メルロ=ポンティ「セザンヌの疑い(懐疑)(Le Doute de Cézanne)」第2回
問い
1)芸術家の作品はその生涯や心身の状態(「障害」も含む)からどこまで「説明」できるだろうか。
2)「完成した作品」と「未完の作品」の違いはあるのか?:つねに「試作(essais)」としての作品(DC, 240)
メルロ=ポンティの目的1
・セザンヌの絵画の「積極的意味」はなにか(DC, 244)。
ゾラ(友人の文学者)は彼の人生と性格によって作品が説明できると考える(心理学的解釈、いまで言えば精神分析的解釈や病跡学)
・「自然」や「宗教」への耽溺を一種の逃避や人間疎外と考える説。
セザンヌが自分の神経的な欠陥を逆用して、すべての人に価値の高い芸術
形式をつくり出したということは、十分にありうることである。自分だけに
忠実なセザンヌは、それまでだれも見たことがないようなまなざしで自然
を眺めることができたのである。彼の作品の意味を、彼の生涯によって決定
することはできない(DC, 244)
このようにメルロ=ポンティはひとたび、生や性格によって作品を「決定」しようとする立場をしりぞける。しかしこれだけがメルロ=ポンティの結論ではない。・・・・・・・・・
1870年以前の印象派の影響以前の絵画:情念をそのまま表現したような絵画
印象派:
・感覚の働きかけをキャンバスに
・プリズムの7色:物の「固有色」を描かない
・色彩のコントラスト、補色関係を利用。etc.
セザンヌ(DS, 246)
・印象派はオブジェの固有の重みを消す
・暖色や黒を使用して、「雰囲気の背後にオブジェを再発見」しようとする。
・色調の分割の放棄、段階的な色彩のニュアンス→「オブジェはまるで、内側からかすかに照らし出されているかのようである。光はオブジェから発しており、そのためにオブジェに堅固さと物質性の印象が生まれている(DS, 246-247)
「セザンヌの自殺」(DC, 247)
・自然をモデルとする印象派から離れずに、オブジェそのものに立ち戻る。
・パラドックス:感覚を捨てずに、自然の導きの糸をじかにえられた印象以外にもとめず、輪郭を限らず、。。。現実を模倣する」(DC, 247)→「現実を目指しながら、現実に到達する方法を採用することをみずからに禁ずる」
→「感覚のカオス」(ベルナール)
→ この批判は妥当か?(DC, 248以下)
参考文献:
ゾラ『作品』(岩波文庫)
アレックス・ダンチェフ『セザンヌ』(みすず)
メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず)