物事を斜めに見る人

2009-01-18

[][]縁というもの

人との出会いというものには「縁」というものがつきものある。

この縁について、研究室の仲間の間で議論をしていたのだが、

どうも、社会学的な発想からは理解しがたい。

例えば社会学にもネットワーク論やら、社会関係資本論やら、ハビトゥスやら、

縁につながらせるような、関係理論はいくつもある。

しかし、それらはあくまで縁の結果論を述べているに過ぎなくて、

偶然的に、「あの時ああしたら、今頃こうならなかっただろう」というような

仮定法過去的な発想には、どうもなりえないわけである。


例えばよくある例が、恋愛での出来事。

そこで議論していた仲間の一人の女子が言うわけである。

私は今まで恋人ができたことがない、と。

ここでなぜその子ができなかったのか、他人事のように考えてみると、

まず考えられるのは、その人に魅力がないから。

「人は外見が90%」やら、数値は不確かだが、そういう言説もある。

要は、その人に外見的あるいは内面的魅力がないから、

恋人ができない、などと考えるのは、最も一般的な考え方である。

ただし、この考え方は「恋人がいない」ということの

ある種のスティグマにもつながるので、

かなり危険な議論でもあるように思えるわけだが。

同時に、仮に外から判断される外見的な魅力がなかろうとも、

内面的な魅力というものは、見る人の角度によっては、

いかようにも魅力となりうるわけである。

ということは、その人に魅力がない、ということは、

誰しもなりえない、というのが、内面的な魅力というものである。


あるいは、「高根の花」とも言うが、

要は、自分の見せ方が悪いという場合もある。

高根の花と言われるなら、プライドを無視してでも、

それまでの自分につけられたイメージを脱構築していけばいい。

しかしその努力をしていないからこそ、

高根の花であり続けている、という見方。


もうひとつは、それこそ、縁である。

「運命的な出会い」とも言う。

まぁ「運命」という表現は、どうも後付けっぽいような気もするので、

私は好きではないのだが。

要は、自分にフィットする相手というものが、

ちょうどいいタイミングに表れていない、という問題。

まぁこれも、そのタイミングに出くわすためには、

もっともっと自分の世界を広げて行って、

自分からいろんな人と出会っていく必要もある。

そうした、それこそこれも、努力をしてこなかったから、

彼女が今まで恋人ができなかったのではないか、

とする見方もできないこともないわけだが、

ひとまず、努力の問題よりも、

結局は、いかようにも努力をしていても、していなくても、

どこか、何かの、ふとした偶然的な些細な出会いが、

それこそ極端な例でいえばトレンディードラマチックな出会いが、

そのまま恋愛関係へと移行する可能性も否定できないわけだ。

ほんの些細な、いつ何時の、どうなるかもわからない、

小さな出会い、それこそ縁が、

恋愛に限らずとも、人とのその後のつきあいを生んでいく。


一般論として、割りと具体的なことをいえば。

「私」自身で本当に辛い局面に陥りそうな時、

なぜか、声をかけてくれる人がいる、なぜか。

その声をかけてくれる人が、

相手である「私」が本当に辛いと気づいていなくても、

なぜか、声をかけてくれている。

まさに偶然である。

こうした局面で、人はその相手を「運命の人」だと思うわけだ。

「運命」といっても、

運命とは生まれる前に神の定めた道の上にある出来事であるわけであって、

それが後付けになるのもおかしな話である。

運命の人というなら、それこそ政略結婚のようなものをいうのならまだしも。

それなので、あくまで「」つきの「運命の人」である。

だけれども、その人がなぜ「運命の人」なのかは、

例えばいろんな、階層やら、出身地域やら、ネットワークやら何やらの属性を

調べていって何か共通点を生み出したからといっても、

それはやはりあくまで、後付けの解釈にしか過ぎないということである。


問題はなぜ、その人なのか、

今の例でいえば、他の人ではなく、なぜその人なのかということである。

それを、後付けではない解釈をしようとしたら、

どうしても、何かの属性をもって共通性を見ようとしていったとしても無理がある。

受験にしても就活にしてもなんにしても、

なぜその学校なのか、その企業なのか、

この学校の、企業の、こういうところがいい、とか

そういうのを見ていったとして、

それでも、結果的には試験に通ったとか、

あるいは、もっと根本的にいえば、

その「こういうところがいい」というところも

そう見させてくれた何か出来事やら人やらに出会わなければ、

結局その学校やら企業に出会うことはなかったのである。


つまり、何かの「縁」というものは、

こうして偶然的な出会いによって生まれるものなのである。

そして、その「縁」を大切にしている人なら、

次々と新しい「縁」が集まってくるということ。

おそらく、ネットワーク論のようなものも、

ここから先をしか説明することができないわけだ。

その前の段階、つまり人と人との関係を生み出す「縁」については、

一つ一つの出会いを大切にしましょう、というような、プリミティブな、

後付けの解釈では説明できないような世界なのである。

社会学は、どうもそこを扱うことが弱いらしい。

2008-12-05 それでもニューヨークは動き続ける。

mzkyrhjmy2008-12-05

[]それでもニューヨークは動き続ける。

アメリカが素晴らしい国だなどと言うのは、一種の幻想にすぎない。

まぁ実際すばらしいところはいくらでもあるのだろうが、

少なくとも私には理解ができない、というのが今回そう言う趣旨である。



東京生まれの私ですら、いくらかの憧れをもっていたニューヨーク

実際訪れてみると、はっきり言うと、なんでもない、ただの冷たい街である。


日本にいれば、地方出身の人は東京に憧れをもって来るという。

だが、東京生まれの人間にとっては、東京のあらゆる光景は当たり前にすぎない。

東京生まれの人間にはもちろんそんなことは理解できないわけだが、

「東京」と言うと、憧れの要素があるらしい。

ニューヨークへの憧れも、同じようなものである。

アメリカは、政治的にも、経済的にも、文化的にも、

世界でゆるぎない地位を誇る。

そのうち、経済と文化の中心地が、ニューヨークである。

ロンドン」と言ってもたいていの日本人はそれほどの憧れを感じないかもしれないが、

ニューヨーク」と言うと憧れをもつ。

ニューヨークというと、そのような場所なのかもしれない。


しかし、実際に訪れてみると、ニューヨークもやはり単なる都市にすぎない。

いや、それどころか、非常に冷たく感じる場所でもある。

だいたい、英語がそれほどできない人種にも、

なにかにつけて当然の如く、早口の英語でまくしたててくる。

言語の問題だけでなくとも、

ニューヨークにはニューヨークの、東京には東京の、都市のルールがある。

あらゆる都市のルールは、よそ者には早々に理解することは難しい。

それでも都市民はそのような者に、同じに扱おうとする。

東京は冷たいところだ」とか「東京を色で表わすとグレーだ」などと

よく言われるが、ニューヨークも全くそれは同じ。

東京に住んでいればわからない都市の冷たさを、

ニューヨークではさらに味わうことができる。



憧れというものは、いつか終わりを迎える。

憧れは当たり前、日常へと変化し、

その日常に違和を感じる人間にとっては、それが恨みに代わる。

もちろん、東京といっても、ニューヨークといっても、

冷たい都市だからと言って、そのうっ憤を誰にぶつけるわけにもいかない。

だれに責任があるわけでもない。

責任があるとすれば、むしろ、都市に出てきた自分のほうにある。

それでも、気分ではそのうっ憤を誰かにぶつけたくなるものである。


ニューヨークは、世界の経済、文化の中心地である。

中心があれば、もちろん周縁もある。

グローバリゼーションは、あらゆる社会活動を

ボーダレスに行うことを実現してきた。

だが、その一方で政治や経済は中心へと力点が集中する傾向も見られる。

周縁にいる人間にとってみれば、

ニューヨークにいる人間に、自分の生活の苦しさの恨みを持つのかもしれない。



9.11テロも、実はそのようにして、

周縁部におかれたイスラム社会出身の

イスラム原理主義」(≠イスラム原理主義テロリストたちに

アメリカという都市でのアノミイックな体験がもとで、

経済の中心であるニューヨーク・ロウアーマンハッタンへと

その個人的な晴らしようのない恨みをぶつける形で

起こったものなのかもしれない。


WTC跡を訪れると、あのとき、

ちょうど2001年9月11日日本時間22時頃、

テレビで生中継されたWTC崩壊の瞬間を思い起こされる。

あの衝撃の映像を思い出し震えが出てくるのと同時に、

一方で、その脇を平然とハイスピードでウォール街へと行進する

ニューヨーカーたちの姿を見ていると滑稽にも見えてくる。

あの世界中が怒りに満ちた事件の現場の横では、

ニューヨーカーたちはまるで何事もなかったかのように日常を送るのである。



そして、WTC跡には、あと2年もすれば

テロがなかったかのように、新しいビルが建つことになる。

結局、テロリストたちの必死の行為は何だったのか、

決してテロという暴力行為を認めるわけではないが、

その彼らが感じたやり場のない怒りがなかったかのように、

ニューヨークは、またそれまでのように穴を埋め、

また生き返ることになるのである。


それでも、ニューヨークという都市は動き続ける。

世界に何かの使命があるのか、

経済や文化に行きつくゴールはあるのか、

見えないゴールの中で、

そこに向かって向かわなければならないゴールも明確ではなく、

アノミイックな日常とはそういうものであり、

ニューヨークは、巨大な機械のごとく、今でも歯車を回し続けている。

2008-11-19 「スチュワーデス物語」と第2代「アテンションプリーズ」の違い

[][][]「スチュワーデス物語」と第2代「アテンションプリーズ」の違い

来週にハワイに行くということで、

アテンションプリーズホノルル編のDVDを見て

今その予習をしているわけである


そういえば、CBCテレビで、今

スチュワーデス物語」の再放送をしていて、ついつい見てしまった。

この作品の放映も、私の生まれる前のものなので、

当然見たことはなく。

ただ、アイドル時代の堀ちえみの主演作品ということだけは知っていて、

なっちゃん」のCMでしばらく前に堀北真希堀ちえみが共演して

そこで話題になったこともあった。

その、「スチュワーデス物語」である。


当たり前なのだが、堀ちえみアイドルなので、

当然演技力は期待できるものではないのだが、

スチュワーデス物語」での演技は、はっきりいって

現代的視点によれば、見るに堪えないものだった。

なにせ、当時もその「大根役者」ぶりが話題になったようで、

しかし、その「大根役者」ぶりが、

一人前のスチュワーデスに成長していく姿を投影しているとして、

逆に功を奏した、とも言われている。


そのスチュワーデス物語から、新生アテンションプリーズ放映まで、

20年強の時間が経ったわけである。

共通のスポンサーである日本航空はその間、

御巣鷹山事故も経験し、JASとの合併も経験、

ワンワールドアライアンスへの参加も経験した。

一方で、航空業界では、男女平等参画の進展により、

スチュワーデスからキャビンアテンダントという呼び名に変化した。

相当に変化のあった、20年強だったわけである。

それだけにあって、両作品の間の変化というものが激しい。


特に私が注目したのは、

両作品でのサービスの映され方の変化である。

たまたま私が見たスチュワーデス物語の放映回では、

乗客の一人が機内で心筋梗塞になり、

バンクーバーから成田までの途上で、

急遽、乗客を病院に送るため、アンカレッジによることになったという設定。

アテンションプリーズでもそういうトラブルは

いくつも設定されていたのだが、

そのトラブル時の対応というものが大きく違う。

アンカレッジによることになった際、

乗客の中から、多くのクレームがスチュワーデスに寄せられるのだが、

そこで、スチュワーデスがクレームに言い返しているのである。

こんなことは、アテンションプリーズではありえない。

例えば美咲洋子(上戸彩)がそんなことをした試しには、

三神(真矢みき)が飛んでくるところである。

ところが、松本(堀ちえみ)がそのようなことをしても、

村沢(風間杜夫)は怒らないないどころか、

ジュースを配って、さっさとそのクレームの火を消させようとする。


まぁ、もちろん現実のJAL便でそのようなクレーム対応が行われていたとは

思えないわけだが、

スポンサーである日本航空にとってみて、

そういう映し出され方をしたとして、

自社の運営への影響の出方というのが異なるというのが大きくあるだろう。

そもそも、当時の日本航空は、民営化以前である。

国のものであれば、イメージ戦略などするまでもなく、信頼性は自ずとある。

もっとも、「沈まぬ太陽」を読めばわかると思うが、

日本航空はトラブルが相次いでいた。

その中で、イメージへの影響というものが

そもそもないわけではなかったろうが、

しかし、日本航空側としてそういうことに対して

シビアにはなっていなかったということだろう。

今では、日本航空も競争の下に放り出され、

ライバル・全日空とだけではなく、

スカイマーク等の国内の格安航空会社、

国際線では、他国の会社との競争をし、

生き残っていかなければならない。

その中で、サービスの映し方にもシビアになったというのがあるだろう。

いや、もっとも、社会の変化として、

現場の姿をよりリアルに映し出すことが求められるようになったというのが

もちろんあるのだろうけれども。


他の要因としては、

アイドルの演技の映し出され方も変化しているということもあるだろう。

堀ちえみの演技は、まったくもって下手な演技だった。

けれども、それが視聴者側に映し出されたのも、

「一人前」になるというものが、

割りと直線的だった、そうやって映されていたということが

要因としてあるのではないか。

アテンションプリーズでいえば、

美咲は非常に曲線的に、回り道をしながら、「一人前」になっていく。

一応の結末は、各回に用意されてはいるが、

しかし、それが完成型ではない。


まぁ、ともかくとして、

スチュワーデスキャビンアテンダントの成長物語にしても、

時代を経るごとに、変化をしていく。

スチュワーデス物語の前で言えば、

先代アテンションプリーズがあったわけだが、

これらを通して、たとえばキャビンアテンダントというものが、

あるいはサービスというものが、

どのように映し出されているのかということを比較してみて行くと、

社会的な変化というものが、その背後に見えてくるのかもしれない。