ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

だからって

 「自分の人生を終わりにしたかった」からって、バスの中に入っていって包丁振り回すか。どれだけやけになっていたんだ。ひょっとしたら、彼は本当にそんなことをやってしまった成り行きに、自分で自分が抑えられなかったことがなんでか分からない内にこんな大それたことをやってしまったことに、おろおろしているのではないか。
 包丁を持ち出して歩くなんて普通の人間はやらない。やるはずもない。彼はこんなことをやるために持っていたのではないかもしれない。自分で自分を突き刺してやりたかったのかもしれない。なのに、あの駅前のバスを見ているうちに、ハッと気がついたら包丁を手にしてバスに乗り込んでいたのかもしれない。
 かも知れないばっかりだけれど。
 でも、包丁を持って家を出たのは事実で、もうそれで彼の犯行は不特定多数を対象にした計画的犯行だということになる。多分殺人未遂での起訴を検討することになるだろう。
 そんなつもりはなかった、なかったけれど、持って出てしまった。そんなことができるんだったら、なんで他にエネルギーをつかえなかったんだ、と思ってしまう。秋葉原の加藤某を誰もが思い出すだろう。
 頑張ったりなんてできない奴は普通にいるんだよ。立派な社会的スタンスを取れない奴ってあそこにもここにもいるんだよ。みんながみんな「自分を見付け」ちゃったりできないさ。壁を乗り越えたりできる訳じゃないんだよ。それに壁を乗り越えたかどうかなんて誰にわかるんだよ。誰がそう判定できるんだよ。恵まれすぎなんだっていわれたって、その言葉は一体誰にとっての駆動源になるっていうんだろうなぁ。明るく、目端が利いて、スマートに暮らせる奴は採用で、そうじゃない奴はどこまでいっても不採用なのかなぁ。
 だからって包丁振り回しちゃダメなんだなぁ。わかっているのに。

古本屋に

 近所に小さな古本屋が一軒。外から見ても買い入れ本で溢れているわけでもないし、文庫本までが後生大事に棚に入っているから大したものもなさそうで、一度も入ったことはなかったのだけれど、偶々通りかかったので、このチャンスかなと足を踏み入れた。文芸書ばかりで、私にはとんと用がありそうには見えなかったのだけれど、店の中には店番のおばさんと私しかいないことに気づいたものだから、直ぐに出るに出られなくて、この際だからとじっくり見ていた。
 すると、ぽつんとなんの脈略もなく、新潮社の季刊雑誌「考える人」の2006年冬号(No.15)が刺さっているのを発見。あの頃はこの雑誌に気がついていなかったなぁと取り敢えず手にしてみると特集が「1962年に帰る」というもので和田誠のインタビューがあり、永井一正亀倉雄策について語っており、当時の数寄屋橋の写真が大きく掲載されている。
 そして表紙に「鶴見俊輔と日米交換船」と書かれているのが決め手となって挟んである価格札に書かれていた千円をおばさんに渡して持って帰ってきた。楽しみにその頁を開いてみると、「これから刊行される“日米交換船”の一部を抜粋したもの」と書いてある。なんだ、それならその本がうちにあるし、それは私が大事にしている本だ。しかし、なんだってこの雑誌にと思ったら、あの本は新潮社の出版物だったからなのだ。私はあの本は晶文社かなんかが出したものだと勝手に思っていた。
 私は永井一正と口をきいたことはないが、亀倉雄策には仕事の関係で一度だけ会ったことがある。それは80年代になって直ぐだったのだろう。平河町あたりに構えていた事務所を訊ね、彼の了解を取らなくてはならないことがひとつあった。当時私は40代前半だったから、多分彼はもう70歳に近いくらいになっていたのかもしれない。彼にとってはその辺の青二才が大したことのない話を持ちこんできたわけで、適当にあしらって終わらせた、ということだっただろう。多分全く記憶に残らなかったに違いない。
 しかし、私は克明に覚えている。助手のような随分美人な知的な雰囲気の若い女性がいたこと、大きなテーブルがあったこと。そして私たちが作って持っていったボードをお見せしたら、ひとこと「随分安っぽいもので作るんだね」といったこと。色を確認して「それで良い」といってあっという間に用件が終わったこと。
 東京オリンピックのあのポスターを作った先生はさすがに偉いもんなんだなぁ、30歳ほども自分より若い私に対しては木で鼻を括ったような扱いをしたって構わないって思っているんだなぁと、良い印象は持たなかった。永井一正に較べたらエネルギッシュな感じの、簡単にいうとあくの強そうなおじさんだった。利害関係がないからこんなこともいえる。あったらとてもいえない。
 なんで1962年がこの雑誌のテーマだったのか、未だにわからないけれど、東京オリンピックに向けて東京がごった返している、そんな年だった。
 私は中学三年で毎月の学力試験に励み(実態は全くそんな意識はなかったのだ)、週に三日間も英語の塾に通い出した年だ。あの頃私が冬になると学生服の上に着たコートはオヤジの古い上着を裏返したもので、ひっくり返っているのだから胸のポケットが右についていた。まだ、そんな時代だった。

残念ながら

 傷つけた方はまさかそんなことになるとは思っていないくらいだから何がどう相手を傷つけたかわかる道理がない。
 傷つけられた方はあの一言がぐさっと来たと思っている。あんなことを発言できるということは日頃からそう思っているから口から出たに違いないと思うことになる。
 だから、いつまで経ってもその溝は埋まらない。

ランチ

 金曜日なので(別になんの意味もないが)ランチに行こうということになったけれど、家人が今日は午前中も午後も仕事が臨時に入ったというので、近くで済ます。
 こういう時にこれまでひょいと飛び込んで食べていた美味しいパスタランチの店がなくなってしまったものだから、とても困っているのだけれど、家人も通る道に出ているイタリア国旗の店にいって見るかということで出掛ける。裏道に面している、座席数20人未満の店で、パスタが2種類、ビーフ・シチューというメニュー。
 パスタの茹で具合はいうことがないのだけれど、ソースの味が私には濃すぎた。パンとケーキ(薄く切ったなぁ)は好み。

そういう問題じゃないんだなぁ 小沢一郎

 通りかかって小耳に挟んだから、という類の人から見ると、潔白でなんの問題もないっていうんだったら国会の政治倫理審議会に小沢一郎はなんで出てこないんだ、といわれるのは無理もない。そこに出てこられないのは、それだけ汚い金を動かしているからに決まってンだ!というのは間違い。
 彼を検察庁は起訴できなかった。なぜか。容疑項目に上げていたものがことごとく間違っていたからで、その容疑は検察庁が勝手に創り上げて、マスコミにリークをして書かせたものだったからだ。火のないところに煙は立たないというけれど(これって一体誰がいったんだろうね?)、そんなのは簡単に煙は立つわけで、この一軒が正に好例なんである。
 その上、例の“市民グループ”の検察審査会への訴えは一度却下された。そして二度目が却下されたら強制起訴になるという状況で、小沢一郎は検査審査会によって強制起訴されることになったわけだ。
 何もなくたって、ここまで持ってくることはできるのだ、というサンプルのような事件なんである。つまり彼はこれから法廷闘争に直面させられることになっている。それなのに、国会の政治倫理審議会で、それこそ待っていましたとばかりに質問をし、彼がそれに対して「裁判になるのだから、不利になる可能性があるから答えない」とでも回答しようものであれば、また「闇の中の政治と金」と書くに決まっている。なんたって、アメリカ−自民党霞ヶ関ー盲目的利益確保保身集団につながるマスコミが勢揃いして官房機密費を媒介として支えるのだから。
 小沢一郎はこんな事態に引きずり込まれてしまっているのだから、一切国会政治倫理審議会なんぞに出てはならないのだ。それこそ思う壺に嵌るということなのだ。
 テレビ、新聞のマスコミはまさにその走狗となって騒ぎまくる。
 なんでこんな簡単なことが国民に知らされないのか。残念ながら人間という動物は一度掴んだ金づる、権力はどうしても離したくないのだ。
 しかし、こんな頼りにならない、無免許政権ではあるけれど、こうしたことを、この私に教えてくれることに至ったという点では、やっぱり政権は代わらなくてはならなかったのだと痛感するのである。

産経新聞電子版に掲載された小沢一郎の回答書

 現在、私の問題は検察審査会の起訴議決により司法手続きの段階に入っており、近々東京地裁での公判が開始されます。そのような裁判を今後行うことが確定している私が、国会の政治倫理審査会に自ら出席しなければならない合理的な理由はありません。
 なぜなら政治倫理審査会の審査や調査は、立法府の自律的な機能であり、司法府への介入を避けるなど慎重なものでなければならないからです。しかも既に指定弁護士が起訴状の作成に入っており、間もなく始まる刑事裁判の中で、私は清々粛々と検察審査会の起訴議決の可否も含めて闘い、事実を明らかにし、潔白を証明して参ります。
 今は、民主党政権が初めて本格的に取り組む予算編成・税制改正の真最中であります。国民の付託にこたえるため「国民の生活が第一」の政策実現のための予算・税制づくりに全力を傾注すべき時であります。
 私は一貫して、挙党一致体制の重要性を誰よりも主張いたして参りました。今後の私は、「国民の生活が第一」の政策とそれを実行していく政治主導の確立、議会制民主主義の定着の大いなる目標に向かって、最大限の努力を傾ける所存でございます。
 最後に、私に対して面談をしたいというご要請でありましたが、私の思いを正確にお伝えするため、書面にてご回答いたしました。なにとぞご理解賜りますようお願い申し上げます。
平成22年12月17日 衆院議員 小沢一郎

刑事弁護人としての会見

 弘中淳一郎弁護士も16時から記者会見をして、弁護人として(政治の場についてのことについてはふれないけれど)刑事事件についていわなくてはならないので、弁護人として意見を発表した方が良いと考えた、として刑事事件に関わることをこれから起訴されようとしている人についてはそういう場に出るべきではない、と判断しているとコメントした。UStreamで中継されたものを見た。
 本来的に検察審査会による強制起訴議決についての問題(訴因の変更等)について質問したのはフリー記者の岩上だけで、あとのいわゆる記者クラブメンバーによる質問はそのあたりの根本的問題についての質問ができず、ただただ「なぜ説明の場に出てこないのか」という質問でしかないのは全くもって勉強不足であって、これは冗談ではなくて、彼等のジャーナリストとしての資質に大いに問題があるということを痛感した。

 国民の知る権利というものがあるのはわかるけれど、小沢一郎個人の人権という問題もある、これも考えて戴きたいということである。
 国民の知る権利と人権。過去にこういう立場に立ったことがないけれど、単に話題の中心になっているというわけではなくて、起訴されるということが確定している人間であるという状況を考えると人権を配慮するべきだと思う。
 一切喋るなということではなくて、政治責任というものはあると思うけれど、すでに起訴されることがわかっている人に対して、その裁判に関わるであろう事項について質疑するということは正しくないと思っている。
 国民の声に答えないのかという讀賣の質問に対しては、刑事裁判という場があって、そこでは具体的な証拠を持って説明しなくてはならない場が迫っている時にあって、それに応えろというのは検査審査会の方針でもないはずだとした。
 議決の瑕疵については弁護人としては調べている。訴因の変更等の問題があり、裁判所としても初めてのケースだろうし、かなり重要な問題があることは事実だ。刑事裁判の場合は訴因の変更といって、考え得るけれど、全く違う要件での裁判になってしまうことは許されてはいない。訴因の同一性という法律問題がある。実質的に検察なり、検審が判断した中身の問題があって、簡単ではない。
 この訴因の変更は強制起訴の要件を満たしていないと考えているけれど、だから大丈夫だと弁護人としては考えられることではないと考えている。
 漠然と「政治と金」の噂があるから人前で話をしろというのに対しては違和感を持っている。

イラン革命

 昨日の夜のNHK-hi「忘れられし王妃〜イラン革命30年ふたりの女性の人生の空白」(昨年放送されたハイビジョン特集の再放送)を見ていてファラ元王妃は誰かを彷彿とさせると思ったのだけれど、今わかった。イメルダ田中真紀子とデヴィか。そういえばファラ元王妃もデヴィも3人目だった。
 このドキュメントは元はといったら革命側に位置していた女性がその後の革命政権を握ったファンダメンタリストから逃れてスウェーデンに亡命した女性がファラ元王妃に密着して制作するというもので、その取材で悩む過程、元王妃とのやりとりまですべて(ではないだろうけれど、そう見える)綴った意欲作と云ってもよい番組だった。
 パーレビはイランから出掛けている間にクーデターで政権を取られ、最後はエジプトで死ぬ。毎年元王妃はエジプトに行く。そして多くの元支配者層であった亡命者たちもやってくる。
 なにしろ元王妃はパリにもアメリカにも生活拠点を持っているんだから、相当周到に資産を外地に置いていたということだ。そういえばパーレビ−はスイスの良く聴くお大尽様子弟が学ばれる学校の出身だった。ホメイニを初めとするイラン革命政府が良く彼等の外地資産を放置していたものだ。未だにあんな豪邸に住み、驚くほどの車を乗り回して何人もの人間にかしずかれて暮らしているとはおもわなんだ。
 なんと驚くことに彼女のOfficial Siteなんてものだってこちらにあるんだよ。

南極観測

 日本の南極観測は既に50年以上の観測実績を持っている。観測支援船だって、今見たらなんと貧弱な、と思わずいってしまうけれど、未だに有明船の科学館にある(筈だけれど、最近行ってないからわからない)宗谷から考えたら「ふじ」「しらせ」新「しらせ」(こんなことになるんだから、なんで全く違う名前にしなかったんだろう。きっとくだらない理由だろう)と、もう4隻目だ。
 そういえば他の国はどうしているんだろうと思ったら、中国は今年の観測隊で、第27次になるんだそうで、結構昔からやってんじゃん、というわけだけれど、その船は「雪竜」という名前で1993年にウクライナのケルソン造船所で建造されたもので、中国で基地考察船として改造されたそうだ。全長167m、幅22.6m、深さ13.5m、満載排水量2.1万トン、続航力2万海里、128名収容のB1級砕氷船だそうだ。日本の「しらせ」とほぼ同じ時期に豪州のフリーマントル経由で南極海に入り、当然同時期に帰ってくる。先月エンジントラブルがあってドリフトしたという報道があったばかり。同船は主機は一基。前「しらせ」は六基モーター三基三軸だったが、新「しらせ」は四基モーター二基二軸で、全長138mと雪竜の方が遙かに長い。
 一方、大韓民国は造船大国だから、どんな観測船を動かしているのかと思った。昨年竣工したのが「アリオン号」という船だそうだけれど、写真を見るとなんだかサプライ・ボートのような格好をしている。全長は110m、全幅19m、排水量は6,950トンで、日本の新南極観測船「しらせ」のほぼ半分。6,800馬力のエンジンを2基搭載しており、スクシューは360度自在に回転するポッド式。2基の補助推進器も装備される。乗員は85名。これまで独自の観測支援船を持たず他国の基地経由で世宗科学基地との間を往復していたのだそうだ。ちょっと意外な気がする。世相基地は多くの国が基地を構えるキング・ジョージ島に1988年に開設されたというから、22年経っている。
 アジアに含めるべきかどうかわからないけれど、インドも基地を持っている。

2010年12月16日のツイート