北緯42° このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-12-30

marginalism2017-12-30

巡礼の年

 今年は1月にハイライトを迎えてしまいました。年の瀬に振り返ってみてもやはりあれを超えることはなかった。ということで「沈黙」に導かれた1年の道を改めて書き起こしてみます。

 1月:元日に引いたおみくじが大吉だ。近所のプロテスタント教会で『沈黙サイレンス』のチラシを拾って「エキュメニカルだなー」と期待と不安がない交ぜになりつつ、松浦理英子の新作長編が載った『文學界』を購入したけど『沈黙サイレンス』が駄作だった時の口直しのために読まずに取っておく。どちらも待ち望んだ作品ですが、今回はスコセッシ版映画の方がより長くできるのか疑いつつ待っていたものだった。途中でちょくちょく掃除をしているのは今思うとお清め気分だったんだろうか、ハタキを手に入れて浮かれている。日本公開直前に新潮文庫版『沈黙』が200万部突破と知り50年かけての記録に驚く。ハリウッド映画化されるとこんなことになるんだね。23日ヘアドネーションのためバッサリボブにして身をスッキリさせた後、ついに鑑賞。公開週の月曜夜にロビーに自分しかいねえ!スクリーン独占!?そして忘れ物をして戻って来た親子連れが「次もあるの?」「1人?」「女の子1人?」「怖くないかしら?」とか言ってる。怖いの!?ねえ怖いの!?でも流石に始まる前には5、6人入ってきたよ。というか暗闇でわかりにくかったのかもしれませんが女の子ではなくて貧乏こじらせて服を買えない結果若作りになってしまっただけのアラフォーです。

  見たあとさー「なんかさー、窪塚洋介が出てくるまでキチジロー役粘った甲斐があったなと思ったわ。私が最初にこの映画化の話知った時にイッセー尾形キチジロー役って聞いてて、イッセー尾形キチジローをやれない年齢になって井上筑後守にスライドするほどの年月をかけても粘って良かったなーと思ったわ。」「原作でさらっと書かれてたことをしっかり描いてたり原作でしっかり書いてたところをさらっと描いてたりしてるんだけど、原作ありきで映画に最低限必要な部分だけ膨らませてもらいますよっていう謙虚さヤバい。年齢的に窪塚とキチジロー役争って最後まで残ってそうな加瀬亮も見せ場作ってもらってて良かったというか日本人キャストのそれなりな人とか英語喋れる人は脇でも見せ場作ってもらっててスコセッシの気遣いいたみいりますって感じでした。あの描写原作にあったっけとあやふやになる部分確かめてからあと3回くらいは劇場で観てもいいな。原作既読の人も観る前に読み返した方が良さげ。原作未読で映画観てる人に話し通じるのかな?っていうのはある。全然親切じゃなくて説明省略しまくってるから。」だそうです。直後の声をそのままコピペしました。窪塚洋介のインスタにコメントする程度に興奮しているそうです。鑑賞後「時は来た」と長崎市再訪・五島列島上陸を決意したことはとてもよく覚えています。鑑賞2日後には太川陽介蛭子能収の腐れ縁がロドリゴとキチジローそっくりということに気づいて「キチジローは原作イメージだと蛭子能収です!長崎弁喋るし!」と力説しております。私の2017年は「沈黙以前(22日間のみ)」「沈黙後」にパッキリ分かれているので、それ以後ずっと何かというとこの作品に結びつけてますね。聖地巡礼の旅のことを調べていたら、31日に日本橋舞台あいさつがあると知り即予約。勢いで旅行プランも申し込んでしまっていた。31日は1年近いアレルギー検査たらい回しの挙句に仕事を休んでようやくたどり着いた大学病院という約束の地で私によく似たタイプのADHDみあふれる医者に出会った後、日本橋映画館近くの長崎アンテナショップまでちょっとリサーチしに行ったら職員の人の五島列島キリシタンクルーズ写真を見て盛り上がってしまった。舞台あいさつの窪塚洋介の立ち振る舞いの良い家の長男っぷりがイメージと違って感動しつつ2回目鑑賞。窪塚さん、やたら終電を気にしてくださっていたんですけど、きっと本人が横須賀育ちだからレイトショーなんかだと中座する羽目になる実家暮らし時代だったのかなと推察しました。なんだかきちんとしていて、きちんとしすぎてしまうからこそ大変だったんだろうなと長女として同調しちゃう感じの人だった。

 ちなみにこの頃世間では清水富美加の出家騒動が勃発しておりまして、清水富美加のボブカットが可愛らしかったので影響されてみた私には味わい深いものがありました。

 

 2月:食物アレルギーは諦めてるけど花粉症とアトピーをどうにかしたくて油断ちに挑戦。効果はあったと思う。ローザンヌとかフィギュアスケート見つつネット情報見かけた遠藤周作ゆかりの人々による『沈黙サイレンス』をめぐる対談を6日に拝聴しに行きました。鑑賞後2週間でこれだけ動き回るって私にとっては異例のことよ。そして私がその情報を見たのはキリスト教信者の新聞サイトだったから当たり前なんだけど、会場にはクリスチャンしかいないというか参加者全員クリスチャン前提。高山右近の列福式が明日とかいう絡みのカトリックジョークで場が温まってる。まあでもこういうの慣れてるしクリスチャンに紛れてクリスチャンのふりをするのも得意なのでそんなに問題ないです。

 「信仰は持つものではなくあるもの、深めるものではなく深まるもの。12使徒は全員転んでいる、だからキリスト教は転んでから始まる。」(遠藤周作先生は聖書に書かれていないことを書こうとしていたのでしょうか?という質問に対して)「文学者がやることはそれでしょう、というよりも文学者がやることなんてそれしかないでしょう」というやりとりなどが心に深く刻まれた。「汝がなすことをなせ」が頭に響き渡る。『沈黙』に導かれてこの会に参加したのはこの後の私に大きな出来事となります。ついでに酢全般が嫌いで有名な私が何故か酢飯が食べたくなってしょうがないので帰途ダメモトでパックのお寿司を買ってみたら、食べたかったのこの味だと満足してびっくり。篠田正浩版『沈黙』をCS放送で捕獲して撮影が宮川一夫音楽武満徹なのに作品としては悪い意味でびっくり。珍品というかカルトムービーでしたね。

 このあたりでやっとはてなに感想まとめてる。対談行った後だったのな→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170208

 というかNoism1『マッチ売りの話』+『passacaglia』を観に行く前日にまとめてたのな。そして怒ってる。怒って『沈黙』みろって言ってる→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170222

 このあたりの私は随分元気だなと記録を掘って感心しているのですが、本人週3外出でも問題ない、調子良いと宣言してます。12月末の私が宣言しますがそれは一瞬だったよ。『沈黙』ハイだったんじゃないかな?このテンション、今読んでるだけで疲れるもの。ガンガン金突っ込んでってるからクレカ決済おかしなことになって「長崎から帰ってきたら、今年はもう地味に生きます」って、本当帳尻合わせるの大変だったよお前。何とか年を越せそうだからいいけどさぁ…旅に出る必然性はあったからいいんだけどさぁ……五島列島キリシタンクルーズおひとりさま旅行だと催行されなくて大変だったよねぇ………追い込まれて手配して更に金突っ込んで結果上陸できたからいいんだけどさぁ……………

 そして『沈黙サイレンス』観たいという声に応えて友人を映画館に引率しました。布教です。この映画は宗教用語がガチなので微妙なニュアンスに微妙に混乱します。3度目は障害者配慮の日本語字幕版で聞き取りが苦手な私も助かりました。私がわからないスター・ウォーズファンからの視点、なかなか興味深くてスコセッシの配慮の行き届き方にひたすら頭が下がります。リーアム・ニーソンクワイ=ガン・ジン)とアダムドライバーカイロ・レン)の出演シーンを繋げてるので実は作品内では対面してないんだけど、パッと見では顔合わせてる感覚になる編集すごい。

 そんな日々の合間に小学校の時一緒に英語習っていた男子の作品が岸田戯曲賞の最終候補に残っていてクラクラしました。大学ならともかく、小学生の時に机を並べて学んだ人がそんなことになるとは思ってもみませんでした。マシオカみたいな賢さとバランスの良さを兼ね備えてる男子という印象が強かったので、そのまま育ってんだなと間の人生知らずに偉そうに知ったかぶりした。清水富美加のことはちょくちょく心配してます。

 3月:2日から4日まで長崎まで聖地巡礼に。食物アレルギーが増える中、寿司が食べられるようになったのは明るいニュースなんだけど、五島名物鯖寿司がイケるか不安で羽田空港で柿の葉寿司にチャレンジした。これを美味しいと食べられる日が私に訪れるとは…そして詳しくは別項に譲りますが、長崎旅行記を帰ってきて2日で書いてることに驚く→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170306

※ただ続きは長らく放置後12/27にようやく書き上げました。原稿用紙約58枚、インスタ映え写真が約200枚という超大作、読み応えしかないので有料設定になってますが是非ご堪能ください、めっちゃ重いけど。重いから分割も考えてるけど→https://note.mu/coyoly/n/n846e770bb125

 この旅行から帰ってきて睡眠薬が必要なくなった状態はキープ中です。これは本気で不思議。20年飲み続けた睡眠導入剤が突然コトンといらなくなった。旅行に行くと必ず体重増えるのにこの時だけは別だったし。そんで人生で初めて「奥様」と声をかけられたんですが、装備を厳重にした結果のマダムみが半端なくて納得。40代独身女一人旅、勝手に向田邦子感も醸し出してた。忘れた頃になりたいものになれます!そろそろ世の中は21世紀の向田邦子として私を発見した方がいい。

 帰ってきてすぐ五島帰りたい五島帰りたいばかりでセカンドハウス飛び越して墓を検索したら6万円で永代供養とか出て買える!墓買える!ってなってる。上五島に墓を買いに行きたい、墓立てれば長生きするっていうし墓買いたい願望が沸騰している。なぜ移住したい移住したいにならないかというと薬を処方してくれる医者や薬局が五島どころか長崎県内でも怪しいのであっさり挫折したからです。東京しか生きられないと自他共に認める私めが初めて「東京なんか人の住むところじゃねえ!」と飛行機の中でキレてちょっと狼狽しました。人生を振り返る際に確実に入る旅でした。

 15日には2月に対談で話を聞いて興味を持った方の勉強会に参加しました。カトリックの人で初めて深いところで信頼できると思った人かもしれないです。16日にはピナ・バウシュの『カーネーション』を観に行って舞台で使われていた造花を1本500円でお持ち帰りしました。ピナダンスを一緒に踊れたことに感動しました。手話を取り入れてこんな仕掛けをするピナの手法というか心意気を私も持ちたいです→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170321

 さっとんの骨折でワールド辞退で悲しくなったりとか文豪ゲームやってる人が赤旗の記事読んで「小林多喜二の政治利用」とか「公式に許可とってんの!?」とか怒ってるの見て爆笑してたのとかも3月でした。小林多喜二の公式は赤旗出してる日本共産党でゲームの運営はむしろ無断使用していると認識してないクラスタが多喜二に夢中になっているという現象は今年『沈黙』関連以外で相当心に刺さったんだけど、これ3月だったんだな。プロレタリア文学の敗北を見たのはもっと先かと思ってた。


 4月:『探検バクモン』に長崎でお会いした人たちが出ていた。長崎の人は全然と言えなくて「じぇんじぇん」になって可愛い。『やすらぎの郷』見たり浅田真央引退とか空回りしているイースター商戦とかでぐったりしている。久々に電車でパニック発作起こしたりして、今読むと明らかに3月までが躁転だとわかるぐったり加減。今読むまで気づかなかったのどうかしてる。4/26にプリックテストでラテックスフルーツ症候群確定してようやくエピペン処方されるも、薬局が手続きやりたくなさそうで心折れて泣いた。

 5月:原因不明で太って困ってるけどグルテンフリーチーズケーキを作って衆議院特別参観に馳せ参じました。速記で名前書いてもらったり衛士さんと記念撮影したりしてめっちゃはしゃいでます。大人の文化祭でした。第一委員室狭すぎて驚いた。衆院職員の人、籠池さんの証人喚問での堂々とした態度に謎の高評価だった。ついでに行った憲政記念館の片隅に民主くんがいて涙を誘いましたが、数ヶ月後の怒涛の展開予想できませんでしたよね。

 6月:Noism1『Liebestod−愛の死』レパートリー『Painted Desert』観に行ったら目の前にモギケンがいる。しかも落ち着きがない。こいつ絶対ADHDだ、だって私もあんな感じになったりするもん、なんつうか感情の出し方が極端、というようなこともあったりしましたがそんなことは今初めてこういうところに書きました。なぜなら当時書いた感想のテンションに盛り込めなかったからです→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170609

 干し野菜ブームも到来していた。雨が少ない6月でした。松浦理英子の新作を保険にしたまま読んでいないことに単行本が出たと知って気づいたので慌てて読みました。読んでたら『ハクソー・リッジ』が日本公開で、アンドリュー・ガーフィールドはまた敬虔なクリスチャンとして日本に派遣されて酷い目に遭っているようでした。

 7月:2日都議選投開票日。都民ファーストの会旋風吹き荒れる。選挙ヲタは当然沸き立つ。開票速報中に眼鏡割る。ティク・ナット・ハンの番組を見て、やっとマインドフルネスのコツがわかってきたような気になってる。松浦理英子最愛の子ども」を読み終わるのが嫌でちびちびとスローペースで読んでるけど28日についに読了

ものすごくスピード落として読んでいた「最愛の子ども」を「裏ヴァージョン」と一晩かけて行ったり来たりしながらもついに読了してしまい満たされつつも寂しいです。私はあと何回、松浦理英子の新作をこうやって読むことができるのだろう?

「道なき道を踏みにじりに行くステップ」ってWalk on the Wildsideだよなーと思ってトリスティーンの話のどこでこれ使ってたっけ?と読み直したらラストだったとか、日夏の後日譚としても成立していたりするし、美織の母は「ナチュラル・ウーマン」や「セバスチャン」で描かれた主人公造形を踏襲してるんだけど、美織は主人公になれない、彼女は主人公の娘であり、次世代の主人公の友人でしかいられないのだ、ということについて思いを馳せたり、「裏ヴァージョン」の第15話に「最愛の子ども」のあらすじそのまま出てて、こんなに前にこんなにしっかり構成できてて骨組みが揺らがないのすげえ、20世紀に思いついたふわっとした構想を忘れた頃にきっちり仕上げてくるとか律儀というより体力もたないんだろうなということもわかってきて「裏ヴァージョン」の設定の家賃がわりの小説毎月20枚って鬼畜の所業だということもまた骨身に染みてわかるようになりました。20年近くかけて構想を現実の作品にする人に対して毎月20枚ってものすごい搾取。それを量産型作家と一緒にして枚数設定しちゃうの酷い!せめて半年で20枚とかにしてあげてほしい…こんな取り立て毎月されてたらそら逃げるわ!と私が今心と喉から血を流しながら叫んでる。

あと真汐の設定ってワセジョがワセジョになる前の前日譚だよね、多分。そんで空穂の志望校は横市だよね。(高校自体はフェリスがモデルになってるとどこかで見かけた)

だそうです。『最愛の子ども』読んでて私はつくづく松浦理英子の子どもなんだと良くも悪くも刺さります。

 30日、祖父97歳で死去。

 8月:1日に祖父の葬儀のため青森に。長らく身内の葬儀に出ていないため新鮮。霊柩車とか都会では珍しくなった宮型で写真撮ろうとしたら叔母も全く同じ理由で外に出てきた。この2人、誕生日と血液型と干支が一緒で今年は祖父の四十九日に一緒に年を取る羽目になりました。施主の父から受付を仰せつかりまして、一番後ろから葬儀を見るの面白かったけど、若干蛭子さん状態で肩震わせて声出さないようにこらえて笑ってたので一緒に仕事した従妹にたしなめられました。「見て見て涙出てきたから結果オーライ!」とか必死に言い訳してたけど根本的なところでダメだよね。でもうちの親が忙しかったので、私がやらかしてるの気付かれなくてよかった。叔父さん叔母さんと一緒にゆるく写真撮りまくってた。私だけなら絶対怒られてたけど自由人の叔父さんが私を凌駕してて助かった。伊丹十三映画撮りたくなる気持ちもよくわかった。そして親戚一同が青森に緊急招集されている同時刻に友人が私の故郷を旅している。奇遇だなと思ってよくよく見てたら青森に近づいてきてる。どうやら青森の山奥の親戚一同が強化合宿に励んでる町に住んでる知人がいるらしい。というかじいちゃんの葬式にその知人から電報きてた。世間狭すぎ笑う。3月に豪遊してきたので本当にお金がなくて泣き暮らしていたんですが、祖父の葬儀のドサクサで親戚から小遣い巻き上げて一瞬生活が楽になって当日思い立って小金井薪能行きました→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170907

 このエントリの前が小金井薪能ってことはお金と体力がなさすぎてその後ひたすら引きこもってます。体が動かなくて1月以来掃除を先延ばしにしてます。部屋が埃っぽくてむせてます。

 9月:それにしても金がなさすぎだろうと医療費を計算したら平均月2万円かかっていると発覚。そりゃ金ないわ。医療費それだけかかるってことはそれだけ体調悪いってことだし、動けませんわ。動けないから働くのもしんどくて少ししかできなくて金ないわ。生活保護の意味理解した。うんあれ必要。その悪循環に陥ってる人放置したら死ぬもの。見殺しにするよりしばらく保護して生活させた方が経済にいいんだわ。わかった。そう噛み締めながらやせおか本を電子書籍で買って実践し始めた。小麦粉食べられないからレシピが楽で。

 後半は選挙ヲタフルスロットルです。

10月:引き続き選挙ヲタフルスロットルです。カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞により今年は長崎の年と決定づけられました。アンドリュー・ガーフィールドは日本に派遣されては迫害されて、日系人原作の映画に出て体切り刻まれて内臓いくつも取り出されて、なんか日本嫌いになるなという方が無理な役ばかりというかなんでこんなに日本に縁がある作品ばかり出てるのかな。日本人向けの繊細な演技できるからかな。イエズス会士として日本に布教しにきたら弾圧→敬虔なクリスチャンが沖縄戦でボロボロ→日系人が設定したなんだかどこかよくわからない場所で緩やかに内臓抜かれる→(スパイダーマン)で合ってる?

 とにかく選挙で忙しいが、合間にネイサンチェンフリー見てマジ泣きしてる。ついに!『春の祭典』でステップ踏むスケーターが現れた!!しかも出来が素晴らしい!!!惜しむらくは1曲まるまるじゃなかったことですが、カロリーナの牧神とネイサンハルサイのバレエリュスシリーズ作ってくれてありがとうローリー。


 11月:選挙の後始末で、参加している講座の遠足に行けませんでした。本当に本当にきつかった夏を乗り切って嬉しいのに珍しく鬱の波に掬われそうに。この時期は6年ぶりくらい?高校から送られてきた同窓会名簿作成のお知らせに「修道女名」という項目がありファッ!?ってなった。11月最後の1週間でようやく掃除再開。お待たせしました。動けるようになりました。サンプルをもらったプロテインを飲んだら調子が上向きになってきて、どうやら私、人より相当タンパク質を必要とする体だったみたい。ほぼ同時にチョコアレルギーを引き起こしたけどココア味のプロテインで戦えます。

12月:自律訓練法に取り組んでは低血糖を起こすという状況が不思議で調べてたら低血糖症状起こす患者には自律訓練法禁忌らしくて、どうやら私、ヨガも体質に合わないようだとここで知った。低血糖症状を改善してからじゃないと再開できない。ビックリ。10年取り組んできてヨガが合わない体質があるのとか初めて知った。でも何事も副作用がないことなんてないよね。そのためプロテインの重要性を痛感、いっぱい摂取してたら少し体力作りのための踏み台昇降運動ができるようになりました。10分踏み台昇降運動ができて、その後10回スクワットができる。これだけの運動ができずに息切れしてた。数年地味に悩んでた陰毛の円形脱毛症にも芽生えの兆しが。人並みには摂ってたと思うんだけど、私の体質にはタンパク質が足りなかったのか……

 少しずつ掃除を進めているうちに、床が見えてしまう場所がわかると私でも片付けができると判明。如何せん物が多すぎた。自分が管理できるだけの分まで減らせばいいんだとわかった。管理能力低いから減らして減らしてやっとわかった。私のちまちまやってるペースに世間様の大掃除の季節が追いつき、ムードに影響されラストスパートかけたらついに昨日(29日)、すべての引き出しから物を出していらないものは捨てているものはしまい直して部屋からブラックボックスをなくすことに成功。生まれて初めて!気持ち良い!

 あ、掃除の合間にはフィギュアスケート見てましたよ。フィギュアスケートの合間に掃除と言った方がいいのかこの季節毎年よくわからなくなるけど、みんなが頑張ってるから私も頑張れた。長崎沈黙巡礼記もここの今年のまとめも大掃除の一環として頑張った!生まれて初めて自分でしめ飾りを買って飾っても見た!季節イベントの意味わかった!でも先週そばアレルギーも発症したから年越しそばは諦めた。


 こんな感じでざっと振り返ってみたんですが、3月までに記憶に残ってることをやりすぎて後半屍のようになっていたことが想像していた以上に明白になってました。『沈黙サイレンス』を見て、遠藤周作ゆかりの人の対談を聞きに行って、長崎まで聖地巡礼に行って、ここには詳しく書きませんでしたが勉強会に参加し始めたのが今年の中心になっています。講座に参加後にエッセイのようなものを書いて提出して添削されて返ってくるのですが、そのやりとりに深く感動しているのと同時に、私は自分が書いた文章を今までこういう風に読まれたことがなくて、そのことに深くひどく傷ついていたのもわかりました。受け止めてくれる人ができて初めて自分が感じていた痛みに気付くというのは私のパターンなのですが、今回はとりわけ酷かったです。今までどれだけ酷い目に遭ってきてたのだろう、意識したら生きていけないくらい酷い目だったんだと初めて理解しました。文章を書くことをしっかり誠実に丁寧に自分と感性が通じ合う人に受け止めてもらうことでしばらくリハビリしたいです。このことはとても重要な気づきでした。私の傷はどこまで深いのか正直まだつかみあぐねるほどなのですが、年末になって回復の兆しが出てきて体調を整えるコツも見つけ始めたので、来年も引き続きこの調子を崩さず少しずつでも確実に足場を固めていきたいです。文章を書く体力や筋力も少しずつでいいので焦らずゆっくりときちんとしたものをつけていきたいです。それではみなさま良いお年をお迎えください。私は鬼に笑われようとも来年が楽しみです。

2017-09-07

marginalism2017-09-07

忽然

 10日ほど前、24時間テレビランナーが誰だとか騒いでいた頃、「あれ?今年の小金井薪能は明日なんだ」と気づきました。5年ほど前から毎年気にはなっていたけども夏の屋外は私には過酷すぎると見送っていたのですが、今年の天気は曇り、最高気温は27度という予報を見て「いけるかも」と自分の体に期待せず、当日券入手方法を調べて寝ました。

http://koganeitakiginou.sakura.ne.jp/01.html

 翌日起きたら、天気も体調もなんとかなりそうな気配だったので、仕事を終えた後急いで小金井公園に向かいました。武蔵小金井駅を出たらすぐ案内の人がいてバス停の乗り場を教えてくれて、公園の売店目指したら普通に当日券を買えた。前売りと同じ料金で。スタッフがたくさんいて入場のために並んでいると帰りの貸切バスのチケットを売りに来てくれたりして、非常によくオーガナイズされているイベントという印象。プロじゃないからこそ一生懸命お客さんをもてなすぞ、という気概に溢れていて、慣れていない人も結構いてまごついていたりもしますがその近くにちゃんとベテランの人がいてフォローをしていて、イベントもスタッフも育てる意識が強い。素人だということに悪い意味での甘えがないので、長く続く街の名物行事がなぜ長く続くのかという理由が見えた気がします。

 私が能楽に興味を持った時にはすでに紫外線アレルギーを発症していたので、こういう場に来ることができるとは思ってもみませんでした。奇跡的に好条件が重なり合って参加できたことがまず嬉しい。演目も夏フェスらしい一見さんにもわかりやすい派手なところ持ってきているので能楽に興味無い人も誘いやすい。ここは賛否分かれるところかもしれませんが、小金井薪能はPAもしっかりしていて演者の声はマイクで拾っているので聞き取りはしやすい。

 そして何よりも自然が真の主役だということをその場で体験したからこそ思い知らされた。

 まだ明るいうちに行われた火入れの儀式、刻一刻と移り変わるマジックアワー、後シテの平知盛の場面になった途端一斉に飛び立つ鳥、漆黒の中でのコンテンポラリーダンス、飛び散る火の粉、照らし出される草月流の竹、忽然と現れまた忽然と消える能舞台。目の前にあるものが全てこの時間しか体験し得ないものと思うとクラクラしました。白洲正子が見たものはこれかと思った。日本人が古来から育んできた感性はこれかと思った。凛々しさとあどけなさが混在している子方の義経が出てくるや否や近くの席のご婦人方が皆一様に目尻を下げて自分の孫を見守るような態勢に入ることも古来から繰り返されてきたものなのだろう。子方に目尻を下げて、狂言で笑って、コンテンポラリーダンスで圧倒されるという反応が、素直で擦れてなくて自然でいいなと思った。

 山本東次郎家の鷹揚で懐が深いけれども品格は保つ明るい芸、どの演者もしっかりしているので安心して笑えるのが良い。ただ、鶏聟(にわとりむこ)という演目、日本語で耳で聞いてもピンとこなかったところ、英語アナウンスで「Rooster groom」と言われるとおかしみが伝わってくるあたり奇妙なものです。室町時代の日本語より英語が近い距離にあったのかと。私は能の言葉を聞き取ることは諦めているのですが、狂言の言葉は聞き取れるので、成立年代の言葉がそのまま残されていることにいつも感心してしまう。この演目でいうと鶏の鳴き声などが今と微妙に違う。今より本物に近い。本物に近い鳴き声がいつしか記号となり簡略化されて行く過程を想像して演目に埋め込まれた時間を噛みしめる。言葉が少しずつ変わってきても、ずっとこの演目で日本人は笑ってきたのだと思うと少し感動してしまう。それと同時に英語アナウンスも入る小金井薪能という場では日本語がわからない外国人も一緒に笑っていることに更に感動する。こういう芸は流れ流れて常に過渡期なんだなと実感する。

 私は総合芸術が成り立つ最小限度まで削ったことによる柔軟さが能楽の一番の長所だと思っているので、案外と他のジャンルとのコラボレーションが小回りがきいてやりやすい風通しの良さを気に入ってます。もともと森山開次とのコラボレーションで能楽堂に足を運んで能楽のフォーマットにガツンとやられたので、今回また彼のダンスをこのフォーマットで観られたのも嬉しかった。森山開次は能楽のフォーマットを使うのが上手い。ただ今回は宝満直也の伸びやかさがより一層印象に残った。

 森山開次は多分、舞踊のネイティヴ言語を持たないんです、だから音楽を一音一音丁寧に拾うんだけど、崩せなくてちょっと合わせすぎるところもある。その点、宝満直也は自分の中にしっかりとした舞踊言語が息づいているんですね、だから音楽は最低限の合わせるところだけ合わせて行けば問題ないと、ある程度は自由になる。合わせるところがわかるからそうする必要がないところは無理に合わせないで自分が好きなようにやっている。余白がある。方眼紙の升目に収まるようにきっちり書き取りするのではなくて、全然はみ出てる。そこがいい。升目は気にしないけど方眼紙自体からははみ出さずに収まっているから問題ない。あれは従者のダンスではなく王子のダンスだ。この時は猩々がモチーフだったのだからはみ出したっていいくらいだ。いい意味でのベジャールダンサーぽい野性味が出ていたので、この人逆にクラシックバレエはどう踊っているのかと興味を持った。クラシックバレエを観るのはコンテンポラリーに比べてあまり得意ではないのだけれど、この人のは観てみたい。なんというか、津村禮次郎のスタンドとしての森山開次と宝満直也という感じで理屈抜きに楽しいダンスでした。

 今あの広場に行ってもあの舞台がないことが信じられない。夢だったのかとも思う。けれど、紫外線アレルギー持ちが防御を怠った部分にあの場の名残があるので、現実だったのだなと腕をさする。

2017-06-09

marginalism2017-06-09

金色喜女

 Noism1『Liebestod−愛の死』レパートリー『Painted Desert』埼玉公演初日に行ってきました。

 http://noism.jp/npe/n1_liebestod_pd_saitama/

 私は特に日程の都合に問題がない時は初日のチケットを取るようにしています。

 以前、たまたま初日のチケットしか取れなかった公演に行ったら、翌日から病気休演でそのまま死ぬんじゃないかという空気に居合わせてしまったこともあるんですが(その後復帰され、今も無事生きて活動してらして何よりです)、楽日のテンションではなくて、通常のテンションでどこまで魅せてくれるのか知りたいからというのもあります。楽日には何か起こりやすい、その何かを目撃したり共有する醍醐味も知ってはいるんですが、何らかの表現をするプロの人たちがそういった特別なモチベーションの働かない日にどこまで出せるか地力を知った方がその人の表現者としてのポテンシャルをきちんと見極められそうだから、という理由もあります。

 今回のNoism公演はかなり意欲的で心意気に好感を持ちました。

 山田勇気演出振付の『Painted Desert』は、私が初めて観る金森穣と井関佐和子が直接関わっていないNoism作品だったのですが、その二人がいなくとも50分(だったかな?)充分及第点で成立させることが可能だとわかったのは観客として収穫がありました。

 石原悠子が化けたな、と思ったのは『カルメン』再演でミカエラを演じていた時なんですけど、彼女はいつも作品に対して献身的で健気なんですよね。こういう作品で与えられた役割はもっと中心に入ることかなとも思ったんですけど、それはもう場数を踏めば身につきそうだし、それしかなさそうなので、もっとこういった役割に慣れたらいいなと思いました。そうしたらもう一段階化ける。今回は池ヶ谷奏がそういう意味で化けたというか、ステージ上がったんではないかと目を引きました。中川賢も含めてこの辺りのダンサーがしっかりするとカンバニーとしては安定すると思うので、この作品は大切な機会だったんじゃないかなと。芸術監督と副芸術監督が彼ら彼女ら(山田勇気含め)に安心して任せることができるようになれば色々楽になるんじゃないかなと。Noismは「間がない団体」という印象も強かったので、彼ら彼女らの成長によってカンパニーもまた成熟に近づいた兆しが見えました。

 作品自体に関しては女装男性ダンサーと男装男性ダンサーのリフトが優雅で迫力があって良かったです。いつか男装女性ダンサーと女装女性ダンサーのリフトも入るといいな。アイスダンサーで男性をリフトする女性もいるので、タイミングをうまく取れればできそうだと思ってるんですけど、フロアダンサーだと私が思っている以上に難しいんですかね?男性をリフトする女性の姿が格好よくて大好きなんですよ。仏リヨンに独創的なリフトを次々と考え出すアイスダンスコーチコリオグラファーの先生がいるので、もし気になるようでしたら、ミュリエル・ザズーイという名を覚えておいてください。ミュリエル先生の作るリフト大好きです。女性に男性をリフトさせるというアイディアを実行させてそのカップルを五輪金メダルに導いたのも素晴らしいです。今リヨンのリンクが改修中らしいので、余裕ありそうなので是非。

 それにしても、スカートを履いた男性ダンサーは可愛らしい。ピナ・バウシュカーネーション』の時も思ったけれども、女性よりずっとたおやかで可愛らしい。成人男性の可愛らしさが剥き出しになる機会を普段なかなか見られないので貴重だ。女性ダンサーが男装をすることにおいてはそのような意味合いは帯びない。マニッシュもしくはボーイッシュなファッションが市民権を獲得している時代において男装のショートカット女性は舞台での異化装置にはなり得ない。この場合は女性が既に獲得しており、男性が未だ獲得していないジェンダーの非対称性によって異性装の意味合いが異なってしまう。そして男性が生きる不自由な世界のことを思う。逃れられない視線から自由になる舞台空間を私は愛する。そこで繰り広げられたことが遅れて普遍性を帯びる世界のことも思う。

 Noism作品でたまにフェリーニ的だという印象を受けることがあるのですが、『8 1/2』の「人生お祭りだ」に象徴される不思議ながらも楽天的で解放されたラストの大団円のことが念頭にあるんですよね、きっと。

 『Painted Desert』はまさにフェリーニ的で、だからこそNoism的でもあるなと。だからこうやって金森穣以外の作品の上演機会が増えることはNoismの幅が広がっていいなと感じました。思っていたよりNoismって強度のある集団なんじゃないかなとなぜか安堵しました。今やっと芽が出てきたところでもある感じなので、焦らず少しずつみんなで見守って育てて拡張できればいい部分が見えて嬉しかったです。

 新作『Liebestod−愛の死』は、タイトルポスタービジュアル見た瞬間に沸き立ちましたよね。おおついにワーグナーたかと。いや音源明記されてないけどこのタイトルでこのビジュアルならワーグナーだろと直感で。これクリムトでしょ?じゃあワーグナーじゃん!と。「イゾルデの愛の死」ならベジャールの『M』だ、あそこに挑戦してきたかと直感で沸き立ちましたよね。その直感が当たっていたことが判明して、しかもめちゃくちゃ金森穣に強い影響を与えてきたことを知って武者震いを起こしましたが、その時点ではただただ興奮してました。

 私、ベジャール作品の『M』の「イゾルデの愛の死」使用シーンがとてつもなく印象深かったんです。音楽が聞こえないくらいに。音楽が聞こえないどころか作品中最大のクライマックスであろう切腹シーンも見逃すほどにただただ緑色の海と楯の会の持つ桜の美しさに見とれてよだれ垂らすし、首も固定していたみたいで痛めるし、そこで「イゾルデの愛の死」が流れていたことにすら気づかないし。聴覚優位の私が視覚的に取り込まれて他の感覚を忘れたのは後にも先にもあれ1回きりなんですよ。あとでパンフレット読んで、あそこで使われていた音楽を知ってなんでそれが聴こえてなかったのかと崩れ落ちたという。でもあまりにもそこでそれが流れるのが適切すぎて視覚からその曲を見たんだなともまた思ったんですよね。そして金森穣が『M』について語るまでベジャール弟子だということをうっかり失念していたんです。なので点と点が繋がった瞬間に震えました。私と金森穣は同じ作品の同じ場所で感動を共有していたんです。同じ魅力に取り憑かれた人間があの曲で勝負するんです。これで金森穣と共有できるものがなければ私もう彼の作品を観なくていいと覚悟して作品に臨みました。

 

 吉崎裕哉は『カルメン』の闘牛士役を観た時に、街の人気者のものすごい陽のオーラを撒き散らしていたことが印象に残っていて、あの華やかさが持ち味のダンサーのキャスト名が「末期の男」ってどういうことかな?と気にしていたのですが、多分彼はとても素直な人なんですね。緊張や固さが客席のこちらにも伝わってくる。求められた役割を果たしているかどうかは私にはわからないところがありますが、素直さは長所なのでこのまま濁らずに舞台に立ち続けて欲しいです。だって今回ひどい。舞台上には金森穣の気配が濃厚で、井関佐和子は「穣さん!穣さん!穣さーーーん!!!」という気持ちをぶつけてくるし、こんなシチュエーション誰だって戸惑うわ。こんな身代わりですみませんってなるわ。夫婦でひどいわ。ひどい夫婦相手に目の前の女の視界に本当は自分がいないのにそれでも相手をし続ける報われない男の心情を表現していて、そういうものとしては成立していたので偉かったわ。金森穣が繰り返して扱う「人形」というモチーフを意図的には託しているわけじゃないんだろうけど、そういうものとしてそこに立つしかできないし、そこに寄りすがるしかないし、彼なりのベストは尽くしていたと感じました。誰もが思うよ「夫婦でやれ」と。夫婦でやらないから倒錯的な世界観になってて、それはそれで面白かったからいいんですけどね。

 そんなこんなで可哀想当て馬が退場して井関佐和子の独壇場になったらすごかった。

 「ラブレター」というキーワードを見かけて、二人から客席への「ラブレター」なのかなとてっきり思い込んでいたんですが、客席無視の正真正銘振付家である夫から舞踏家である妻へのラブレターだった。そして舞踏家である妻から振付家である夫へのラブレターでもあった。愛する人しか見せない可愛らしい表情を湛えてなぜか客の前で井関佐和子が踊る。そんな楽しそうで嬉しそうな顔を客席にまで惜しみなく見せていいの?と彼女とその表情を一身に受けるはずの彼の尊さに涙する。こんなにデリケートな部分をさらけ出す勇気に感動する。

 『M』は緑色と桜色が蠢く様子に見とれていたけれども、今回は金だ。金森穣の「金」、井関佐和子の「金」髪、二人の愛の象徴は「金」だ。金の幕が燃え盛る。自分を、相手を燃え上がらせる行為を象徴する金の表現・黄金の愛が素敵だった。ずっと声を漏らさないように口元に手ぬぐいを押し当てながらむせび泣いていた。人を愛していることを表現するのは脆くて怖くて、でも強くて、ありったけの臆病さをありったけの勇気で乗り越えた人だけがたどり着ける境地で、傷つきすぎて、これ以上傷つきたくなくて、それを見せられない人間にはただひたすら眩しい。死で終わる物語私たち世界では「悲劇」と分類することになっている。しかしそれは当人にとっては悲劇なのだろうか?

 「あこがれのために死ぬのではない、死にながらあこがれるのだ」という言葉への説得力を与えた振付家と舞踏家表現したのは死によって結ばれる、死によってしか結ばれない二人のそれは幸福への扉なのではないかということ。イゾルデ=歓喜の女は喜びの絶頂でその瞬間を迎える。それは悲劇ではないし、正しい行為だと信じきっている。三島由紀夫=Mの時もそうだった。この曲はそういう使われ方をした。愛に殉じるものたちの死、もしくは死によって愛が成就するものたちの生、愛の行為としての死を選ぶものたちのその瞬間に流れる音楽歓喜の歌以外の何者でもない。純度の高い無垢な喜びしかそこにはない。


 その様子を見てむせび泣く私は、度重なるdisasterにより男性不信、人間不信を抱えてしまっているため、誰かといるより一人でいることの方が気楽だ。あまりにも傷が深いため心療内科で認知行動療法も追加されてしまい、この日もカウンセリングを受けてから会場に向かった。でも、一人でいることで何も残らないのは寂しいとも思う。死ぬ時に誰かと取っ組み合って築いたものが何もないことはきっと寂しいだろうなと思う。崩壊した世界をずっと歩いてきたせいで、心を許せる人がどこにもいない人生が寂しい。「人を愛する」という感情を忘れているのか、もともと知らないのかもわからない。「愛の世界」の住人は違う世界の人たちだと思ってきたのに、そこにあこがれる私がいる。その世界に移住できるかもしれないとかすかな希望を抱く私がいる。「愛の世界」の言葉を知りたいと思う。奪われた言葉なのか教えてもらえなかった言葉なのかわからないけれど、習いたいと思う私がいる。逃げるより格闘したい私がいる。