帝溥儀は清朝最後の皇帝でもあったから、満州国を清の再興と考え清朝との連続性において肯定する満州国民主義者をあえて想定できないこともない。ちょうど戦後の日本国民の一部が天皇裕仁に向かってしたように、溥儀の存在を満州国民統合の根拠と看做し、彼の存在に基づいて満州国家の正統性を擁護しようとする満州国民主義者がいたとしても、そのような仮説そのものは全く不可能ではないだろう。そのような事態が本当に存在したのなら、満州国植民地経営のための全く形式的な正当化のために溥儀を持ち出してきた帝国主義者である「日本人である私たち」は、このような満州国民主義者を躊躇なく愚かしいと看做すだろう。同時に、帝国主義者としての「私たち」の欲望を充してくれる満州国民主義者に、ある種の、憐憫を含む愛着さえ覚えることになるだろう。彼らは帝国主義者を密かに翼賛する国民主義者ということになる。彼らの国民主義は、植民地主義から国民を独立しようとする古典的な国民主義とは似て非なるものになるだろう。

 もちろん、「私たち」の「日本人としての自尊心」はこのような被植民者の欲望を経由して充足されるのだから、「私たち」の欲望を満足してくれるこの倒錯した満州国民主義者に対しては、もちろん口に出して言わないだろうが、「なんと可愛い奴らだろう」と「私たち」は密かに感じてもおかしくはない。……彼らに対する哀れみを口に出していわないようにするのは、満州国の独立国としての建前を擁護したいならば、日本の帝国主義者と満州国の国民主義者のあいだの欲望の絡み合いは否定されなければならないからである。そのために、彼らにむかって、満州と日本は全く分離していること、お互いに独立していることを「私たち」はいい募るだろう。もちろんこれは空想上の事態であるが、同様の事情が戦後天皇制にはある。太平洋を跨いで、日米の欲望の絡み合い(抱きつき合い)とその否認としての日米の分離があるのである。

 日本政府と日本の保守勢力の大部分はこの合州国が作り上げた制度を全面的に肯定し協力してきたから、戦後に定着した天皇制は合州国と日本の間のいわば合作であると考えるのが妥当であろう*2


 アメリカと にほんによる 「がっさく(合作)」として つくられた せいどには、ここで あげられて いる てんのうせいの ほかに、じえいたいを くわえても よいでしょう。

 じえいたいも また、てんのうせいと おなじく、にほんを じゅうぞくさせる ために アメリカによって つくられた せいどで ありながら、にほんの 「どくりつせい」を えんしゅつする こうかを はっきして います。

 そもそも、じえいたいは、ちょうせん せんそうへの しゅつげきで てうすに なるせんりょう ぐん(占領軍)の ちあん いじ のうりょくを おぎなう「けいさつ よびたい(警察予備隊)」として せつりつ された ものです。げんざいの じえいたいも、しみん うんどうを かんし(監視)する ことを、その にんむの ひとつと して います*3。つまり、じえいたいは ほっそく いらい、その ぶきを にほんの じゅうみんにも むけて きた わけです。

 ところが、にほんの ナショナリストは おろかな ことに、じえいたいが 「にほん(じん)を まもる ぐんたい」すなわち「どくりつ こっか にほん*4」の あかしであると かんちがい して おります。おどろくべき ことです。

 てんのうせいも これと おなじで、にほんを じゅうぞくさせる しゅだんで ありながら、そうした じったいを おおいかくす はたらきを もって います。はいせんと れんごうこくに よる せんりょうを へた あとも、にほん せいふは いっかんして アメリカがっしゅうこくの かいらい せいけんで あったし いまも そうである はずですが、「ばんせーいっけーの やんごとなき テンノーヘーカが どくじの でんとうと ぶんかを もった にほんの そんざいを ほしょうして くれる」という わけです。




 わたしは さきに、ナショナリストが 「おろかな ことに」「かんちがい」して いるのだ という かきかたを しました。しかし、こういった 「かんちがい」は、おろかさに ゆらいする という よりは、むしろ 「じこ ぎまん」と いうべき ものです。

 げんじょうに おいて、にほん こっかが ぐんじてき・がいこうてきには がっしゅうこくの せかい せんりゃくの コマでしか ないこと、にほんの ナショナリストが ナショナリストであるにも かかわらず、そうした げんじょうを ただ だらしなく ついにん(追認)して いる という こと。これは みたままの あからさまな げんじつで あって、それが みすごされて いるのは ただ たんに おろかさに よるものとは かんがえられません。

 だから、もんだいに すべきなのは、さかい・なおきさんの いう 「にちべいの よくぼうの からみあい」であり、「きょうはんせい(共犯性)」です。




 さきに のべたように、にほんと アメリカは、せんぜんから こんにちまで つづいて いる ひがしアジアに おける しょくみんちしゅぎの きょうはんしゃ(共犯者)です*5。そして、その はんざいせい(犯罪性)を たしゃから とわれたり、あるいは みずから じかくしたり する ことを さけたい という よくぼうを きょうゆう(共有)して います。

 アメリカは にほんの せんそうと しょくみんち しはいの せきにんを はなはだ ふじゅうぶんにしか とわずに、にほんを 「こくさい しゃかい」に ふっきさせた。にほん せいふも アメリカの せかい せんりゃくの コマと なる ことを えらんだ。

 いわば、おたがいが おたがいの しょくみんち しゅぎを みすごす という かたちで、この ふたつの こっかは きょうはん かんけいを むすんで いる わけです。




 そして、はいせんから げんざいに いたるまで、にほんの ナショナリズムは しゅくめいてきに このような じょうけんを まぬがれる ことが できないのです。つまり、こてんてきな ナショナリズムが 《かくめい》 もしくは 《たたかい》から かたちづくられるのと ちがって、にほんの ナショナリストたちを たばねる ものは、かれらが 「われわれ」と よぶところの しゅうだんの しょくみんちしゅぎ・しんりゃくの せきにんから めを そむけ ひにん(否認)する、はじしらずで ぶざまな ふるまいの ほかに ない という ことです。




 こてんてきな ナショナリズム、すなわち 《ブルジョア かくめい(フランス かくめいなどの 「しみん かくめい」)》や 《しょくみんち かいほう とうそう》を つうじて かたちづくられる ナショナリズムは、ふへんしゅぎてき(普遍主義的)な りねんを せっちゃくざいに して ひとびとを むすびつけます。そうした かくめいや せんそう、あるいは うんどうは、《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》への ていこうとして たたかわれるのですから、そこでは ひつぜんてきに 「じゆう」「びょうどう」「しゃかいしゅぎ」といった ふへんしゅぎてきな りねんが かかげられます。

 わたしが ここで 「ふへんしゅぎてき」と いったのは、そうした りねんは、それが かかげられるや いなや、せかいじゅうの あらゆる 《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》を もんだいにし、ひはんする かのうせいを、よくあつされた すべての にんげんに むかって ひらくからです。その りねんを かかげた ひとや みんぞく しゅうだんも、もし しはいや よくあつに かたん(加担)するならば、その みずから かかげた りねんに よって、たしゃからの ひはんと ていこうに さらされるでしょう。

 ナショナリズムの うんどうの せいかとして あたらしく うまれた こっかも、やはり よくあつや さべつなどを おこなうでしょう。しかし、そうした よくあつや さべつは、ナショナリスト じしんが かかげた りねんによって たえず ちょうせんを うける かのうせいが すでに ひらかれて いるのです。




 これに たいし、にほんの ナショナリズムは、アメリカと けったくして しょくみんちしゅぎに ほおかむりし ごまかそう という よくぼうによって 「にほんじん」どうしが むすびつこうとする もので ある いじょう、ふへんしゅぎてきな りねんを もちようが ありません。だから、「にほん こゆうの でんとう(伝統)」だとか 「ちすじの けいぞくせい」だとかを でっちあげるしかない。それが てんのうせいです。アメリカとの 「がっさく(合作)」に よって せんごに つくりあげられた てんのうせいが、「にほん こゆう」だとか 「でんとう」だとか もちあげられる ことの こっけいさ。

 にほんの ナショナリズムが しょくみんちしゅぎの 《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》にたいする ほおかむり、ごまかし、いなおりの さんぶつでしか ない ことは、「在日特権を許さない会」や 「新しい歴史教科書をつくる会」などの うんどうに、もっとも てんけいてきな かたちで あらわれて います。

 かれらを むすびつける ものが、にほんの しょくみんちしゅぎの せきにんを とう こえに たいする はんどう(反動)に ほかならない ことは、あきらかです。

 かれらは 「わたしたち」が せきにんを とわれうる ことを あらかじめ しって いるからこそ、それを とわれる まえに、いわば せんせい こうげき(先制攻撃)の ごとく、それを ひにん(否認)しようと するのでしょう。

 もう いちど、さかい・なおきさんの ろんぶんから いんようします。


 それにしても、これは興味深いことではないだろうか。人は、空想された恥のシナリオと空想された告発のシナリオを恐れるからこそ、恥から避けようとし応答を拒絶する。本質的に、「恥の不安」は空想の次元で起こる、優れて文化的な事件なのである。既に、人は有罪の嫌疑を受けることを予想しており心の中では承知しているのである。恥と責任の忌避がしばしば暴力的な身振りを伴うのはこのためなのではないのか。無恥とは自らが恥をかくことの空想への反応であり、無責任は問責者への空想上の応答なのである。つまり、無恥と無責任を決め込む者も、推定された問責者に応答してしまっているのである*6


 「ざいにち とっけん」とは よく いった ものです。また、かれらは 「ざいにち ちょうせんじんが にほんじんを さべつして いる」と いいます。

 あきらかに、かれらは じぶんたちが とわれうる せきにんとは なんなのか、ぐたいてきに しっている。つまり、にほんにおいて にほんじんが ちょうせんじんに たいし とっけんてきな たちばに あり、そうした みずからの たちばを いじする ことが ちょうせんじんに たいする さべつである こと。その ことが まさに せきにんとして とわれうることを こころの なかで しょうちして いるからこそ、それが とわれる まえに 「じえいの ための せんせい こうげき」を しかけようと するのでしょう。

 また、かれらが しばしば こうげきの ために ならべたてる 「ふほう せんきょ」「らち」「レイプ」とは、まさに にほんじんが しんりゃく せんそうと しょくみんち しはいにおいて おこなって きた ことです。




 ただ、ここで もう ひとつ とわなければ ならないのは、これは 「かれら」の ような エキセントリックな うよくだけの もんだいなのか、という てんです。

 げんじつに よくあつや さべつが ある いじょう、それに よって りえきを うけとって いる ひとは、よくあつ・さべつを うけて いる ひとからの いぎ もうしたて・ひはんに さらされる かのうせいから のがれられません。もちろん、ほとんどの ひとは、ある ばめんでは よくあつする がわに あり、べつの ばめんでは よくあつされる がわに ある、というように、その かんけいせいは こみいって おります。しかし、というか だからこそ、わたしたちが よくあつや さべつに たいして とりうる たいどは、ふたとおりしか ないように おもいます。

 ひとつには、おたがいが おたがいの ふせいぎを みのがしあう という かんけいに とじこもろうと する こと。もう ひとつは、ふせいぎを ふせいぎと うけとめ、それを ただして いく ために やれる ことを やって いく こと。

 むろん、じぶんに できる ことは かぎられて いるし、ひとに よって 「できる こと」の ていどと ないようは ことなるでしょう。けれども、たいどとしては その つど ふたつの うち ひとつを えらんで ゆくより ほか ありません。

 そして、よくあつや さべつを つくりだして いるのは、ざいとくかいだけでは ないのだから、これは わたしたちの ほとんど、とりわけ にほん こくみんという、にほんに おいて よくあつ・さべつする がわに たって いる ものが れいがい なく とわれる せんたくだと おもいます。

*1:きょうちょうは いんようしゃ。

*2:酒井直樹『日本/映像/米国――共感の共同体と帝国的国民主義』2007ねん(青土社) 226-7ページ。

*3:さんこう リンク → ポラリス−ある日本共産党支部のブログ 自衛隊が市民団体監視 「内部文書」を共産党が入手

*4:ここは ちからを こめて 「にっぽん」と かいた ほうが よろしかったでしょうか?

*5:ここでは、もちろん こてんてき(古典的)な 「しょくみんちしゅぎ」の がいねんを かくちょう(拡張)して 「しょくみんちしゅぎ」と いって おります。つまり、つぎの ふたつも ふくめて、「しょくみんちしゅぎ」の もんだいと とらえて います。
(1)めいもくじょうは しょくみんち しはいから 「どくりつ」した 「しゅけん こっか」に たいし 「もと・そうしゅこく(元宗主国)」による じじつじょうの しはいが およぶ 《しん・しょくみんちしゅぎ(新植民地主義)》の もんだい。
(2)がいこくじん じゅうみんに およぼされる しょくみんちしゅぎてきな ぼうりょくと さべつの もんだい。

*6:261ページ。

本田治美本田治美 2010/01/26 03:40 色々な輩も居る。天皇は2000年前以前から居られた。小沢とか,酒井の様に昨日今日生まれては消える雫の様な共産主義者とは違う。屁理屈をこねて,アメリカや自衛隊と結びつけてとんでもない理論を展開している。ようするにアメリカは嫌いだ、自衛隊は嫌いだ,日本国旗は嫌いだ君が代は嫌いだ、よって天皇制も無駄な事と屁理屈をのべてダラダラダラダラもっともらしい事を如何にも偉そうに喋っている。屁理屈をこねて,今の日本が経済大国?になったのが如何してか北朝鮮にとっくに原爆を打ち込まれていないのは如何してか等判らないしそのような勝手な事を喋っても特高、東検にぶち込まれないのも誰のお陰か判らない屁理屈屋だ。嫌なら中国に移り共産党に入れば良い。腐敗しきった小沢を連れて。莫大な税金の無駄を防げる。中国で労働キャンプに入れられて何も食ず餓死するのが落ちだ。

2009年12月01日(火)

かんじを つかわないと ひょうげん できない こと

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 ひとつ まえの きじに いただいた id:tikani_nemuru_M さんの コメントへの おへんじです。おへんじが ちょっと ながく なったので、あらたに エントリを たてる かたちで、こちらに かきます。


tikani_nemuru_M さんの コメント

やねごんの基本的な立ち位置について異議をさしはさむつもりはない。

と、前置きしたうえで


話し言葉と書き言葉は異なると考える。

例えば、数式は一種の記述言語であといえる。

そして、僕は数式という記述言語を上手に読み書きすることはできない。数式という記述言語を十全に読み書きできない人は、漢字が苦手な人よりはるかに多いだろう。しかし、ある種の記述をするためには、数式という記述言語は必要不可欠であることはわかる。数式という記述言語を扱えるようになるためのハードルは高いが、それゆえに数式という記述言語は有用であるともいえるわけだ。

伝えるべき内容と伝達する形式にはかかわりがあるのであって、漢字を用いた文でなければ伝えられない内容もあると僕は考える。よって、やねごんの論旨には部分的には同意できない。


 すうしきに よって こそ きじゅつ できる ことがらが ある というのは、その とおりだと おもいました。すうしきで きじゅつされた ことがらを、たとえば にほんごで あます ところ なく きじゅつ できるとは おもえません ものね。

 おなじように、コミックには コミックの、はいくには はいくの、さんぶん(散文)には さんぶんの、おんがくには おんがくの、それぞれの 《けいしき》に おうじて でんたつ しうる 《ないよう》の かのうせいに ちがいは あるのでしょう。


 ただ、ことなる 《げんご》どうしの、さらに いえば おなじ げんごに おける ことなる《ひょうき》どうしの あいだで、おんなじ ことが どこまで いえるか、となると、やや びみょうな きも します。

 まず、ことなる 《げんご》どうしで どうか、という こと。

 たとえば、ぺきんご(北京語)で でんたつ された 《ないよう》を、にほんごに おきかえる ことは、さきの れいの ばあいより ひかくてき かんたんでしょう。

 さらに、かんぶんの よみくだしや、きんだい いこうに おうべいの げんごの ぶんけんの ほんやくが、「にほんご」そのものを つくりかえる ことで あったように、ほんやくは、ほんやく もと(翻訳元)の げんごが ほんやく さき(翻訳先)の げんごに はたらきかけて(干渉して) へんかを もたらす ことでも あります。

 このように げんご という ものを、「こていてきな もの」と とらえるのでは なく、ゆうづうの きく 「へんかしうる もの」と みるならば、ぺきんご という 《けいしき》で ひょうげん しうる 《ないよう》は、きほんてきに にほんごという 《けいしき》でも――「十全」と いえるか どうか わかりませんが――ひょうげん できるのでは ないかと おもえます。

 もちろん、それぞれの げんごの つかいてが おかれた ぶんかてき しゃかいてきな はいけいの ちがいに よって しょうじる ほんやく ふかのうせいは あるでしょう。しかし、それは おなじ げんご(にほんごなら にほんご)の つかいて どうしでも いえる ことで あって、げんごの 《けいしき》の もんだいでは ない。


 さらに これが 《ひょうき》と なると、その 《けいしき》に よる でんたつ しうる 《ないよう》の ちがいは、「ない」、あるいは あったと しても 「ごく わずか」である、と いえないでしょうか?

 たとえば、ひらがなで 《ひょうき》された ぶんしょうは、カタカナや ローマじ、あるいは てんじ(点字)の 《ひょうき》に うつし かえても、ほんしつてきに なにも かわらないでしょう。


 では、「かんじ かな まじり → かながき」では どうか?

 この ばあい、まず もんだいに なるのは、どうおん いぎごだと おもいます。そして、もう ひとつの もんだいは、かんご(漢語)には 「ききなれない」 という いみで むずかしい ことばが たくさん あること。

 この 2てんを のぞけば、「かんじ かな まじり→かながき」という 《ひょうき》の うつしかえは、「ひらがな → カタカナ」という うつしかえと ちがいが ないのでは ないかと かんがえて います。

 かんじ かな まじりで あろうと、かながきで あろうと、ぶんぽうてきに おなじ 「にほんご」という げんごの わくの なかでの 《ひょうき》の ちがいに すぎません。この てんでは、《けいしき》によって きじゅつ できる 《ないよう》に ちがいが しょうじる という ことは ありません。

 したがって、やはり ごい(語彙) レベルでの 2つの もんだいを どうするか という てんに、もんだいは しぼられそうです。ひとつには、どうおん いぎごの おおさ。もうひとつは かんごには ききなれない ことばが おおい という こと。

 2つめの もんだいに ついては、ひとつ まえの きじに id:y_arim さんから いただいた コメントの へんじで、げんじてんでの わたしの かんがえかたを かきました。y_arimさんの コメントと あわせて いんようします。


y_arim さんの コメント

基本的にこの考え方に賛成なのだけれども、以前から気になっているのは「ただかな書きにするだけでよいのか?」という点。

やねごんさんの文章には数多くの「元・漢語」が用いられているのだけれども、漢字と漢語は不即不離の関係にあって、漢字を経由せずして後者を理解することが可能なのだろうかというのがとても気になる。もしかすると、ただかなで書いただけの文章というのは結局、元文章を読みこなせる程度には頭のいい(嫌な言い方だけども)ひと向けのものでしかなく、ある程度〜あるいは全面的に漢語を「開く」ことが必要なのかもしれない。

日本語検定の初級向け教則本などはほぼかな書き状態だけれども、あまり込み入った漢語は用いていなかったように記憶している。あと、たとえばラテン語が俗ラテン語を経てイタリア語・フランス語・スペイン語・ルーマニア語などへ分化していく過程では、高度なラテン語はもはや民衆が理解できなくなっており、より易しい単語を組み合わせてそれに近い表現を作り出すということが起こっている。より実践的には、そういうことが必要なのかもしれない。

>わかりにくい どうおん いぎごが おおすぎるのが もんだいだと いうなら、あたらしい ことばを すこしずつ つくって いけば よい だけの はなし

というのが、それにあたるようにも思われるけれども。


わたしの おへんじ*1

id:y_arim さん。

 「漢字(かんじ)と漢語(かんご)は不即不離(ふそくふり)の関係(かんけい)」という ことは、じつは あまり いえないのでは ないかと かんがえて います。

 ことばを みんしゅかして ゆこうとするとき、とくに もんだいに なるのは、きんだい いこうに えいご・どいつご・ふらんすご などから ほんやくして つくられた 漢語(かんご)だとおもいます。それらの 漢語(かんご)の おおくは、漢字(かんじ)を けいゆすることが かならずしも りかいを かんたんに する ことにつながらないし、それどころか りかいの さまたげに なる ものが おおいのでは ないでしょうか?

 おもいつく ままに あげてみると、「社会(しゃかい)」「概念(がいねん)」「表象(ひょうしょう)」「観念(かんねん)」「経由(けいゆ)」「着服(ちゃくふく)」「相対性(そうたいせい)」「現実(げんじつ)」。どれも 訳語(やくご)を つくった ひとの くふうと くろうの あとがかいま みえるようですけれど、漢字(かんじ)から 漢語(かんご)の いみを るいすい(類推) するのは むずかしい ように おもいます。この うち「社会(しゃかい)」「着服(ちゃくふく)」「現実(げんじつ)」と いった はなし ことばとして あるていど ていちゃく(定着)したことばは、「しゃかい」「ちゃくふく」「げんじつ」と かながき しても、とくに さしつかえは ないでしょう。

 いっぽう、「表象(ひょうしょう)」「相対性(そうたいせい)」といった かならずしも ていちゃく して いない ことばは、かながき しようが かんじで かこうが おなじように わかりにくいのではないでしょうか(「ていちゃく した」と いえるか どうかは、よみてにも よるわけで、わたしは ふよういに たとえば「ふへんてき(普遍的)」といった ことばを かながきして しまう ことが あるのですけどね)。

 だから、もんだいは、こういった翻訳語(ほんやくご)の ばあい、漢語(かんご)を かながきする ことに あると いうより、ききなれない、あるいは よみなれない ことばで あるが ゆえに りかいがむずかしい という ところに あるのだと かんがえて います。

 だから、まず だい1に かのうな かぎり そういった ことばを もっとかんたんな ことばで いいあらわす ことが ひつよう。

 ただ、いっぽうで そうやった つかえる ごい(語彙)を せいげん することで、ひょうげんの はばが せまく なって しまうのは さけたいとも かんがえて います。だから、ひつようならば あまり ていちゃく していない 元・漢語(もと・かんご)も つかいつつ、ぶんみゃくで その いみが りかい できるよう、ぶんしょうの かきかたを くふう する こともひつようかな、と。たしょう ききなれない・よみなれてない ことばが あっても、「つまり……」「というのは……」とか やって ていねいに おなじ ないようを はんぷく して かく ことで、りかいの しやすさと なんかい(難解)な ことばを すてない ことは、りょうりつできるんじゃないかと おもいます。


 tikani_nemuru_M さんの 「漢字を用いた文でなければ伝えられない内容もある」という してきは、ごい(語彙)の レベルで、やはり いまの じてんでは 「ただしい」と みとめざるを えないと おもいます。

 ただ、y_arim さんへの おへんじで のべたような じっせんを こんご つみかさねて いく なかで、これを のりこえて いけるのでは ないか、とも おもうのです。ことば という ものを、「こていてきな もの」と とらえるのでは なく、ゆうづうの きく 「へんかしうる もの」と みるならば。

 その いみで、tikani_nemuru_M さんからは、しゅくだいを いただいたと かんがえて おります

*1:ごじ だつじを なおし、かいぎょう(改行)を ふやしました。また、かんじには よみがなを そえました。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2009/12/02 11:24 おお、ていねいなへんじをありがとう。
はんろん、というわけではなく、エントリをたてておこたえしたい。
ただ
すこし、じかんがかかります。

元質問者元質問者 2009/12/02 12:42 形を変えても変わらない内容。
それは、正音の帝国を導かないか。
ゴーストにただ一つの体を与えたとたん
てあしはもげる。
抱括と排除 帝国と抵抗
あらがうさきが、ただしきただひとつがのさばること
ならば、
あたらしきことばのうごめきは、
漢字さえ含みうるのでは。
そこんとこ与露死苦。

lever_buildinglever_building 2009/12/04 08:55 tikani_nemuru_M さん。
ありがたいです。ゆるりと きながに おまちして おります。

lever_buildinglever_building 2009/12/04 09:22 元質問者 さん。
 いただいた コメントを じゅうぶんに りかいできたか、こころもとないのですが。
 「正音の帝国を導かないか」というのは じゅうような ごしてきだと おもいました。かながき、というか ごじゅうおんずの はらむ イデオロギーには じかくてきで ありたいと かんがえて います。
 きんせいの こくがくしゃが ごじゅうおんずの システムを あみだした ことには、だくおん・はんだくおん・ようおん・はつおんを、いわば 「ちゅうごく ゆらいの おせんされた」おととして はいじょしようと する いしが あった らしいですしね。
 また、わたしは とうほく ちほうの しゅっしんなので、がっこうで おしつけられる かなでの 「にほんご」ひょうきは、じもとの ことばと そぐわない わけです。「おひさま」は どっちかと いうと 「おへさま」に ちかい、とか。「寿司」は 「すし」でも 「すす」でも ないよなあ! とか。しょうがっこうの とき、こんわくした おぼえが あります。
 うーむ。

元質問者元質問者 2009/12/04 14:21 サキノ コメントハ ミジカイ ヤスミジカン ニ ナレナイ ケイタイ~デンワ デカイテ ミマシタ。
ハショリスギ デシタ。
デスガ イト ハ ツタワッテイル ト カンジマス。

ケイタイデンワノ ニュウリョク ト カナ~ワカチガキ ハ アイショウガ イイミタイ。
ラクデス。
シカシ マダ ニュウリョク ノ シヤスサ ト ハンドク ノ ヤサシサ。
シックリ クル カネアイ ガミツカリマセン。

ヒッキグデカク コトモ ゼンテイニ オキタイ。

カナ ニ ヒラクト 画数 ガ フエテシマウ コトバ
タトエバ 入力 トカ
テイコウガアリマスネ。
「カクスウ」 モ ドウオン~イギゴ ガオオソウデ
ヒラクコトニ テイコウ ガアル。
イイカエ ガオモイツカナイ。
漢字 ニ ツイテハ
ソレヲ モジ ト シテデハナク
タンゴ トシテ ミル ホウシン ヲ タテテイマス。
キホン ヲ ヒラク ニ キメテモ
ヒラキタイ ヒラキタクナイ ニ チガイ ガデテクル。

コノ カタチ・イイカタ ジャ イエテル キガシナイ ンダヨ
トイウヨウナ カラダノ ハンノウ ハ ダイジ ニ シタイ。
トウイツ~ゲンゴ ヲ ヨリ 万人 ニ ベンリ ナヨウニ ニ ミガク
イッポウデ、
ベンリナ テイコク~ゲンゴ ヘノ 異言語 タチノ テイコウ ノ ヨスガ デモアリマスシ。

アト ムカシノ ホン ヤ ウタ トノ セッショック ノ ヤサシサ。
コレハ ジュウヨウ ダト オモウ。
アオゾラブンコ ヲ ヨク ヨンダリ
ムカシノ ウタノ カシ ヲ オボエヨウトシタリ
シテルノデスガ
ルビ ツキ カンジダト トテモ タスカリマス。
カナガキ ノミ ダト ツライ。
ヨリ タンジュンニ セイリ サレタ ニホンゴノミ ノ ナカデ
ワタシハ ソダッタノ デスガ
ルビ プラス カンジ ノ ホウガ
シラナイ コトバノ カイドク ガヤサシイ。
ヒョウジュンゴニ ナイ ハツオン ヲ アラワセルヨウニ
アタラシイ カナ ガ カンガエラレタリ モ シテイマス。
コノ 異語カナ ルビ プラス カンジ(イミ ヲ ホカン ・ホンヤク スルタメノ)
トイウノガ コジン~テキ ニハ 最強 ダト オモイマシタ。

元質問者元質問者 2009/12/04 15:02 追記:
沖縄民謡歌詞表記 で ルビ付き漢字 での 歌詞表記 が少なくなった流れがありますが
おそらく 日本語 との 独立性 が 意識 されているんじゃないかと思われます。

元質問者元質問者 2009/12/11 09:58 (こちらのブログをふたたびおとずれ、おのれのコメントを 読み返していたら すこしむかついてしまった。わたしのコトバは、わたしがにくむ 類型が発するコトバに 似る。)

こちらの記事に、わたしは、内容、ことば、表記、を切り分け、表記を独立に従属して扱えるというような手つきを、読み取り、それへ違和感を持つニンゲンとして何かを発言したいという欲求がありました。

その違和を発する思考のうち、以前より、も少し、伝えられるだろうことを、伝わるように、書けるかもしれない。

以下。最後になるたけ単純に。

1: 視覚での表記が確立していない、音声由来の コトバ がある。
2: 逆に視覚表記が確立し、音声による「表記」が定まらずぼやけてしまう
   あるいはそもそも「表記」の難しい コトバ がある。
2.5: 視覚表記と音声表記が一意に一致する コトバ のありかたは
   ひとつの理想として想定できるかもしれない。
3: かな分かち書きは、1のコトバを視覚的に固定した画面に表記することを指向する。
4: 漢字かな混じり文は、2のコトバに変化しうるまたは含む。
5: 不特定多数に公表し多くに一意に受け取ってもらえるだろうと期待しうる、事は、
    一つの大きなチカラだ。
6: かんじかなまじりぶんを、ただ、かながきにするとき、あらわれるおぼつかなさ、
    共通背景・文脈の参照度の高まり、は、1、2、のコトバの翻訳の困難に応じている。
7: わたしがここにこうやってかきつつ、かんがえる、そのときすでに 視覚・表記の定型
    に依存している。
    そしてそのままただおきかえて 1のコトバに返すわけにはいかない。
    1の側から言えば、2のコトバに侵されている。
8: めをつむる。
9: (OperaのVoice機能ってやつを試してみてるが作動しなくて困っているところである。)

lever_buildinglever_building 2009/12/12 04:36 元質問者 さん。

バタバタして いて
すっかり おへんじが おそくなりました。
とても かんがえさせられる コメントを
いただいて かんしゃして おります。

かんれんするか どうか
わかりませんけれど。
かんぶんは、
ラテンごが ヨーロッパにおいて そうだったように、
ひがしアジアにおける ていこく(帝国)の きょうつうごであった
わけですよね。
もっとも、これを よみかきできたのは
ごくごく いちぶの ちしきじんに かぎっての ことでしたが。

いっぽう、きんだいの こくみんこっかの 「こくご」というのは、
そうした かんぶんてきな ぶんみゃくや
その よみかきに ひつようと された そよう(素養)から
あえて だんぜつさせる かたちで、
あたらしく つくられた。
そのように りかいして おります。
にほんごは もちろんの こと、
きほんてきには かんじのみで ひょうきされて いる
げんだい ちゅうごくごも(わたしは むかし ちょっと かじった ていどで、よく しりませんが)
そう いえると おもいます。
ぐたいてきに いえば、
こくみん こっかの げんごの ひょうきとは、
ちゅうごくごや にほんごの ように
かんじが つかわれて いても、
それは 「おんせい」に たいする いわば 「あてじ」に すぎない。
その いみで、
ひらがなや アルファベット、てんじ(点字)に たいして
かんじを
なにか とっけんてき・とくしゅな ものとして あつかう ことは
できない。

わたしは きほんてきには そういう りかいの もとで
かんじが 「ふごうり」だと のべて きたのですけれど。

しかし、質問者さんから いただいた コメントを
よみながら、
「わたしの しゅちょうって、
 ふよういに やると
 こくみんこっかの イデオロギーに のっかる ことに
 なるかも」
という ような ことも おもいました。
たとえば、《おんせい》と 《ひょうき》の あいだには
つねに ずれが ある はずですが、
それが 「いっちするのが あたりまえ」
あるいは 「いっちしなければ ならない」と
かんがえるのは、あぶない。
かんじを はいじょして
ひょうきの システムの 「たんじゅんか」を もくろむ ばあい、
そこに、
ある たんいつ(単一)の 《おんせい》の たいけい(体系)の もとに
《ひょうき》を じゅうぞく させうる(させて よい)
という ぜんていは ないか?

質問者さんが おっしゃる
「内容、ことば、表記、を切り分け、
 表記を独立に従属して扱えるというような手つき」
への いわかんとは、
そこらへんに かんけいして いるのかな
という きが しました。

まだ かんがえを うまく まとめられないのですが……。

元質問者元質問者 2009/12/12 13:56 私は混乱しつつ書いています。
なにか、せかしたり、非難したり、のつもりはないので、どうかのんびりと。

元質問者元質問者 2009/12/12 22:59 ふりがな なしで よめる事が目指されたために、ルビが消えていく、という歴史
を読んでました。
ルビの無い 「漢字混じりかな文」は、発生した時は
ルビが無くても読める、やさしい口語文の理念の現れで
今のそれは アリバイ なのですかね。

漢字が難しいことが、多数に共有されていた時、総ルビは 特殊ではなかった。

制度を確立するということは、より苦しい少数派を生み出すことなんでしょうか。

私は全然別なところでは、制度の確立に賛成したいと考えている人間ですが。

そういうことを考えていました。

2009年11月27日(金)

かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか?

| かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか? - やねごんの にっき を含むブックマーク

 ひとつ まえの きじを ひじょうに おおくの かたに よんで いただいたようです。まったく よそう して いなかった ことなので、おどろいて おります。とても ありがたい ことです。


じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください


 この きじに たくさんの かたが ブックマークを して くださり、また コメントを かいて くださりました。きじの ないように ついての さまざまな コメントも いただいたのですが、わたしが かんじを ほとんど つかわずに ぶんしょうを かいて いる ことに ついての コメントも たくさん ありました。

 ぜんかいの きじからは だいぶ あいだが あいて しまったのですが、きょうは、そうした かながきに ついての コメントを よんで かんがえた ことを かいて みたいと おもいます。


きじの ブックマーク・ページ(1)

きじの ブックマーク・ページ(2)

ブックマーク・ページの ブックマーク・ページ

ブックマーク・ページの ブックマーク・ページの そのまた ブックマーク・ページ


 いじょうの 4つの リンクさきから ブックマーク・コメントを いんよう させて もらいます。


b:id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。


 わたしが ブログで かながきを じっせん して いる りゆうに ついては、これまで 5つの きじで のべて きました。


  1. 漢字について
  2. 「学校という空間」をこそ もんだいに しよう
  3. 表記が 生成される 場に たちかえってみる
  4. こくご はいしろん じょせつ
  5. 「こくご はいしろん じょせつ」への ほそく

 5.の きじだけは、「かんじ・かな まじり ぶん」という にほんごの 《かきあらわしかた》の もんだいには ほとんど ふれて おらず、おもに 《げんご》の もんだいを ろんじて います。にほんで はなされて いる さまざまな げんご*1の なかで にほんごだけを 「こくご」として とっけんてきに あつかう ことを やめましょう という ていあんを おこなって います。

 ただ、この 《げんご》の もんだいと かんじ・かな まじりの 《ひょうき》の もんだいの ふたつを、わたしは きほんてきに おなじ ろんりで かんがえて おりますので、きょうみの ある かたは、5.も あわせて よんで いただけると さいわいです。


 うえに あげた 5つの きじは、どれも ながい ぶんしょうなので、ここで かんたんに わたしが かんじを なるべく つかわないで ブログを かいて いる りゆうを のべて おきます。

 それは できるだけ おおくの ひとが ぶんしょうを よんだり かいたり できた ほうが のぞましいと かんがえるからです。わたしは いっぽうでは よみかきが できなくても なんの ふつごうも なく せいかつできる しゃかいが りそうてきだと おもって います。しかし、にほんごの よみかきが できないと さまざまな めんで ふりえきを こうむって しまう という にほんしゃかいの げんじょうでは、そうした ひとたちが よみかきを みに つけやすい かんきょうを つくって いくという ことも どうじに おこなって いく ひつようが おおきいでしょう。

 また、わたし じしん、もじで かかれた ものを よみ、また かく ことに よって、さまざまな よき ものを いままで たにんから うけとって きたと おもいます。もちろん、わたしが ほんを よむ ことが できる ゆえに、かえって みおとしたり みえなく なったり して いる ことは あるでしょう。だから、いっぽうでは、たんじゅんに 「よみかきによって せかいが ひろがり、みかたが ひろがる」と いって よいのか、ためらいも おぼえます。すくなくとも、「よみかきの できる ひとが それを できない/しない ひと よりも ひろい せかいと ふかい ものの みかたを もって いる」などとは だんじて いえない ことは はっきり して います。

 とはいえ、わたしじしん よみかきの できる ものの ひとりである いじょう、よみかきの できない ひとに たいして「よみかきなど できなくても よい」と いう わけには いかないし、「よみかき したいけれど できない」という ひとが いる じょうきょうを ただして ゆく せきにんを おって いると かんがえます。

 その ためには ふたつの ほうほうが かんがえられます。ひとつは、よみかきの きょういくを じゅうじつさせる こと。もう ひとつは、よみかきを みに つける ための ハードルを ひくく することです。

 もちろん、ひとつめの かだいも だいじですが、とくに にほんごの ばあい、ふたつめの 「ハードルを ひくく する」ことの ひつようせいは きわめて おおきいと いわざるを えません。わたし じしん なんどか かいて きた ことでも あるのですが、ブックマーク・コメントでの つぎの Cunliffe さんの してきは じゅうようです。


b:id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。


 にほんごに ついて ひととおりの よみかきが できる ひとは、その しゅうとくに ひじょうな じかんと ろうりょくが かかる という ことを しらない わけでは ないでしょう。また、そうして かけられた じかんと ろうりょくの だいぶぶんが かんじの がくしゅうに ついやされて いる ことも。

 にほんの がっこう きょういくを 6ねん なり、9ねん なり うけた ひとで ないと、おびただしい かずの かんじと じゅくごを おぼえるのは きわめて こんなんな はずです。

 いうまでも ない ことだと おもいますが、にほん しゃかいの じゅうみんの うち、にほんの がっこう きょういくを うけた、あるいは うけられる ひとは その いちぶに すぎません。いっぱんてきに がっこうに かよう としごろを がいこくで すごした ひとも いれば、がっこうに かよえなかった/かよわなかった ひと、その なかには としを とってから よみかきを まなぼうと する ひとも います。また、にほんの がっこうに かよっても、かんじや じゅくごが じゅうぶんに みに つかなった ひとも おおぜい いるでしょう。

 あべ・やすしさんの つぎの ぶんしょうも あわせて よんで ください。


漢字が 排除するもの - hituziのブログじゃがー

漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。

もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。

わたしが「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を もつひと、知的障害者、日本語学習者です。

そうしたひとたちが文字情報にアクセスする権利を うばっているのが、いまある日本語表記に ほかなりません。漢字が障害となる どあいは、それぞれ ことなっています。けれども、なんらかの かたちで、漢字は障害として はたらいているのです。


 こうして かんじが つくりだして いる 「もじ じゃくしゃ(文字弱者)」の そんざいを してきしますと、こう いわれる ことが あります。すなわち、この ブログを よみに くる ひとたちの なかに そうした もじ じゃくしゃが そんざいするのか、と。いままでに なんにんかの ひとから そういう いみの ことは いわれました。「わざわざ だいたすうの どくしゃに とって よみにくい かながきで かく ひつようが ほんとうに あるのか?」と。

 こういう かんがえかたは、たとえば つぎの ような はっそうと ほんしつてきに ちがわないと おもいます。

「この まちでは くるまいすで あるいて いる ひとを みかけない。だから、わざわざ えきに エレベータを つけたり、スロープを つけたりする ひつようは ないだろう。」

 これは いっけんして ひどい いいぶんだと わかるのでは ないでしょうか? ひつような エレベータや スロープが ないからこそ、くるまいすで いどうする ひとが まちに でて これないのかも しれない。「はいじょ されて いる たしゃの そんざいが、わたしたちによる はいじょの けっかとして みえなく なって いるのではないか?」という かのうせいを かんがえなければ なりません。

 おなじ ことは よみかきに ついても いえます。ひらがなでも かきあらわせる ことを かんじで かく ことで、かんじを しらない ひとを はいじょ して しまって いるのだろうし、その けっか はいじょ されて いるる ひとの そんざいが みえなく なって しまって いる ことは あるでしょう*2

 だから、「いま この ばしょに いる ひと」だけでなく、「いま この ばしょに いない ひと」にも むけて、この ばしょを できるだけ ひらかれた ものに して いく こころみは じゅうようだと おもうのです。


 さて、せんじつの きじで いただいた コメントで おおかったのが、かながきの ぶんしょうが 「よみにくい」「よむ きが しない」といった ものでした。この きじに かぎらず、わたしは この ブログで かながきを はじめてから きじを かく たびに おなじ ことを なんども いわれて きたのですが、こうした はんのうは とても きょうみ ぶかいものだと おもって きました。

 「よまない」という せんたくしも あるのに、なぜ わざわざ よんだ うえで 「よみにくい」と かきこまずには いられないのだろうか? また、「よみにくいので とちゅうで よむのを やめた」という ような ことを わざわざ ブックマーク・コメントで ほうこくして くださる かたも たくさん います。わたしの きじの ような かながきの ぶんしょうでは なくても、とちゅうまで よんで やめる ことなど しばしば あるだろうに、どうして わたしの きじに だけ、わざわざ それを おしらせして くださるのだろうか?

 ぜんかいの きじに かんして つけられた 200を こえる ブックマークの うち、「よみにくい」「よむ きが しない」といった コメントを ざっと ひろって みたら、これだけ ありました(ほかにも べつの ひょうげんで 「よみにくい」という ことを いって いる コメントが たくさん ありましたが、それは また あとで ふれます)。


b:id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい

b:id:baumkuchen555 みんなよく読めるな

b:id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること

b:id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな

b:id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw

b:id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる

b:id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。

b:id:makiyamakoji とても よみに くいね

b:id:feita さすがによむきがおきないね。

b:id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。

b:id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない

b:id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?

b:id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…

b:id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない

b:id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。

b:id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ

b:id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化

b:id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。


 おつかれさまで ございます。

 みなさん、じしん たっぷりに わたしの ぶんしょうが 「よみにくい」という ことを ごしてき くださって います。

 「よみにくい ものは よみにくい」のだ、と。それは そうですよね。よみにくい ものは よみにくい、よみやすい ものは よみやすい、おいしい ものは おいしい、うつくしい ものは うつくしい、ですよね。

 「ふせいじつ」と まで いわれました。じぶんに とって よみにくい ぶんしょうを かく かきては 「ふせいじつ」ですか? さぞかし よい ごみぶんなのでしょう。


 うえの ような コメントは いつも いただいて いるので、もう なれっこなのですが、こんかい めを ひいたのは fromdusktildawnさんの コメントです。


b:id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。


 この ひとの コメントは、わたしが いままで いただいた たくさんの 「よみにくい」という コメントの なかでも、れいがいてきな ものです。それは 「オレ」という ごほんにん こじんに とって 「よみにくい」と おっしゃって いる てんでです。

 なお、かながきの ぶんしょうが よみにくいのは たぶん fromdusktildawn さんの のうみそが おいたからでは ないと おもいます。ちょっとした なれの もんだいですよ(これは あとで せつめいします)。すくなくとも とりわけ としを とってから かんじを がくしゅうする てまと くろうを かんがえたら、すでに かんじ・かなまじり ぶんの よみかきを しゅうとくした ひとが かながきの ぶんしょうに なれるのは かんたんな ものです。かんじを つかって ぶんしょうを かきあらわさなければ ならない なにか ごうりてきな りゆうが あるなら まだしも、そんな ものは、あとで のべるように、かんじを まなんだ ひとに とっての ちょっとした 「なれ」いがいに ないのは あきらかです。

 ともかく、わたしの かながきの きじに 「よみにくい」と コメントする ひとたちの なかで、「じぶんにとっては よみにくい」という いいかたを する ひとは ほとんど いません。つまり、よみにくさの げんいんが よみてである じぶん じしんにでは なく、いっぽうてきに かかれた ぶんしょうの がわに あるのだ という かくしん(確信)が あるのでしょう。だからこそ 「わたしにとっては あなたの ぶんしょうは よみにくい」ではなく、たんに 「よみにくい」という いいかたが できる。まさに 「よみにくい ものは よみにくいのだ」という わけです。

 そして、「よみにくさ」の げんいんが よみて じしんに ではなく、かかれた ぶんしょうの がわに あるという かくしんを ささえて いる じょうけんとは、「この ぶんしょうは わたし いがいの おおくの ひとに とっても よみにくい ものである はずだ」という おもいこみに ほかなりません*3。「みんなも よみにくく かんじる はずだ」と おもうから こそ(おおくの ひとが 「よみにくい」と かんじて いるのは じじつでしょうけど)、えんりょ はばかりなく、じしんを もって、ただ 「よみにくい」と いえる。

 つまり、「わたしにとって」と いわずに、ただ 「よみにくい」とだけ いえるのは、たすうしゃに よりかかる という しせいを とる かぎりに おいてです。かながきの ぶんしょうに たいし、ただ 「かながきである」という りゆうで 「よみにくい」という ひょうかを くだせるのは、それが 「いっぱんてきに」――というのは とりもなおさず 「たすうしゃにとって」という ことですが――「よみやすい」と しんじられて いる かきかたから はずれて いるからに すぎません。

 こうした みずからが たすうしゃである ことに よりかかった、いわば けんいを かさに きた はっそうは、つぎの ような ひょうげんを とって あらわれる ことも しばしばです。


b:id:Yagokoro [これはひどい] 日本語酷すぎて読めない。


 「にほんご ひどすぎて よめない」だそうです。だいたい わたしに とっては、じぶんが かいたり しゃべったり する ことばが けっかてきに 「にほんご」に ぶんるいされるか どうか など しった こっちゃないのですが、この ひとは ごしんせつにも(よけいな おせわですが) わたしの ぶんしょうを 「にほんご」と みなした うえで、その 「にほんご」の なの もとに 「ひどい」と だんじる わけです。この、「じぶんは 『にほんご』の なの もとに たにんの ことばを ひょうかできる/しても よい」と いわん ばかりの おもいあがりは ごりっぱな もんだと おもいます。

 かきことばで あるか はなしことばで あるかに かかわらず、たにんの ひょうげんを 「にほんごとして おかしい(まちがって いる)」とか、はんたいに 「にほんご おじょうずですね」とか ひょうかを くだす ことに むとんちゃくな ひとは よく みかけますけど、こういう ひとたちは いったい なにさまの つもりなのでしょうか?

 なるほど、あなたは たにんの ことばを 「にほんご」と みなすか みなさないかに ついて けんげんを おもちだ、と。そして、あなたが それを 「にほんご」と みなす とき、あなたは それを いっぽうてきに ひょうかできる とっけんを おもちだ、と。すなわち、あいてが あなたたちの 「ひょうじゅん」と かんがえる 「にほんご」に いっぽうてきに あわせるのが とうぜんだ、と。そう かんがえて いるのでしょう。ほんとうに けっこうな ごみぶんですわね。

 すでに のべたように、わたしは じぶんの ことばが さかえ ある「にほんご」という いちづけを あたえて いただこうが そうで なかろうが かまいや しないのですが、こーえーな ことに 「にほんご」という ぶんるいに ふくめて くださるのだと しても、その 「にほんご」には さまざまな かきあらわしかたが かんがえられますし、じっさい おこなわれて います。かきてが どういう よみてを そうていするかに よって、「にほんご」は、かんじ かな まじり ぶんで かかれることも あれば、かながきで かかれる ことも あるでしょう。あるいは、ローマじで かかれる ことも あれば、ハングルで ひょうきされる ことも あるでしょう。てんじで かかれる ことも あります。わたしは さきに のべたような、また リンクした きじで のべて きた りゆうから、かながきを えらんで おります*4

 たとえば、ひらがなや かんじを しらないけれども アルファベットには なじんだ にほんご わしゃ(話者) どうしが、アルファベット ひょうきの にほんごで やりとり する ばあいが あります。おそらく、そういった ばあいには、だいさんしゃが よこから くちを はさんで 「きみたちの にほんごは よみにくい」などとは いわないでしょう。では、なぜ わたしの かながきの ぶんしょうが いちぶの ひとを いらだたせ、「よみにくい」「よむ きが おきない」といった コメントを さそって しまうのか?

 その りゆうの ひとつには、わたしが かんじ かな まじり ひょうきでも かけるのに、あえて かながきで ぶんしょうを かいて いるという ことが あるでしょう。つまり、「わざわざ いとてきに よみにくい(と かんじ かな まじり ぶんに なじんだ ひとには かんじられる) かながきで かいて やがる」という はんぱつが あるのでは ないかと おもいます。

 しかし、そこには 「にほんごで かかれた ぶんしょうで ある いじょう、じぶんたち だいたすうの よみてに とって よみやすい かんじ かなまじり ひょうきで かかれるのが とうぜんだ」という ぜんていが――くったく なしに 「よみにくい」という コメントを かきこむ ひとは あんまり じかくして いないのでしょうが――あるのでは ないでしょうか? ふだん にほんごの よみかきに さほど ふじゆうを かんじずに すんで いる ひとは、「にほんごで かかれた ぶんしょうで ある いじょう、じぶんにとって よみやすいのは あたりまえだ」と おもって しまいがちなのでしょう。だから、「にほんご」で かかれて いるにも かかわらず、「にほんご」の 「ふつう」の よみてである じぶんたちに とって 「よみやすさ」の てんで はいりょされて いないと かんじられる ぶんしょうには いらだたずには いられない。

 くりかえしに なりますが、そうして いらついた ときに、くったく なく ただ「よみにくい」と はばかりなく いって のける ことが できるのは、たすうしゃとしての けんいを かさに きる ことに よってです。その ことに わたしが きづく ことが できたのは、はてなブックマーカーの みなさまがたから 「よみにくい」という コメントを たびたび もらった おかげです。わたし じしん べつの ばめんでは、おなじように たすうしゃの けんいと けんりょくを かさに きた ものいいを むじかくな まま して いるのかも しれません。


 つぎに いんようするのは、コーリィー・フォードという ひとが 1949ねんに かいた コラムです*5。あえて、かながきに なおして いんようします。


 このごろ たてものの かいだんは、むかしより こうばいが きつく なった ように おもう。けこみが たかく なったのか、だんすうが おおいのか、なにか そんな ことに ちがいない。

 たぶん、1かいから 2かいまでの きょりが ねんねん のびて いる せいだろう。そういえば、かいだんを 2だん ずつ のぼるのも めっきり むずかしく なった。いまでは 1だん ずつ のぼるのが せいいっぱいだ。

 もう ひとつ きに なるのは、ちかごろの かつじの こまかさである。りょうてで しんぶんを ひろげると、しんぶんが ぐんぐん とおくへ はなれて いくので、めを すがめて よまねば ならない。

 つい せんじつ、こうしゅう でんわの りょうきん ばこの うえに かいて ある ばんごうを よもうと あとずさりして いる うちに、きが ついたら、ボックスから からだが はんぶん そとに はみだして いた。この としで メガネなんて かんがえる だけで ばかばかしいが、とにかく しんぶんの ニュースを しりたくても、だれかに よんで きかせて もらうしか なくて、それでは どうも ものたりない。さいきんの けいこうなのか、みんなが ひどく こごえで しゃべるので、よく ききとれないのだ。

 なにもかもが むかしより とおくなった。わたしの いえから えきまでの きょりも ばい ぐらいに ふえたし、これまでに なかった おかが ちゅうかんに できた ようだ。……


 みての とおり、この ぶんしょうは、みみが とおくなり、また あしが よわく なった としよりの、いわば 「じこ ちゅうしんてきな」 してんから かかれた ジョークです。これが こっけいに かんじられ、ジョークとして うけとられるのは、ふつう としよりが じこ ちゅうしんてきな してんから ものを いう ことが ゆるされて いないからです。

 もじを よむのに くろうするのは 「かつじが こまかすぎるから」では なく、かれ・かのじょが 「としを とって ろうがんに なったから」と される。また、はなし ごえを ききとるのに くろうするのは 「みんなが ひどく こごえで しゃべるから」では なく、ほんにんが 「としを とって みみが とおく なったから」と される。

 だから、ふつう としよりは えんりょがちに 「わたしに とっては しんぶんの もじは こまかすぎて よめない」と いわざるを えない。


 おなじ ことは ぶんしょうの ひょうきに ついても いえる はずです。かんじ かなまじり ぶんに なれた たすうしゃは、じぶんたちが たすうしゃで あるからこそ、じしん たっぷりに おおごえで 「この ぶんしょうは よみにくい」と いえる。しかし、その いっぽうで かんじ かなまじりの ぶんが よめない、あるいは よみにくい ひとが、おおごえで はばかりなく ただ「よみにくい」と いうのは むずかしいでしょう。かれら・かのじょらは えんりょがちに 「わたしには よめない/よみにくい」という いいかたを するか、あるいは えんりょして 「よめない/よみにくい」という ことを いわないか、どちらか でしょう。

 そうやって かれら・かのじょらに えんりょを しいて いるのは だれか? それは かんじ かな まじり ぶんだけが 「まとも」な 「にほんご」だという じょうしきを つくりあげて きた わたしたち たすうしゃでしょう。

 いしかわ・じゅん(石川准)さんの ことばを かりると、たすうしゃは、じぶんが 「はいりょされて いる」ことを つごうよく わすれる いっぽうで、しょうすうしゃへの はいりょを 「とくべつな はいりょ」と みなしがちです。いしかわさんの ぶんしょうを、こんどは かながきでは よみにくいと いう いちぶの ひとたちに 「とくべつに はいりょ」して、もとの ぶんしょうの まま いんようします。


 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。

 たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6


 あえて かながきで ぶんしょうを かく ことが かんじの よめない ひとへの 「とくべつな はいりょ」だと するなら、かんじ かな まじりで ぶんしょうを かく ことも、その ほうが 「よみやすい」と いう ひとへの 「とくべつな はいりょ」と いわなければ なりません。はんたいに、かんじ かな まじりで ぶんしょうを かく ことが よみてに とっての 「あたりまえの はいりょ」だと かんがえるならば、かんじの よみかきに こんなんを かかえる ひとに はいりょするのも 「あたりまえの はいりょ」です。

 ようするに わたしが いいたいのは、かんじの よみかきが できるからと いって えらそうに するんじゃないよ、という ことです。


 その うえで、この ぶんしょうを よまれている かたに、かながきで かく ことを おすすめしたいと おもいます。

 わたしは まえの きじで つぎの ように かきました。


 さて、あきらかに ふごうりで くだらないという ことが わかりきった ルールを まもるという ことは、けんりょくに くっぷくするという ことです。けんりょくに くっぷくするという ことは、おそらく おおくの ひとに とって みじめな ものでしょう。そうした みじめさを かんじずに いきて ゆきたい ものですね。そして、けんりょくと たたかわずに みじめさから のがれるためには、じぶんが けんりょくに くっぷくして いるという じじつ、ふごうりな ルールに したがって いるという じじつを わすれなければ なりません。つまり、じっさいは ふごうりな ルールに したがって いるにも かかわらず、その ルールが 「ごうりてきな りゆうが ある」ものだと おもいこめば よいわけです。


 これは べつの ぶんみゃくで のべた ことですが、じつは かいて いる ときに かんじの もんだいなども ねんとうに おいて いました。

 かんじの よみかきに あまり ふじゆう しなく なった ひとは、その ために おびただしい じかんと てまを かけて きた はずです。また、「あまり ふじゆう しなく なった」とは いっても、それでも じっさいの ところ けっこう ふじゆう して いるでしょ? てがきで もじを かく ときに かんじの かきかたを おもいだせなかったり、パソコンで かく ときだって どうおん いぎご(同音異義語)が あるときに どの もじに へんかんすべきか わからなかったり。むずかしい かんじや じゅくごが つかわれて いる ぶんしょうは、よむのだって たいへんだし。こうして かんじの せいで よけいに じしょを ひく てまが かかる。かんじを しらないと はずかしいと おもわせられたりも する。

 そうやって これまで くろうして きたし、いまも ひび くろうして いるから、その じぶんの くろうを ひていしたくない という きもちに なるのは、ある いみ しぜんな ことでは あります。じぶんの くろうに 「いみが ある」と おもうために、かんじを つかうことに 「ごうりてきな りゆうが ある」と おもいこもうと する きもちも わからないでは ありません。


b:id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。

b:id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。

b:id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった

b:id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認


 ところが ざんねんな ことに、というか さいわいな ことに、かんじを つかわなければ ならない という ごうりてきな りゆうは たぶん そんざい しません。

 たとえば、「にほんごは どうおん いぎごが たくさん あるから、かながきでは いみが とおらない ぶんしょうに なる」という ことを いう ひとが います。

 しかし、これは ものごとの じゅんじょを とりちがえた ぎろんで、「かんじを つかうから、どうおん いぎごが たくさん できて しまうのだ」と いうべきだし、どうおん いぎごを さける くふうを すれば よい ことでしょう。そもそも、どうおん いぎごは どんな げんごでも あるのだし、たしょう それが あっても、ぶんみゃくで はんだん できる ように かきかたを くふうする ことは かんたんです。

 じっさい、はなし ことばでは、そうやって ぶんみゃくから はんだん できる はんいで どうおん いぎごを つかったり、また ぶんみゃくから わかりずらい どうおん いぎごの しようを さけたり といった くふうは なされて いる わけです。もちろん、はなし ことばでは、イントネーションを はじめとして かながきでは かきあらわせない じょうほうを ふくんで いるので、たんじゅんには ひかく できないのですけれども。しかし、わかりにくい どうおん いぎごが おおすぎるのが もんだいだと いうなら、あたらしい ことばを すこしずつ つくって いけば よい だけの はなしです。


 ほかに よく ある ごかいは、かんじは ひょういもじ(表意文字)なので ビジュアルてきに はあくしやすい という ものです。たとえば、つぎの ような コメントも そうした ごかいに もとづいて いるのでしょう。


b:id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど


 ちょっと かんがえれば わかる ことですが、かんじが かなや アルファベットと くらべて とくべつに わかりやすいという ことは ありません。「かんじは ひとめで その いみを はあくしやすい」と いう ひとは おおいですが、そう いう ひとは アルファベットだったら どうなのか という ことを すこし かんがえて みると よいでしょう。アルファベットだって おなじなのです。

 えいごを よむのに なれた ひとは、たとえば "guitar"という もじの つらなりを みた ときに、ひとめで その いみを はあくして いるでしょう。いっぽう、"kltjautr"といった もじの つらなり――これは いま わたしが でたらめに キーボードを うって つくった もじれつです――を みても、ひとまとまりの ものと にんしきする ことは できない はずです。

 つまり、かんじを よむのに なれた ひとが、たとえば 「雪」という かんじや 「弦楽器」といった じゅくごの いみを ひとめで はあくできるのも、それと まったく おなじ ことで あって、たんに 「みなれて いるから」に すぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、もじを よむのに てきおうしやすい からだを もった ひとに とっては、みなれた たんごや れんご(連語)を、もじ たんいではなく、ひとまとまりの ごく(語句)として にんしき する ことは かんたんな はずです。

 ようは ちょっと した「なれ」の もんだいで あって、「かんじ そのものの とくちょう ゆえに、かんじで かかれた ぶんしょうは よみやすい」という ぞくせつは まったくの あやまりです。「かんじで かかれた ぶんしょうは よみやすい」と かんじるとしたら、それは たんに あなたが それに 「なれて いるから」に すぎません。

 これでも なっとく できない ひとは、つぎの あべ・やすしさんの きじ(さっき リンクしたのとは べつの きじです)、ぜひ さんこうに して ください。


よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー


 わたしの ブログを いつも よんで くださって いる かたが、どれほど かながきに なれて きたのかは きいてみないと わかりません。もしかしたら、おおきな ふたんを かんじながら よんで くださって いるのかもしれず、そうだとしたら こころ ぐるしく おもいます。

 わたしは かながきで かかれて いる なんにんかの ひとの ブログなどを いくつか じゅんかいして よんで おりますけど、かんじが つかわれて いない ことへの ていこうは いまや まったく かんじなく なりました。むしろ、かんじの おおい ぶんしょうよりも、かながきで わかちがきされた ぶんしょうの ほうが、よむ ときの ふたんは かるい ようにすら かんじます。わたし こじんの けいけんからは、かんじ かな まじり ぶんが よめるなら、かながきの ぶんしょうにも すぐ なれる ことが できると おもいます。

 もっとも、その 「なれる」ための てまが わずらわしい という ひとも いるのでしょうし、わたし じしん 「なんで おれの ほうが おまえに あわせて なれなきゃ いけないんだよ」という いみの ことを いわれた ことも あります。そういう ひとに いうべき ことばを わたしは もちあわせて おりませんし、むりに 「なれて くれ」と もとめる つもりも ありません。

 かんじを つかいたい ひとは かんじを つかって ぶんしょうを かけば よいし、かながきの ぶんしょうが かながきである という りゆうだけで よみたく ないのであれば、よまなければ よいでしょう。どういう ひょうきで ぶんしょうを かこうが、あるいは どういう ひょうきで かかれた ぶんしょうを きらおうが、その ひとの じゆうです*7

 ただ、「にほんごは こう かかなければ ならない」とか 「まともな にほんごは こういう ものだ」とか くだらない けんい(ほんっっっっとに くだらないと おもいます)を かさに きて、しかも その ことに むじかくな まま、ひとの ことばや ひょうげんに ひょうかを くだすのは、やめて ほしいと おもいます。

*1:「はなされて いる」という ひょうげんは たしょう ごへいが あるかも しれません。とうぜん、にほん しゅわ(日本手話)も ふくめて 「にほんで はなされて いる さまざまな げんご」と いって います。

*2:わたしは しごとじょうの つきあいで、にほんごの よみかきに こんなんを かかえる ひとと であう ことが わりと ひんぱんに あります。その ひとたちの なかには、にほんごで はなしたり きいたり する ことは できるけれど、よみかきと なると おおきな こんなんを かかえて いる ひとが すくなからず います。むろん、かんじだけが ハードルに なって いる わけでは ありませんが、かなや ローマじ など、ひょうおん もじ(表音文字)で ぶんしょうを かきあらわす ことが もっと いっぱんてきに なれば、その ハードルが かくだんに ひくく なるのは たしかです。

*3:そう かんがえると、かながきの ぶんしょうに たいして よく つけられる「みんな よく よめるな」という コメントも なかなか あじわいぶかく おもえて きます。

*4:なお、わたしは かながきよりも ローマじ ひょうきの ほうが いくつかの りゆうで のぞましいと かんがえては おります。

*5:『あなたの年齢当てます』朝倉久志 やく。なお、いんようは やまざき・こういち(山崎浩一)『危険な文章講座』(ちくま新書)からの またびきです。

*6:石川准「本を読む権利はみんなにある」(上野千鶴子ほか編『ケアという思想』岩波書店、2008ねん)

*7:わたしは うえに リンクした 5.の きじで かいた とおり、かんじ かな まじり ひょうきを 「ひょうじゅん」として おしつける 「こくご きょういく」ごと はいし すべきだと しゅちょう して いますが、ひとり ひとりの かきてが かんじを つかう ことを きんし すべきだとは かんがえて いません。

y_arimy_arim 2009/11/28 10:18 基本的にこの考え方に賛成なのだけれども、以前から気になっているのは「ただかな書きにするだけでよいのか?」という点。
やねごんさんの文章には数多くの「元・漢語」が用いられているのだけれども、漢字と漢語は不即不離の関係にあって、漢字を経由せずして後者を理解することが可能なのだろうかというのがとても気になる。もしかすると、ただかなで書いただけの文章というのは結局、元文章を読みこなせる程度には頭のいい(嫌な言い方だけども)ひと向けのものでしかなく、ある程度〜あるいは全面的に漢語を「開く」ことが必要なのかもしれない。
日本語検定の初級向け教則本などはほぼかな書き状態だけれども、あまり込み入った漢語は用いていなかったように記憶している。あと、たとえばラテン語が俗ラテン語を経てイタリア語・フランス語・スペイン語・ルーマニア語などへ分化していく過程では、高度なラテン語はもはや民衆が理解できなくなっており、より易しい単語を組み合わせてそれに近い表現を作り出すということが起こっている。より実践的には、そういうことが必要なのかもしれない。
>わかりにくい どうおん いぎごが おおすぎるのが もんだいだと いうなら、あたらしい ことばを すこしずつ つくって いけば よい だけの はなし
というのが、それにあたるようにも思われるけれども。

boyasanboyasan 2009/11/28 13:19 こんにちは。いまちょっと分かち書きをしながら書いてみようかと思いましたが、すぐに挫折しましたw

当エントリー以外を読んでいないので恐縮ですが、やねごんさんは、これまで文部省や国語審議会がだしてきた「常用漢字表」や「送り仮名の付け方」に関して何か書いていらっしゃいますか?
仮名書きを普及させるには、こうしたガイドラインが忠実に適用された公用文で見直しがなされるべきかと思います。(じっさいには相当に難しそうですが。)
すると、当然そのときの論拠として、バリアフリーの観点だけでなく移民政策に関わってくる問題だと思います。ダイナミックな挑戦になることでしょう。

また、このエントリーは、試金石としてはたいへん興味深いと思いましたが、意図的なのでしょうか、やはり長すぎて大変でした。先の読める構成とは言いづらく、それが苦痛につながっている点をご指摘しておきます。(この構成の問題は、かな書き記法の工夫につながる予感がしますね。)
私も日ごろなるべく漢字を減らそうとしていますが、それでもこのような文になるようです。読みやすさを保ちつつ、短文にするのはとてもインテリジェンスの要求される作業のように思います。

iasnaiasna 2009/11/28 13:43 ごめんなさい、ちょこっと気になったのでコメントを。

>> わたしは じぶんの ことばが さかえ ある「にほんご」という いちづけを
ここの、「さかえ ある」 は、栄えある=はえ ある 
が正しいのかなと感じました。

ひらがなで書かれていると漢字かな混じりよりも丁寧に読もうとする(ひらがなの部分を私の脳内では漢字に直して読んでいます)働きがあるのかなとおもいます。書かれるのは大変だと思いますが、これからも己のスタイルを貫いて欲しいなと思います。

質問質問 2009/11/28 13:56 フォント関係の本を読んでて、カタカナ文字の分かち書きの試みが、昔からあった事を知りました。
例えば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/カナモジカイ

読み手ができるだけ読みやすいようにするためには、この種の事はフォント・デザイン 語の選択の段階から
観なきゃならないだろうな、と思います。

こちらで試みられ、選択されてるのは、ひらがな、ですよね。

ひらがな、が選択されていることに何か意味がつけられているでしょうか?

workingmanisdeadworkingmanisdead 2009/11/28 14:35 中途半端だなーって思うのは、
なんで言語だけに特化するの?っていう。
国語算数理化社会音楽美術体育、
全部複雑で全部不平等で不均一でそ!

lever_buildinglever_building 2009/11/28 17:09 id:y_arim さん。
 「漢字と漢語は不即不離の関係」という ことは、じつは あまり いえないのでは ないかと かんがえて います。ことばを みんしゅかして ゆこうと するとき、とくに もんだいに なるのは、きんだい いこうに えいご・どいつご・ふらんすご などから ほんやくして つくられた 漢語だと おもいます。それらの 漢語の おおくは、漢字を けいゆすることが かならずしも りかいを かんたんに する ことに つながらないし、それどころか りかいの さまたげに なる ものが おおいのでは ないでしょうか?
 おもいつく ままに あげて みると、「社会」「概念」「表象」「観念」「経由」「着服」「相対性」「現実」。どれも 訳語を つくった ひとの くふうと くろうの あとが かいま みえるようですけれど、漢字から 漢語の いみを るいすい(類推) するのは むずかしい ように おもいます。この うち 「社会」「着服」「現実」と いった はなし ことばとして あるていど ていちゃく(定着)した ことばは、「しゃかい」「ちゃくふく」「げんじつ」と かながき しても、とくに さしつかえは ないでしょう。
 いっぽう、「表象」「相対性」といった かならずしも ていちゃく して いない ことばは、かながき しようが かんじで かこうが おなじように わかりにくいのでは ないでしょうか(「ていちゃく した」と いえるか どうかは、よみてにも よるわけで、わたしは ふよういに たとえば 「ふへんてき(普遍的)」といった ことばを かながきして しまう ことが あるのですけどね)。
 だから、もんだいは、こういった 翻訳語の ばあい、漢語を かながきする ことに あると いうより、ききなれない、あるいは よみなれない ことばで あるが ゆえに りかいが むずかしい という ところに あるのだと かんがえて います。だから、まず だい1に かのうな かぎり そういった ことばを もっと かんたんな ことばで いいあらわす ことが ひつよう。ただ、いっぽうで そうやった つかえる ごい(語彙)を せいげんする ことで、ひょうげんの はばが せまく なって しまうのは さけたいとも かんがえて います。だから、ひつようならば あまり ていちゃく して いない 元・漢語も つかいつつ、ぶんみゃくで その いみが りかい できるよう、ぶんしょうの かきかたを くふう する ことも ひつようかな、と。たしょう ききなれない・よみなれてない ことばが あっても、「つまり……」「というのは……」とか やって ていねいに おなじ ないようを はんぷく して かく ことで、りかいの しやすさと なんかい(難解)な ことばを すてない ことは、りょうりつ できるんじゃないかと おもいます。

lever_buildinglever_building 2009/11/28 17:12 id:workingmanisdead さん。
わたしの ちからが たりないので、「言語だけに特化」して おります。ごきたいに そえず ざんねんです。
「算数理化社会音楽美術体育」に ついては workingmanisdead さんに おまかせ しますので、がんばって ください。ぜひとも よろしく おねがい します。

NlizNliz 2009/11/28 19:23 アルジャーノンに花束を、を思い出した。

nowaynoway 2009/11/28 20:20 ご指摘の通りです。


「僕が苦労して獲得した利益」を侵されるのが嫌だから、僕は漢字を使ってるんだなあ、と痛感しました。


「獲得したと思っていた利益が、果たして本当に効果的だったのか」
と、言われると確かにそれほどでもないかも、というのが、guitarのくだりから感じます。


強制された不都合も、習慣になってしまえば中毒になり手放せなくなる。
そして、それを他人にそれを押しつける。
言語の世界だけではなく、他のケースでもたくさん出現します。


そういうものを、今まで僕はdisっていました。
しかし、言語という形で、自分が同様の行動を選択していたのだと、本文より観測しました。
自分も所詮既得権益者であるな、という自覚がはっきりと芽生えたということです。


そして、それに気づいても自分の権益を守るために漢字交じりを使い続ける。
過去に、僕にdisられた人間の戸惑いと、不都合を指摘されても継続する……
その理由と心情が、わかったような気がします。


考える機会を与えてくれた本文に感謝します。

MPGMPG 2009/11/28 21:50 ひらがなだけだと、なぜ読みにくいと感じるか。

1つには、漢字を含んだ文章よりも、長さが長くなること。
2つめは、文字それぞれの密度の差が少なくなり、単調で読む気力を失わせる。

上記の2点を、ひらがなの文章だけで解決するには、
 ・1つの文章の文字数を減らす
 ・1つの段落の文章量を減らす
 ・意味段落ごとに改行を増やす
…などが必要ではないでしょうか。

せめて、
意味段落ごとに小見出しを用意し、
小見出しは他の文章とは区別できるように文字色や文字サイズを変更したりして、
読む気力を損なわせないようにする配慮が必要だと思います。

もちろん、
このブログがただのメモ書きで、
不特定多数の他人に読んでもらう必要などないものならば、そんな配慮は不要ですが……。

さて、
ひらがなだけの文章が読みにくいと感じられてしまう理由は、あともう1つ考えられます。

漢字には、その漢字の意味を知っていれば、目に入っただけで意味を理解できる特性があります。
つまり、漢字で意味だけを読み取り、飛ばし読みや斜め読みが可能となるわけです。

斜め読みが可能であることが、読みやすい文章としての条件だとは思いたくないものですが、
世間のほとんどの人は、"自分"が興味ある文章しか読まない傾向にあるため、
他人に文章を読ませるためには、ある程度の工夫が必要になってしまうわけです。

ksk-siksk-si 2009/11/28 22:33 ただしい にほんご とか いうやつは きらいだし、がっこうきょういくで かんじが あまり かけなくて こんぷれっくすを もったこともあったし、にゅーかまーにとって かんじが しょうへきと なるのも わかりますが、 かながきが はんけんりょくてきには みえませんし かいほうかんも ぼくには ありません。あと やっぱり ぼくにとっては かながきは よみづらく、かきづらいです。

せんもんようご や よこもじ に たいして きどってるなぁとか めんどくさいなぁ と おもうことは あります。

かんじを あまりしらない ひとに ぶんしょうを かくとき かんじを あまり つかわない ことは ひつようなことだと おもいます。

a.k.a.k. 2009/11/29 00:15 たいへん べんきょうになる ぶんしょう でした。 まったく もって そのとおりだと おもいます。
ですが,わたしは このように かながき の ぶんしょう を,かんじに くわしくない あるいは まだ まなんでいない/まなべなかった, いわゆる 「はいりょがすくない」ひとびと のために かくので あれば, それとどうじに,「はいりょがすくないひとびとにくらべ,はいりょがおおくなされてきたひと」 たちのために, かな かんじ まじり ぶん も けいさい すれば, もっと おおくの ひとの ために なるのではないか, と おもいます。
しかし, かんじをあたらしく がくしゅうする のに くらべ, かんじを しっている, いまのにほん の きょういく を,いわゆる「まじめに」うけて きたひとが, かな ぶんを りかいするほうが たやすいので, かんじのみ をのせるWebサイトが おおいなか,このような ぶんしょうは たいへん ゆういぎ であり かつ, おおくのひとがよもうとおもえばよめる という てんで よい と おもいます。
げんご すなわち ひとびとの コミュニケーション における ばいかい(それをつたえるためのしゅだん) としては かな ぶん でも いいと おもいますが,わたしは,デザインという してん に たって かんがえたとき, かんじの ほうが 「うつくしい」 と かんぜられますので, かんじは あっても いいものと おもいます。 ユニバーサルフォントなどというフォントも おおいですが, いつまでも, この かんじ という きごう のうつくしいデザイイは,タイポグラフィという かたち で のこってほしいと おもいます。
(これは あまり かんけい ありません でしたね。 むろん,わたしも「こくご」などといううさんくさい えらそうなやつらが きめた こと には りっぷく します。)

m_im_i 2009/11/29 00:41 当エントリのみ読ませていただいた者です。
y_arimさんのコメントと重なってしまうのですが。
漢字を知らない、あるいはならうことが難しい人にとって、あなたの書くかながきの文章が、そうでない文章とくらべて少しでもハードルの低いものになっていて、しかも彼らがそういう文章を望んでいるのであれば、それでいいのではないかと思います。
厄介なことのひとつは、あなたが漢字を知っている人であるという点ではないでしょうか。そこが問題だという指摘(もちろん、知らない人側からのものも含めて)とは、戦っていかなくちゃならない。あなたがこのブログの最初に「かながきを こころみて いる」と書くのは、そういう意味ではないかとも思いましたが。この文章は途上の段階にあって、いろいろな試行錯誤を重ねているところなのだと。
僕にとってみれば、あなたの文章は「今は無理でも、慣れれば違和感なく読むことが出来そうだ」と感じました。

apollo440apollo440 2009/11/29 01:13 ルビふりゃいいのに。と、思いました(あ、英語と点字とも併記したほうがよいかも)。
あと、分かち書きは、目の不自由な人が使う事が多いスクリーンリーダーというソフトウェアで誤認識しやすいということがありました。ひらがなだけの場合、同音異義語の問題もあります。

文章が伝えるのは、”文字"ではなく”書き手の心”。
「ひらがな」だけの文を”利用”して自分の訴えを伝えようとするのは、ちょっと意地悪く感じます。

yotayotaahiruyotayotaahiru 2009/11/29 01:25 こんばんは。よたよたあひる と もうします。
はじめて 「こめんと」させて いただきます。

かつて、「わーぷろ」が ゆきわたるまえ 「しょうがいしゃ」の しせつで はたらいて いました。
その しせつは じゅうどの しんたいしょうがい と ちてきしょうがい を あわせもつ ひとたちの しせつです。
でも、その しせつに くらしているひとたちの なかには ひらがなの「たいぷらいたー」を つかえるひとも いました。
「し」や 「にっき」を かいて いらしたので よく よませて いただきました。
だから、 ひらがなの 「わかちがち」には あるていど なれています。

それでも、やねごんさんの きじは やはり よみにくいと おもいます。

りゆうの ひとつは 
やねごんさんの ぶんしょう には かんじの 「じゅくご」が わりと でてきます。
y_arimさんも 「こめんと」で かいて おられますね。
もちろん、やねごんさんが かなり きをつかって かいて おられるのは わかります。
それでも わたしは よむときに ひらながの「もじれつ」を あたまの なかで「かんじ」の「じゅくご」に なおして しまいます。
ですから 
この 「あたまの なかで かんじに なおす」ことを していると ぶんしょうを よむ ながれが とぎれとぎれに なるのです。
その とぎれとぎれに なることが 「よみにくさ」を かんじる ひとつの りゆう では ないかと おもいます。

それに ちかいことは やねごんさんも かいて おられますね。
---------
>だから、もんだいは、こういった 翻訳語の ばあい、漢語を かながきする ことに あると いうより、ききなれない、あるいは よみなれない ことばで あるが ゆえに りかいが むずかしい という ところに あるのだと かんがえて います。だから、まず だい1に かのうな かぎり そういった ことばを もっと かんたんな ことばで いいあらわす ことが ひつよう。ただ、いっぽうで そうやった つかえる ごい(語彙)を せいげんする ことで、ひょうげんの はばが せまく なって しまうのは さけたいとも かんがえて います。
--------
たしかに あるていどは 「なれ」の もんだい でも ありますね。
「あるふぁべっと」や 「はんぐる」は 「ひょうおんもじ」ですし、
「め」の みえないひと が つかう 「てんじ」も そうですから、 
「なれる」ことで よみにくさ は かわっていくかも しれません。
「じゅくご」を つかわないように することで かきたいことが じゅうぶん ひょうげん できないと いうことでは、
やねごんさんが おっしゃる「ことばを みんしゅか する」こと には なりませんから。
ただ、「にほんご」の 「よみかき」を おぼえはじめた がいこくの かたや、
たくさんの「かんじ」を おぼえるのが むずかしい ちてきしょうがいの かたにも よんでもらえる ぶんしょうに
しようと するならば、「かきことば」の「じゅくご」は できるだけ ちがう ことばに おきかえる ことも だいじ ですね。




べつの りゆう と しては、「みえかた」の もんだいが あります。
こちらの りゆうに ついては、MGPさんが ちかい ことを 「こめんと」に かいておられますが、
ぶんしょうを めで おって よんでいく ときに、「かんじかなまじり ぶん」よりも、「ひらがな わかちがち」のほうが、
もじの りょうが おおくなりますから ひとつの ぶんしょうが より ながく みえてしまいます。
「ぶろぐ」だと ながい ぶんしょう は、「かんじかなまじり ぶん」で あっても なかなか よんで もらえないです。
つかれてしまう のですね。

こちらは「でざいん」を どうするのか という くふうで 「かいぜん」できる かも しれません。

 
いろいろと かんがえながら こうして「ひらがなわかちがち」で かいていると 
わたしは いつもの ぺーすでは やはり かけないです。

わたしは 「ぱそこん」で ぶんしょうを かくことが あたりまえに なってきてから、
「てがき」の ながい ぶんしょうを かくことを むずかしく かんじるように なりました。
どうしても 「てがき」で ぶんしょうを かかなくては ならない ときには、
いちど 「ぱそこん」で 「したがき」を してから、「てがき」で せいしょ している くらいです。

もしも わたしが 「ひらがなわかちがち」で 「ぶろぐ」を かこうと するならば、
いちど「かんじかなまじりぶん」で 「したがき」を してから
あらためて 「ひらがなわかちがき」に かきなおし、さらに すいこう しないと むりそうです。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 03:16 id:boyasan さん。
 こくご しんぎかい などの ぎろんは、ちゃんと おいかけて いないので、それについて きじを かいた ことは ありません。わたしとしては、ガイドラインの ような もので うえから 「わく」を はめるより、そうした 「わく」に とらわれない かきかたを それぞれの ひとが その ひつようと かんしんに おうじて もさくして いける ことが りそうてきだと かんがえて いるからです。
 とうめんは ウェブの ような ぶんしょうなどを はっぴょうするのに しきいの ひくい くうかんで、さまざまな ひょうげんが こころみられて いけば よいと おもいます。わたしの かながきの こころみも その ひとつですし、boyasan さんの 「なるべく漢字を減らそう」という こころみも おおきな いぎの ある ことだと おもいます。かんじ かなまじりで かかれた ぶんしょうが あっても もちろん よいでしょう。
 そういった さまざまな かきかたが もさくされる なかで、わたしは かんじを つかわない かきかたが じゅうぶんに かのうであり、また ひつような ばめんが そんざいする という ことを あきらかに したいと かんがえて います。つまり、おたがい じゆうに やりましょう という、いたって おだやかな しゅちょうを して いる つもりなのですが、それが いちぶの ひとを いらだたせて しまうようです。そういう ひとたちが おしつけようと すると どうじに とらわれて いる「にほんご=こくごは こう かくべきだ」という 「わく」を、まず ぶっこわしたい ものだと おもいます。

 ぶんしょうが ながくなったのは すみませんでした。なんじゅうにんもの ひとたちから つけられた 「よみにくい」という コメントに ひとりで こたえようと するには、これぐらいの ながさが ひつようでは あったと おもいます。
 ぶんしょうの くみたてかたに ついては、わたしは みじゅくもので これから くふうして いく つもりです。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 03:26 id:iasna さん。
 ごしてきの とおり 「はえ ある」が ただしい よみかたの ようですね。べんきょうに なりました。ありがとうございます。
 わたしは こういう かんちがいを いっぱい して いる ようです。なかなか じぶんでは きづけない ことなので、おしえて いただいて かんしゃして います。ほんぶんの ほうは きねんとして なおさず そのままに して おきます。

 あたまの なかで ひらがなを かんじに へんかんする さぎょうが、かながきを よみにくく かんじることに つながって いる、というのはありそうですね。わたしは かながきの ぶんしょうに なれた せいか、そういう わずらわしさは かんじる ことは ありません。
 ぎゃくにかんじ かなまじり ぶんに なれて いる ひとは(わたしも なれて いるわけですが)、むいしきの うちに かんじを おとに へんかんするさぎょうを やって いるようです。これについては、ほんぶんで リンクした あべさんの きじに せつめいが あります。

http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080707/1215442015

 かんじ かな まじりの ぶんしょうを すらすらと よんで いる ときは じかくされないのですが、れいぶんを つかった あべさんの せつめいを よむと、《かんじ→おと》への へんかん さぎょうを して いるのは たしかなのですよね。
 で、そう いわれて みると、わたしは ちょうしが わるくて ぶんしょうを すらすら よめない ときは、この《かんじ→おと》の へんかんをいしきして やって いる ことに きづきました。ちょうしの わるい ときは それを 「いしきてきに やらないと できない」という ことなのだとおもいます。
 おそらく、わたしが かながきの ぶんしょうを すらすら よめるのは、ひらがなの もじれつを――かんじをけいゆ(経由)する こと なく――ダイレクトに おとに へんかんできて いるからでしょう。いっぽう、かながきに からだが なじんで いないひとは、《かなの もじれつ→おと》への へんかんを いしきてきに やらなければ ならないので、そこに かんじを けいゆさせて しまう。そういうことじゃ ないだろうか、と おもいました。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 03:50 質問 さん
 そうですね。カナモジカイを はじめとして、にほんごの かきあらわしかたを もさくする みんかん(民間)での こころみは、むかしから いままで ずっと あるのですよね。わたしとしては、こうした じゆうな いとなみを うけつぎたいと おもいます。おかみが きめた 「こくご」の わくに とらわれずに じゆうに。

 なぜ、ひらがなを えらんで いるのか、に ついては、せっきょくてきな りゆうは ありません。かんじを べつの もじ たいけい(文字体系)に おきかえようと する ときに、かんじ かな まじり ぶんに なれて いる ひとの だいたすうに とって、もっとも みなれて いる もじが ひらがなだろう、と。そういう しょうきょくてきな りゆうです。
 おっしゃる とおり、フォント・デザインの もんだいは じゅうようかも しれません。だくてん(濁点)と はんだくてん(半濁点)の みわけにくさとか。
 あと、フォントというより もじ そのものの デザインとして、ひらがなは てがきで かく ばあいに、たとえば ひだりてで かきにくい という ことも ありそうです。ハングルや アルファベットと くらべて どうなのか、わたしには よく わかりませんが、なんとなく かきにくそうな きも します。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 04:01 noway さん。
わたしの ほうこそ、ていねいに よんで いただいて かんしゃして おります。ありがとうございます。

> 強制された不都合も、習慣になってしまえば中毒になり手放せなくなる。
> そして、それを他人にそれを押しつける。
> 言語の世界だけではなく、他のケースでもたくさん出現します。

 わたし じしん しばしば そう ふるまって います。だから、ほんぶんに かいた ことは ぜんぶ わたしにも はねかえって くる ことです。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 04:28 MPG さん。
 ぶんたいから、ぶんしょうの くみたて、レイアウトに わたっての きちょうな アドバイスを いただいたと かんしゃして おります。じぶんなりに くふうしながら、MPG さんの ごいけんを こんごに いかさせて いただきます。ありがとうございました。

> 漢字には、その漢字の意味を知っていれば、目に入っただけで意味を理解できる特性があります。
> つまり、漢字で意味だけを読み取り、飛ばし読みや斜め読みが可能となるわけです。

「目に入っただけで意味を理解できる」という ことに ついては、ほんぶんの うしろの ほうで、つぎの 2てんを してきしました。
1.おなじことは、ひらがなや アルファベットの もじれつに ついても いえる こと。
2.したがって、「目に入っただけで意味を理解できる」のは、かんじ そのものの とくちょうに ゆらいするのでは なく、なれの もんだいである こと。

 「なれれば」という じょうけんつきでは ありますが、かんじ かなまじり ぶんを 「飛ばし読みや斜め読み」できる ひとは、かながきの ぶんしょうでも おなじ ことが できる はずだ というのが、わたしの かんがえです。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 04:39 id:ksk-si さん。
 かながきでの コメント、ありがとうございます。
 かながきが 「はんけんりょくてきには みえません」と おっしゃるのは その とおりですねw。へやに とじこもって パソコンに むかって ブログなんか かいて いる こと じたい、ぜんぜん はんけんりょくっぽく ありませんです。しかも、はてなダイアリだし……。
 こんごは まちに でて デモなどにも もっと せっきょくてきに さんかしようと おもいます。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 05:23 a.k. さん。
 かながきでの コメント うれしく おもいます。
 また、「ゆういぎ」と いって いただいて こころづよいです。

 わたしも、うえの boyasan さんへの おへんじでも かいた とおり、かんじは あっても よいし、かんじを つかって かかれる ぶんしょうも あって よいと かんがえて います。
 また、げんごを たんなる 「ひとびとの コミュニケーション における ばいかい(それをつたえるためのしゅだん)」に げんてい しない a.k.さんの おかんがえにも どうい します。デザインとしての うつくしさに ついては、いまの ところ あまり かんしんが ないので なんとも いえないのですが、げんごや もじが、コミュニケーションの どうぐである ことを こえて、しょうちょうてき(象徴的)な いみを もちうる という ことは だいじに かんがえたいと おもいます。
 たとえば、みんぞくの かいほうや じち(自治)を めざした たたかいの なかで あたらしい もじ たいけいが つくられて いく というような。「みんなの もの」としての げんごや もじの ありかたが、びょうどうな かんけいに ある にんげん どうしの きょうどう さぎょうによって、ぎろんされ、ねりあげられ、あるいは あたらしく つくりかえられて いく という ばめんに たちあいたいなあ という ことを、ちょっと おもったりも します。
 にほんに おける 「こくご」は これと はんたいの わるい いみでの しょうちょうせいを もっちゃって いるように おもいますが。

通りすがり通りすがり 2009/11/29 06:46 大変興味深い内容で、とても参考になりました。ただ疑問があるのでコメントさせてください。

他エントリーの内容と混同してしまいますが(そもそもここに書くべきコメントではないのかもしれませんが)、
>かんじを つかいたい ひとは そうすれば よいでしょうし、かんじを まなびたい ひとは どうぞ ごじゆうに こころゆくまで まなんで ください
のような「漢字を使いたい人がいれば勝手にどうぞ」的なことを言われれば、圧倒的多数の人は漢字を使い続けると思います(前提として想定している「かんじの よめない ひと」は実際はおそらく極少数でしょう)。コメント欄を見てもかな書きに不便さを感じる人が多いですから。そして、そのような人はいずれ子供に漢字かな混じり文を使わせるでしょう、というか自然に使うようになるでしょう。国語教育をやめることは本当に現状の打開策となるのでしょうか。結局、今漢字を使っている人は漢字を使い続けてしまい、何も変化がなさそうな気がしてなりません。

……という、あなたの主張をある程度肯定した上での、実際的な疑問なのですが。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 06:54 id:m_i さん。
わたしが「漢字を知っている人であるという点」の 「厄介」さとは どういう ことなのか、よろしければ もう すこし せつめいして いただけると ありがたいです。
 げんに かんじを しって いる ひとが 「ひつようか/ひつようないか」を はんだんする ことと、それを しらない ひとが 「ひつようか/ひつようないか」を はんだんする ことの あいだには、ほんしつてきな ちがいが ある といった ことでしょうか?
 「かんじを しって いる」という こととは べつに、わたしが「よみかきが できる」にんげんで ある という てんに ついては、じつは ほんぶんを かきながら なやみました。ほんぶんの まえの ほうで わたしは 「できるだけ おおくの ひとが ぶんしょうを よんだり かいたり できた ほうが のぞましい」と かいたのですが、それを よみかきの できる わたしが あっけらかんと かいて しまって よいのか どうか、しばらく ためらいました。けっきょく、つぎの ような かきかたを したのは、「ひつよう/ふひつよう」を わたしが どくぜんてきに はんだんする わけには いかないと おもったからです。

『とはいえ、わたしじしん よみかきの できる ものの ひとりである いじょう、よみかきの できない ひとに たいして「よみかきなど できなくてもよい」と いう わけには いかないし、「よみかき したいけれど できない」という ひとが いる じょうきょうを ただして ゆく せきにんをおって いると かんがえます。』

 m_i さんが してき されてるのは こういう もんだいでしょうか?

lever_buildinglever_building 2009/11/29 07:27 id:apollo440 さん。
 かんじ かなまじり ぶんには、なるべく ルビを ふった ほうが よいですね。その てんは さんせいです。ルビは よむ ときの ハードルを ひくくするのに ゆうこうですから。
 しかし、ルビの ついた かんじ かな まじり ぶんは、かんじを しらなくても よめますが、かんじを しらなければ かけません。したがって、よむ ハードルと どうじに かく ハードルも さげるには、「かんじを つかって はじめて まともな にほんご」「かながきや ローマじの ぶんしょう よりも かんじ かなまじり ぶんの ほうが レベルが たかい」という じょうしきを ぶっこわす ひつようが あります。そのために かながき(ローマじ などでも いいですが)の ぶんしょうが めずらしくも はずかしくも ない という じょうきょうを つくって いけたら いいな、と おもって います。
 また、スクリーンリーダーの ような ソフトは、わかちがき なしの いっぱんてきな ぶんしょうに あわせて かいはつ されて いるのでしょうから、まだ しょうすうの ひとしか こころみて いない わかちがきの ぶんしょうとは あいしょうが わるい という ことは あるのでしょうね。わかちがきが もっと ひろく ふきゅうすれば、じょうきょうは かわって くるでしょうかね。
 ちなみに こういうのも あります。
  ↓
「日本語を わかちがきする会」
http://wakatigaki.ring.hatena.ne.jp/

lever_buildinglever_building 2009/11/29 07:46 id:yotayotaahiru さん。
トラックバックして いただいた きじも あわせて はいけん しました。

レイアウトや かいぎょうの しかたなどに ついて、
きちょうな アドバイスを コメントして いただいた うえに、
おてほんの ぶんしょうまで かいて くださり、
たいへん ありがたく おもって おります。

 「なるほど!
 くふうしだいで こんなに みやすくなるのか!」
と ふかく かんしん いたしました。

さっそく、まねを させて いただきますね。
また、わたしなりにも くふうを かさね、
より みやすく よみやすい ぶんしょうを
ついきゅうして いきたいと おもいます。

とても かんしゃ して おります。
ありがとうございます。

lever_buildinglever_building 2009/11/29 10:40 通りすがり さん。
わたしは あおくさい りそうしゅぎしゃで、
「もしも……」という ところから かんがえ はじめるのですが……。
もしも、かんじ かな まじりと かながきを
じゆうに えらべると したら。
にほんごで かかれた あらゆる ほんや ざっし、ウェブの ぶんしょうに
かんじ かな まじりと かながきの りょうほうが よういされて いるなら。
てがみや しごとの ぶんしょなどを
かんじを つかって かこうが かながきで かこうが
ひとからの ひょうかが かわることが ないなら。
もし、じゆうならば、
ほとんどの ひとが かながきを えらぶのは
たしかだと わたしは おもうのですね。
かんじを よめない ひとへの はいりょ という ことを ぬきにしても、
うえの きじで かいたように
かんじを つかう ごうりてきな りゆうは ないのだから。

げんじょうに おいて そうならないのは、
かんじを よみかき できなければ ならない という ひつようが
つくりだされて いるからでしょう。
だから、通りすがり さんが いんよう された きじでは、
かんじを つかう ことを むりじいする 「こくご」という せいどを
ぶっこわして、
じゆうに えらべる ように しましょう、
そういう ことを かきました。

その けっか、かんじを まなび かきたい ひとは
そうすれば よいと おもいます。
しかし、その ばあい その ひとは
しいられた ひつようせいの もと かんじを つかうのでは ないでしょう。
つまり、かんじを つかうのが 「あたりまえ」だから そうするのでは なく、
かれ・かのじょと その かたりかけようと する あいての かんけいに おいて
ひつようであると はんだんして
かんじを つかう はずです。
はんたいに、あいてとの かんけいにおいて
かながきで かく ひつようが あると
かれ・かのじょが はんだんすれば、
かながきで かくでしょう。

じゃあ、どうやって そうした しいられた ひつようせいを
なくして いく ことが できるのか?
これについては、わたしは まだ めいかくな ビジョンを もって いないのですが。

workingmanisdeadworkingmanisdead 2009/11/29 10:55 まさに言語だけに特化されているからこそ、
うさんくさいなあと思うのですよ。思想が統一化されてない。
もしかしたらあなたのなかでは統一されているのかもしれないけど伝わらないです。

workingmanisdeadworkingmanisdead 2009/11/29 11:06 途中で送信しちゃった。
漢字を学ぶ事が困難な人たち、足し算しかできない人たち、
気圧の測り方が分からない人たち(私は分からない)、
徳川家将軍全部知らない人たち(私は知らない)、
にとっては、「学ぶ事ができない「これしかできない」
「分からない」「知らない」「理解できない」って言うのが問題なんであって、
ひらがなにすりゃあいいじゃん、で問題が解決するとは思えない。
できない人をできるようにすればいいとも思わない。
できない人がいて、できる人がいて、その存在に優劣はない。
て考えると、かながき文推進も、
「できない人の存在に力を借りた」権力推進運動なんだよね。
断言しちゃうけど。あなたの日記を何度も読んで、
こんな断言、へりくつで回避されるのは分かってるんだけど。
分かんない事は聞けばいい、ググればいい、だとか、
そういう事を内包できてない時点で、あー、左翼のあれねとしか思えないんだよ。
主語の省略を意図的に悪いほうに解釈する感じとか。
結構あなたっていろんな人の事を蹂躙してると思うよ。

通りすがり通りすがり 2009/11/29 11:31 私の場合に限って言えば、文章の長さに対する情報の量が少ないものはイライラしますね。
と言う訳で、総仮名文字を通すなら文章短くするのが良いかも。
例えば、
「ひとつ まえの きじを ひじょうに おおくの かたに よんで いただいたようです。まったく よそう して いなかった ことなので、おどろいて おります。とても ありがたい ことです。」
なら、
「こないだのエントリ、アクセスふえた。びっくり。ちょーうれしー。」
等にした方が読みやすいかなーと。

で、思うのですが。
文字の仮名化の需要は、ケータイ小説等の若者文化で既に進行しており、あえて新しい形で作り出す必要は無いのかも知れませんよ。

apollo440apollo440 2009/11/29 15:28 コメントにコメントありがとうございます。

あと、最後のほうの「ひょうげんに ひょうかを くだす〜」のあたりは確かに私も気になっています。
”文字”からちょっと脱線しますが、とくに最近、人気の出るブログというのは大した根拠もないのにまるで自分の意見が正しいかのごとく断定口調で批判する、いっぱしの評論家(評論家とちうカテゴリ自体、ちょっと、ですが)気どりみたいな人がおおく、しかも、同調する人がおおいうえ真似しだす、と。

すみません、脱線してしまって。それではまた。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2009/11/29 15:43 やねごんの基本的な立ち位置について異議をさしはさむつもりはない。
と、前置きしたうえで

話し言葉と書き言葉は異なると考える。
例えば、数式は一種の記述言語であといえる。
そして、僕は数式という記述言語を上手に読み書きすることはできない。数式という記述言語を十全に読み書きできない人は、漢字が苦手な人よりはるかに多いだろう。しかし、ある種の記述をするためには、数式という記述言語は必要不可欠であることはわかる。数式という記述言語を扱えるようになるためのハードルは高いが、それゆえに数式という記述言語は有用であるともいえるわけだ。
伝えるべき内容と伝達する形式にはかかわりがあるのであって、漢字を用いた文でなければ伝えられない内容もあると僕は考える。よって、やねごんの論旨には部分的には同意できない。

空気いぬ空気いぬ 2009/11/29 19:02 かな文は、半分くらいでなれてスラスラと よめたのだけれど 今度は漢字の混じった文が読みにくいと感じました。
ふしぎ!

m_im_i 2009/11/29 20:25 そのとおりです。
ちなみに、僕の言いたいことはさほど変わらないので、「漢字を知っている人」という表現は、「読み書きのできる人」として汲み取ってもらってもかまいません。
言葉足らずなうえ曖昧な表現をしてしまい申し訳ないです。
僕がどう返事を書こうかあれこれ思案しているうちに、yotayotaahiruさんが僕の言いたいことをとても分かりやすくまとめてくださったので、いまさら僕から言うことはほとんどないのですが……
あなたが、漢字を知らない、あるいは読み書きのできない人たちに対して、これこそがその人たちには必要だと思って書いた文章のかたちが、実際にその人たちに必要とされるかどうかは、なかなか分からない。
そういう「ズレ」の障害を克服するために、ブログというかたちを利用するのであれば、それはとても素敵なことだと思います。
頑張ってください。

質問質問 2009/11/29 23:27 (以下は質問じゃありませんが…)
カタセンガナのフォントでの、分かちがき文章を印刷で読んでみたのですが、馴れると、単語が一塊に見えて、
これはなかなか速く読めるぞ、という感触を得ました。
それから、昔の活版のカタセンガナのフォントが、かわいい。使ってみたい。
だれかFreeで、かっこいいカタセンガナフォント開発してくれないだろうかな。
ひらがな分かち書きでできるだけ読みやすい、ひらがなフォントもあるなら見てみたい。

一つ気になるのが読点の効果が、分かち書きのスペースの効果に食われてしまってるように思えること。これはタイポグラフィーの問題にして解決できるだろうか。

面白い、と思ったのが漢字廃止の試みの伝統は、初期はナショナリズムと結びついていたようなんですね。しかし現在ここでのように、反ナショナリズム的文脈に置かれている。
これは不思議なめぐり合わせで面白い、と思いました。

yotayotaahiruyotayotaahiru 2009/11/30 01:51 昨日に引き続き、今度はちょっと違う視点からの、「漢字かな混じり文」についての記事を書きました。トラックバックお送りいたします。
たぶん、対立する立場ではないと思っています。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/11/30 23:56 文字はコミュニケーションの手段なんだから双方が意思疎通するのに最適なものを使えばいいのであって、漢字でもかなでも好きなようにすれば良いと思う。

ただこの文章は誰に対して理解しやすくなるだろうと思ってこのように書いているのか分からない。
いくつかコメントされているけど語句の選択や文章の言い回しは日本語の習熟が十分でない読み手を明らかに遠ざけているし、一般に使われる日本語(漢字かな混じり文)に慣れた人にとってはかな書きが違和感を与える。この文章が誰にとって読みにくくないのか教えてほしい。結局「日本語を十分に習得し、且つかな書きに慣れた人」だけなのでは?

lever_buildinglever_building 2009/12/01 06:45 id:workingmanisdead さん。
 わたしは この ブログで 《げんご》についても かいて いますが、こんかいの きじと workingmanisdead さんから トラックバックを いただいた きじでは、《ひょうき》について かいた ものです。
 「かんじを まなぶ ことが こんなん」である ことは、《げんご》と いうより、《ひょうき》の もんだいだと おもいます。これは、workingmanisdead さんが あげて いる「たしざんしか できない」「きあつの はかりかたが わからない」といった こととは、ならべられないと おもいます。
 わたしが ろんじて いる かんじの もんだいを、「きあつの はかりかた」の れいに あてはめるなら、きょうしが せいとに つぎの ように ようきゅう する ばめんを かんがえれば よいでしょう。「きあつの はかりかたを マスターするには、けんすいを 10かい できるように なり、その うえで はんにゃ しんぎょうを そらんじ、さらに フルートの おとを きれいに だせる ように れんしゅう しなさい」。
 もちろん、けんすいや はんにゃ しんぎょう それ じたいには それなりの いぎは あるでしょうよ。でも、きあつの はかりかたを まなぶのに、そんな ことを やる ごうりてきな りゆうなんて、ないでしょう。そんな ことを ようきゅう したら、きあつの はかりかたを りかい する ことから せいとを とおざける だけです。どうしたって けんすいが できない ひとだって いるんだから。
 わたしが もんだいに しようと して いるのは、そういう ことです。にほんご という 《げんご》の 《ひょうき》は かながきでも かんじ かなまじりでも かのうだし、かんじ かな まじりで ひょうげん される ことは、かながきでも じゅうぶんに ひょうげん できる。にもかかわらず、かんじを つかう ことで わざわざ その がくしゅうの ハードルを あげることに よって、おおくの ひとを よみかきから とおざけて しまって いる。
 むろん、かんじを つかわずに かながきに したから といって、すべての ひとが よみかき できる ように なる わけでは ありません。しかし、かんじの せいで よみかきが できなく されて いる ひとは、よみかき できる ように なるでしょう。
 おっしゃる とおり、できない ひとと できる ひとの あいだに ゆうれつなんて ありません。それは ほんぶんでも のべた つもりです。『「よみかきの できる ひとが それを できない/しない ひと よりも ひろい せかいと ふかい ものの みかたを もって いる」などとは だんじて いえない』と。
 また『わたしは いっぽうでは よみかきが できなくても なんの ふつごうも なく せいかつできる しゃかいが りそうてきだと おもって います』とも のべました。だから、「分かんない事は聞けばいい」という workingmanisdead さんの ことばとも そんなに とおい はなしを して いないと おもうのですが

lever_buildinglever_building 2009/12/01 06:45 ふたりめの 通りすがり さん。

> 文字の仮名化の需要は、ケータイ小説等の若者文化で既に進行しており、あえて新しい形で作り出す必要は無いのかも知れませんよ。

 もちろん、ケータイ しょうせつには ケータイ しょうせつに よって こそ ひょうげん される ことが あり、みたされる ものが あるのでしょう。しかし、だから といって、ケータイ しょうせつ さえ あれば それで じゅうぶんだと いうわけでも ないのでは? 「かんじを よむのに こんなんを かかえて いる ひとは、ケータイ しょうせつ だけ よんでれば いいのだ」と でも いうので ない かぎりは。

lever_buildinglever_building 2009/12/01 08:02 tikani_nemuru_M への おへんじは、あらたに エントリを たてて かきました。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091201#p1

ほかの かたの コメントへの へんじは、また のちほど。

横槍失礼します横槍失礼します 2009/12/02 15:58 >だから といって、ケータイ しょうせつ さえ あれば それで じゅうぶんだと いうわけでも ないのでは?

いえ、通りすがり氏が言っているのは、「漢字は読めないけど日本語を理解してる人はケータイ小説だけ読んでろ」ということではなく、「ひらがなだけで文章を書こうとするならそれに適した文体は自然とケータイ小説的なものになる」という話ではないかと思います。
・文章の長さに対する情報の量が少ないものはイライラしますね。
・総仮名文字を通すなら文章短くするのが良いかも。
という氏の指摘は納得がいくものですし、氏による言い換えは確かに簡潔で読みやすくわかりやすかったです。
そして「読みやすい」ものを求めるのが易きに流れる人の無理ない心理である以上、もし将来ひらがな書きが普及して漢字が不要なものと排除されたら(何せ漢字は日本語学習において、理科の学習における懸垂や般若心経並みに無意味とおっしゃるくらいですし、一旦状況がひっくり返ったらそんな事態に突き進む可能性は高いでしょうね)、その「にほんご」で書かれる文章は、今現在で言うならケータイ小説めいた、そんな文体で書かれるものになるのではないか、と、氏のコメントを読んで私は想像しました。

workingmanisdeadworkingmanisdead 2009/12/02 23:02 うーんと、気圧の測り方を学ぶには百葉箱って何なのみたいなとこから始めるわけで、
気圧計見ればいいじゃん、って言うのを、気圧計ってどういうしくみなの、
って言うややこしい事を教えるわけです。
けんすいとかの例えはまだちょっと悪意交じりだと思う。
けんすいと気圧別に関係ないし。
で、だけども、まあ表記については、
いろんなエントリ読んで、別にひらがなでもなんでもいいんじゃね?
と思うようになりました。理屈は通らない話だなあと思うのですけどね。
ラテン文字のアルファベットで日本語の文章書いたっていいわけだし。
というかひらがな読めない人に合わせる場合ね。
正直、私、ユニバーサルデザインそのものを信じてないです。
できない人とできる人の間には冷酷な差があって詰めようがない。
今後ひらがな表記が主流となったとしても、
ひらがなで表記されたものを「読めた」としても「理解する」事はない人が出てくるよ。
そういう意味で、うさんくさい理想論だよなあと思うわけですが、
まあ、学ぶって言うのは意欲の問題なので、
教師の指示がすべて押しつけと感じる人にとっては、
それぐらいのうさんくさい理想論でいいのかもなって思いました。


※長くなっちゃうんですけど
仮に、気圧の測り方を教わるのに、「それじゃあ君けんすいしてきたまえ」
って言われたとする。「なんでそんなことするんすか」と問う権利が生徒にはある。
「まあいいからやってごらんなさい」「はい、こうですか、できません」
「なぜできないんだと思う?」「鉄棒にぶら下がった途端身体がすげー重くて」
「なんで重いんだろ」「・・・!なんと!これが重力に縛られたものの苦しみかー」
などといくらでも学べるわけで。
フルートだってそうだよ。気圧影響するからね。圧力関係してるしね。
気圧を測るって事からどんな事でも学ぶ事ができるって分かるのは
私は喜ばしい事だと思う。そういう瞬間を奪う可能性は、
ひらがな書きのみしか不可っていう世界にはあるかなあと思います。
わざとすごい下手な文章で書いてみた。
たぶん、ひらがな書きの人より、私の文章のが読みづらい。

lever_buildinglever_building 2009/12/04 09:32 空気いぬ さん。
 ありがとうございます。
 わたしも じっかんとしては、かながきに なれて みると、かんじまじりの ぶんは よむのに けっこう ふたんが おもい ものだと かんじるのですが。「今日(きょう/こんにち)」「行って(いって/おこなって)」の よみわけとか、あたまの なかでの わずらわしい そうさ(操作)は かんじを つかった ぶんの ほうが おおいんじゃないかなと おもいます。

lever_buildinglever_building 2009/12/08 07:19 > 質問 さん。
ずいぶん あいだが あいて しまいましたが。

「読点の効果が、分かち書きのスペースの効果に食われてしまってる」
というのは, たしかに そうですねえ。
なやましい ところです。
コンマ(,)を つかえば,たしょうは かいぜんされるかな
とも おもったのですが、
あまり かわらない みたいです。
となると,なんにんかの かたに してきして いただいたように,
かいぎょう(改行)を うまく かつようする ひつようが
あるのかも。

> 面白い、と思ったのが漢字廃止の試みの伝統は、初期はナショナリズムと結びついていたようなんですね。しかし現在ここでのように、反ナショナリズム的文脈に置かれている。

「ナショナリズム」そのものが
ひとすじなわで いかない ためんてきな ありかたを
して いますからね。
ナショナリズムには、
げんぞんする ふびょうどうな ちつじょを ぶっこわしながら、
まだ げんじつに そんざいして いない きょうどうせいを
つくりだして いこう
という そくめんが あるかと おもいます。
その いみで、
わたしの はんにちてき(反日的)な しゅちょうと、
「ナショナリズムと結びついていた」という 「初期」の こころみは、
その どうき(動機)に おいて
かさなる ぶぶんも あるかも しれません。

lever_buildinglever_building 2009/12/08 07:53 id:k-1_msmr さん。
コメントを いただけるのは たいへん ありがたいのですが、
できれば ほんぶんを よんだ うえで コメントして いただけると
うれしいです。

さんこうまでに すこし つけくわえて おきますと、
「かんじ かなまじり」の げんぶん いっち たい(言文一致体)は、
それが もさくされつつ あった かつてに おいて
《だれに とっても》「よみにくい」ぶんたいで あった という こと。
かんぶんや おうべいの ぶんけんに なれた ちしきじんに とっても
「よみにくかった」はずだし、
とうぜん、もじの よみかきなど した ことの ない みんしゅうに とっても
それなりの 「習熟」の ための くんれんを ひつようと した はずです。
しかし、げんぶん いっち たいに よって、
その 「習熟」の ための ハードルが ひくく なった ことは
たしかでしょう。
もっとも、そう いえるのは、
「ひょうじゅん」に ちかい
「にほんご」の はなし ことばに なじんだ ひとに
かぎっての ことであり、
しょくみんちの ひとや ろうしゃに とっても そうだ
とは いえない という てんは
ちゅういしなければ なりませんが。

lever_buildinglever_building 2009/12/08 08:17 > 横槍失礼します さん。
「ケータイ小説めいた、そんな文体」という ひょうげんに
どういう いみを こめて いらっしゃるのか わからないのですが。
かながき というのは、あくまでも 《ひょうき》の もんだいであって、
「ぶんたい」は また べつの はなしでは ないでしょうか?
「易きに流れる」という いいかたを されて いますけれど、
かながきで かかれながら、
「ぶんたい」や ごくの せんたく(選択)に おいて
それなりに よみての ふたん・ろうりょく(労力)を ようきゅうして しまう
という ぶんしょうは ありうるでしょう。
わたし じしんが かく ぶんしょうは、
そういった ふたんが なるべく ちいさい ものに したいですが、
《なにを かたるか?》に おうじて、
よみてに ふたんの おおきい ぶんしょうが かかれる ことは
あるでしょう。
もっと いえば、《げんみつに》 かこうと する ぶんしょうは、
よみにくく なる ことは さけられないでしょう。
しかし、それは ぶんたいや ごくの せんたくに ともなう
ハードルの たかさであって、
ひょうきに おいては、むように ハードルを あげる ひつようは ない
というのが、わたしの かんがえです。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/12/08 22:50 >コメントを いただけるのは たいへん ありがたいのですが、
>できれば ほんぶんを よんだ うえで コメントして いただけると
>うれしいです。

読みましたよ。一応ね。
あなたの文章への「読みにくい」という批判に対して、その読みにくさは「私にとって」の読みにくさであるという視点の欠如を指摘し、それは多数派の独善であるというのが要旨ですよね。

でもあなたの文章が「誰にとっても」読みにくいんだったら、あなたの文章に対する批判に「私にとって」という視点が欠けていたとしてもしょうがないんじゃない?だって「誰にとっても」読みにくいものに対する批判なんだから。

あなたの指摘があてはまるのはせいぜい「ひらがながばっかりで」と限定しているものだけ。それ以外の「よみにくい」はあなたの使っている言葉が難しくて読みにくいといってるかもしれないのに、そのような可能性は一切排除しているあなたの独善を指摘するのが私のコメントの趣旨。

lever_buildinglever_building 2009/12/09 01:36 > workingmanisdead さん。
「うさんくさい理想論」と いわれれば、
まあ そうかなとも おもいます。
「ユニバーサルデザインそのもの」だけで
あるいは、かながきの ひょうきを ひろめるだけで、
なにもかも かいけつするとは おもって いません。
おっしゃる とおり、
「できない人とできる人の間には冷酷な差があって詰めようがない」
という ばめんは、
どのように ひょうきを あらためても、しょうじて くるでしょう。
だからこそ、workingmanisdead さんが
まえの コメントで かきこんで くださった
「できない人がいて、できる人がいて、その存在に優劣はない」という こと、
また、「できない人」も 「できる人」も こころから そう おもえる ために
どうしたら よいのか かんがえる ことが
だいじなのだと おもいました。

あと、いただいた コメントの こうはん(後半)に ついて。
わたしは がっこうてきな きょうし/せいとの かんけいが きらい、
というか、ほとんど ぞうおを いだいて いる わけですが……。
でも、なにかを まなぶ という ことが
たにんとの かんけいの なかで おこる いじょう、
それが 「じゆう」では ありえないって ことは
ちょっと おもったりも します。
ときに ふじょうり・ふごうり・ふほんいであり
また よてい ちょうわには いかない ような
うけみの たちばに たたされながら、
まなびうる だいじな ことも たくさん ある。
じぶんを ふりかえって そう おもわなくも ないです。
だから、わたし じしん 「ふごうり」という りゆうで
かんじを きって すてる ろんじかたを して いる ことに
ちょっとした かっとうを かんじる ところも あります。
ただ、がっこう という
しょうらいや せいかつを ひとじちに とって
うんえいされて いる ばしょで
おしえたり まなんだり する ことが おこなわれて いる
という てんに、はんぱつを おぼえます。

lever_buildinglever_building 2009/12/09 01:37 id:k-1_msmr さん。
> 読みましたよ。一応ね。

それで こうした コメントを いただくのは
ざんねんと しか いいようが ないです。

> それ以外の「よみにくい」はあなたの使っている言葉が難しくて読みにくいといってるかもしれないのに、そのような可能性は一切排除しているあなたの独善を指摘するのが私のコメントの趣旨

あのですね。
かんじ かな まじりの ぶんしょうに たいしては
かりに よみてが 「よみにくい」と 《かんじた》としても
どうどうと 「よみにくい」と 《いえない》ものだし、
じっさい そう 《いう》 ひとが ほとんど まったく いない
という ことを わたしは もんだいに した わけです。
ほんぶんで のべた とおり、
わたしが 「よみにくい」と わざわざ かきこまれる ように なったのは
かながきを はじめてからです。
また、わたしの ブログの ような かながきで かかれた ぶんしょうで なくても
「言葉が難しくて読みにくい」と よみてが かんじる ぶんしょうなど
いくらでも あるでしょう。
そういった ぶんしょうに 「よみにくい」「とちゅうで よむのを やめた」といった
はてぶ こめんとが やまほど ついて いるのを みた ことが ありますか?
ほんぶんでも
『わたしの きじの ような かながきの ぶんしょうでは なくても、とちゅうまで よんで やめる ことなど しばしば あるだろうに、どうして わたしの きじに だけ、わざわざ それを おしらせして くださるのだろうか?』
と かいた とおり。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/12/09 23:09 >かんじ かな まじりの ぶんしょうに たいしては
>かりに よみてが 「よみにくい」と 《かんじた》としても
>どうどうと 「よみにくい」と 《いえない》ものだし、
>じっさい そう 《いう》 ひとが ほとんど まったく いない

えーーー!!!そうなんですか!?
俄には信じがたいのでちょっと試しにググってみます。
"ブログ""読みにくい"で検索するとトップにはタイトルが「読みにくいブログ」でタイトルの由来は「読みにくいと指摘されることが多い」からですって。ということはブログの本文はかな書きで書かれていることが予想されますが念のため確認してみます。…あれっ?漢字かなまじりでした。漢字かなまじりでも「読みにくいと指摘されることが多い」場合もあるみたいですよ。
調査開始後わずか2秒で「じっさい そう<<いう>>ひと」が全くいないわけではない事が分かりました。

ただ、読みにくいと感じた人の中で実際に読みにくいと言った人の割合を出して比較してみるとかな書きの場合と比較して漢字かなまじりの文章が読みにくいと実際に言われることは比較の上で ほとんど いない に等しいと言うことができるようになるかもしれません。

しかし相対的な割合で「ほとんどいない」というのがOKなら日本語で書かれたブログを読む人でかな書きになっていてはじめて読めるようになる人の相対的な割合なんて「ほとんどいない」のでは?あなたはそういう「ほとんどいない」人を無視する態度を批判していたのでは?なぜあなたは自分がまさに本文中で批判している理屈でもって私の指摘を無視してそれで通ると思ってるんですか?

俺はいいけどお前らはけしからんと。それこそ大層なご身分でうらやましいことです。そのようなご身分のお方のおブログ様とはつゆ知らず私のようなものがコメントしてしまい申し訳ございませんでした。もうしませんのでご寛恕ください。

lever_buildinglever_building 2009/12/12 02:06 id:k-1_msmr さん。

おはなしに なりません。
「あほ」の ふりを なさってるのでしたら、
やめて いただきたいです。
くだらない おふざけに おつきあいする ひまは
ないので。

> 調査開始後わずか2秒で「じっさい そう<<いう>>ひと」が全くいないわけではない事が分かりました。

「全くいない」ではなく、
わたしは 「ほとんど まったく いない」と
かきました。
この ちょくごでは
あなたは わたしの 「ほとんど」という ことばを
おとさずに いんようして いる わけですから、
わかって わざと やってるのですよね?

> しかし相対的な割合で「ほとんどいない」というのがOKなら日本語で書かれたブログを読む人でかな書きになっていてはじめて読めるようになる人の相対的な割合なんて「ほとんどいない」のでは?あなたはそういう「ほとんどいない」人を無視する態度を批判していたのでは?なぜあなたは自分がまさに本文中で批判している理屈でもって私の指摘を無視してそれで通ると思ってるんですか?

どこから つっこんだら よいものやら
とほうに くれて しまいますけど。

まず、「しかし相対的な割合で「ほとんどいない」というのがOKなら」
というのは k-1_msmr さんの さくぶんで あって
わたしの しゅちょうじゃ ないですよね。
かってに わたしの かんがえを 仮定して おいて、
それを たたく、と。
こういうのを 「わらにんぎょう たたき」と いいます。

また、「あなたはそういう「ほとんどいない」人を無視する態度を批判していたのでは?」
というのも、
わたしの しゅちょうの ぶんみゃくを
わざと はずして
あなたの つごうの よいように りようして いる。
そもそも、さきの コメントで
わたしが 「ほとんど まったく いない」と かいたのは、
かんじ かなまじりの ぶんしょうに たいして
わざわざ「よみにくい」と コメントする ひとが
ほとんど いない という 《じじつ》に ついてです。
たほうで、かながきの ぶんしょうに たいしては、
たくさんの 「よみにくい」という コメントが つく。
だから、わたしの ブログに たいする
「よみにくい」という コメントの たいはんは、
「語句の選択や文章の言い回し」に たいしてでは なく、
かながきで かかれて いる ことに たいする ものと いえる。
そういう はなしを して いた はずです。

「語句の選択や文章の言い回し」に よって
わたしの ぶんしょうが よみにくいと かんじる ひとが
いるであろう ことは みとめますよ。
しかし、わたしが ほんぶんで ろんじて いるのは、
あくまでも 《ひょうき(表記)》の もんだいです。
「語句の選択や文章の言い回し」による よみにくさは、
かながきで かこうが、かんじを つかって かこうが、
おなじように でてくる もんだいで、
それは 《ひょうき》とは また べつの もんだいです。
そして、その《ひょうき》によって
かんじ かなまじり ぶんに なじんだ 《いちぶの ひと》に とって
さいしょは 「よみにくい」と かんじられる かきかたを、
つまり たすうはに はいりょ《しない》かきかたを
わたしが あえて 《えらんで いる》ことは
ほんぶんを よめば わかる ことでしょう。

「語句の選択や文章の言い回し」の むずかしさが
いっていの よみてを とおざけて いる うんぬん
という ことは、
とりあえず、こんかいの きじで
わたしが ろんてんと している こととは
ちがいます。
k-1_msmr さんが それを もんだいと かんがえるなら、
わたしの ぶんしょうに そうした してんが かけて いる ことを
してきする まえに、
あなたが まず にほんごの かきての ひとりとして
それに とりくんだら よいでしょう。
あなたに そういう もんだい かんしんが
ほんとうに あるのなら。
わたしは わたしなりの やりかたで
その もんだいに とりくんで いこうとは
おもって いますが。

harveysharveys 2010/01/24 20:48 lever_buildingさんは、漢字を身につけるために必要な労力を過大評価しているのではないですか。
たしかに、日本語を読み書きするためのハードルが、漢字のために高くなっているというのはそのとおりだと思います。
でも、いまの日本のインフラストラクチャーをひっくり返さねばならないほど、漢字の習得は難しいのでしょうか。
漢字が読めないために困っている人には、漢字が読めるように支援してあげればいいのではないですか。

足の不自由な人の例えをお借りしてみます。

「あなたの足が健常者と同じように動くようにする治療がある。多額の費用は援助する」という人と、
「あなたのために、国内の階段をすべてエレベーターにする」という人がいたとして、
どちらが足の不自由なひとのことを考えているのでしょうか?

足が動くように慣れば、街中を歩けるだけでなく、登山も出来ますし、自転車にも乗れますし、サッカーも出来るようになります。
富士山にエスカレーターをつけたり、サッカーを足を使わないスポーツに変えられるでしょうか?
それに、富士山にエスカレーターで登っても、それは登山ではありません。

それとおなじことで、かな書きが普及すれば、漢字が読めなくても新聞は読めるようになるでしょう。
でも、漢文を学んだり、書道を楽しむことは出来なくなります。

それに、私たちの社会には「すでに漢字を用いて書かれてしまった」大量の文化的資産があるわけですから、
それらにアクセスするために漢字の読み書き能力を習得することは、価値のあることだと思います。

でも かながきも わかちがきも それほど よみづらいとは おもいませんよ。
かくことにも それほど ていこうが ないようです。
わかいからでしょうか。
かんじかなまじりぶんが えらくて りっぱで ただしい にほんごだと いう かんがえは たしかに へんですし、
このブログが かなぶんで じょうほうを はっしんされている ことは いぎある ことと おもいます。

それでは。