破壊王!

putchee-oya2005-07-16



破壊王が死んだ。


いろいろな追悼文、感想文を見た。その中で、いちばん好きだったのがこれ。


「神様は残酷なことをしなさる(森繁久彌」(「スワン式サウナ会議」より)
http://d.hatena.ne.jp/mashijun/20050711

井上雅央の言葉を借りるなら、「無理無理、無理無理無理!」です。まだ全然受け入れられないです。夢なら早く醒めてほしいです。長州力の言葉を借りるなら、「紙面飾るなって言ってんだ!」です。そんな飾り方、あんまりじゃないですか。もう、あんまりですよ。もう会えないなんて、飲み込めませんよ。無理ですよ。無理無理。無理無理無理無理。

ZERO-ONE旗揚げ第2戦の様子がありありと思い出されてきます。馳浩の解説(たしか)も含めて、面白かった。


これからたっぷり破壊王について語ろうと思っているのだが、その前にひとつ、語っておかなければいけないことがある。


実は闘魂三銃士時代の破壊王には、あまり思い入れがない。


プロレスラーとしての橋本真也の絶頂期といえば、やはり「ミスターIWGP」と呼ばれた闘魂三銃士時代だろう。体もこの頃がいちばん動けていたはずで、破壊王はタッグマッチよりもシングルマッチ中心に活躍していた。
キーワードをたどってみて各ダイアリーのリアクションを見ると、やはりこの三銃士時代に橋本真也を知って、その後プロレスを見ることはなくなってしまったけど、破壊王の名前は知ってます、昔見てました、ショックです、という人が多い。
小学生、中学生、高校生男子なら、ちょろっとはプロレスをかじる、という時代があったわけで、それが90年代の中頃あたり、闘魂三銃士がブリブリ活躍していた時代ぐらいまでだったんだろう。


橋本真也、急死」(「nothing#6」より)
http://tw1ggy.seesaa.net/article/5015001.html

俺が小・中学生の頃って、新日本プロレスが土曜の午後、テレ朝でやってて、
土曜日:プロレス見る→月〜金:教室の後ろの方で、プロレスごっこ。な中学生活だったのさ。笑
時には、蝶野のケンカキックで教室の扉ぶん抜いて怒られたり・・・ 廊下に並んでた登校する時に被るヘルメットで凶器攻撃♪黒板消しで目潰しなどなど。
ちょうど、その頃、闘魂三銃士と呼ばれる若手が3人。
蝶野正洋武藤敬司、、、そして橋本。

そうそう、こんな感じ。
ただし、これを書いた人は27歳。72年生まれの僕が小中学生だった頃は、まだこれがタイガーマスク長州力だった。


三銃士の足跡を簡単に振り返ってみよう。


武藤敬司は92年にグレート・ムタ*1としてグレーテスト18クラブ、IWGPヘビー級王座を獲得。95年には武藤敬司としてIWGPヘビー級戴冠、G1初優勝、10月9日には東京ドームで高田延彦を下している。この年がキャリア的に最初のピークだったわけだ。
蝶野正洋は91年、92年とG1を連覇。94年に3度目の優勝を果たすと同時にヒールに転向。96年にはNWO*2を結成して一大ムーブメントを起こす。
橋本真也は93年にIWGPヘビー級王座を獲得(ただし、89年にIWGPタッグ王座を獲得済み。三銃士のなかでは出世頭だった)。94年に再度IWGPヘビーのベルトを巻くと、そこから9回連続防衛の記録を築きあげる。


92年といえば、僕は20歳。ちょうどセックスの味を覚えた頃だった。プロレスの仕組みを知る前に、女体の仕組みを知ってしまった。そして、ほんのちょっと、プロレスから遠ざかった。


各人、スランプ、長期離脱などはあったが、それをお互い補いながら三銃士は90年代の新日本プロレスを支えてきた。引用にもあったとおり、もうプロレスの番組(『ワールドプロレスリング』とか)はゴールデン枠を追いやられていたけど、東京ドーム興行などが次々と成功を収めていた。坂口征二社長、長州力現場監督、闘魂三銃士がリングを引っ張って、という構図は90年代プロレスの雛形でもあった。『紙のプロレス』なんかにいる人は、それをつまらない、と斬って捨てるかもしれないし、僕も熱心に追いかけていたわけではなかったが、このあたりが間違いなく「世間に届くプロレス」の最後の季節だった。


90年代も終わりに入り、蝶野がケガで苦しみ、武藤が自分のプロレスに迷ってアメリカに渡り、橋本が新日本プロレス上層部と軋轢を起こしはじめる頃、プロレスは完全に小中学生のホビーの座から陥落する。プロレスから遠ざかっていた僕が、再びプロレスに完全勃起、じゃなくて完全復帰するのは、99年1月4日の東京ドーム、橋本真也小川直也の試合を偶然見てからだ。当時、付き合っていた彼女が部屋の中でうれしそうに小川の飛行機ポーズを真似していた。それはまた別の話。


世間にアピールできるプロレスラーだった破壊王。ドリームステージエンターテイメントがビギナーでも楽しめる新イベント「ハッスル」を立ち上げるとき、真っ先に声をかけたのが橋本真也だった。長州力のコメントも、それを裏付けている。


東京スポーツ」7月15日発売号より。

「これから先のことを考えると、気が抜けちゃった。俺が踏んばっていれたのは、橋本みたいに、もう一度プロレス界を盛り上げてくれる、って思える選手がいたからだ。アイツもそのつもりで踏ん張っていたはずだし。こんな今だからお前なんだ。お前の出番は今なんだ、って。(中略)若い。若すぎる。本当に残念だ」


破壊王が死んでしまい、ショックを受けている人の何割かは、「同時代のヒーロー」として破壊王のことを捉えていたはずだ。プロレスがどうとか、プロレスラーがどうとかじゃなく。そんな人が、死んでしまった。まだ彼も若い。多少、リングからは離れていたが、そんなことはあまり関係ない(なぜなら、みんながみんな、プロレスの流れを追っているわけではないから)。猪木も長州力初代タイガーマスクも元気なのに、まだまだ現役だと思っていた橋本真也が死んでしまった。そんな橋本を幼い頃から見ていた自分もまだ若い。仕事で功成り名を成し遂げたわけでもなく、プライベートではそろそろ結婚したいなぁ、でも相手ががいなけりゃなぁ、といった感じか。まだ感慨に耽る年齢なんかじゃない。そりゃショックだって受けるだろう。そして、そんなふうに感じてもらえるプロレスラー、いや、人間そのものが何人いるのか。


闘魂三銃士時代に思い入れを持ち、破壊王の死にショックを受けている人たちと僕の感じ取り方は、ちょっとしたギャップがあるのだと思う。プロレス観戦歴は僕のほうが先輩かもしれないが、破壊王歴はみなさんのほうが先輩だ。そして、みなさんの思い入れも、ショックの受け具合もよくわかる。でも、それを思わず分析してしまう自分がいる。


この文章はまだ前置きだ。僕がぬかるみにはまるように、のめり込んでいった新日本プロレス追放後の破壊王のことを語りたい。もちろん、破壊王はいつだって破壊王だっただろう。子供の頃、新日本プロレス入門の頃、三銃士時代、そしてその後。だけど、それがハッキリと伝わりやすくなったのは、小川直也に負けて丸刈りになり、その胸中を藤波辰爾なんかに代弁されてしまっていた時期なんかではなく、新日本プロレスを脱退し、自らZERO-ONEを立ち上げて、さらにその団体も苦境に陥ってから、不死鳥のごとく蘇った頃、だったと思うのだよ。


とりあえず、「破壊王ファンなのに、闘魂三銃士に思い入れがない」という重荷(おれにとっては)を吐き出してしまってホッとしている。こんなつまらない文章を読ませてしまって申し訳ない。
次項からは面白くなるから! 必ず! 

*1:武藤の別キャラクター。こんな感じ。http://www.njpw.co.jp/result/2005/countdown0220/img/003/002.jpg

*2:有りていに言えば、泥臭くない悪役グループ。Tシャツを死ぬほど売った。

破壊王!


文字ばかりで申し訳ないので、このあたりで1曲。目を瞑り、各々の頭の中で破壊王の名勝負、名シーンをコラージュしながら聴いてほしい。


ARB「LONESOME RIDER」
http://up00.hyperbit.info/up/trash-box/contents.jsp?file=20050716072305783.m4a
誰がどう見ても違法行為なのだが、今回は石橋凌も許してくれるだろう*1。生前の破壊王が好きだった曲で、ZERO-ONEの会場ではよく爆音でかかっていた。


さて、破壊王に関しては、すでに数多くの報道がなされている。関係者などの追悼コメントなどは、ここのサイトがよくまとまっているので、参照されたい。


橋本真也、急死」(「プロレス専門BLOG『ブラック・アイ』」より)
http://blackeye.cocolog-nifty.com/eye/2005/07/post_dd92.html


橋本真也さん死去より一夜明け/選手・関係者コメントまとめ」(同上)
http://blackeye.cocolog-nifty.com/eye/2005/07/post_1d79.html


橋本真也、追悼興行、合同葬開催へ」(同上)
http://blackeye.cocolog-nifty.com/eye/2005/07/post_e821.html


小川直也のコメントは何度読んでも胸に迫る。ここから先は、上記サイトにリンクはあるが、ピックアップされていない部分を中心に取り上げていく。


ともにZERO-ONEを支えた大谷晋二郎のコメントも悲しい。

ほんの1日だけ、現実を受け入れる時間が欲しかった。だが、大谷は橋本さんの顔を見ても、死をうまく理解できなかった。常に自分が主役でなければ我慢ならないあの橋本さんが、話しかけても返事をしない。戸惑いを隠せず、30分間顔を見詰めてぼう然とした。
「まだ信じられない。眠っているだけにしか見えなかった。…ご冥福をお祈りするとしか言いようがないだろ」。目を真っ赤に充血させ、真一文字に結んだ口元を震わせながら会場を出た。ようやく重い口を開いた高岩も「心に穴が開いちゃった感じ。寂しいね。つらい。目が開く気がしたんだけどね。でも、どうしちゃったのか、いつもより顔が白いんだ…」。
ゼロワン創設時に行動を共にした。その後、団体の活動停止に伴い昨年11月に橋本さんと絶縁宣言をした後も、大谷は酒に酔うといつも繰り返した。「あの橋本さんが、弱いヤツや苦しんでいるヤツを見放すなんて信じたくない」。後輩の面倒見が誰よりもいい親分肌の橋本さんが、このままいなくなるとは思えなかった。

破壊王のキャラクターは、この記事に凝縮されていると思う。

新日本の藤波は「自分が復帰してから、やりたい1人だった」と対戦したい意向があったことを明かした。社長時代の00年には橋本さんの復帰戦の相手も務めただけに、急死から1日たっても悲しみは深かった。

新日本プロレスで社長を務めた藤波辰爾のコメント。自分本位なコメント(どんな相手とも対戦したがる)は相変わらず。


破壊王と同時期に新日本プロレスで活躍し、現在は参議院議員馳浩の日記より。

「え? はしもと? 誰?」と、最初の連絡を受けても、あの橋本が死亡しただなんて想像もつかないので、気が動転して言葉にならない。徐々にテレビ報道で「死亡」が報じられるに及んで、体が震えてきて、余計に言葉にならない。

気持ちはよくわかる。高校時代、昨日まで元気だった友人が死んだことを授業前に告げられたとき、同じ状況になった。


『あゝ! 一軒家プロレス』
http://www.ahah.jp/
DVDが発売されたばかりの主演作。オフィシャルサイトの笑顔が眩しい。


武藤敬司率いる全日本プロレスは、7月15日の興行で全試合終了後に追悼の10カウントゴングを行った。全試合終了後に、というのは珍しいことだが、これは武藤なりのサプライズへの伏線だった。


新日本プロレス、現在は全日本プロレスで活躍する小島聡のコメント。

今日から新シリーズが始まりました。カズとタッグを組んで、武藤・石森組とメインイベントで戦いました。その試合終了後、武藤さんの合図で追悼試合をすることに。メンバーは自分と健介さんが組んで、武藤さん・嵐さんと戦うタッグマッチ。全員、橋本さんにゆかりのあるメンバー・・・。全日本流で橋本さんを天国に送れたと思う。一日二試合は経験があったけど、連続二試合は初めての経験でした。体はきつかったけど最後まで戦えたのは、多分 橋本さんが力を貸してくれたから。橋本さんに捧げる試合だったけど、逆に橋本さんにパワーをもらえたような気がしました。

武藤はもちろん、三銃士の盟友として。小島は破壊王の付き人をしていた経験がある。ZEOR-ONEでの橋本&小川のOH砲対武藤&小島組のタッグマッチは破壊王後年のベストマッチのひとつだった。両国国技館での乱闘の際は、小島が「いっちゃうぞ、バカヤロー!」と決め台詞を吐いた瞬間、破壊王が「俺もいっちゃうぞ、バカヤロー!」と返答して満場の爆笑を誘っていた。嵐もZERO-ONE参戦経験がある。破壊王と相対したとき、その体型の酷似ぶりに思わず「兄弟!」と叫んでしまったことがある。


追悼コメントも出している佐々木健介だが、破壊王との確執が噂されていた。というか、破壊王が一方的に嫌っていた。
破壊王 逝く・・・」(「ISHIMORI@STYLE」より)
http://www.ishimoripro.com/ibbs/ibbs.cgi?namber=3846&mode=res&no=0

今回このスレッドを立てさせて頂いたのは橋本選手が「俺は筋金入りの仮面ライダーファンだ!」と公言していたからです。
佐々木健介選手がライダーファンだと聞くや「俺の方が想い入れが強い!」と対抗心剥き出しにしたり、以前代表を務めていた『ZERO−ONE』の橋本選手の部屋にはアギト(クウガだったかも)の特大ソフビが飾られてあったり、ホビー雑誌でアギトを熱く語っていたり、と様々なエピソードを耳にした事があります。
以前、旧掲示板で書き込みさせて頂いたのですが、「戦え!仮面ライダーV3」を聞きながら運転していて思わずアクセルを踏み込み事故を起こしてしまい、その理由が「あの曲を聴きながら運転していると思わずアクセル踏み込んじゃうんだよな。本当だぜ!」確かに!と変に納得してしまったものです。

石ノ森章太郎ファンが集う掲示板より。確執は仮面ライダーにまで及んでいた。



極悪同盟として一時代を築いたダンプ松本との接点も。イイ話だからこっちでも引用する。

橋本真也選手とは昔オレ様が引退したばかりのときに元全女事務所の近くにステーキハウスがあって冬なのに半袖で汗を流しながらステーキを食べてたら(^o^;入り口近くでオレ様と同じく半袖で汗をダラダラ流しながらステーキを食べてたのが橋本真也選手だった。席に座ったままでの会釈だったけど何とオレ様達のステーキ代の支払いを払って行ってくれたのだ。


プロレスキャスターの三田佐代子の日記より。いい話満載。
http://d.hatena.ne.jp/sayokom/20050711#p1

放送終了後「もう終わった?じゃあう○こ」とか小学生みたいなことを言ったと思ったら片手で私のことを持ち上げて、まるで皿回しみたいにくるくる廻してくれました。スタジオの天井に頭がぶつかりそうで仰天したことを覚えています。

強くて厳しい破壊王も大好きだったし、ハシフカーンや下ネタ満載の破壊王も大好きだった。ハシフカーンの時にリング上でくどくどとインタビューしていたら段々辛くなってしまったらしく小声で「まだやるのか?」と言われたのが可笑しかったなあ。ハシフとして「アサショウリュー、チンギスハーン」とかとんちんかんなことばかりバックステージで喋ってるのにその隣でマネージャーのヒトさんが感慨深く「いいねえ、こういう橋本みたいな華のあるレスラーはそういないよ」としみじみおっしゃってたのも楽しかった。


ここから先は、スポーツ紙、夕刊紙などからの引用。


東京中日スポーツ」7月12日付より。プロレス評論家の門馬忠雄が手記を寄せている。

入門当初から100キロの巨体を誇っていた。この橋本に「大物になる」と目をかけていたのは当時の現場責任者長州だった。橋本が試合中、相手をけがさせることから「ブッチャー」と呼ばれ、ブッ壊し屋変じて“破壊王”の異名がついた。

これが「ブッチャー」「破壊王」のネーミング秘話。

その性格は豪放磊落。人の面倒見がよく、大飯食いの大酒飲み。「これがプロレスラーだ」を劇画にしたような憎めぬ人だった。
89年12月、新日本が旧ソ連初遠征、モスクワ・クレムリン赤の広場の砲台近く。氷点下10度の野外で情半身裸になってガッツポーズをとった橋本の姿が忘れられない。

いつ、何時でも請われれば裸になってガッツポーズをとるのがプロレスラーだ。

筆者は脳こうそくの後遺症で身障者2級だ。パーティー会場で「おやじっ! 立たないで!」といつもイスを用意してくれた。心優しき力持ちに合掌。

合掌。


同じく「東京中日スポーツ」の酒井賢一記者による手記より。

試合で左ヒザのじん帯を断裂したのにも関わらず、無理を押して山口県で営まれた大谷晋二郎の母の葬儀に参列したことがあった。
「どうしても行きたかった」と不慣れな松葉づえをつきながら、最後まで後輩を気遣った橋本さん。巡業先で原稿に困って頭を抱えている記者を見つけ、面白いことを言って笑わせてくれたこともあった。とにかく後輩思いで“太っ腹な男”だった。

「あの人が後輩を見捨てるはずがない」と酒の席で語る大谷との間で、こんなことが。ZERO-ONE崩壊に至る経緯での、破壊王と大谷の不仲の噂には心が痛んだものだった。ちなみに、大谷は母が交通事故で急逝したその夜も、自分を待っているファンがいる地方での巡業で、涙をこらえながら明るく楽しい試合を披露したものだ。試合後、記者たちの前で「悲しくないわけがない。でも、これがプロレスラーなんですよ」と涙ながらに語り、大谷を取り囲んだ記者たちももらい泣きしたという。


東京中日スポーツ」には、破壊王の生い立ちに触れる記事も。

橋本さんは地元・岐阜県土岐市で英雄視されていただけに、母校の中京高(当時は中京商)でも、死去の一報が流れると騒然。3年の時に担任だった水野俊彦教諭は「正義感が強く、誰かがいじめられていると止めに入る子だった」と声を落とした。

正義感の強い破壊王。そういえば、破壊王はヒールになったことがない。

橋本さんは在学中に母親を脳内出血で亡くし、祖母と妹の3人暮らしになって中退も考えたが、購買部でアルバイトをして生計を支えた。「学校で働いたのは、オレだけでしょう」と、生前の橋本さんは懐しそうに話していた。

苦労人の破壊王。しかし、それをひけらかすことはけっしてなかった。


「日刊スポーツ」7月12日付の1面は「橋本が死ぬなんて」とのみ大書きされた、余計な説明を排した紙面構成だった。


大石健司記者の手記より。

ナルシストだった。リング上のコスチュームから、殴る蹴る形、攻められる時の表情やマイクアピールのセリフにまで、こだわった。01年10月、NWA王座挑戦のため滞在していたフロリダのホテルで「太く短くの人生でいい。でも、オレは絶対に天下を取る」と真顔で言われた。

ご存じのとおり、プロレスにはだいたいの段取りがある。勝敗もあらかじめ(ほぼ)決まっている。破壊王の場合、この過剰なまでの計算と、真顔で「天下を取る」と言い放ってしまう過剰なまでの天然ぶりが混じり合い、ただの段取り芝居を超えた、殺気溢れる、あるいは底抜けに楽しいプロレスを表現することができたのだ。三銃士のひとり、武藤敬司も底抜けの天然だが、「天下を取る、って具体的にどういうことなのかわからないんだよ」と言っていた。たしかに意味がわからない。だが、その闇雲な感じがいいじゃないか(ちなみに、蝶野正洋は常識人だ)。


「日刊スポーツ」の記事より。

団体のトップを張るため、体を酷使した。00年4月に「負けたら引退」と銘打った東京ドーム大会で小川直也に敗れた直後、山ごもりして断食修行をした。
「進退を見極めるため」とプロレス流の理由づけをしていたが、実は毎回の激戦と重くなりすぎた体重が心臓に負担となっていた。食欲には勝てず、断食修行は実らなかった。

笑っていいのか、泣いていいのかわからない記事だが、それも破壊王らしさの表れ。食欲に勝てない破壊王。いいじゃないか。最後の夜に食べたのは、カツカレーにたらこスパゲティー、ウィンナーにコーラ3杯だったそうだ。これからはこれを「破壊王定食」と名付けよう。
関係ないが、高山善廣破壊王の死を契機に、プロレスラーの体調管理を説いているが、どうも貧乏くじを引いてしまっている気がする。そういうことじゃないだろ、と。


内外タイムス」7月13日付より、岡田京林記者の手記。

朝が弱くて、ビッグイベントの一夜明け取材でも数時間待たせるのは当たり前。ようやく起きてきたかと思えば、話もほどほどにマスコミ十数社を引き連れてレストランへ。胸焼けがするほどの量の朝食を一騎にかきこむその光景に、ただただ圧倒されるだけだった。

一度、破壊王と食事をともにしてみたかったものである。


スポーツニッポン」7月12日付けより。破壊王ZERO-ONEといえば、この人。テレビ中継の解説まで務めた名物記者、丸井乙生による手記が掲載されている。

岐阜県出身の橋本さんは「おれは織田信長の生まれ変わり」と信じ、その生きざまを実践しようとしていた。01年に旗揚げしたZERO-ONEは一時、他団体をしのぐ一大勢力に成長。少数精鋭で大軍を撃破した「桶狭間の戦い」に自分を重ね、「天下をとる」と夢見てきた。

夢見る破壊王織田信長を「尊敬する」のと「生まれ変わりだと信じる」のは、天地ほども違うと思うが、面白いからノー問題。

人間の器も大きい。宿敵・小川直也と電撃和解し、タッグを結成する仲になった。「おれは人を信じたい。信じるところから始めたい」と話したことがある。03年5月5日には、対戦直前にがんで他界した冬木弘道さんの追悼試合で遺骨を抱き、電流爆破装置が付いた有刺鉄線ロープに飛び込んだ。その男気に記者も涙した。

小川直也との、ロッキーとアポロばりの友情ストーリーはご存知のとおり。
冬木弘道破壊王のやりとりは、5月5日こそ生観戦はしていないものの、そのほとんどをこの目で見届けている。02年12月29日、後楽園ホール。対戦要求を突き付けてきた冬木の配下、金村キンタロー破壊王の一騎討ちが行われた。格下の金村相手に重爆キックを叩き込みまくり、完全グロッキーに追い込む破壊王。たしかに愉快なキャラクターだが、破壊王と一騎討ちなんて顔じゃねぇよ、と感じていたファンの溜飲を下げる爆勝劇だった。口からダラリと血を垂れ流し、ぐったりしている金村の様子を見かねてリングに飛び込んできたのが、スーツ姿の「ボス」こと冬木だった。冬木がマイクを握る。


スポーツナビ/格闘技速報」より。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/live/200212/29/b06.html

橋本、オレはでもう肝臓に転移して、いつまで生きてられるか分からない。だけど最後までこいつらの面倒を見て……。俺は死ぬまでプロレスラーだ!

しかし、この冬木のマイクアピールは、よく聞き取れず、観客すべてに届いたとは言い難かった。まして、「理不尽大王」の異名をとる冬木のこと、またでまかせを並べて、破壊王との対戦をとりつけた後は知らん顔するんじゃないか? 客席は爆笑に包まれた。


それに対して、破壊王はまっすぐに冬木を見つめ、マイクを取った。

冬木さん、気持ちはわかりました。あと何ヶ月生きられるかわからないなら、死ぬまでプロレスラーでいて下さいよ。もう1回タイツ履いて来てください! 手加減はしないぞ。(観客に)レスラーが命懸けるというのはこういうことなんだよ! 冬木さん! アンタの生きザマ見せて下さい。

プロレスが「段取り芝居」を超えた瞬間である。目を真っ赤にした丸井記者が取材のために走り去っていくところが見えた。


乱闘の模様。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/pict/200212/29/021229_kak_zero-one_main_13_b.jpg


丸井記者の手記の続きより。

一方で、童心を併せ持っていた。幼少のころからヒーローものが大好きで、学校の帰り道では「おれはきょう、仮面ライダー」と変身したつもりで冒険したという。大人になっても、昨年までは事務所の神棚に仮面ライダーのベルトを飾り、毎日拝んでいた。流行したハッスルポーズも、橋本さんが考案したものだ。

神棚にライダーベルト。破壊王イズム溢れる行動である。天狗の顔を持つマスクマン、テングカイザーをプロデュースした折、そのアナクロさになんとなく薄笑いを浮かべていた観客をよそに、「本当はおれがやりたいんだよ」と心境を漏らしたという。

昨秋、公私ともに悩みごとが重なり「人が信じられなくなってきた」と漏らしていた。橋本さん、これだけは信じてください。みんな、あなたのことが大好きだったんですよ。もう2度と、あなたのような豪傑には会えないでしょう。合掌。


東京スポーツ」7月13日付、1面のコピーは「橋本のバカヤロー! なぜ死んだ 残念 悲しいぜ」。駅のスタンドに貼り付けてあった見出し用紙には「橋本のバカヤロー!」のみ。本当にいい仕事をする。


ガンを克服した新日本プロレスのプロレスラー、西村修のコメントより。

新日本に入門し、天山と私と24時間体制で雑用をやらされたのは、いい思い出として残ってる。あの人ほど破天荒で、いつまでも子供心で、理不尽な人はいない。何もかもが常識外れな生き方をしていた.
車に凝り、料理に凝り、空気銃に凝り、本当に凝り性。自分で豆腐一丁作るのにも、水から機械から10万円もお金もお金をかけたり、ラーメン番組を見るや、鶏ガラからダシから全部買ってきて「真ちゃんラーメン」って言って、我々新弟子に食わせてくれた。その後は散らかしっ放しで帰ったけど。

空気銃の標的になっていたのは、主に頑丈さを誇る天山広吉だったそうだ。


東京スポーツ」の高木圭介記者による手記より。

巡業中、よく若手選手を引き連れて体育館を抜け出し、カブトムシ捕りや魚釣り、ヘビ狩りに夢中になっていた。歌が大好きで「音痴」と指摘されると本気で怒っていた。会場でトイレに行くときは「ファンに見られたら恥ずかしいから」と、エル・サムライの覆面を拝借していた。

マスクを被ったって、バレるに決まってるよ! 手記のタイトルは「夏が終わるのも忘れ小学生がそのまま大人になった人」。


橋本の大ファンだったという、横浜Fマリノスの左伴繁雄社長のコメント。

橋本選手はいろいろケガをして再起しながらやっていたけど、人間としてみんなが支えたくなるような、優しさと悲壮感があった。そういう選手は珍しい。ヒューマニズムみたいなところで勝負していたのは彼ぐらい。

ヒューマニズムで勝負」。正鵠を得ている表現だと思う。僕らは破壊王人間力を見ていた。


同紙の芸能面には、先ほど紹介した『あゝ! 一軒家プロレス』についての記事も。久保直樹監督のコメントより。

「実はクランクイン直前、橋本さんは右肩じん帯断裂で腕がまったく上がらない状態だった。医者の診断書を出してもらって読んだけど、これじゃ腕が動くわけがないだろうって。だから、私とプロデューサーで『アクション映画なので、腕が動かないなら降りてくれませんか』とお願いしたんです」(中略)
降板要請を受けた橋本さんは烈火のごとく怒り「俺はプロレスラーだから、手術なんかしなくても治るんだ」と断固拒否した。
それなら、と「右肩を負傷した設定に脚本を変えましょう」と進言しても、橋本さんは「常識で物事を言うのはやめてくれ。クランクインまでに絶対治る」とハードなアクションをこなすことを約束。
「『岐阜に知り合いの霊能力者がいるから治してくる』と言って、橋本さんはちょっと山にこもったんです。すると、クランクイン直前には撮影に支障がないぐらいに回復し、腕を振り回せるようになっていたんです」


「スポーツ報知」7月12日付、小河原俊哉記者の手記より。

橋本さんは暴飲暴食と遅刻が代名詞みたいな人だった。アイスペールで酒をチャンポンして一気飲みしたり、させたり。ダイエット中でも昼食代に5000円を超えることもザラ。会見遅刻も当たり前で、すっぽかしたことも何度もあった。

これが追悼文の書き出し、というのも破天荒な破壊王らしいといえば、らしい。

頑固で無鉄砲。面倒見のいい親分肌に慕う後輩も多くいた。葬祭場で橋本さんと対面した関係者も「死んでも生前の人柄が表れていたな。小さなひつぎに(遺体が)納まり切れず、おなかだけがポッコリと出ていたよ。本当に橋本真也らしかったな」と語っていた。

おなかだけがポッコリ。破壊王の葬儀の際、出棺が大幅に遅れてしまったのだが、外で「棺におさまりきらないのかな」「運ぼうとしたら底が抜けちゃったりして」などと軽口を叩いていたのは我々です。ごめんなさい。でも、底が抜けて「いてぇな、コノヤロー」と起き上がってきてほしかったんですよ、破壊王

*1:かなり甘いことを言っているのは承知している。